主日礼拝

主による派遣

「主による派遣」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第1章4-10節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章1-6節
・ 讃美歌:17、51、519

十二人の派遣
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めて参りまして、本日より第9章に入ります。その冒頭に、「イエスは十二人を呼び集め」とあります。この「十二人」というのは、主イエスの十二人の弟子たちのことですが、主イエスの弟子はこの十二人だけではありません。この十二人のことが最初に語られていたのは6章の12節以下です。6章12、13節を読んでみます。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」。主イエスは徹夜の祈りを経て、弟子たちの中からこの十二人を選び出されたのです。そして彼らを「使徒」と名付けられたのです。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味です。主イエスがこの十二人を選ばれたのは、遣わすため、派遣するためです。その十二人が、いよいよ本当に遣わされていくことを語っているのが本日の9章1~6節です。ここで初めて、この十二人は名実共に「使徒」となったと言えるのです。彼らはこれまでの所では何をしていたのでしょうか。8章の1節にもこの十二人のことが語られていました。8章1節「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」。彼ら十二人はこれまで、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」主イエスと共に旅をしていたのです。私たちがこれまで読んできた第8章には、その旅の様子が語れていました。その前半には主イエスの教えが、後半にはいくつかの奇跡が語られていましたが、彼ら十二人はそれらを全て主イエスの傍近くで見聞きしてきたのです。それは、彼らが派遣されるための準備、訓練の期間だったと言えるでしょう。その準備、訓練を経て、いよいよこの9章で、十二人は派遣されていくのです。
 主イエスは彼ら十二人を派遣するために改めて呼び集められたわけですが、1節後半には、彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」とあります。悪霊に打ち勝ち、病気をいやす、それはまさに8章で主イエスがしてこられたことです。十二人はその主イエスの力と権能を目の前で見てきたのです。その主イエスの力と権能が、派遣されるに当って彼ら自身に与えられる、それは彼らにとっても驚くべきこと、信じられないことだったでしょう。しかし、本日の箇所の最後の6節にはこう語られています。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」。このように、彼ら十二人は実際に、主イエスに授けられた力と権能を行使したのです。自分でも驚くような業が行われていったのです。主イエスによって選ばれ、派遣された者は、このような驚くべきことを体験します。自分の力では到底起り得ないようなことが、自分を通して起ることを体験するのです。

神の国の福音を宣べ伝えるために
 さてしかし、主イエスが彼ら十二人を派遣したのは、悪霊を追い出したり病気の人を癒すという奇跡を行わせることが目的ではありませんでした。そういう力と権能をお授けになりましたが、彼らを派遣する目的はむしろ2節に語られています。「そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」、つまり、彼ら十二人を派遣なさる第一の目的は、神の国を宣べ伝えることです。先ほど読んだ8章1節をもう一度振り返って見たいと思います。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」。主イエスが町や村を巡りつつしておられたのも、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせる」ことだったのです。「神の国」とは、神様のご支配という意味です。しかもこのご支配は、何をするか分からない暴君の支配ではなくて、恵みに満ちた、救いを与えて下さるご支配です。その神様の恵みのご支配が、救いのみ業が、今や決定的に始まっている、と主イエスは宣べ伝えたのです。それは良い知らせ、救いの喜びを告げる知らせ、つまり福音です。主イエスはこの神の国の福音を人々に告げ知らせながら町や村を巡られたのです。そしてこの神様の恵みのご支配を具体的に示し表すために、悪霊に打ち勝ち、病気をいやすという奇跡を行われたのです。主イエスにとって、奇跡を行うことは目的ではなくて、神の国の福音を告げ知らせるための手段でした。主イエスによって遣わされる十二人においてもそれは同じです。彼らに与えられた使命、ミッションの中心は、神の国の福音を宣べ伝えることであり、それをするために、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能が授けられたのです。それゆえに先ほど読んだ6節も、「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」となっていたのです。彼らはただ奇跡を行ったのではなくて、福音を告げ知らせ、その中で病気を癒したのです。

