「神の子となるため」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第6章27-36節
・ 讃美歌: 323、165、521
敵を愛しなさい
先週の礼拝から、ルカによる福音書の第6章20節以下の、主イエス・キリストのお語りになった説教を読んでいます。この説教は、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあることから「平地の説教」と呼ばれていることを先週お話ししました。そしてこの「平地の説教」は、マタイによる福音書第5~7章の、主イエスが山の上でお語りになったいわゆる「山上の説教」とよく比較して読まれることも先週申しました。「山上の説教」の方がずっと長いですが、両者は内容的に重なっている部分が多いのです。本日の箇所につけられている小見出しは「敵を愛しなさい」です。その下の括弧の中に、マタイ5の38~48、そして7の12aとあります。「敵をも愛しなさい」という教えは、マタイにおいては5章の38~48節に語られているのです。そこと重なる教えとしては、29節前半の「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」があります。これはマタイでは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」となっていて、この言い方の方がよく知られています。また同じ29節の後半に「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」とありますが、これはマタイでは「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」となっています。また30節の「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」はマタイの「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と重なります。そしてこれらの教えをまとめるようにして、31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えが語られています。先ほどの小見出しの下の括弧の中にマタイの7章12節aとあったのは、マタイにおいてこの教えが語られている箇所です。そこには「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とあります。この教えは「黄金律」(黄金の掟)と呼ばれており、主イエスの教えの中でも最もよく知られているものの一つです。マタイにおいてはこの教えは本日の箇所とは別の文脈の中で語られているのですが、ルカではこれが「敵を愛しなさい」という教えの中で語られています。つまり、自分の頬を打つ者にもう一方の頬をも向け、上着を奪う者に下着をも拒まず、求める者にはだれにでも与え、持ち物を奪う者から取り返そうとしない、それらのことのまとめとして、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」と言われているのです。ですからここでの「人」は、自分の仲間、愛してくれる人ではなくて、むしろ自分の敵、自分を憎んで意地悪をする人です。そういう敵に対しては、自分がしてほしくないと思うことをこそする、というのが私たちの自然の思いです。しかし主イエスは、そのような敵に対して、あなたの方から率先して、愛し、親切にし、祝福を祈りなさい、とお語りになったのです。
31節以下に語られていることもその続きです。そこには、自分を愛してくれる人を愛し、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで「どんな恵みがあろうか」とあります。「恵みがあろうか」というのは言い換えれば、神様が喜んで下さるだろうか、ということです。それらのことは、返してもらうことを当てにして貸すのと同じだ、つまり自分は全然損をせずに、いやむしろ見返りを求めて親切にしているだけだ、そういうことは罪人でもしているのであって、神様が喜んで下さることではない、と語られているのです。ここでの「罪人」は神様を知らない人、従ってその恵みの中に生きていない人ということです。これらのことを受けて35節で再び、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と語られ、そのことが、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」と言い換えられていきます。つまり、見返りを求めず、自分が損をすることになっても、人に対して善いことをしなさい、というのです。敵を愛するというのは、そういう思いをもって生きることなのです。
私たちの反応
主イエスは「平地の説教」においてこれらのことを語られました。この教えの意味や内容には特に難しいことはありません。特に解説をしなくても、読めば何が語られているのかを理解することができるでしょう。しかし理解することと、この教えを自分自身の生活において実行すること、ここに語られている通りに生きることは全く別だと私たちは思わずにはおれません。イエス・キリストはなんと難しい、困難なことを教えたのか、この教えを実行することが信仰なのだとしたら、自分はとうてい信仰者にはなれない、と思わない人はいないでしょう。あるいは、この通りに出来ればそれは理想だけれども、人間の現実はこうはいかない、イエス様の理想主義は立派だが、理想だけでは現実に対処することは出来ないのだ、と言ってこの教えからスルリと身をかわしてしまう人もいるでしょう。さらには、こんな教えは人間性に反している、こんな無理なことを命じるなんて、イエスは非常識で無責任だ、と反発を覚える人もいるでしょう。この教えに対する私たちの反応は様々だと思いますが、いずれにしても共通しているのは、ここに語られていることを実行するのは不可能だ、無理だ、という思いです。しかし私たちはここで、最初からそういう前提を立ててしまうことをやめて、先ず、主イエスが語っておられることをそのお言葉に即してしっかり聞き取っていきたいのです。
