主日礼拝

幸いな者

「幸いな者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章39-56節
・ 讃美歌: 3、179、457

そのころ、急いで
 先週の礼拝においては、マリアに天使が現れ、あなたは神様の力によってみごもり、救い主イエスの母となると告げた、いわゆる「受胎告知」の場面をご一緒に読みました。本日の39節以下はその続きです。冒頭の「そのころ」という言葉が、先週のところとのつながりを示しています。「そのころ」とはいつ頃でしょうか。それは、マリアが天使のお告げを受けたそのころですが、それは先週の箇所の冒頭の26節によれば「六か月目」のことです。何から六か月目かというと、先週申しましたように、ザカリアの妻エリサベトが洗礼者ヨハネを身ごもってから六か月目です。エリサベトの妊娠期間の後半に入った頃、今度はマリアが主イエスを身ごもるというお告げを受けたのです。天使はそのお告げの中で、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」と言いました。マリアは、自分はまだ婚約者ヨセフと一緒に暮らしていません、それなのに子供が生まれるなどということがどうしてありえましょうか、と言ったのです。それに対して天使は、エリサベトが、不妊の女と言われていて、もう年を取っているのに、今や妊娠六か月目に入っていることを示して、神にできないことは何一つない、と語ったのです。マリアはそれに対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。天使が告げたみ言葉が自分に実現することを信じて、その結果起る全てのことを受け入れたのです。そして、このお告げを受けたマリアは、直ちに、エリサベトに会いに行ったのです。「急いで」とあります。マリアは、ひとときもぐずぐずしていられなかったのです。矢も楯もたまらず、取る物も取り敢えず、エリサベトのもとに急いだのです。それが「そのころ、急いで」と語られていることの意味です。

エリサベト訪問の意味
 「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが住んでいるのはガリラヤの町ナザレです。ザカリアとエリサベト夫妻の住む「ユダの町」がどこなのかは分かりません。しかしザカリアはエルサレム神殿の祭司なのですから、エルサレムからそんなに離れた所ではなかったでしょう。ガリラヤのナザレからユダのエルサレムの近くまでというのは、聖書の付録の地図を見ていただけば分かりますが結構な距離です。ちょっとそこまで、というわけにはいきません。急いでも数日はかかるのです。当時の旅には危険がつきものです。しかもマリアは14歳ぐらいの若い女性です。それでもマリアは出かけたのです。マリアはなぜそんなに急いでエリサベトに会いに行ったのでしょうか。その気持ちは想像してみることができます。マリアはある日突然神様に選ばれ、とてつもなく大きな使命を与えられたのです。神の子と呼ばれる救い主イエスの母となる、という使命です。しかもそれはヨセフと結婚することによってではなくて、聖霊の力によって、まだ一緒になる前に妊娠するということでした。神様はとんでもないことを彼女に求めてこられたのです。しかし彼女はそれを受け入れました。「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。それはすさまじい信仰の決断です。後に、主イエスに「私に従って来なさい」と声をかけられた弟子たちが従って行ったのと同じような大きな信仰的決意を彼女はしたのです。それは勿論神様の導きによってできたことですが、彼女がその決意をするための一つの支えとなったのが、天使が語った、親類であるエリサベトのことでした。不妊の女と言われて年をとっていたエリサベトが、神様の力によって子供を与えられたのです。神様はそのように、人間の常識や力を超えて働き、恵みのみ業を行って下さる、その神様の力の目に見える印として、エリサベトのことが示されたのです。マリアが、そのエリサベトと直接会って、神様の力あるみ業をこの目で見て確認したいと思ったのは当然のことでしょう。また、エリサベトは、神様のみ心によって子供を授かり、今その子をお腹の中に宿しています。マリアがこれから体験しようとしていることを、一足先に体験しているのです。神様に選ばれ、み業のために用いられている信仰の先輩です。その人と直接合って話がしたい、同じように神様に白羽の矢を立てられ、子供を産もうとしている者どうし、語り合いたいと思うのも当然のことです。マリアはそのような思いで、エリサベトのもとに急いで出かけて行ったのです。

