主日礼拝

葬列を止める主

「葬列を止める主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 列王記上 第17章8-24節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第7章11-17節
・ 讃美歌:7、317(1-3)、317(4-7)

導師?
 今年度に入ってから既に3回、教会で葬儀がありました。月に一度のペースはちょっと多い方です。教会における葬儀においては、基本的には、前夜の祈りと葬式とが行われます。葬式の後は火葬場に向かうわけですが、そのために棺が教会を出る時には、牧師が先頭に立ち、その後に喪主が、そして棺が続くという順序で教会を出ます。その時葬儀社の人が、「藤掛先生に導いていただいて指路教会を出棺します」と言います。これは私が指示したことではなくて、前からそのように行われていたのを受け継いでいるのですが、このことからいろいろなことを考えさせられます。私が導いて出棺するってどういうことでしょう。ここには、葬儀についての仏教的感覚の影響があると思います。仏教の葬儀に行きますと、それを司る僧侶のことを「導師」と言います。導く師という字を書きます。導師とは、死者の魂を迷わず成仏させる導きをする僧侶、ということでしょう。仏教の葬儀は、亡くなった人が迷わず成仏するように導くために行われるのです。だから僧侶には、導師となって、死んだ人を、生きている者たちの世界から死者の世界へと迷わずに導くことが求められているのです。牧師が導いて出棺する、というのも、そういう感覚から来ているのだと思います。皆さんの中にもけっこうそういう感覚は根強くあるのではないでしょうか。教会で葬儀をすることによって、牧師に天国へと導いてもらう、みたいな感覚です。しかし私は死んだ人を天国へと導くような芸当はちょっとできません。だから「藤掛先生に導いていただいて」なんて言われるとどうしていいか分からなくて困ってしまうのです。でも皆さん、大丈夫です。安心して下さい。牧師は頼りなくても、私たちには、確かな導き手、導師であられる主イエス・キリストがおられます。主イエスが、私たちをちゃんと導いて、神様のみもとへと伴って下さるのです。

野辺送り
 さて話を戻しますが、葬儀、葬りというのは、洋の東西を問わず、死んだ人を生きている者たちの世界から死者の世界へと送る儀式である、と言うことができます。「おくりびと」という映画がヒットしました。葬送という言葉もあります。葬儀には「送る」という要素があるのです。棺を担いだ人々が墓地へと向かう「葬列」はまさに「野辺送り」の行列です。聖書の時代のパレスチナにおいては、生きている者たちの居場所と死者の居場所つまり墓地とは物理的に隔てられていました。つまり生きている者たちの生活の場である町の門の外に、死者の居場所である墓地があったのです。ですから死んだ人を死者の場所へと送る葬列は、町の門を出て、墓地へと向かうのです。本日ご一緒に読む新約聖書の箇所、ルカによる福音書第7章11節以下にはそのような葬送の場面が描かれています。12節に「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」とあるのがそれです。棺に納められた死者が、町の門から担ぎ出されて、墓地へと向かっていくのです。その葬列が、ナインというこの町の門を出ようとした時、逆に町に入ろうとしていた主イエスと弟子たち、また主イエスについて来た大勢の群衆の一行と鉢合せたのです。

絶望
 この葬列は、「ある母親の一人息子」の野辺送りの行列でした。亡くなったこの息子は、14節で主イエスが「若者よ」と言っておられるように、若くして死んだのです。しかも12節後半にあるように、この母親はやもめでした。夫を亡くし、一人息子の成長を楽しみにし、頼りともしていたこの母親にとって、息子の若くしての死は、全てを奪い去られるような悲しみだったでしょう。彼女が泣いていたことは主イエスの「もう泣かなくともよい」というお言葉から分かりますが、それは当然であり、またこの泣いていたというのは、泣くことによって次第に気持ちが落ち着き、悲しみの中にもある慰めが与えられていくようなさめざめとした涙ではなくて、まさに絶望の叫びをあげつつ棺にすがりつくような激しい、慰めの余地のないものだったでしょう。「町の人が大勢そばに付き添っていた」、とありますが、この葬列に同行して彼女を少しでも慰めたいと思っている人々も、慰めの言葉のかけようがなかったろうと思います。人間のいかなる慰めも及ばない絶望の中で泣き叫ぶ母親の声のみが虚しく響いていたのです。