私たちの選びと派遣
 さてこのようにここには、主イエスによって選ばれ派遣された十二人の使徒たちが、主イエスの力と権能を授けられて、主イエスご自身がなさったのと同じことをしていったことが語られています。ルカがこのことを記しているのは、この十二人の話が、この福音書を読む全ての者たちにとって自分自身の事柄であることを教え示すためです。私たちも、この十二人と同じように派遣され、彼らと同じことを体験していくのです。そのように申しますと、いやいやこの十二人は多くの弟子たちの中から主イエスによって特別に選ばれた人々であって、言わば選りすぐりの信仰者だ、自分はそんな特別な人間ではないし、信仰においてもあやふやな弱い者だから、使徒たちの話を自分にあてはめることはできない、と誰もが思うのではないでしょうか。けれどもそれはいくつかの点で全く間違った考えです。まず第一に、主イエスの十二人の弟子たちが特別に信仰の深い、選りすぐりの信仰者だったと考えることが間違っています。先ほどの6章12節以下の、この十二人が選ばれたことを語っている所には、主イエスが弟子たちの中から特に信仰の深い立派な人材を選んだなどということは一言も語られていません。そして実際どの福音書からも分かることは、十二人の弟子たちが他の人よりも特別に信仰が深いなどということは全くない、ということです。この十二人の一人が主イエスを裏切ったイスカリオテのユダだったことがその動かぬ証拠です。一番弟子のペトロですら、主イエスが捕えられた時には、三度にわたって「そんな人は知らない」と言ったのです。十二人の使徒たちは、まさに私たち一人一人と同じ、信仰においてあやふやな弱い者たちだったのです。第二に、私たちが教会に連なる信仰者である限り、使徒たちの話を自分にあてはめることができないと言うことは間違いなのです。なぜなら、教会というのは、使徒たちの信仰を受け継ぎ、その信仰によって生きる者たちの群れだからです。聖書、特に新約聖書は、使徒たちの信仰を書き記した書物です。聖書を神様のみ言葉として読み、それに基づいて生きる時に、私たちは使徒たちの信仰を受け継ぎ、共有しているのです。それは、主イエスが使徒たちにお与えになった使命を共有しているということでもあります。キリストを信じ、教会に連なっている信仰者は誰でも、使徒たちと共に、神の国の福音を宣べ伝えるという使命を与えられているのです。その使命は教会の中の一部の特別な人だけに与えられているのではありません。私たちは誰でも、自分は信仰があやふやで弱い者であり、神様のお役に立つことなど何もできないと思いますが、そういう者たちを使徒として選び派遣なさった主イエスは、私たちをも選び派遣なさるのです。そもそも主イエスを信じる信仰を与えられているということ自体が、既に主イエスによって選ばれているということです。キリスト信者は、世の多くの人々の中から、主イエスによって選ばれて信仰を与えられ、神の国の福音を告げ知らせるために派遣されているのです。選ばれたのは私たちが立派だからでも力があるからでもありません。私たちの中にある何らかの価値によってではなく、ただ神様の恵みのみ心によって、私たちは選ばれ、信仰を与えられ、そして派遣されているのです。
 皆さんの中には、自分はまだ信じていない、信じようとも思っていない、何かのきっかけでこの礼拝に来てみただけだ、という方もおられるでしょう。そういう方は、選ばれているなどという話は自分とは無関係だと思うかもしれません。けれども、今信じている人しか神様が選んでいない、などということはありません。今信じている人だって、信じたから選ばれたのではなくて、選ばれたから信じているのです。今日皆さんが何らかのきっかけによってこの礼拝に集っておられること自体に、神様の選びと招きがある、私はそのように信じております。

何も持たずに
 ちょっと脱線しましたが、要するにこの十二人の使徒たちの選びと派遣の話は、私たち一人一人の話なのです。自分はこの話と関係がない、という人は一人もいないのです。私たちはそのようにこの話を読むべきです。そしてそのように読む時に、主イエスが3節以下で語られたことがまさに私たちに対する大切な語りかけとして迫ってくるのです。主イエスは十二人を派遣するに当って、3節でこう言われました。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」。何も持っていくな、と主イエスはおっしゃっています。十二人の派遣の話はマタイ、マルコ福音書にも共通して語られていますが、それらを比較してみると、ルカにおけるこの話の特徴が見えてきます。マルコでは「杖一本のほか何も持たず」となっています。ルカはその杖さえも持っていくなと言っているわけで、何も持たずにということを徹底的に強調しています。マタイにおいてはそこに「働く者が食べ物を受けるのは当然である」という言葉があります。あなたがたが神の国の福音を告げ知らせる働きをすることによって、福音を信じ、神様の救いにあずかる人たちが生まれる、その人々があなたがたの生活を支えていくのは当然だ、そのようにしてあなたがたの生活は支えられるのだから心配するな、ということです。ルカにおいても、4節の「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」という教えは、あなた方を迎え入れてくれるその家の人々によって生活を支えられていくということを意味しています。しかしルカはそのことを前面に出してはいません。マタイやマルコにあったいろいろな要素を削ぎ落として、非常に簡潔に語ることによってルカは、主イエスに派遣される者たちは何も持たずに出かけていくのだ、ということを強調しているのです。ルカがそのことによって私たちに教えようとしていることは何なのでしょうか。