急いで見に行く
 このようにマリアにしてみればエリサベトの所へ行くのは当然のことだったのですが、私たちはそこから一つの大事なことを教えられると思います。それは、神様が示して下さる具体的な恵みの印を「急いで見に行く」ことの大切さです。この後第2章には、主イエスの誕生の出来事が語られていきますが、その中に、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が救い主の誕生を告げたという話があります。「飼い葉桶に寝ている乳飲み子こそがあなたがたへのしるしである」と告げられたあの羊飼いたちは、その乳飲み子イエスに会うために、「急いで行った」のです。この羊飼いたちの姿と、本日の箇所におけるマリアの姿とは重なります。天使のお告げを受け、神様の恵みの具体的な印を示されたなら、「急いで行って」それを見るのです。「そのうちいつか時間ができたら行きます」ではなくて、また、「別に見なくてもいいです。言葉で聞けばそれで十分です」などと、一見信仰深そうで実は無関心の現れでしかない言葉を吐くのではなくて、神様が示して下さること、その印を、急いで出かけて行ってこの目で見る、そういう積極的な姿勢を持つことが、信仰においてはとても大事なのです。私たちそれぞれの歩みにおいて、この「急いで行く」ということがどのようなことに当たるのかは、人によって様々でしょう。しかし誰の場合にも求められているのは、積極的に求めていくことです。主イエスは「求めなさい、そうすれば与えられる」とおっしゃいました。マリアのように、またあの羊飼いたちのように、神様が与えて下さる恵みの印を見ることを積極的に求めていきたいのです。そこには必ず、私たちの思いを超えた恵みが、具体的に示されていくのです。

二人の女と二人の子ども
 マリアがザカリアの家に入り、エリサベトに挨拶をした時、エリサベトの胎内の子がおどった、と41節にあります。するとエリサベトは聖霊に満たされて語り始めました。彼女が語ったことは先ず、「あなたは女の中で祝福された方です」というマリアへの祝いの言葉でした。なぜマリアが祝福された者なのか、それは「胎内のお子さまも祝福されています」とあるように、マリアが祝福された子を宿しているからです。つまりエリサベトは、マリアが聖霊によって神の子を宿していることを知っているのです。それは既にマリアの妊娠を聞かされていたということではなくて、聖霊によって示されたことです。エリサベトは、マリアの挨拶を聞いた時に、この人も自分と同じように、聖霊の大きな力によって子を宿し、産むために神様に選ばれた人なのだ、ということを知らされたのです。しかもエリサベトは、自分の胎内にいる子と、マリアの胎内に宿ったばかりの子がどのような関係にあるのかをも示されたのです。「わが主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」という言葉にそれが示されています。マリアの胎内の子は、「わが主」であると彼女は知っているのです。それは、自分が生む子ヨハネが、「主に先立って行き、準備のできた民を主のために用意する」者となるという夫ザカリアへの天使のお告げに基づくことです。ヨハネは「わが主」に先立って歩み、その到来の準備をする者となる、その後に来られる「わが主」、救い主が、マリアの胎内に宿っているのです。エリサベトにそのことを示したのは、他ならぬ彼女の胎内の子ヨハネでした。それが「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」ということです。マリアの挨拶を聞いた時、胎内のヨハネがおどった、それは、ヨハネ自身が、この人の胎内に宿っている子こそ、自分がその露払いとして道備えをする救い主だと彼女に告げたということだったのです。このようにここには、神様に選ばれ、その偉大な力によって子を宿している二人の女性の出会いが語られていますが、そこに既に、この二人の胎内にいる二人の子どもの関係、洗礼者ヨハネと救い主イエスの関係が示されているのです。エリサベトは、エルサレム神殿の祭司の妻であり年配の人です。それに対してマリアは、ガリラヤの田舎の若い村娘に過ぎません。社会における立場からすれば、エリサベトの方がずっと上であり、敬意を持たれるべき人なのです。そのエリサベトが、マリアを「あなたは女の中で祝福された方」と賛美し、「わが主のお母さま」と呼んで敬意を払っているのは、このヨハネと主イエスの関係によることなのです。

マリアとエリサベトの信仰
 このようにエリサベトは、マリアの胎内に宿っている子のゆえにマリアに敬意を表していますが、45節においては、マリア自身の信仰が見つめられています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。マリアは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」のです。それが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉の意味でした。神様がお語りになった恵みのみ言葉は必ず実現する、たとえそれが人間の常識や理解を超えたものであっても、神様の力によってそれは必ず現実となるのだと信じたゆえに、マリアはあのように言ったのです。マリアが祝福された者、幸いな者であるのは、この信仰によってです。エリサベトはこのマリアの信仰を称えているのです。  しかしこの45節は違ったふうにも訳すことができます。昔の文語訳聖書ではこうなっていました。「信ぜし者は幸福(さいはひ)なるかな、主の語り給ふことは必ず成就すべければなり」。この訳では、「主の語り給ふことは必ず成就すべければなり」は、マリアが信じたことの内容を語っているのではなくて、信じたマリアは幸いであるとエリサベトが語ることの理由です。エリサベトはマリアに、「信じたあなたは幸いです。なぜなら、主がお語りになったことは必ず成就するからです」と語ったのです。このように読むなら、「主がおっしゃったことは必ず実現する」は、マリアのではなくてエリサベトの信仰だということになります。エリサベトはその信仰に基づいてマリアを祝福し、励ましたのです。この二つの読み方は、両方とも正しいと言えるでしょう。つまり「主がおっしゃったことは必ず実現する」というのは、マリアの信仰であると共にエリサベトの信仰でもあるのです。人間の思いを超える神様のみ力によって子を宿した彼女らは、共に、主がおっしゃったことが実現することを自分の体で体験させられているのです。その信仰によって、彼女らは二人共、「幸いな者」となっているのです。

