主日礼拝

僕となられる主

「僕となられる主」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エレミヤ書 第31章18ー20節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第13章1ー11節
・ 讃美歌; 17、202、481

 
愛しぬかれた
 本日の箇所には、主イエスが弟子たちの足を洗ったという出来事が記されています。足を洗うということを通して、弟子たちに対する愛をお示しになられたのです。13章の1節には、「さて、過越祭の前のことである」とあります。過越祭とは、かつてイスラエルの民が神様によってエジプトの地から脱出させられたことを記念する祭です。エジプトを脱出する際、神様は、屠った子羊の血を入り口の柱と鴨居に塗っておくように命じました。命じられた通り犠牲の子羊の血が塗られた家を、主は撃つことなく、すなわち滅ぼすことなく過越したのです。エジプトの民だけ撃たれ、イスラエルの民はエジプトを脱出することが出来たのです。ヨハネによる福音書では、主イエスは過越祭の時に殺されたことになっています。主イエスが過越しの時の、犠牲の子羊と重ねられているのです。主イエスは、この時、多くの人々の罪の贖いとしての死を目前に控えているのです。  1節では続けて、「イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」とあります。ご自身の死をはっきりと意識しつつ、弟子たちを愛されたのです。ただ愛したというのではなく、「愛して、この上なく愛しぬかれた」と言う激しい表現が用いられています。私たちは、愛する人との別れを経験する時、もう二度とその人と会うことが出来ないことが分かっているとするならば、その人に出来得る限りの愛情表現をするのではないでしょうか。主イエスも、この地上を去らなければならないという現実を悟って、尽きることのない愛情を弟子たちに表されたのです。「この上なく愛し抜かれた」という言葉には「最後まで愛し通された」という意味があります。「最後まで愛し通す」とういのは途中で途絶えないということです。主イエスは、もうすぐ弟子たちと地上で一緒に歩めなくなってしまいます。しかし、たとえ、ご自身が弟子たちから離れたとしても、そのことによって、主イエスによって示される神の愛が途絶えてしまうのではありません。世の終わり、すなわち神様による救いの御業が完成する時まで続くのです。私たち人間の愛というのは最後まで続くということはありません。死をもって愛の関係は途絶えてしまいます。ここでは、そのような限りがある人間の愛が見つめられているのではありません。主イエスが弟子たちに注ぎ、今も私たちに注がれ、これからも続いて行く神の愛が見つめられているのです。そして、そのような愛を具体的に示すために主イエスがなさったことが、本日の箇所に記された、足を洗うということにほかなりません。

足を洗う
 2節には、「夕食の時であった」とあります。主イエスが弟子たちの足を洗ったのは、過越祭において守られる食事の席でのことでした。これは、主イエスがこの世で、弟子たちと囲んだ最後の食事で、所謂、「最後の晩餐」と言われているものです。ヨハネによる福音書以外の、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書も、最後の晩餐の記事を記しています。それらの福音書を見ると、この食卓で主イエスが聖餐を制定されたことが記されています。しかし、ヨハネは聖餐について記さず、むしろ、主イエスが弟子の足を洗ったということを記したのです。その様子が3節~5節に記されています。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。最初の部分から分かることは、主イエスが、神と等しい方であり、神の子であることをしっかりと受けとめていたということです。主イエスは、自らが神と等しいことを知っていて、威厳を示して弟子たちを仕えさせたというのではありません。神の子であることを受けとめた上で、むしろ、弟子たち一人一人の前に行き、身をかがめて足を洗ったのです。当時は、足を洗うということが一般的でした。現代のようにしっかりとした靴があったわけではありません。サンダルのようなもので舗装されていない道を歩くのですから、外を歩けば砂埃で足はすぐに汚れてしまいます。足は、体の中で、最も汚い部分なのです。ですから、家に入る前には、当然足を洗うのです。この行為は、主イエスがどのような方であるかを象徴的に表しています。当時、足を洗うというのは奴隷の仕事でした。しかも、ただの奴隷ではなく、異邦人の奴隷にのみさせていた仕事のようです。それは、あらゆる仕事の中で最も卑しいものとされていました。主イエスは自ら、そのような仕事をし、僕となってご自身の弟子たちに仕えたのです。ここには逆転があります。本来、弟子たちに仕えられるべき主人が、弟子たちに仕える者となり、主人に仕えるべき弟子たちが主人に仕えられる者となるのです。主イエス・キリストとの出会いとは、この転換、自分が仕えようとしている主が、自分に仕えておられるということを示されることでもあると言って良いでしょう。