信仰者への教え
先週も申しましたが、この説教を正しく理解するためには、これが誰に向かって語られた言葉なのかということを捉えなければなりません。この説教の冒頭の20節には「さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て言われた」とありました。つまりこの説教は、主イエスの弟子たち、主イエスに従って来ている人々、主イエスを信じる信仰者に対して語られているのです。そのことは本日の箇所の冒頭の27節にも語られています。27節には「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」とあります。説教の途中でこんなことを改めてわざわざ言わなくてもよさそうなものです。しかし敢えてそれが語られているのは、これから語る「敵を愛しなさい」という教えは、主イエスの言葉をしっかりと聞き、それに従って生きようとしている「あなたがた」においてこそ意味があるのであって、そうでない人、主イエスの言葉を真剣に聞いていない人には語っても仕方がない、という思いの現れでしょう。その思いは35節にも現れています。先ほど見たように34節までには、見返りを求めて親切にすることは罪人、つまり神様を知らない人々だってしている、と語られてきました。それに対して35節は、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と語っているのです。つまり、あなたがたはあの罪人たちとは違うはずだ、ということです。それは、あなたがたは罪のない人たちだ、ということではなくて、あなたがたは私の言葉を聞いており、それによってまことの神を知らされている、神の恵み、愛を受けている、ということです。つまり「あなたがた」とは、主イエスの言葉を聞き、従って来ている弟子たち、主イエスを信じる信仰者たちなのです。そのあなたがたには、敵を愛することが、人に善いことをし、何も当てにしないで貸すことができるはずだ、と主イエスは言っておられるのです。
真実の幸いを求めて
このことを、先週の箇所とのつながりで考えることもできます。27節に、「わたしの言葉を聞いているあなたがた」とある、そのあなたがたの聞いている「わたしの言葉」とは、26節までの言葉です。そこには、「幸いと不幸」についての教えが語られていました。これこれの人々は幸いである、これこれの人々は不幸である、という教えが四つずつ対になって語られていたのです。その第四の幸いが本日の箇所へとつながっています。それは22節の「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」という教えです。人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる、つまり人々がまさに敵となってあなたがたを憎み、悪口を言い、侮辱するのです。それは「人の子のため」、つまり主イエス・キリストを信じる信仰のゆえにです。イエス・キリストを信じる信仰をしっかり持ってこの世を生きる時、私たちは、敵に囲まれ、攻められるような状況に陥るのです。人々に憎まれ、悪口を言われ、侮辱されるのです。その時にこそ、あなたがたは幸いだ、と主イエスはお語りになりました。そういうことが全然なく、誰もがあなたがたをほめるようなら、それはむしろ不幸だとおっしゃったのです。本日の箇所は、その幸いに生きる者の姿を具体的に語っていると言うことができます。主イエスを信じ、その信仰によって与えられる真実の幸いに生きる者は、その幸いのゆえに、人々に憎まれ、悪口を言われ、侮辱される事態の中で、自分を迫害する敵をも愛し、祝福し、その敵のために祈ることができるのです。あるいは、敵を愛し、祝福し、敵のために祈ることによってこそ、この幸いに生きることができる、と言ってもよいでしょう。主イエスを信じ従っていく者に与えられる真実の幸いに生きることは、敵を愛し、自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、自分を侮辱する者のために祈ることにおいてこそ実現していくのです。
たくさんの報い
つまり、敵を愛することは、主イエスが与えて下さる真実の幸いに生きるためなのです。そのことを35節の「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」という言葉が言い表しています。敵を愛することにはたくさんの報いがある、それは、返してもらうことを当てにして貸すことに何の価値があるか、と言っていた先ほどの言葉と矛盾するようにも思います。何も当てにしないで、つまり報いを求めないで与えることこそがよいのだと言ったばかりなのです。しかしここで「たくさんの報いがある」と言われているのは、先ほど「どんな恵みがあろうか」と言ったことの反対です。つまりそれは、神様が大いに喜んで下さるということです。敵を愛することには見返りがたくさんある、という話ではないのです。あるいは、神様の喜びを共有することができる、というすばらしい見返りがあるのです。そしてこの神様の喜びを共有する者となることが、「いと高き方の子となる」ということです。いと高き方、つまり神様の子どもとなることができる、それが、主イエスの与えて下さる真実の幸いなのです。