憐れに思い
 この葬列と出合い、絶望の涙にくれる母親を見た主イエスは、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われました。この母親を気の毒に思い、「もう泣くな」と言ってやりたい思いは誰もが抱いていたでしょう。しかし主イエスがなさったことは、周囲の人々の思いの代弁ではありません。主イエスは、主イエスしかすることのできないユニークな仕方で、この母親と関わられたのです。そのことを示している第一の言葉が、「憐れに思い」です。この言葉は、私たちが気の毒な人を見て感じる憐れみの思いとは質の違う意味を持っています。ルカによる福音書においてこの言葉が使われている他の箇所は、一つは10章33節、「善いサマリア人」の話において、強盗に襲われて倒れている人を見たサマリア人が、「憐れに思い」介抱したという所です。このサマリア人は、日頃自分たちを差別していて仲が悪いユダヤ人の旅人が倒れているのを見て、敵であるにもかかわらず、また自分も強盗に襲われるかもしれない危険を顧みず介抱し、自分のろばに乗せて宿に連れて行き、治療のための費用を支払ったのです。もう一つの箇所は15章20節です。いわゆる「放蕩息子」の話において、父の遺産を先に受け取って家を飛び出し、放蕩の限りを尽して無一物になり、乞食のような姿で帰って来た息子を見た父が、「憐れに思い」、まだ遠くにいたのに走り寄って彼を家に迎え入れたという所です。この息子は父に背いて家を飛び出し、しかもその財産を食いつぶして全てを失ったのです。しかし父は彼が帰って来たことを喜び、無条件で受け入れたのです。これらはいずれも、私たちが普通に抱く同情や憐れみをはるかに超えたことです。彼らは、敵である人を身の危険を顧みずに助け、あるいは自分に罪を犯し傷つけた人を赦して受け入れたのです。それがこの「憐れに思い」の内容です。この言葉の原語には「内臓」という言葉が用いられています。この憐れみは、「はらわたのよじれるような」「内臓が痛むような」憐れみです。息子の死を激しく嘆き悲しんでいるこの母親を見て主イエスは、ご自分の内臓をえぐられるような同情、憐れみを覚えたのです。そして、「もう泣かなくともよい」とおっしゃったのです。

もう泣かなくともよい
 「もう泣かなくともよい」というお言葉は、前の口語訳聖書では「泣かないでいなさい」でした。さらに前の文語訳聖書では「泣くな」だったのに比べて、口語訳、新共同訳には工夫が見られます。ここの原文は文法的に説明すると、「泣く」という動詞の継続を意味する形に禁止命令の言葉がつけられているのです。つまり「泣き続けることをやめなさい」という意味になります。口語訳は「泣いている」という継続の感じを生かして、「泣かないでいなさい」としたのです。でもこれは日本語の表現としては変です。新共同訳は、これまで泣いていた者に泣き続けることをやめよと命じる、という意味から「もう泣かなくともよい」としたのです。これは意味をよく捉えた訳です。つまり主イエスはここで彼女に、「あなたは今絶望の中で泣いているが、しかしもう泣き続けるな、泣くのはこれで終わりだ」と語りかけたのです。

葬列を止める主
 主イエスがこの母親を憐れに思ってこう語りかけたということは、あのサマリア人のように、また放蕩息子の父親のように、具体的に彼女を助け、受け入れるための行動を起こされる、ということです。それが14節です。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた」。主イエスは葬列に近付き、棺に手を触れたのです。それはただ触ったと言うよりも、墓地へと向かう野辺送りの行列の前に立ち塞がり、手を伸ばしてその歩みを止めたということです。「担いでいる人たちは立ち止まった」と語られていることがそれを示しています。「もう泣かなくともよい」と母親に語られた主イエスは、死んだ若者を死者の国へと送るこの葬列を、「もうこれ以上進んではならない」と押し止めたのです。そして死んだ若者に、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と語りかけたのです。「起きなさい」とは、眠っている者に目覚めるように命じる言葉です。その「起きる」という言葉はそのまま、死者の復活を意味する言葉としても使われています。ですからこれは、この若者は死んだのではなくて眠っていたのだ、ということではなくて、主イエスが、死んだ若者に「復活せよ」と命じたということです。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」のです。主イエスの命令の通りに、死んだ若者は復活したのです。「もう泣き続けるな、泣くのはこれで終わりだ」という主イエスのお言葉は、いつまでも泣いていても仕方がないから、いいかげんに泣き止んで日常の生活に戻りなさいというような、私たちが語る、慰めともならない慰めの言葉ではありません。主イエスは葬列を押し止め、死んだ若者を復活させて母親にお返しになったのです。主イエスの、はらわたのよじれるような憐れみは、死んだ者を死の支配から解放し、絶望して泣いている者を泣き止ませる力を持った憐れみ、同情なのです。

