「主の恵みの年を告げる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書第61章1-4節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第4章14-22節
・ 讃美歌:248、431、262
主イエスの伝道開始
今日皆さんと共に、主イエス・キリストのご降誕をお祝いすることができますことを、心から感謝します。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、およそ二千年前、一人の人間としてこの世にお生まれになりました。それはベツレヘムの馬小屋での出来事だったと伝えられています。人間の居場所ではない馬小屋で、誰にも顧みられず、喜び迎えられることもない中で、イエス・キリストはお生まれになったのです。その時ベツレヘムにいた人々を始め、世界の誰一人として、後に世界中の人々がクリスマスとしてお祝いするようになる出来事がこの日起ったことに気付きませんでした。天使のお告げを受けた羊飼いたちと、星に導かれて東の国からやって来た学者たちのみが、クリスマスをお祝いしたのです。このようにクリスマスの出来事は、最初は人々の目から全く隠されていました。誰も知らない内に起ったことだったのです。このことが多くの人々にとって意味あることとして意識され始めたのは、主イエス・キリストが人々の前に姿を現し、教えを宣べ伝え始めてからです。当然のことですが、ナザレのイエスが救い主キリストであるという信仰が生まれたことによって、主イエスの誕生はクリスマスになったのです。本日のこのクリスマスの礼拝において、主イエスの伝道の活動の開始を語るルカによる福音書4章14節以下をご一緒に読みます。ここから、主イエスの誕生はクリスマスになり始めたと言うことができます。礼拝においてルカ福音書を連続して読んできまして、ちょうどここにさしかかったわけですが、この箇所をクリスマスの礼拝において読むのは相応しいことだと思います。
さて14節に「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあります。どこから帰られたのか、それは、洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受け、その後荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになった、その場からです。「“霊”の力に満ちて」とあります。主イエスが神様の霊、聖霊に満たされて活動を始められたことは、既にこれまで読んできた所に繰り返し語られていました。3章21節以下には、洗礼を受けた主イエスに、聖霊が鳩のような姿で降ったとありましたし、4章に入っての荒れ野の誘惑も、聖霊に導かれる中で起ったことであり、主イエスは聖霊に満たされて悪魔の誘惑に打ち勝たれたのです。主イエスはそのように聖霊に満たされて、ガリラヤで活動を開始し、「その評判が周りの地方一帯に広まった」のです。その活動とは、15節にあるように、「諸会堂で教え」ることでした。「会堂」と訳されているのは「シナゴーグ」という言葉で、ユダヤ人たちが安息日に集まり、律法や預言者の言葉、つまり私たちで言う旧約聖書の朗読を聞き、教えを聞くことによって神様を礼拝していた場所です。ユダヤ人が住んでいる町にはどこにでもこのシナゴーグが作られ、そこが彼らの信仰の中心だったのです。主イエスはガリラヤにおいてその会堂をあちこち周り、そこで教えを語っていかれました。それがガリラヤにおける主イエスの活動だったのです。
ナザレの会堂で
その結果、「皆から尊敬を受けられた」と15節にありますし、14節には「その評判が周りの地方一帯に広まった」とあります。主イエスはいったいどのような教えによって尊敬を受け、評判となったのでしょうか。そのことが16節以下のナザレの会堂における教えから分かります。16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り」とあります。いつも諸会堂でしているように、安息日に会堂に入って教えを語られたのです。ですからこの16節以下が主イエスの伝道開始の場面というわけではありません。既に諸会堂でなさっていたことをこの日も繰り返されたのです。しかしこの日の出来事のみが特別にこのように記されているのは、ここが主イエスのお育ちになったナザレだからです。ユダヤのベツレヘムでお生まれになった主イエスは、ガリラヤのナザレでお育ちになりました。主イエスの故郷はこのナザレです。およそ30歳になって、このナザレを出てガリラヤのあちこちの町で教えを語り、評判になった主イエスが、故郷に帰って来たのです。主イエスのことを幼い時から知っている故郷の人々が主イエスをどう迎え、その教えにどう反応したかがこの後語られていきます。そのことについては来週に回すことにして、本日は、主イエスがお語りになったことを見ていきたいと思います。
会堂での礼拝