神の子の特典
神様の子どもとなるというのは、何か特別な権利、特典を与えられることでしょうか。要するに何か得をすることができるのでしょうか。そうです、大きな特典があります。ものすごく得をすることができます。35節の後半を読むことによってそれが分かります。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」とあります。このいと高き方、つまり神様の子どもになれるのです。そして36節に、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。恩を知らない者にも悪人にも情け深く、敵をも愛し、赦し、恵みを与えて下さる、この憐れみ深い父なる神様の子どもとなって、私たちも、憐れみ深い者となる、そういう特典が、神様の子どもになることによって与えられるのです。「たくさんの報いがある」というのはこのことです。神様の子どもとなることは、このような意味でものすごく得をすることなのです。 恩を知らない者や悪人、それは生まれつきの私たちのことです。私たちは、神様によって命を与えられてこの世を生きています。私たちが持っているもの、人生の資本として用いているものの全ては、もともと神様が与えて下さったものです。ところが私たちはそのような大きな恩を神様から受けていることを感謝せず、自分の思い通りに生きようとしています。自分の持っているものはもともと自分のものであるかのように振舞っています。それは全く恩知らずなことです。その神様への恩知らずの罪の中で、私たちは憎しみや嫉妬の思いから敵を周囲に作り出し、隣人を傷つけています。そういう恩知らずの悪人である私たちのために、神様は、その独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。そしてまことの神の子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。神様は、恩を知らない罪人である私たち、まさに神様の敵となってしまっている私たちを愛して下さり、私たちに親切にし、祝福を与えて下さり、独り子イエス・キリストによって私たちに対しても情け深く憐れみ深い父となって下さったのです。この主イエスを信じ、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを信じることによって、私たちも、いと高き方の子となることができます。そして、恩を知らない悪人にも情け深く憐れみ深い方であられる父のもとで、私たちも、憐れみ深い者となることができるのです。敵を愛し、自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈る者となることができるのです。そういう立派な人間にならなければならないとか、そのために努力しなさい、という話ではなくて、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みをいただく時、私たちは、敵を愛し、自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈ることができる、という大いなる特典を与えられ、本当の幸いに生きる者とされるのです。
キリストによる招き
「敵を愛しなさい」という主イエスの教えは、それを私たちが、これを実行できるような立派な、寛容な人間になれ、という教えとして読んでいる限り、重荷でしかありません。そんなことを言われたらとても自分は信仰者にはなれない、と思うしかないのであって、それでも信仰に入るというのはよっぽど自分に自信がある傲慢な人か、あるいはよっぽど脳天気で鈍い人か、どちらかです。あるいはこの教えは理想主義で、現実はこうはいかない、と言って折り合いをつけるしかないでしょう。さらには、こんな無理難題を押し付けるイエスは間違っている、と反抗することも自然です。しかしそれにもかかわらずこの主イエスの教えは、多くの信仰者たちを生かし、この教えに従って生きる幸いな人々を生み出してきました。その理由はただ一つ、その人々が、敵である自分を愛し、その自分のために十字架にかかって死んで下さった神様の独り子イエス・キリストと出会ったからです。主イエスが敵である自分をも愛して下さったことによって救いを実現して下さったことを知り、この教えを単なる道徳の教えとしてではなく、十字架の主イエスによる救いへの、そこに与えられる真実の幸いへの招きのみ言葉として聞いたからです。そしてそこに、神様ご自身の喜びを共有し、神の子とされて生きる本当の喜びがあることを知ったからです。そしてさらに、十字架の死を引き受けて私たちのための救いを実現して下さった主イエスに従って歩むことにこそ、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生んでそれが際限なく増幅されていく人間世界の悪循環を断ち切る唯一の道があることを悟らされたからです。
キリストの招きの言葉を聞いた人
最近私は淵田美津雄の自叙伝を読みました。淵田美津雄は、太平洋戦争開戦の日、あのハワイ、真珠湾への奇襲攻撃において、爆撃隊の総指揮官だった海軍軍人です。この人が戦後、クリスチャンとなり、伝道者となって日本やアメリカで伝道活動をしたことはよく知られています。彼がどのようにして真珠湾攻撃隊長から主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者になったのか、そのことが本人の言葉によって語られているのです。そのエピソードをご紹介したいと思います。
