「神の御心を拒むな」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: マラキ書 第3章1-5節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第7章24―35節
・ 讃美歌:3、203、519
ヨハネの使いが去ってから
本日はルカによる福音書の第7章24節以下からみ言葉に聞きます。しかし24節から新しい段落が始まっているわけではありません。行の途中です。先週の礼拝では23節までを読みました。どうしてこんな中途半端な所で切るのだろう、と思った方がおられるかもしれません。けれども、以前の口語訳聖書においては、23節と24節の間には段落が設けられていました。聖書の原文には段落はありません。章や節の数字すらもありません。どこに段落を設けるかは訳した人の考えによるのです。ここは、段落を置くことも置かないこともできる所です。私たちが今用いている新共同訳聖書は、ここに段落を設けませんでした。それは、24節の冒頭に「ヨハネの使いが去ってから」とあり、その意味は18~23節を読まないと分からないからでしょう。18節以下には、牢獄に捕えられている洗礼者ヨハネから二人の弟子が主イエスのもとに遣わされ、ヨハネの問いを伝えたことが語られています。その問いに対して主イエスがお答えになった言葉をヨハネに伝えるために、ヨハネの使いたちは帰って行ったのです。「ヨハネの使いが去ってから」という24節の文章は、23節までの話とのつながりを示しているのです。
けれども同じこの「ヨハネの使いが去ってから」という文のゆえに、口語訳聖書は23節と24節との間に段落を設けました。この文は、その前と後の断絶を告げているものでもあるのです。つまり23節までには、ヨハネからの問いと、それに対する主イエスの答えが語られています。先週の説教において申しましたように、ヨハネの真剣な、実存のかかった問いに対して、主イエスも真剣にお答えになったのです。その主イエスのお言葉をヨハネに伝えるために使いの者たちが帰った後で、というのが24節です。使いの者たちが去ったことによって、24節からは新しい話が始まるのです。そこにおいては、主イエスが語りかけておられる相手が変わります。23節までのお言葉は、使いの者を通してヨハネに聞かせるためでした。24節からのお言葉は「群衆に向かって」語られています。「ヨハネの使いが去ってから」という文は、「ヨハネに対する言葉は終わり、これからは別の人に向けての言葉になる」という意味でもあるのです。
私たちへの言葉として
このように本日の箇所、24節以下は、群衆、つまり主イエスのもとに、その教えを聞こうとして集まって来た人々に対して語られたお言葉です。ということは、私たちはここを読む時に、この群衆たちの位置に自分自身を置いて読むべきだということです。先週の所は、洗礼者ヨハネに対して語られたお言葉でした。それゆえにそこを、ヨハネの立場に私たちの身を置いて読んだのです。そうすることによって、ヨハネが獄中から主イエスに寄せた問いを私たち自身の問いとして、そして主イエスの答えを私たちへの答えとして読むことができたのです。本日の箇所においては今度は、この群衆の中に身を置いて読んでいきたいと思います。そうすることによって、主イエスのお言葉を私たち自身へのお言葉として聞くことができるのです。
荒れ野
さて主イエスは群衆に、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」と問いかけておられます。荒れ野というのは、見るべきものが何もない所です。私たちが住む日本にはこの荒れ野に当たるような場所がありません。荒れ野は人間の手が全く入っていない大自然ですが、日本で大自然と言うと深い森であったり、原生林に覆われた山だったりして、都会の生活に疲れた人が時々そういう所へ行って癒されたりする所というイメージになります。しかし聖書の舞台となった地の荒れ野は、一面岩や砂しかない、ところどころにへばり着くようにほんの少しの緑がようやく生えているような所です。見るべきものは何もない、まして人を癒したり慰めたりするような所ではないのです。そのことを知るために、荒れ野は一度見ておく価値があるとは言えます。私も一度だけいわゆる「聖地旅行」に行ったことがありますが、いわゆる「名所旧跡」よりも、シナイ半島から死海の沿岸の荒れ野に強烈な印象を受けました。荒れ野は、人を寄せつけない、人間が生きることのできない世界なのです。
預言者ヨハネ
