夕礼拝

強く、雄々しくあれ

「強く、雄々しくあれ」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第1章1-18節
・ 新約聖書:使徒言行録 第18章1-11節
・ 讃美歌:141、517

第一部から第二部へ
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いております。先月で申命記を終え、本日からヨシュア記に入ります。2003年9月に私がこの教会に着任して、その月から夕礼拝において創世記の始めから読み始め、まもなく14年が終わろうとしていますが、14年かけて、モーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を終えたのです。
 今モーセ五書と言いました。旧約聖書の最初の五つの書物をそう呼びます。伝説によればこれらは全てモーセが書いたとされています。そしてこのモーセ五書が、旧約聖書の第一の区分です。旧約聖書は三つの部分に分けられます。第一はモーセ五書、それを「律法」と呼びます。第二は本日入るヨシュア記から始まる「預言者」と呼ばれる部分です。そして第三は「その他」です。第二の部分と第三の部分は私たちの読んでいる旧約聖書においては混在しているので、ここまでが第二部でここからが第三部とはなっていません。しかし第一部と第二部の境目ははっきりしています。申命記で第一部が終わり、ヨシュア記から第二部が始まるのです。

申命記に基づいて語られていく歴史
 つまり本日から私たちは、旧約聖書の第二の部分を読み始めるわけですが、しかしこのヨシュア記は申命記と深くつながっています。そもそも1章1節に「主の僕モーセの死後」とありますが、モーセの死は申命記の最後に語られていたわけで、この1節はヨシュア記が申命記の続きであることを意識しているのです。そういう話の繋がりだけでなく、ヨシュア記には申命記と同じことが語られているところが多々あります。例えば本日の1章には、ヨシュアに対して「強く、雄々しくあれ」という勧めが繰り返し語られていますが、それは申命記31章7、8節でモーセが民の前でヨシュアに語った言葉です。モーセはそこで、「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」と言いました。またヨシュア記1章7節に「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」とありますが、これは申命記5章32、33節の言葉「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる」、さらには29章8節「あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する」と重なるものです。このようにヨシュア記は申命記と深い繋がりを持っています。そしてそれはヨシュア記のみではなくて、この後のサムエル記、列王記にも共通していることです。そのためにヨシュア記、サムエル記、列王記のことを「申命記的歴史書」と呼びます。これらの書はイスラエルの民の歴史を、申命記の信仰に基づいて見つめ、解釈しているのです。このように、申命記とヨシュア記は内容的にも自然に繋がっているのです。

モーセの後継者ヨシュア
 さてヨシュア記の主人公は言うまでもなくヨシュアです。彼がモーセの死後、その後を継いでイスラエルの民の指導者として立てられ、彼らを約束の地へと導いていきました。ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、約束の地カナンに入り、それぞれの部族が領土を得るに至るまでのことがこのヨシュア記に語られているのです。ヨシュアとはどんな人だったのでしょうか。彼が最初に登場するのは、出エジプト記の17章です。エジプトを出たイスラエルの民が、シナイ半島のレフィデムという所でアマレク人と戦った時、ヨシュアはモーセの命を受け、戦いを指揮したのです。また出エジプト記24章では、彼はモーセの従者として神の山ホレブに共に登っています。出エジプト記33章11節には、民の礼拝の場であり、神が民の中に臨む場所である「臨在の幕屋」の傍らに彼が常に留まり、それを守る働きをしていたことが語られています。また民数記13、14章には、約束の地カナンがどのような地であるのかを探るために各部族から一人ずつ選ばれた偵察隊の中に彼の名があります。そこには彼が元々「ホシェア」という名だったがモーセが「ヨシュア」と呼んだ、ということも語られています。偵察に派遣された人々はカナンの地が大変豊かな良い地であることを告げましたが、そこには既に強そうな民が沢山住んでおり、そこを攻めて占領するのは困難だと言って人々の気持ちを落ち込ませました。しかしその中でヨシュアとカレブだけは、主がこの地を我々に与えて下さるのだから大丈夫だ、と主への信頼を語ったのです。このようにヨシュアは常にモーセの傍らにあり、モーセの忠実な従者として、主なる神がイスラエルの民を導いてきて下さったその一部始終を見てきたのです。ですからこのヨシュアがモーセの死後、その後を継いだのは当然のことだと言えるでしょう。

主の任命
 けれども、ヨシュアがどんなに優れた人であり、モーセの側近だったとしても、イスラエルの民の指導者となることができるのは、主なる神が任命して下さることによってです。イスラエルは主の民であり、その指導者は主がお立てになるのです。モーセがヨシュアを後継者として任命したのも、主なる神のみ心によることでした。このヨシュア記1章で、そのみ心が神からヨシュアに直接示され、語られたのです。それが2節です。主はこう言われました。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」。主なる神のこのみ言葉があって初めて、ヨシュアはモーセの後を継ぎ、民の指導者としての働きをなすことができるのです。神の民の指導者は、その人の実力によって、あるいは人々がその人を選ぶことによって生まれるのではありません。神がその人を選んでお立てになる、それが全てなのです。