主を大きくする
 46節以下に語られているいわゆる「マリアの賛歌」は、このエリサベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉を受けて語られているものです。「あなたは幸いな人です」と告げられたマリアが、それを受け止め、「そうです、私は幸いな者です」と歌っているのです。マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い出しました。「あがめ」という言葉が冒頭に来ていて、それは原文で「マグニフィカート」という言葉なので、この「マリアの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれています。その意味は「大きくする」です。「主を大きくする」それが「主をあがめる」の意味なのです。「主を大きくする」それは、自分を小さくする、ないしは自分の小ささを認める、ということです。自分を大きくし、自分の大きさを主張している間は、主を大きくすることはできません。神様をあがめるためには、自分の小ささを認めてへりくだることが必要なのです。マリア自身がそれをしていることが、48節の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉に現れています。マリアは自分のことを「身分の低い主のはしため」と呼んでいるのです。「身分の低い」という言葉は、社会的地位や出自を語る言葉として用いられますので、このように訳すと、聖書もそういうことにこだわっているのか、という印象を与えてしまうかもしれません。しかしこれは「主のはしため」と結びついている言葉なのであって、見つめられているのは社会における地位ではありません。神様との関係において卑しい僕である自分ということです。神様を大きくする、ほめたたえることは、社会的地位の如何にかかわらず、自分自身をこのように神様の僕として位置づけることなのです。
 しかしマリアはここで、自分は神様のはしためです、とへりくだっているだけではありません。その自分に主が「目を留め」て下さったのです。49節の言葉で言えば、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」ということです。神様のみ前で低い者、卑しいはしためでしかない自分が、神様に選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神様の恵みのみ業を担う者とされたのです。マリアはそこに自分の幸いを見ています。このことのゆえに、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言っているのです。つまりマリアが幸いな者であるのは、神様のみ前で卑しい、ちっぽけな者でしかない自分に主が目を留めて下さり、つまり選んで下さって、そのみ力によって偉大なことをして下さり、み業のために用いて下さったからなのです。この幸いのゆえに、彼女は神様をあがめ、大きくしているのです。

神を喜ぶ
 「わたしの魂は主をあがめ」と並んで、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とあります。主なる神様をあがめ、大きくすることは、救い主である神様を喜びたたえることでもあるのです。「喜びたたえる」と訳されていますが、これはもっと単純に「喜ぶ」という言葉です。「私の霊は救い主である神を喜びます」と言っているのです。神様をあがめることは、神様を喜ぶことでもあります。私たちの信仰の根本には、神様を喜ぶ喜びがあるのです。苦虫を噛み潰したような難しい顔をして生きることが信仰なのではありません。信仰に生きるとは、神様を喜ぶ喜びに生きることなのです。この喜びは、先ほどの「幸い」と結びついています。卑しい、ちっぽけな者でしかない自分に神様が目を留めて下さり、そのみ力によって偉大なことをして下さり、み業のために用いて下さる、マリアはその幸いを味わっていたからこそ、「私の霊は救い主である神を喜びます」と歌ったのです。神様を喜ぶというのは、神様を自分の好きなように利用して楽しむことではありません。自分が神様の主人になるのではなくて、神様の僕、はしためとなって、み業のために用いていただくことにこそ本当の幸いが、そして喜びがあるのです。自分を小さくして神様を大きくする喜びと言ってもよいでしょう。それゆえに、「わたしの魂は主をあがめ」と、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」が並んでいるのです。

私たちも「幸いな者」に
 さてマリアはこのように、取るに足りないちっぽけな者である自分に神様が目を留めて、恵みのみ業のために用いて下さることを喜び、自分が幸いな者であることを感謝して、神様をあがめ、ほめたたえていますが、彼女が歌っているのはその自分の幸いだけではありません。自分に与えられた幸いが、これからも、神様を信じて生きる多くの人々に与えられていくことを語っているのです。それが50節以下です。50節に「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。取るに足りない自分を用いて下さる神様の憐れみは代々限りなく、主を畏れる者、つまり神様を信じ従う人々に及んでいくのです。マリアだけではなくて、神様を信じて生きる信仰者たちは皆、「幸いな者」となるのです。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」というのも、マリアのことが「幸いな者」として記憶されるというだけではなくて、今から後、いつの世にも「幸いな者」が現れる、その人々が、自分たちが受けている幸い、喜びに最初にあずかった人としてマリアのことを思い起こしていく、ということでしょう。つまり私たちが、マリアと共に幸いな者となるのです。マリアの賛歌を読むことの意味はそこにあります。マリアの信仰に感心しているだけでは意味がないのです。私たち一人一人も、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌いつつ生きる者となることが、この賛歌が歌われた目的なのです。