この箇所を読むと、当時の会堂での礼拝がどのようにして行われていたのかをある程度知ることができます。16節の後半から17節にかけてこうあります。「聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」。そして20節に「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。そして21節で語り始めたのです。つまり簡単に言えば、聖書が朗読され、そしてその朗読された箇所についてのお話がなされていたのです。このユダヤ人の会堂における礼拝が、今日の私たちの礼拝の一つの源流となっています。聖書が朗読され、説教が語られることによって、人々が共に神様のみ言葉を聞き、教えを受ける、そのようにして神様を礼拝しつつ、神の民は歩んできたのです。
主イエスが諸会堂で教え伝道をしていかれた、その働きがこのように、聖書を朗読し、その聖書の言葉をもとに語っていく、という仕方で行われたということに私たちは注目する必要があると思います。主イエスの教えは、突拍子もない自分の考えを勝手に語っていったのではないのです。聖書、この場合には勿論私たちの言うところの旧約聖書ですが、そのみ言葉が主イエスの教えの土台でした。主イエスの教えは、旧約聖書に語られているイスラエルの民の歴史、そこにおける主なる神様の救いのみ業を受け継ぐものだったのです。
主イエスの宣言
主イエスがここで朗読した聖書の箇所は、本日共に読まれたイザヤ書第61章の始めの所です。「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」とあります。当時の聖書は全て手書きで書き写された巻き物です。今日の私たちの聖書のように、旧新約聖書六十六巻が全部一冊の本になっているというものではありません。イザヤ書だけで一つの大きな巻き物なのです。そのイザヤ書の巻き物が渡され、主イエスはそれを開いて、当時はまだ章とか節はついていませんが、今日私たちが61章と言っている箇所を読まれたのです。「目に留まった」とありますが、それは偶然そこが目に入ったということではないでしょう。主イエスは意図的にこの箇所を選び、朗読されたのです。主イエスが朗読なさった18、19節をもう一度読んでみます。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。ここを朗読した主イエスは、人々に向かって、この箇所についての説教をお語りになりました。形としては、本日のこの礼拝において聖書が朗読され、その箇所について私が説教を語っているのと同じです。しかし私が、私のみでなく牧師たちが語る説教と、主イエスがここで語られたことは決定的に違っています。牧師たちの説教は、朗読された聖書の言葉の説明がベースとなっています。勿論説教は単なる説明、解説ではなくて、あるメッセージを伝え、信仰の勧めをするものですが、そのためには説明が不可欠なわけです。しかし主イエスはここで、説明などは全くしておられません。主イエスがこのイザヤ書の言葉について語られたのは一言、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」ということのみです。「と話し始められた」とありますから、このように始めてさらにいろいろなことを語っていかれたのでしょうが、ルカはそれらの言葉を全く記していません。ということは、主イエスがお語りになったことを伝えるために、この一言だけで十分だとルカは考えているのです。この一言を示せば、主イエスの教えは分かるのです。そして22節には、この言葉を聞いた人々の反応が語られています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」たのです。主イエスの口から出る恵み深い言葉とは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉に他なりません。この言葉の後何か恵み深いことが語られていったのではなくて、この宣言こそが、恵み深い言葉なのです。
今、「宣言」と申しました。主イエスがお語りになったのは、「このようにしなさい」とか、「こういうことをしてはいけない」という倫理、道徳の教えではありません。主イエスの教えを聞くとは、「どのように生きるべきか」という指針を聞くことではなくて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という宣言を聞くことなのです。主イエスは、私たちに、「こうしなさい」という指示を与えるためではなくて、旧約聖書に預言されていた神様の救いの約束、言い換えれば福音を実現して下さる方なのです。主イエスによって実現した福音とは何でしょうか。それが、イザヤの言葉に語られています。「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」、この福音が、主イエス・キリストによって実現するのです。
解放と自由