ヨシュアへの主の命令
 ところで神がヨシュアにお命じになったことは何だったのでしょうか。それは、この民を指導し導け、ということではありませんでした。神は「今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい」とおっしゃったのです。ヨルダン川を渡って約束の地に行くこと、それがヨシュアに与えられた命令でした。しかもそれは、あなたの知恵と力と工夫によってその地を獲得せよ、という命令ではありません。ただ「川を渡ってそこへ行け」と言われているのです。しかしその地には多くの先住民がおり、堅固な町々があります。誰もいない所に入って行って住むわけではありません。この後ヨシュア記に語られていくように、そこに入るには、そこに住んでいる人々と戦ってその地を占領しなければならないのです。しかしここにはただ「そこへ行け」とのみ言われています。またヨシュア自身も、神がお命じになったことを人々にこのように告げています。11節です。「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。おのおの食糧を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る」。これも、事もなげな言い方です。ヨルダン川を渡ってその地に入ればそこを得ることができる、という感じです。これは決して、人々が恐れて気持ちが動揺することを防ぐためにヨシュアがわざと事もなげな語り方をしたのではありません。この彼の言葉は、3節において主が彼に語られた言葉に基づいているのです。3節に「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」とあります。これは、神がイスラエルの民にこの地を与えると約束しておられる言葉のように感じられます。しかし原文を読むと、これは単なる約束の言葉とは違うのです。「与える」と訳されていることが問題です。原文においてこの言葉は完了形になっています。つまり、もう既に起ったこととして語られているのです。それを生かして訳しているのは新改訳聖書です。新改訳では3節は「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」となっています。また多くの英語の聖書もここに現在完了形を用いています。つまり神はここで、あなたがたが入っていくその地を与えるであろう、という約束を語っているのではなくて、その地を私は既にあなたがたに与えている、と言っておられるのです。神はこの地を既にイスラエルの民に与えている、だから彼らはそこに入るだけでよいのです。それを自分の力や才覚で獲得する必要はないのです。「入って、得る」という事もなげな言い方がなされているのは、主なる神が既にこの地を彼らに与えてしまっておられるからなのです。

「既に」と「未だ」の間を生きる
 しかし現実においては、そこはまだ彼らのものとなってはいません。彼らはまだその地の外におり、その地に一坪の土地も得てはいないのです。これから苦しい戦いによってその地を獲得していかなければならない、それが彼らが直面している現実なのです。神はそのことを忘れてしまっているわけではありません。2節には「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地」と言われています。こちらの方は、これから与えようとしている、ということです。ですからここには、神が既にこの地を与えておられる、ということと、これから与えようとしておられる、ということが共に見つめられ、語られているのです。それは「既に」と「未だ」が共に見つめられ、語られているということです。目に見える現実においては「未だ」与えられていないけれども、神は「既に」与えたと言っておられる、その「既に」と「未だ」の間を彼らは歩んでいったのです。それが、神の民としてのイスラエルの歩みであり、主イエス・キリストを信じる信仰者としてこの世を生きて行く私たちの歩みでもあります。私たちも、主イエスによる救いを信じる信仰において、同じように「既に」と「未だ」の間を歩むのです。そのことをよく言い表しているのが、ヨハネによる福音書第16章33節の主イエスのお言葉です。主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とおっしゃいました。「あなたがたには世で苦難がある」、それが私たちの目に見える現実です。私たちの救い、神の恵みの勝利は、目に見える仕方では未だ実現していないのです。だから私たちにはなお苦しみがあるのです。しかし主イエスは「わたしは既に世に勝っている」とおっしゃっています。主イエスが既に勝利しておられる、神の恵みの力が、私たちの罪と死とに既に勝利しているのです。その勝利は、主イエスの十字架の死と復活によって既に実現しています。この「わたしは既に世に勝っている」というみ言葉を信じて、未だ苦難のあるこの世を、勇気を出して生きていくのが信仰者の生活です。約束の地を目前にしているイスラエルの民が置かれていたのもそれと同じ状況なのです。彼らは「わたしはこの地を既にあなたがたに与えている」というみ言葉を信じて、現実には未だ自分たちのものとなっていないこの地に入って行くのです。