神の訪れ
 16節には、この奇跡を見た人々の反応が語られています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。人々は、「大預言者が我々の間に現れた」と言いました。人々が思い描いている大預言者とは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記上17章に出てくるエリヤです。その8節以下には、エリヤがサレプタという所の一人のやもめのもとに身を寄せていた時のことが語られています。神様がエリヤを彼女のもとに導き、飢饉のために食べ物が尽きて飢え死にしようとしていた彼女と息子が、エリヤの行う奇跡によって救われ、同時にエリヤ自身も養われるようにして下さったのです。ところがこのやもめの息子が病気になり、死んでしまいました。しかしエリヤが神様に祈り、この子の命を元に返してください、と願うと、神様はその子供を生き返らせて下さったのです。エリヤは、死んだやもめの息子を復活させるという奇跡を行なった預言者なのです。主イエスがナインのやもめの息子を復活させたのを見た人々は、この話を思い出し、主イエスのことを、大預言者エリヤの再来だと思ったのです。そしてさらに彼らは、「神はその民を心にかけてくださった」とも言いました。エリヤにせよ主イエスにせよ、やもめの一人息子を復活させるというのは人間業ではありません。主なる神様が働いて下さればこそ、このようなことが起ったのです。それを見た彼らは、神がご自分の民である我々のことを心にかけて下さったのだ、と喜んだのです。この「心にかける」という言葉は直訳すれば「訪れる」です。彼らは、神がその民を訪れて下さった、と喜んだのです。ルカは、神がその民を訪れて下さった、ということを既に語っています。それは1章68節です(102頁)。洗礼者ヨハネの父ザカリアが神様をほめたたえて歌った「ザカリアの賛歌」の最初のところです。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。ここに「主はその民を訪れて」とあります。また78節にも、「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」とあります。この「訪れ」も同じ言葉です。ザカリアは、神がダビデの家から救いの角を、つまり約束しておられた救い主をいよいよ起こし、遣わして下さることを見つめつつ、その備えをする者として自分の息子ヨハネが用いられることを感謝して神をほめたたえています。つまり、神がご自分の民を訪れて下さるというのは、救い主を遣わして下さることなのです。ルカは本日の箇所で人々が「神はその民を訪れて下さった」と言ったことを語ることによって、ザカリアの預言した神の訪れが、この主イエスのみ業において実現したのだということを示そうとしているのです。ちなみに、今の78節の「神の憐れみの心」という所にも、先ほどの「内臓」という言葉が使われています。憐れみの思いが宿る場としての内臓、という使い方です。その内臓のよじれるような憐れみを主イエスは抱き、死んだ若者を復活させて下さったのです。

神の憐れみのみ心
 このように見てくると、ここに語られているのは、主イエスが死んだ人を生き返らせるという驚くべき奇跡を行なった、というだけのことではないことが分かります。このみ業には、神様がご自分の民を訪れ、救いを与えて下さるという恵みのみ心が示されているのです。その恵みのみ心とは、死の力に支配され、希望を失って泣いている私たち人間を深く憐れみ、救って下さるみ心です。私たちは皆、死の力に支配されています。それは、肉親の死の悲しみを体験したり、また自らの死への恐れを覚えている者だけのことではありません。私たちは、この葬列に連なっているナインの町の多くの人々と同じように、死の悲しみや恐怖の中にいる人をどうにかして慰めたいと思っています。その傍らに付き添うことによって、何がしかの慰めになりたいと願っています。悲しんでいる人にそのように寄り添うことが、ある慰めになることは確かです。けれども私たちがそこで感じるのは、死の圧倒的な力に立ち向かって慰めを与えるような言葉を自分は持っていないということです。特に若い人の、しかもやもめである母親の一人息子の死などのように、全ての希望を打ち砕くような死に直面する時に、慰めの言葉のかけようもない、ただ傍らで共に涙を流すことしか出来ない無力さを思い知らされるのです。そういう意味で、私たちの誰もが、死の力の前で無力であり、結局はその支配を受け入れ、それに服するしかないのです。神様は、そのような私たちを深く憐れみ、救いを与えて下さいます。その恵みのみ心が、この出来事において示されているのです。
 別の言い方をすれば、主イエス・キリストがこの世に来て下さったことの根本的な意味あるいは目的がここに示されているのです。主イエスが来られた目的とは、死の支配下に置かれている私たちを解放して下さることです。死の支配を打ち砕き、私たちに神様の与えて下さる新しい命を与えて下さることです。死の力の前で無力であることを嘆き悲しんでいる私たちに、「もう泣かなくともよい」と語りかけて下さることです。嘆いている者にはそのように語りかけ、そして死んだ者に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じて、死の力を打ち破り、新しい命を与えて下さるのです。