この福音の中心となる言葉は、解放と自由です。捕らわれている人に解放を、圧迫されている人に自由を与えるのです。「目の見えない人に視力の回復を告げ」も、目が見えないという束縛からの解放であると言えます。主イエス・キリストは、私たちの解放と自由を実現して下さるのです。主イエスによって私たちは、私たちを捕え、束縛しているものから自由になるのです。このことこそ、主イエスの福音、主イエスによってもたらされる救いの中心なのです。私たちを捕え、束縛しているものとは何か、また主イエスはどのようにして私たちを解放し、自由にして下さるのか、そのことはこれからこの福音書を読み進めていく中で明らかになっていきます。今私たちは、主イエス・キリストによって与えられる救いの中心が、私たちの解放、自由なのだということをしっかりと心に刻みつけておきたいと思います。主イエスを信じてその救いにあずかるとは、何らかの道徳律や祭儀的な掟を守って生きる者になることではなくて、あらゆる束縛から解放されて自由に生きる者となることなのです。本日何人かの方々が洗礼、あるいは幼児洗礼を受けてこの群れに加えられようとしています。また幼児洗礼において既に与えられている救いを自覚的に受け止めて生きる者となる信仰告白をしようとしています。その方々は、主イエス・キリストの体である教会の一員とされ、信仰者として歩み始めるわけですが、その歩みとは、主イエスによって与えられる本当の自由を学び、その自由を生きていくための戦いです。戦いと申しましたように、この自由に生きることは決して簡単ではありません。洗礼を受け、信仰者として生きている者たちも、ともすればその自由を失い、私たちを虜にしようとしている様々な力や人間の思いの奴隷になってしまいます。自由に生きることほど難しいことはない、むしろ一定の道徳律でも与えてくれた方が楽だ、ということを私たちは日々実感させられていくのです。けれども主イエス・キリストは、私たちを何かの掟で縛ろうとは決してなさらず、あくまでも解放と自由を与えようとなさるのです。なぜならそれこそが本当の救いであり、本当の恵みだからです。掟や戒律を守ることによって得られる救いは本当の救いではありません。それは結局自分の力や努力で得ることができる救いであって、ということは神様が与えて下さる救いではなくて、人間が考え、作り出した救いです。主イエス・キリストは、神様が恵みによって与えて下さる本当の救いを実現するためにこの世に来て下さいました。ひっくり返して言えば、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、ベツレヘムの馬小屋で、一人の人間として生まれて下さったからこそ、神様の恵みによる本当の救いが実現したのです。人間が努力して何らかの道徳律を守っていけば救いにあずかれるのなら、主イエスがお生まれになる必要はなかったのです。しかし私たちが罪の支配から本当に解放され、自由に生きるためには、神様の独り子が人間となり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることが必要だったのです。クリスマスは、私たちにこの本当の解放と自由を与えるために、主イエス・キリストがこの世に来て下さったことを喜び祝う時なのです。
主の恵みの年を告げる
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは言われました。主イエスがこの世に来られ、活動を開始なさったことによって、福音の約束が実現したのです。しかしこの「今日」とは何時のことなのでしょうか。私たちはこの「今日、あなたがたが耳にしたとき」という言葉を、主イエスがナザレの会堂で説教をなさったこの日、という意味に捉えるべきではありません。むしろこれは私たち一人一人への語りかけであると読むべきです。つまりこの聖書の言葉は、今から千九百何十年前に主イエスがナザレに来られた日に実現したのではなくて、今日、私たちが、この主イエスの宣言を耳で聞き、主イエスこそ私たちに解放と自由を与えて下さる救い主であられると心で信じ、その信仰を言い表わす、その時に実現するのです。つまり私たちが信仰を告白して洗礼を受けるその時に、主イエスが宣言して下さった解放と自由が私たちに実現し、私たちが生きている今この時が、そして間もなく迎えようとしている新しい年が、「主の恵みの年」となるのです。私たちは今、不安に満ちた暗い思いで年末年始を迎えようとしています。金融危機による不景気が私たちの生活を直撃し、多くの人々が仕事を失い、生活の糧を失ってしまうという重苦しい不安がこの社会を覆っています。私たちは様々な恐れに捕えられ、不安にかられて見つめるべきものを見つめることができなくなり、様々なこの世の力によって圧迫されています。しかしそのような私たちのもとに、神様は、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、福音を告げ知らせ、主イエスによる解放と自由とを実現して下さり、主の恵みの年を告げて下さっているのです。クリスマスを喜び祝い、私たちの所に来て下さった主イエスをお迎えすることによって、私たちは、主の告げて下さる恵みの年へと、勇気をもって歩み出していくことができるのです。