自分の足の裏で踏みしめていく中で
 それは、「未だ」という現実を「既に」というみ言葉に結びつけるための歩みだと言うことができます。しかしそれは、自分の力で現実をみ言葉に合うように変えて行くということではありません。そんな力は私たちにはありません。イスラエルの民に求められていたのもそういうことではありませんでした。「あなたたちの足の裏が踏む所をすべて」と言われていることに注目したいと思います。イスラエルの民は、ヨルダン川を渡って約束の地に入り、その地を自分の足の裏で踏んでいくことを求められているのです。そのように彼らが足の裏で踏む所がすべて彼らのものとして与えられる、いや、先程申しましたようにその所が既に与えられているのです。つまり彼らが約束の地を行き巡り、自分の足の裏でそこを踏んでいくことを通して、神が既にこの地を彼らに与えて下さっているという今はまだ隠されている事実が明らかになっていくのです。既にこの地を与えている、というみ言葉を信じて、苦難があるこの世の現実の中を歩んでいく、そのことによって、隠された神の勝利の事実、「わたしは既に世に勝っている」という事実が明らかになっていくのです。それが、約束の地へと入っていくイスラエルの民の歩みであり、主イエス・キリストによる救いを信じて生きていく私たちの信仰の歩みなのです。既にこの地を与えている、という恵みのみ言葉を信じて、目に見えるこの世の苦しみの現実を自分の足で踏みしめつつ歩んで行く中で、主イエスの勝利の事実に気づかされていく、私たちは信仰の歩みにおいてそういうことを体験しているのではないでしょうか。またそれを体験していくためには、私たちは、自分に与えられているこの現実、苦難のあるこの世の現実を、み言葉を信じて一歩一歩、自分の足の裏で踏みしめていかなければならないのです。それは困難な、苦しい歩みです。しかし苦しみつつ自分の足の裏で踏みしめて歩む中で、その地が与えられていく、いやその地が主によって既に与えられていることに気づかされていく、私たちはそのようにして神の恵みを一歩一歩体験させられていくのです。

主はあなたと共にいる
 イスラエルの民が約束の地に入り、そこを得ていったのはそのような歩みによってでした。そしてその歩みの指導者、導き手としてヨシュアが立てられたのです。そのヨシュアに神から与えられた約束と激励のみ言葉が5~9節です。そこをもう一度読んでみます。
「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
 ヨシュアに求められていることは、モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれないことです。8節にある「この律法の書」というのは申命記のことであると思われます。申命記にも、律法の言葉を昼も夜も、家においても道を歩いているときにも心に留めるようにと語られています。それほどまでして律法の言葉を心に留めるのは、細かい規則をしっかり覚えて少しでも違反することのないように、ということではなくて、主なる神が自分たちをエジプトの奴隷状態から救い出して下さり、神の民として下さり、約束の地へと導いて下さる、その恵みと約束を常に心に留めて歩みなさい、ということです。律法は神が彼らを神の民として導いて下さっている恵みを語り示すみ言葉なのです。そのみ言葉を心にしっかり刻みつけて、苦しみの多い、神の恵みを見失ってしまいそうになるこの世の現実の中を歩んで行きなさい、ということです。そのように恵みのみ言葉を信じて歩んでいく者に、主なる神が常に共にいて下さるのです。5節に「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」とあります。9節にも「あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる」と言われています。神が共にいて下さるという約束が、信仰をもって生きる私たちに与えられているのです。それは、私たちがみ言葉を心に刻み、「わたしは既に世に勝っている」という隠された事実を信じて、未だ苦しみの多い、神の勝利が見えないこの世の現実の中を、一歩一歩自分の足の裏で踏みしめつつ歩んでいく、その歩みに主が共にいて下さり、そこで恵みをあらわに示して下さり、この地が既に与えられていることを確認させていって下さるということです。この「わたしはあなたと共にいる」という恵みのゆえに、私たちは「強く、雄々しく」あることができるのです。「強く、雄々しくあれ」というのは、私たちの性格をもっと強くせよ、苦しみに負けない強い心を持て、ということではありません。強さ、雄々しさは私たちの中から出て来るのではなくて、主から与えられるのです。既にこの地を与えている、というみ言葉を信じる信仰によって、未だ与えられていない約束の地を歩んでいく、その苦難の歩みを主が共にいて守り支えて下さることによって、私たちは強く、雄々しく歩むことができるのです。

強く、雄々しくあれ
 本日共に読まれた新約聖書の箇所は、使徒言行録の第18章です。ここはパウロのコリントでの伝道の様子を語っている所です。その最後の所、9節以下に、主なる神が幻の中でパウロに現れて語られたみ言葉があります。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。主がパウロに求めたのは、「黙ってしまうことなく、み言葉を語り続け、主イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けよ」ということです。パウロにとってはそれが、自分の足の裏でこの地を踏みしめていくことでした。そのパウロに主は、「わたしがあなたと共にいる」と約束して下さったのです。主が共にいて下さることによってパウロの伝道は進んでいきます。それはパウロが人を導いて主なる神の民とする、ということではなくて、「この町には、わたしの民が大勢いる」、つまり神がもう既にこのコリントの町に、神の民、主イエスを信じて救いにあずかる者たちを立てて下さっているのです。それはまだ目に見えていない、隠されていることです。しかし神は既にそうしておられる。パウロの伝道は、その隠された事実を明らかにしていくことでした。神が既に選び、立てておられる信仰者を見出していくことが伝道なのです。その働きを主が共にいて導いて下さるのです。だから「恐れるな」、「強く、雄々しくあれ」と主は言っておられるのです。私たちも、それぞれに与えられている人生において、主が既に与えて下さっている恵みを見出していく信仰の歩みを、共にいて下さる主に支えられて、強く、雄々しく歩み続けていきたいのです。

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