わたしの足など決して洗わないでください
 このことは、弟子たちを戸惑わせ、驚かせました。その戸惑いはペトロの言葉に表れています。ペトロは自分の番が来ると、6節にあるように、「主よ、あなたがわたしの足を洗って下さるのですか」と問いました。どうして主人であるあなたが私に対して奴隷がするように足を洗って下さるのだろうかと思ったのです。そして、「わたしの足など決して洗わないでください」と言うのです。主イエスに自分の足など洗わせては申し訳ない、そんなことをしてもらっては困るという思いを抱いたのではないでしょうか。私たちは、ここでのペトロの気持ちが良く分かるのではないかと思います。自分が仕えている主人に足を洗われるのです。そんなことは恐れ多いという思いがするのは当然です。ペトロは、この時、主イエスに仕えられることを拒もうとしました。それは、私たちも又、同じ立場に立ったのであれば、当然抱く、素直な思いから出た行動です。しかし、この思いの背後に、ペトロの、そして、私たち人間の傲慢さが潜んでいるということも見逃してはならないでしょう。ペトロは、主イエスは自分が仕えるべき方であって、自分が仕えてもらうような方ではないと思っているのです。しかし、そこには、自分は主イエスに仕えてもらわなくてもよいと思い込み、主の救いに頼らずに歩もうとする傲慢さがあるのです。  人に仕えてもらうということは嬉しいことです。しかし、それは、自分と相手の間に明らかな上下関係があり、自分が上に立っている時のみです。私たちは、自分と対等、あるいは、自分より目上の方に仕えられることを拒もうとすることがあるのではないかと思います。人の世話になりたくない、人から何かをしてもらったら、それに見合うものをお返ししないと気がすまないといった思いを抱くことがあります。私たちはどこかで、自分一人で生きていける、生きていきたいと思っています。人の世話になり、仕えられるというのは、自分一人で生きていけないことを示しているようで耐えられないのです。そこで、自分が何かに支配され、自分の自立や自由が侵されるように思うのです。そして、神の子である主イエスに対しても、そのように思ってしまうのです。ペトロが、主イエスに足を洗われることに抵抗を感じ、拒もうとしたことの背後には、自分は、自分の足でしっかり立っているという錯覚があり、それは、主イエスに仕えられなくても生きていけるという態度なのです。

主イエスとのかかわり
 足を洗われるのを拒もうとするペトロに対して、主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とおっしゃいました。これはペトロにとって以外な言葉であったのではないでしょうか。主イエスと弟子たちは、今まで歩みを共にして来ました。その間、幾度と無く主イエスの教えを聞き、御業に接して来ました。自分の仕事を捨てて主イエスに仕え、その後に従いつつ旅をして来たのです。そのような意味で、弟子たちは、私たちから見たら十分すぎる程の「かかわり」を持って来たのです。しかし、弟子たちが、主イエスに仕え、その後に従って歩んで来た歩みは、主イエスがおっしゃる意味では「かかわり」には入らないのです。むしろ、主イエスは、ご自身が、弟子の「足をあらう」ということ、においてのみかかわりを持つ方なのです。それは、弟子たちが、自分の最も汚い部分を差し出し、主イエスの方が僕となって、それを洗うことによって仕えるということです。  私たちは、仕えられることを拒み、自分が仕えるという姿勢を保ちつつ、主イエスの前に立つことは出来ません。私たちはどこかで一生懸命奉仕をし、信仰者として恥じないような教会生活を送ることに務めることによって主イエスとのかかわりをもとうとしていることがあるのではないでしょうか。もちろん、奉仕することは大切です。しかし、主イエスや隣人に仕えている自分、奉仕に励むということのみをもって主イエスと向かいあったとしても、そこに真の「かかわり」は生まれないのです。この方の前に到底立てないような自分の罪の姿を持って、この方と向かい合い、自らの汚れた足を差し出して、洗ってもらうことにおいてのみ関わりが生まれるのです。もし、足を洗ってもらうことを拒むのであれば、それは主イエスに「わたしと何のかかわりもないことになる」と言われてしまうのです。  森有正という哲学者が、『アブラハムの生涯』という本の中で以下のようなことを述べています。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。また密かな欲望がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅」というものがある。そう語った上で、次ぎのように続けます。「人間がだれはばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」。主イエスによってのみ洗っていただくことが出来る、自らの汚れた足を差し出し、そこで、主イエスに洗っていただく、そのようにして、罪を清めていただくということにおいて、主イエスと私たちのかかわりが生まれるのです。