あなたがたは何を見ようとしてわざわざそのような荒れ野に行ったのか、と主イエスは問うておられます。今主イエスのもとに集まっている群衆は、つい先頃、ぞろぞろと荒れ野に出かけて行ったのです。何をしに行ったのか。それは洗礼者ヨハネを見るためでした。ヨハネは荒れ野に住み、人間の罪に対する神の怒りが差し迫っていることを語り、悔い改めを求め、その印である洗礼を授けていたのです。このヨハネを見るために荒れ野へ出かけて行った人々に対して主イエスは、あなたがたが見に行ったのは風にそよぐ葦か、それともしなやかな衣を着てぜいたくに暮らしている人か、と語っておられます。「風にそよぐ葦」、ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていましたから、荒れ野とはいえそこには葦ぐらいは生えていたでしょう。「風にそよぐ葦」とは、いわゆる「風見鶏」のような、世の中の風潮に迎合して右を向いたり左を向いたりする人のことを指しているのかもしれません。ヨハネはそのような人ではなかった。彼は領主ヘロデに対しても厳しくその罪を指摘し追求したので、獄に捕えられてしまったのです。また「しなやかな衣を着てぜいたくに暮らす人」というのは、人間の文明と豊かさを代表していると言えるでしょう。ヨハネはそういうものとは無縁な生活をしていたのです。あなたがたが見に行ったのはこれらのものではないはずだ。では何を見に行ったのか。「預言者か、そうだ」。あなたがたは預言者であるヨハネを見るために荒れ野へ行ったのだ、と主イエスは言われたのです。預言者というのは、これから起ることを予告し言い当てる人ではありません。預かる、という字が使われているようにこれは、神様からのみ言葉を預かり、それを人々に伝えた人のことです。ヨハネはその預言者だった。そのヨハネに会うために荒れ野に行ったあなたがたは、神様のみ言葉を聞くために出かけて行ったのではないのか、と主イエスはおっしゃっているのです。
この主イエスの問いは私たちに対しても向けられています。私たちは今こうして教会の礼拝に集っています。ここは荒れ野というわけではありません。しかしせっかくの休日である日曜日の朝からここへ来なければならない理由が私たちにあるわけではありません。いったい私たちはここへ何をしに来たのでしょうか。それは、神様のみ言葉を聞くためです。群衆が神の言葉を聞くために洗礼者ヨハネのもとへ行ったように、私たちも、神の言葉を聞こうとしてこの礼拝にやって来たのです。
預言者以上の者
主イエスのお言葉はさらに続きます。「そうだ、言っておく。預言者以上の者である」。あなたがたが荒れ野に見に行ったヨハネは、預言者以上の者だ、と主イエスはおっしゃるのです。預言者以上の者とはどのような者でしょう。それが27節に語られています。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」。ここに引用されているのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるマラキ書第3章1節です。そこには、主なる神様が救い主をこの世にお遣わしになる前に、使者を送り、救い主のための道を整えさせることが語られています。預言者以上の者とは、このマラキ書が告げている、救い主のために道を準備する使者のことです。預言者たちは神様のみ言葉を預けられそれを人々に語りました。その中には、救い主の到来を予告するみ言葉もありました。しかしヨハネは、それらの預言者の一人としてではなくて、救い主の直前を歩み、その道を整えるという特別な使命を与えられた人だったのです。このことを受けて28節では「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われています。洗礼者ヨハネは、女から生まれた者の中で最も偉大な者だとすら主イエスはおっしゃったのです。
新しい時代の開始を告げる
この28節を理解することが、本日の箇所における一つのポイントです。ここには、女から生まれた者、つまり人間の内で、ヨハネより偉大な者はいない、ということと、神の国で最も小さな者でもヨハネよりは偉大である、という二つのことが語られています。このことの意味を理解するために参考になるのが、同じ福音書の16章16節です。そこには「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」という主イエスのお言葉があります。これも洗礼者ヨハネのことに触れた言葉であり、ルカではこのように離れた所にありますが、マタイ福音書においては本日の箇所と結びつけられています。この二つ、つまり28節と16章16節を読み合わせることによって、「女から生まれた者のうち」という言い方によって意味されているのは「律法と預言者」の時代、つまり旧約聖書の時代のことであり、「神の国で」というのは「神の国の福音が告げ知らされ」ている今、つまり主イエスが来られてから後の新約聖書の時代を意味していることが分かります。ヨハネは律法と預言者の時代、つまり旧約聖書の時代における最も偉大な者なのです。しかし主イエスによって神の国の福音が告げ知らされている今、そこにおいて最も小さい者も彼よりは偉大なのです。それは、主イエスによってもたらされる神の国が、律法と預言者によって歩む旧い神の民イスラエルよりもはるかに素晴らしいものであることを語っている言葉です。つまりここには、今や主イエスによって新しい時代が、神の国の実現の時代が始まっていることが見つめられているのです。ヨハネは、旧い時代の最後に立って、新しい時代の到来を告げているのです。そのことのゆえに彼は旧い時代における最も偉大な者なのです。しかし主イエスによってもたらされている新しい時代、神の国においては、最も小さな者も彼よりは偉大なのです。
