主日礼拝

父から遣わされて

「父から遣わされて」  伝道師 矢澤励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第11章 1節-10節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第7章1節-31節
・ 讃美歌21; 236、248、281

 
1 (クリスマスの不思議さ)

クリスマスを一週間後に迎えようとしている今、ヨハネによる福音書の与えられている箇所を読みまして、私たちは、クリスマスを喜び祝うことができるのは、当たり前のことではない、本当に深みと奥行きのあることだと思います。馬小屋の中で独りの赤ん坊として、神の御子がお生まれになる。神とはどのようなお方か、そのことについて私たちが抱いているであろう固定観念を打ち砕く、驚くべき出来事です。それは私たちを躓かせて当然の出来事です。神ご自身が開き示してくださらなければ、私たちには分からない、不思議な出来事です。だからこそ人間の思いとの間に、さまざまな行き違いや誤解をも生むことになったのです。

2 (人間の時と神の時)

時に、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていました。この仮庵の祭りは、ユダヤ教において祝われる三つの大きな祭りのひとつです。イスラエルの民がエジプトを脱出した出来事を記念して祝う過越祭、そこから数えて50日目に、小麦の刈り入れを祝い、神から律法と呼ばれる掟を授けられたことを記念する刈り入れの祭りと並ぶ、もうひとつの大きなお祭りが。この仮庵の祭りです。これはイスラエルの民が荒れ野で、天幕に住んだことを記念して行われる祭りで、この祭りの間人々は、仮の庵を作ってそこに仮住まいをしたことからこう呼ばれるようになりました。ユダヤ教で覚えられる三つの大きなお祭りのひとつですから、ユダヤ地方にはたくさんのユダヤ人たちが集まって来たに違いないのです。  そこで主イエスの兄弟たちが、ここであるお勧めを主イエスに向かってしています。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」(4節)。主イエスの兄弟たちは、主がガリラヤのカナの婚礼で、水をぶどう酒に変えられた最初の奇跡以来、さまざまなしるしや御言葉を、これまで見聞きしてきたのでしょう。けれども、主イエスのやり方は、兄弟たちにとっては物足りなかった。十分ではない気がした。無理もないかもしれません。水をぶどう酒に変えた奇跡は、婚宴の席の舞台裏で起きた密かな出来事です。弟子たちは主を信じたことが伝えられておりますが、この出来事はそれ以上には広まらなかった。神殿から商売をしている人たちを追い出す行為をしたことも、ユダヤの仲間たちから必要ない恨みまで買うような、愚か極まりない行為に見えたでしょう。さらに五千人もの人々に食べ物を与える奇跡を行い、人々から王様として担ぎ出される絶好の機会を作り出しておきながら、その人々の思惑に気づかれると、身を翻してひとりでまた山に退かれる、という実にもったいない機会の逃し方をしている。兄弟たちの目から見た時、主イエスのなさっていることは、いつも要領のよくない、せっかくのチャンスを台無しにしている、愚かな行為、人々に訴えかける力の弱いものに見えたのです。兄弟たちはもうじれったくて仕様がなかった。なぜもっとたくさんの人たちのいるところに行って、人々があっと驚くような奇跡を行い、群衆の心をしっかりととらえ、一気に権力者への道を上り詰めていかないのか。そこで兄弟たちは思った。「ちょうど仮庵祭が近づいているではないか。人々にお前を売り込むには絶好の機会だ。この機会を逃す手はない。お前は公に知られようとしているのだから、ひそかに隠れて動き回るような愚かなことはやめて、自分をこの世にはっきりと売り込んだらいいではないか。そこで誰もがあっと驚くような奇跡を行って、一挙に人々の心をとらえ、王になったらいいではないか」。

 ところが主イエスはおっしゃるのです。「わたしの時はまだ来ていない」(6節)。さらに8節でもおっしゃっています。「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」。どうも主イエスは兄弟たちが考えていることとは別のことを意識しているようです。兄弟たちが絶好の時だ、このアピールの機会を逃すようなもったいない話はない、そう思っている只中で、しかし主イエスは、今は「わたしの時」ではない、そうおっしゃるのです。この「時」という言葉は、私たちが使う時間、今は何時何分といって計ることのできる時間とは違う意味の時間です。この福音書が書かれているもとの言葉であるギリシャ語では、「時」という言葉にいくつかの単語を持っていますが、それぞれ別の意味を持った言葉なのです。ここで使われているのは、ほかの時間とは区別された、時の一点、しかもそこで神と私たちが出会う、そこで神と人間が交わる、そこで神の御心が私たちに開き示される、そういう特別な時の一点を表す言葉なのです。そういう決定的な時の一点が「わたしの時」なのであり、その時はまだ来てはいないのだ、というのです。

3 (人間の助言ではなく神の自由)