仕えつつ主人となる人間
 私たちが、自分が主イエスに仕えるという形で、主イエスとかかわりを持とうとしている時、実は、表面的には仕えていながら、心の中では自分が主人になっているということがあります。そこに私たちの大きな罪があると言って良いでしょう。仕える姿勢の中で、自分が仕えるべき主人はこのような方であるべきだという思いに支配されている。そして、自分が仕えるに足る主人かどうかを判断し、取捨選択して、その人に仕えようとするのです。そのような時は、たいてい、仕えることによって自己満足を得ようとしているのです。そして、自分の思いを満足させるような主人であれば、熱心に仕えるけれども、自分を満足させないような主人であれば、すぐに、主人を裏切ってしまうということが起こります。自分は、こんなに真剣に仕えているのに、神様に見放されたという思いを抱いたりするのです。そのような時、仕えることをやめてしまうのです。  弟子たちの、仕えようとする歩みは、結局、主イエスを裏切ることにつながって行きました。実際、この食事の時に、弟子の中には、主イエスに対する裏切りの企てが起こっていました。そのことは2節に記されています「既に、悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。ユダという特別悪い人が弟子の中にいたというのではありません。13章の36節以下では、ペトロが主イエスを裏切ることも予告されるのです。私たち人間の、自分が主に仕えているという思いは、主を裏切ろうとする考えと表裏一体なのです。弟子たちは、この後、主イエスに仕え通すことは出来ません。それは、仕えつつ、自分が主人となっていたからです。自分たちが仕えていると思っていた弟子たちは、結局、自分たちから、主イエスとのかかわりを絶ってしまうのです。主イエスに仕えるという姿勢においても、自らが支配し、主人であろうとするという人間の罪に支配された私たちにとって、本当に仕えるということがいかに難しいかを、弟子たちの姿は示しています。  私たちが仕えるという姿勢の中では、主イエスとの真のかかわりは生まれていないのです。もし、私たちが主イエスとのかかわりを持つとするならば、それは、私たちではなく、主イエスが、真っ先に私たちに仕えて下さっているということにおいてなのです。この、主イエスが、私たちの僕となって仕えて下さる態度は、私たちが、主イエスに仕える態度とは全く異なります。主イエスが弟子たちの足を洗った時、そこには、もちろん、裏切りを企てるユダがいましたし、主イエスを否むペトロがいたのです。主イエスは、私を裏切るような者には仕えないとはおっしゃいません。むしろ、ご自身を裏切るような弟子たちだからこそ、足を洗って仕えて下さるのです。神を裏切って歩んでいる、私たちの最も汚い部分、罪を洗って下さることによって、私たちに仕えて下さったのです。