主イエスはこのことを群衆たちに示して下さいました。つまり、あなたがたは荒れ野へ行ってヨハネを見たことよって、預言者以上の者と出会い、その人によって、今や新しい時代が始まろうとしていることを、神の国、神様の恵みのご支配が実現しようとしていることを告げる神様のみ言葉を聞き、その新しい時代を迎えるための準備を与えられたのだ、ということです。そしてそれは私たちが、教会の礼拝において告げ知らされているみ言葉と重なります。私たちは教会の礼拝において、神様の愛が私たちに注がれており、主イエス・キリストの十字架と復活によって既に私たちの全ての罪が赦されていること、神の国、神様の恵みのご支配が既に決定的に始まっていること、私たちがよい行いをし、立派な人間になることによってではなく、罪人を救って下さる救い主イエス・キリストを信じるなら、神の国に連なる者、新しい時代を生きる者となることができることを告げるみ言葉を聞いています。私たち自身が、神の国で最も小さな、しかし洗礼者ヨハネより偉大な者となることができるというみ言葉を聞いているのです。
二通りの反応
このみ言葉を聞いた者は一つの問いの前に立たされます。そのみ言葉を信じて受け入れ、新しい時代を生きる者となるのか、それともそれを信じることなく拒み、旧い時代を生き続けるのか、という問いです。この福音書を書いたルカは、29、30節で、この問いに対する二通りの答えを示しています。この29、30節は、主イエスのお言葉ではなくて、ルカが書いている文章です。話の流れからすると、ここでこのことを語るのはおかしいのです。ヨハネは既に領主ヘロデによって捕えられ、獄中にいるのです。そのヨハネから民衆が洗礼を受けたのは、ヨハネの逮捕より前の話です。そのことを承知の上でルカは、敢えてここで、ヨハネから洗礼を受けた人々と、それを拒んだ人々のことを語っているのです。それは読者に、つまり私たちに、新しい時代の到来を告げるみ言葉を聞いた者の二通りの反応を示すためです。その一つは29節の「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」ということ、もう一つは30節の、「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」ということです。旧約聖書の時代の最後に位置し、預言者以上の者であるヨハネによって、いよいよ救い主が到来し、旧約の時代が終わって神の国、神様の恵みのご支配、つまり救いが実現する新しい時代の到来を告げられた者たちの間に、この二通りの反応が生じたのです。第一の人々は、ヨハネの教えを神の言葉として聞き、信じて、罪の悔い改めの印である洗礼を受けました。名もない民衆が、また当時罪人の代表とされ人々に忌み嫌われていた徴税人さえもがそうしたのです。しかし第二の人々はヨハネを無視し、洗礼を受けることを拒みました。それはファリサイ派の人々や律法の専門家たち、つまりユダヤ人の宗教的指導者たち、律法を守り正しい生活をしていると自他共に認めていた人々でした。この違いはどこから来たのでしょうか。ヨハネの洗礼を受けた人々は、「神の正しさを認めた」と29節の終わりにあります。それに対して洗礼を拒んだ人々は、「自分に対する神の御心を拒んだ」と30節の終わりにあります。ここに、両者の違いの根本が示されています。洗礼を受けた人々は、「神の正しさを認めた」のです。これは「神を義とした」という言葉で、神こそが義であることを認めた、という意味です。神こそが義であることを認めるとは、自分は義ではないことを認めることです。彼らはヨハネの語るみ言葉によって、自分の罪を示され、それを認め、その罪を赦して下さる神の恵みに依り頼んで悔い改めたのです。そのことによって彼らは、救い主の到来によって始まろうとしている新しい時代を生きるための備えをしたのです。それができたのは、罪のない立派な人ではありませんでした。むしろ自分の罪を知っており、自分でそれを償うことも罪から自由になることもできないことを認め、神様に赦しを求めていく人こそが、神の国に加えられるのです。徴税人が洗礼を受けたことはそういう意味で重要です。罪人の代表である徴税人が、洗礼を受けて、「神の国で最も小さな者、しかしヨハネよりも偉大な者」となるのです。