主イエスの力に信頼して
 「何も持って行ってはならない」というのと、「何も持っていかなくても大丈夫だ」というのでは全く意味が違います。ルカにおける主イエスの教えは、「この旅はいろいろなものを持っていかなくても旅先で必ず支えられるのだから安心して出かけなさい」ということではありません。主イエスは、この旅のために備えをすることを禁止しておられるのです。私たちが自分であれこれのものを準備してこの旅に出ることを禁じておられるのです。この旅とは、主イエスによって派遣され、神の国の福音を宣べ伝えていく旅です。伝道のための旅です。使徒たちの信仰を受け継ぐ信仰者は誰でも皆、この使命を与えられ、派遣されているのです。その使命を、自分の備え、蓄え、能力によって果そうとしてはならない、と主イエスは言っておられるのです。そういうものはなくても大丈夫だ、ではなくて、そういうものはあってはならない、そういうものに頼ってはならない、と言っておられるのです。それでは何によってその使命を果していくのか、それは主イエスが与えて下さる力と権能です。自分の持っている能力や技術、いろいろな意味での蓄えや豊かさ、例えば人付き合いが良いとか、誰とでもすぐ友達になれる性格だといった人柄とか、そういったものに頼るのではなくて、ただひたすら、主イエスの力、神様の力に依り頼み、それに信頼して、神の国の福音を、救いの知らせを宣べ伝えなさい、と主イエスは言っておられるのです。もしもそこで、自分で用意した何か、自分の力や蓄え、自分の中にもともとあるものを用いようとするなら、そこでは主イエスの力と権能が発揮されなくなります。そこで語られるのはもはや神の国の福音ではありません。神の国の福音は、神様のご支配を告げる言葉です。神様の独り子イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して新しい命を与えて下さった、その救いのみ業によって神様の恵みのご支配が今や確立していることを宣言し、その救いへと人々を招くことが、神の国の福音を宣べ伝えることです。その神の国の福音は、人間の力によっては伝えられていかないのです。人間の力によって伝えられるのは所詮人間の言葉、人間の考え、人間の業でしかないのです。

裁きを告げる
 何も持って行くことなく、自分の持っている何物にも頼ることなく、ただ主イエスの力、神様の力に信頼して神の国を宣べ伝えていくならば、そこには神様ご自身が働いて下さり、語って下さいます。そのような時にのみ、5節に語られていることが可能となるのです。5節には「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」とあります。「だれもあなたがたを迎え入れない」というのは、主イエスによって派遣された人が神の国の福音を語っても、それを聞こうとせず、受け入れようとしない、神様の恵みのご支配を信じようとしない、ということです。それを信じる人が一人でもいるなら、その人の家を拠点としてその町での伝道が続けられていきます。初代の教会の伝道はそのようにして進められていったのです。しかしそういう人が一人もいないなら、その町を去るしかありません。その時には、「足についた埃を払い落とす」のです。それは、あなたがたとはもう関係がない、と宣言することです。その宣言によって、私たちとその人々との関係がなくなるだけではなくて、神の国の福音とその人たちとの関係がなくなるのです。神様の恵みのご支配、救いの喜ばしい知らせが、その人たちとは無関係になる、つまりその人々は救いから落ちてしまうのです。ですからこれは神様の裁きを告げることでもあります。神の国の福音を、神様による救いの喜ばしい知らせを告げ知らせる者は、同時に、それを受け入れようとしない人々に対しては神様の裁きを告げる働きをもすることになるのです。十二人の使徒たちは、そういうことのために派遣されました。使徒たちの信仰を受け継ぐキリスト信者も、同じ使命のために選ばれ、派遣されています。それはまことに大きな、重い務めです。そのような務めは、私たちの持っている能力によって果たし得るものではありません。人間の備えや力を一切捨て去って、ただひたすら、主イエスの力、神様の力に依り頼み、信頼することによってこそ、この使命を果たすことができるのです。それゆえに主イエスは私たちに、「この旅には何も持って行ってはならない」とお命じになっているのです。私たちは、神の国の福音を告げ知らせ、伝道する使命を果たすために、自分自身の力や自分が持っているものに依り頼み信頼する思いを一切捨て去り、主イエスの力にのみ信頼することを学んでいかなければならないのです。