主の十字架と復活によって
 「何故自分の足を洗うのか」と問いかけたペトロに対して、主イエスは、7節で、「わたしのしていることは、今はあなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」とおっしゃいます。ここで「後で」と言われているのは、いつのことでしょうか。それは、主イエスの十字架と復活の時です。その時初めて、主イエスが足を洗われたことが何であったのかが分かるようになるのです。  ここで、主イエスが、足を洗う前に、上着を脱がれたことに注目したいと思います。又、本日お読みした箇所のすぐ後に続く12節を見ますと、「弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた」。とあります。主イエスは、弟子の足を洗う前に上着を脱ぎ、洗い終わってから着られたのです。ヨハネによる福音書の10:17には次のようにあります。「わたしは命を再び受けるために、捨てる」。ここで主イエスが命を受け捨てると言われているのですが、ここで「捨てる」という言葉は「脱ぐ」と言うのと同じ言葉です。又、命を「受ける」というのは「着る」というのと同じ言葉なのです。聖書において「着物を脱ぐ」ということで死を表し、「着物を着る」ことで甦りを示すことがあります。つまり、主イエスが、足を洗われる前に上着を脱ぎ、弟子達の足を洗って、又上着を着られたということから、「足を洗う」という出来事が、主イエスの十字架と復活を指し示していることが分かります。弟子の足を洗い、僕となって下さった主イエスの愛は、主イエスが十字架で死に復活されたことによって、私たちの罪を贖って下さったということによって実現しているのです。そして、主イエスは、ただ、この一点、この出来事によって私たちと関わりを持って下さるのです。その関わりなくして、私たちは救われることはありません。しかし、その時が来ていない以上、弟子たちには、それが分からないのです。主イエスは、そのような弟子たちに、足を洗い、自ら僕となることを示すこと通して、ご自身がなさる救いの御業を示しておられるのです。ペトロは、この後、主イエスに仕えることをやめてしまいます。しかし、そのような自らの罪が、十字架と復活によって完全に贖われた時に、真に、自分自身ではなく、主イエスが、私たちに仕え、愛しておられるということを悟ったのです。私たちが、主イエスに仕えていただいている、そのことによって生かされているということが分かるのは、主の十字架と復活によってなのです。

聖餐の食卓から
 私たちにとって、そのことが示されるのは、礼拝における御言葉と、聖餐によってです。ヨハネによる福音書は、確かに直接、聖餐について語っていません。しかし、主イエスが、この時、弟子たちの足を洗ったということには、はっきりと聖餐の恵が示されていると言って良いでしょう。足を洗わなければ何のかかわりもなくなると聞いたペトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も」と申し出ます。まるで御利益でも求めるかのように今度は全身を洗ってもらおうとするのです。一方では「洗わないで下さい」と言いつつ、もう一方で手も頭も洗って下さいと言うのです。しかし、手も頭も洗ってほしいと願うペトロに対して、主イエスは、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」とおっしゃいます。当時、他人の家に食事等に行く時には、家で体を洗ってから出かけ、呼ばれた家では、家にたどり着くまでの間に汚れた足だけを洗う習慣があったようです。この「既に体を洗った者は全身清い」という主の御言葉は、今の私たちにとっては、洗礼を示していると言う人がいます。私たちは人生において、一回限り洗礼を受けます。主イエスの救いに与り、既に清くされているのです。ですから繰り返し、洗礼を受ける必要はありません。しかし、この世の旅路を歩む中で、足が汚れてしまう。「醜い考え」や「秘密の考え」、「密かな欲望」に支配されるということだけではありません。何よりも、自分が主に仕えているのだという思いの中で、いつの間にか自分が主人になってしまう。そこで、本当に仕えて下さっている主イエスの愛を忘れて、いつの間にか主イエスを裏切る者になってしまうのです。だからこそ、聖餐に繰り返し与ることによって、主が仕えて下さった十字架の出来事に心と体をもって繰り返し与るのです。聖餐とは、私たちの罪を贖うために、主が十字架に身をささげ、僕となって仕えきって下さった出来事を思い起こすために制定された聖礼典です。礼拝において、御言葉と聖餐によって、主が僕となられたことを知らされる時に、自分が仕えていると思いこみ、自分から主イエスとのかかわりを持とうとして、仕えることにおいても主として歩んでしまうような私たちに、主イエスの方が仕え、罪を赦すという形でかかわりを持って下さっていることを示されるのです。そして、真の神の子である主イエスが、足を洗って、私たちの僕となって仕えて下さったという恵を示されつつ、主イエスの最後まで続く愛の中を歩む時にのみ、私たちも自らを主イエスに捧げつつ歩む者とされるのです。

関連記事

TOP