これに対してファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、神を義としませんでした。神こそが義であると認めるのではなく、自分の義を主張したのです。自分は律法に従って正しい生活をしている、ということに依り頼み、実は自分が神様との関係を失っている罪人であることを認めようとしなかったのです。それゆえに彼らは、悔い改めの印である洗礼など自分には必要ないと思ったのです。しかしそれによって彼らは、「自分に対する神の御心を拒んだ」のだと聖書は語ります。自分に対する神の御心とは、私たちの罪を赦し、主イエス・キリストによって実現する神の国へと私たちを招き、新しい時代を生きる者として下さるみ心です。神様のみ言葉によってそのことが示されているのに、それを受け入れず、信じることなく、洗礼を受けることを拒むならば、それは神様のこの救いのみ心を拒み、せっかくの恵みに満ちた御心を無にすることになるのです。
神の御心を拒むな
31節以下は再び主イエスのみ言葉となり、この第二の人々、ヨハネの洗礼を拒み、自分に対する神の恵みのみ心を拒んだ人々のことが、広場に座って互いに文句を言っている子供たちの姿になぞらえられています。子供たちは「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と言い合っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」というのは婚礼ごっこです。「葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」というのは葬式ごっこです。婚礼ごっこをしようと言って笛を吹いたのに、「笛吹けど踊らず」で誰も踊ってくれない、葬式ごっこをしようと言って葬式の歌を歌ったけれども、誰も泣いてくれないのです。このたとえが示しているのは、洗礼を受けることなく、自分に対する神の御心を拒むというのは、神様からの呼びかけに応えず、それを無視することなのです。しかしそこにはもう一つの意味があります。それは、ヨハネの洗礼を拒んだファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスをも拒み、受け入れないということです。主イエスの教えとヨハネの教えとの間には、婚礼と葬式ほどの違いがあります。ヨハネは、33節に語られているように、「パンも食べずぶどう酒も飲まずにいる」人でした。人々の罪を指摘し、悔い改めを求めるヨハネは、楽しみや喜びとは無縁な、禁欲的な生活をしていたのです。そういうヨハネをファリサイ派や律法学者たちは、「あれは悪霊に取りつかれている」と言って拒みました。他方主イエスは、弟子たちや人々と飲み食いする宴会の席に着くことを厭いませんでした。この後の36節以下にも、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いておられる主イエスの様子が語られています。主イエスは、断食もなさいましたが、また人々と陽気に明るく宴会を楽しむこともなさったのです。しかしそういう主イエスのお姿に対して彼らは、今度は「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って批判するのです。このように、旧約聖書の時代の最後に位置するヨハネと、新約聖書の福音の先頭に立ち、神の国をもたらす救い主である主イエスとの間には、正反対とも言えるような違いがあります。しかし、悔い改めの印であるヨハネの洗礼を拒む人は、主イエスによる罪の赦しの恵みをも拒むのです。従って私たちは、「ここで問われているのはヨハネの教えやヨハネの洗礼に対してどうするかであって、主イエスによる救いを受け入れるかどうかとは違う」と言ってごまかすことはできないのです。神様のみ言葉によって告げられている、自分に対する神様の御心を、受け入れるのか拒むのか、ということが、私たちに問われているのです。私たちに対する神様の御心は、主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活において示され、与えられています。神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦し、復活によって新しい命、永遠の命の先駆けとなって下さった、この神様の恵みのみ心を拒み、無にすることなく、受け入れて、新しい時代を生きる者となり、神の国の最も小さな者の一人に加えていただくことを祈り求めていきたいのです。これから与る聖餐は、洗礼を受けて神の国に加えられた者たちが、主イエスの十字架の死と復活によって示されている神様の御心を確認し、それによって養われ、力づけられていく、恵みの食卓なのです。