淵田氏は戦後、いわゆる東京裁判について、勝者が敗者を一方的に裁く報復的裁判だという強い反発を覚えていました。それで、アメリカから帰国した日本兵捕虜たちに取材をし、アメリカが捕虜に対してどんなにひどい仕打ちをしたかを調査してアメリカ批判の材料を集めようとしたのです。その中で、ある捕虜収容所にいた人たちの話を聞きました。彼らは、手や足を切断する重傷を負って捕虜となったのですが、終戦の半年前ぐらいから、二十歳ぐらいのアメリカ人女性が献身的に彼らの世話をするようになりました。あまり親切にしてくれるので、ある人が彼女にその理由を尋ねると、彼女は、自分は両親をフィリピンで日本兵に殺されたと語ったのです。彼女の名はマーガレット・コヴェルといいました。両親はバプテスト教会の宣教師で、横浜にいたこともあり、その時には関東学院のチャプレンを務めていたそうです。その両親は、太平洋戦争が始まった頃はフィリピンにおり、日本軍の占領とともにルソン島の山の中に逃れました。昭和20年になって、次第に追い詰められていく日本軍に捕まり、所持品の中に小型ラジオがあっただけでスパイと断定され、その場で二人共日本刀で首を切られて処刑されてしまったのです。その最後の時まで、二人は手を取り合って熱心に祈っていたことが目撃されています。娘マーガレットはこの知らせをアメリカで聞き、日本人に対する激しい憎しみを抱きましたが、両親の最後の祈りに思いを馳せ、憎いと思う日本人にこそ、両親の志を継いでキリストを宣べ伝えようと思い、日本人捕虜収容所における奉仕を申し出たのです。この話を捕虜たちから聞いた淵田氏は激しく心を打たれ、憎しみには終止符を打たなければならないと思って、捕虜虐待の調査を即刻やめにしたのだそうです。しかし淵田氏は書いています。「そして帰途、いい話だなあと繰返し思い出していたのだが、私に一つ分らないのは、あの宣教師夫妻の最後の祈りであった。どのような祈りであったのだろうかと推察してみても分らなかった」。しかしこの疑問が解ける日が来ます。その後淵田氏は聖書を手に入れて読むようになりました。次第に興味を覚えて熱心に読むようになり、一か月ほど経ったある日、ルカによる福音書の23章にさしかかったのです。主イエスの十字架の死の場面です。そこで彼が出会ったのは、十字架につけられた主イエスが、自分を十字架につけた人々のために祈られた言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。淵田氏はこう書いています。「そのとき突然、ああ分ったと私はうなずいた。なにが分ったのか。あのマーガレット・コヴェルの両親の宣教師夫妻の最後の祈りが分ったのである。私はイエス・キリストに従う人たちによって祈られる祈りというものは、イエス・キリストと同じ立場におかれたら、イエス・キリストと同じ祈りをなさるに違いないと思ったのである。即ち、『天の父なる神さま、いま日本の兵隊さんたちが、私や妻を殺そうとして、日本刀を振り上げていますが、この人たちを赦して上げて下さい。この人たちは何をしているのかわからずにいるのです』。そして、この祈りが応えられて、マーガレットを打ったのである」。その通りでしょう。マーガレットも、両親が首を刎ねられる直前にこのように祈ったことを確信したのです。それによって彼女は、両親を殺した敵である日本人への憎しみを乗り越えて、彼らに奉仕する者となったのです。彼女もまた、両親と同じように、十字架の上で死なれた主イエスに従い、主イエスと共にこの祈りを祈る者となったのです。
イエス・キリストに従う人たちは、同じ立場に置かれたらキリストと同じ祈りをするに違いない、まだクリスチャンになる前、教会に通うようになる前に、淵田氏はそう思いました。キリストを信じて従うとはまさにそういうことです。自分を憎み、十字架につける人々のために、その罪の赦しを祈ったその主イエスの祈りを共に祈っていくこと、それが「敵を愛する」ことであり、それこそが、神の子とされて生きることなのです。淵田氏はその時もう一つのことをも示されたと語っています。それは、「彼らをお赦し下さい」というその「彼ら」の中には自分も含まれているのだ、ということでした。自分が何をしているのかも分からずに、神様を憎み、キリストを憎み、隣人を憎んで生きている、その罪人こそ自分だ、その自分の罪を赦すためにキリストが十字架にかかり、苦しみを受け、死んで下さったのだということを示されたのです。このことを示されたからこそ、淵田氏はキリスト信者、クリスチャンになったのです。キリストに従う人はキリストと同じ祈りをするのだ、と感心していただけなら、そんな祈りができるコヴェル宣教師夫妻はすごいなあ、その両親の祈りを受け止めて憎しみを乗り越えたお嬢さんも立派だなあ、でも自分にはとてもそんなことはできない、で終ったでしょう。しかし彼は、自分の罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストと出会ったのです。そのキリストが自分をも神の子としようと招いて下さっている、その招きのみ声を聞いたのです。それによって彼は変えられました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りを、彼自身も、主イエスと共に祈る者とされたのです。主イエスは今、私たち一人一人をもこの祈りへと招いて下さっています。この主イエスの招きによって私たちは、敵を愛する者へと変えられていくのです。