エレミヤの派遣
 繰り返して申しますが、キリストを信じる信仰者は皆、主イエスによって選ばれ、この使命へと派遣されています。選ばれたとか派遣されるなどとんでもない、自分などとても、と私たちは思います。預言者エレミヤもそうでした。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エレミヤ書第1章4節以下はエレミヤが神様によって預言者として、つまり神様のみ言葉を語る者として立てられ、遣わされた場面です。主なる神様は彼に、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と語りかけました。エレミヤが神様のことを意識し、信じるようになる前から、神様は彼を選んでおられたのです。エレミヤは「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言います。若造の私に神様の選びとか派遣などとんでもありません、ということです。しかし神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」とおっしゃって彼を派遣なさったのです。このような選びと派遣の体験を、十二人の使徒たちも、そして私たちもするのです。

主の偉大なみ業を見る
 その選びと派遣の一つの形は、いわゆる「献身」をして牧師、伝道者になる、ということです。しかしそれだけが神様による選びと派遣ではありません。私たちはそれぞれが、それぞれの置かれている場で、そこで出会う人々との人間関係において、神の国の福音を告げ知らせ、証しするために選ばれ、派遣されるのです。そこでどのようにして神の国の福音を語り、証ししていくのか、それは私たちに委ねられています。「こうしなければならない」という決まった形や、あるいはノルマのようなものはありません。ですから、例えば家族の中で自分一人が信仰者であるような場合に、積極的に家族を教会に誘うようなことはできなくても、教会の礼拝を大切に守り続ける中で、ただひたすら家族のために祈り続けるというのも、神の国の福音を告げ知らせる一つの姿です。どのような形を取るにせよ大事なことは、神様が自分を、今ここで、この家庭、この職場で、この人間関係の中で、神の国の福音、主イエス・キリストによる救いを証しする務めへと派遣しておられることを覚え受け止めること、そしてその務めを、自分の力によってではなく、主イエスの力、神様の力に信頼して忍耐強く続けていくことです。そのような歩みの中で私たちは、私たちの力ではとうてい起こり得ないような神様の偉大なみ業を見せていただくのです。
 つい先日もそのみ業を私たちは目にしました。お名前を出して恐縮ですが、S・Hさんのご主人、Tさんが、10月23日に病床で洗礼をお受けになり、そして31日に平安の内に天に召されたのです。Sさんは、Tさんと結婚なさる前からクリスチャンでした。58年の結婚生活を共に歩んで来られたのです。Tさんは教会の礼拝に時々来ておられましたが、しかしずっと信仰を得るには至りませんでした。けれどもその人生の最後の時に、ご自分から洗礼を受けたいと言い出されたのです。Sさんはびっくりして、一晩頭を冷やして考えましょうとおっしゃったそうです。しかしTさんの決意は揺るぎませんでした。そのはっきりとした意志を、私も、洗礼に同席した宍戸先生も長老方も確認しています。そして洗礼を受けて、「よかった、安心した、ほっとした」と何度も繰り返しおっしゃり、その安心の中で人生の最後の一週間を過ごされたのです。Sさんの58年にわたる祈りに神様が応えて下さり、ご主人に神の国の福音を伝える者として下さったのです。ご自分で聖書の話をして信仰に導こうとしていた時には全然うまくいかなかったそうです。それは、自分で準備した杖や袋やパンや金で歩もうとしていたからです。それらを全て捨てて、主イエスの力にのみ依り頼んで祈っていく中で、この大きな恵みの出来事が起ったのです。十二人の使徒たちが出かけて行って体験したのもそういうことだったのだと思います。それと同じことを、私たちも体験させられていくのです。

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