悔い改め
 私たち自身がマリアと共に「幸いな者」となるとは、どのようなことを体験していくことなのでしょうか。それが51~53節に語られています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。主なる神様が憐れみによって私たちに目を留め、そのみ腕で力を振るって下さる時、このようなことが起るのです。思い上がる者が打ち散らされ、権力ある者がその座から引き降ろされ、身分の低い者が高く上げられる、とあります。権力ある者と身分の低い者との立場が逆転するのです。これを、社会的な地位の大逆転が起り、要するに革命が起る、と読むのは間違いです。「思い上がる者を打ち散らし」とありますが、「思い上がる者」は口語訳聖書では「心の思いのおごり高ぶる者」となっていました。こちらの方が原文のニュアンスを表しています。「心の思いにおいて高ぶっている者」というのが直訳です。つまりこれはただ社会的に高い地位や権力を握っている者のことではなくて、心がおごり高ぶっている者なのです。そういう者が打ち散らされ、「身分の低い者」が高く上げられる。その「身分の低い」は先ほどの「身分の低い、この主のはしためにも」と同じ言葉です。つまりこれも先ほどと同じように社会的な地位、身分のことではなくて、神様のみ前でちっぽけな、取るに足りない者のことです。心がおごり高ぶっている者ではなくて、自分が小さい、取るに足りない者であることを知っている者こそが神様によって用いられる、それこそがマリアが体験したことでした。私たちの間で主がみ腕で力を振るって下さる時にもこれと同じことが起るのです。「心がおごり高ぶっている」とは、自分は神様の前でひとかどの、大きな者だと思うことです。自分の力で何かを成し遂げることができると思うことです。神様はそのような者ではなくて、自分が貧しい取るに足りない者であることを受け入れ、自分の力では何も出来ないことを知っており、それゆえに神様により頼む者をこそ用いて、み業を行われるのです。自分を小さくして、神様をこそ大きくする、それが「私の魂は主をあがめ」ということでしたが、主がみ腕で力を振るわれる時に私たちはまさに、自分を大きくする者から、神様を大きくする者へと悔い改めを与えられるのです。その悔い改めによってこそ私たちは「幸いな者」となるのです。「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」というのもそれと同じことを言い表しています。飢えた人とは、自分の中に何の富も豊かさも持っておらず、自分で自分を養うことができない人です。だからただ神様に頼り、お願いするしかないのです。神様はそのような者をこそ、良い物で満たして下さいます。神様の憐れみによって養い、育んで下さるのです。富める者はその反対です。自分が豊かだと思い、大きな者だと思い、自分の持っているものでやっていけると思っている人、そのような人は神様からの良い物、恵みを受けることができず、「幸いな者」として歩むことができないのです。私たちが「幸いな者」となるためには、このように自分を大きくする心の思い上がりを打ち砕かれ、自分の力やよい行いによって立派な者、大きな者となることができるという思いを悔い改めて、貧しいちっぽけな私に目を留め、用いて下さる神様の恵みによって生きる者となることが必要なのです。

神の憐れみ
 つまり、幸いな者として生きるとは、神様の憐れみによって生かされる者となることです。「神様の憐れみ」こそが、マリアの賛歌の基本的なメロディーです。50節には「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあり、54節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。そして55節には、この憐れみが、イスラエルの民の最初の先祖アブラハムに与えられた神様の約束に基づくものであることが語られています。神様がその僕イスラエルを受け入れて憐れみによって生かし、導いて下さるのは、神様がアブラハムとその子孫に与えて下さった約束に忠実であって下さるからなのです。神様の憐れみは人間の罪や悲惨さに対する単なる同情ではありません。それは神様の約束に基づくものです。神様はこの憐れみの約束を果たすために、今や、独り子イエス・キリストをこの世に遣わそうとしておられるのです。マリアはその神様の憐れみの約束の実現のために選ばれ、用いられたのです。そこに彼女の幸いがありました。私たちも、主イエス・キリストによって実現した神様の憐れみのみ心によって生かされ、そのみ心のために用いられていくことによって、「幸いな者」となるのです。

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