主イエスの復活を信じるなら
 主イエスは何故こんなことをすることができたのか、あるいはそもそもこんなことは本当にあったのか、その疑問への答えは、この箇所を読んでいるだけでは得られません。主イエスがこの世に来られた目的がここに示されていると申しました。つまり主イエスのご生涯の全体をここで視野に置く必要があるのです。この若者を復活させた主イエスは、しかし最後には捕えられ、十字架につけられて死にました。死んだ人を復活させたのに、自分は殺されてしまったのです。なんだ、何にもならないじゃないか、と私たちは思います。しかし、まさにそこに、私たちを死の支配から解放して下さる神様の恵みのみ心があったのです。主イエスが十字架につけられて死なれたのは、一つには私たちの罪を全て引き受け、背負って、それを赦して下さるためです。そしてもう一つは、いつか必ず死に支配され、命を奪われてしまう、その私たちの苦しみと悲しみ、絶望を引き受け、背負って下さるためです。私たちが体験する死の支配を、主イエスも体験して下さったのです。そしてその主イエスを、父なる神様は三日目に復活させて下さいました。主イエスを支配した死を、父なる神様が打ち滅ぼして、新しい命を与え、生かして下さったのです。主イエスのご生涯は、十字架の死を経て、復活へと至る歩みだったのです。そのことによって神様は、私たちを最終的に支配するのは、死の力なのではなくて、私たちを死から解放し、新しい命を与えて下さる神様の恵みの力なのだ、ということを示して下さったのです。これが、主イエスがこの世に来られた目的です。この目的が、本日のこの奇跡において示されているのです。主イエスは何故この若者を復活させることができたのか、それは、主イエスご自身を死の支配から解放し、復活させて下さる父なる神様の恵みの力によってです。そしてそもそもこんなことは本当にあったのか、それは、神様がその独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちを死の支配から解放し、神様の恵みのご支配の下で新しい命を与えて下さることを信じるか否かにかかっています。神様が深い憐れみによって救い主イエス・キリストを遣わして下さり、この主イエスにおいて罪と死の力を打ち破り、新しい命へと私たちを招いて下さっている、ということを信じるならば、その主イエスによって一人の若者が復活し、死の支配の下で絶望の涙を流していた母親が、気休めではない、真実の慰めを与えられたというこの出来事が本当にあったと信じることができます。逆に、主イエスの復活による神様の恵みの死に対する勝利を信じないなら、たとえこの若者の復活が本当にあったと信じたところで何の意味もありません。それは昔そんな不思議なことがあったというだけで、私たちとは何の関係もないことになるからです。

新しい命へと導く主
 最初に私は皆さんに、安心して下さいと申しました。牧師は頼りなくても、確かな導き手であられる主イエス・キリストが私たちを神様のみもとへと伴って下さるのだと申しました。しかし勘違いをしてはなりません。主イエスは、私たちが死んだら天国へと、神様のみもとへと、つまりキリスト教における死者の世界へと導いてくれる方なのではありません。それだったら、結局死の力が私たちを最終的に支配することになります。私たちが死の支配をあきらめて受け入れるために主イエスがおられるようなことになります。しかし主イエス・キリストは、死の支配下へと私たちを送ろうとする葬列の前に立ちはだかり、それを押し止める方なのです。「あなたがたが向かうのは、死の力が支配する死者の国ではない。私を復活させ、新しい、永遠の命を与えて下さった父なる神様の恵みのご支配の下へと、私はあなたがたを導く。あなたがたの歩みは、神が与えて下さる新しい命へと向かっているのだ」、そう主イエスは語りかけておられるのです。私たちは勿論、肉体においていつか死にます。この世の歩みにおいて、死が一旦私たちを捕え支配することは厳然たる事実です。しかしその死の支配の現実の中に、主イエスの、「もう泣かなくともよい」というみ言葉が響くのです。そして世の終わりの時には、「わたしはあなたに言う。起きなさい」という主イエスのみ言葉によって、死に捕えられた私たちが、眠りから目覚めさせられるように復活して新しい命を与えられるのです。この主イエス・キリストを信じ、主イエスと共に生きているがゆえに、私たちは安心してこの人生を歩み、安心の内にこの世を去ることができるのです。

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