どうも主イエスは、兄弟たちが期待し、見つめているものとは違うところを見つめているようです。その関心が違う。その心が向かっている方向が違うようなのです。それゆえに、主イエスと兄弟たちとの対話はどうもうまくかみ合わない。何かぎこちない感じがしてしまうのです。兄弟たちが見つめているもの、それはどうやってこの世において成功を収めるか、ということです。どうにかして有名になり、富を蓄え、人々の心をとらえ、自分たちの栄光をこの世に輝かせること、それが彼らの願いです。主イエスもそのことを願っているに違いない、と兄弟たちは思い込んでいるのです。だったら隠れていないで、堂々とこの世に自分を示せ、そう励ますようなつもりで言っているのでしょう。けれどもその背後には、主イエスが有名になることを通じて、自分たちもその恩恵に与って、この世で自分たちの栄光を輝かせようとする野望がうごめいているのではないでしょうか。あわよくば自分たちもそのおこぼれに与って、富と権力をほしいままにしてみたい。そういう思いが隠れている。いわば主イエスを出汁にして、食いものにして、自分たちの利益を上げようとする魂胆が働いているのです。そういう思いを隠しながら、自分をはっきりと世に示しなさい、などという助言をしたり顔で得々としている。  けれども主イエスが見つめておられるのは、この世でいかにして有名になり、富を蓄えて成功を収めるか、ということではありません。18節によれば、主イエスが見つめておられるのは、「自分をお遣わしになった方」であり、その方の栄光であります。主イエスのお心が向かっているのは、主をお遣わしになった方、つまり父なる神であり、その栄光です。その御心です。自分の思いはさておき、何よりも父なる神が何を望んでおられ、自分をこの世に遣わすことによって、この世に何を行おうとしておられるのか、そのことにひたすら思いを向けつつ、そのこと一筋に生き、歩まれた。それが主イエスなのです。父なる神が何を望んでおられるか、このことだけが主イエスの関心です。 10節によれば、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、主ご自身も、人目を避け、隠れるようにして上っていかれました。このことは、「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない」、兄弟たちにそうおっしゃったことと矛盾しているようです。結果的にはユダヤに上っていったわけです。けれども大事なことは、この祭りへと上ったことは、兄弟たちの助言に基づいたことではなくて、父なる神の御心に基づいた都のぼりである、ということなのです。父なる神が、今ユダヤに上ることを望まれた。だから主イエスは今、初めの「この祭りには上っていかない」という発言を翻し、都に上っていかれるのです。主イエスを動かすものは、兄弟たちの中にある自己実現の願望ではありません。そうではなく、ただ父なる神の御心なのです。神を動かすことのできるのは、人間の願望ではなく、神ご自身なのです。神がご自身の自由の中でこうしようとお決めになられる、そのはっきりとした決意なのです。

4 (自分勝手な振る舞いか、神からの権威か)

主イエスと兄弟たちとのこの食い違いは、さらに拡大をしていきます。祭りの半ば、神殿の境内で主イエスが教え始められました。ユダヤ人の反応はどうだったでしょう。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)。当時の常識から言うなら、聖書-ここでは、今の私たちから見て旧約聖書にあたるものですが、-の知識をきちんと身につけるためには、ラビと呼ばれる律法の教師にきちんとつくことが当然のこととされておりました。その教師の学派の中で指導を受けてしっかりと学問を修めた者が、律法を解釈する者としての権威をもって人々に受け入れられたのです。ところが主イエスにおいてはそのような訓練をお受けになった経歴がまったくないことを人々は知っているのです。それなのに、聖書をよく知っていなければ語れないようなことを教えている、だから驚くのです。驚くばかりではない。ここには軽蔑の思いも込められています。「この男は学問をしたこともないくせにどうしてこんなことを知っているのか。偉そうに教える資格があるのか、無免許でありながら、教師のような態度でわれわれに教えを与えようというのか」、そういう反発をする思いが、ここには隠れているのです。

この反発をする心はさらに、主イエスを憎み、殺そうとする思いにまで至っています。そのきっかけとなったのは、21節で主が触れておられる「一つの業」でした。これは前に5章で出てまいりましたベトザタの池で、38年もの間病気で苦しんでいた人を癒された主の業を指しているものと思われます。主イエスが何も仕事をしてはならない安息日に、病人を癒し、しかもその中で神を御自分の父と呼び、御自分を神と等しい者とした、それはユダヤ人にとっては神を冒涜する、許せない行為だったのです。しかしこのユダヤ人たちだって、神の掟である律法の中に、優先順位をつけていたのです。モーセが神から授かり、イスラエルの民に守るようにと教えた神の掟、それが律法です。その律法の中に、一方で安息日を守るようにという定めがあり、他方で生まれた子供に割礼を施すように、という定めがあった。もし安息日に赤ん坊が生まれたら、律法は生後八日目に割礼を行うようにと定めているのだから、割礼を行うべき日もまた、一週間後の安息日に重なったわけです。そういう時、どちらの定めが優先されるべきかが問題になった。彼らの出した結論はこうでした。割礼を受けるというのは、神の民として選ばれている者のしるしなのだから、安息日と重なった場合でも、割礼を行うことは安息日の戒めを破ることにはならない。むしろそのことで、神の平安に与るべき民の一人であることがはっきりするわけだから、律法の目指していることとも合致している。決して矛盾してはいない、そう考えたのです。そこで主は問われるのです。「そこまで律法の目指すところをわきまえておりながら、どうしてわたしが安息日にあの病気に苦しんでいた人の全身を癒したことが受け入れられないのか。それこそ律法が目指すところの成就であることをなぜ認めようとしないのか」。

5 (自分自身からか、神からか)

先ほどから続いているのは、神の御心と人間の思いとのすれ違いです。今日の箇所の最後に出てくるのは、主イエスの出身地についてユダヤ人の中に起こった議論です。来るべきお方、メシア、救い主は、どこから来られるのか、誰にも分からないことになっている。それなのに主イエスはガリラヤのナザレの出身であることが人々に知られていた。「どこから来られるのか」、出身の問題を考えてみても、やはりこの人がメシア、救い主であるとは信じられない、それが人々の結論だったのです。主イエスの肉のお姿における出身地がはっきりしていることが、彼らにとって躓きとなったのです。 これまでに三つの食い違いが生まれてきました。第一は主イエスが見つめておられる神が備えてくださっている時と、兄弟たちが絶好の機会ととらえたこの世での成功のチャンスとの食い違いです。第二は主イエスの御教えやその御業の権威が神に由来するのか、それとも人々が考えるように、悪霊にでも取り付かれた人が自分勝手なことをしゃべっているのに過ぎないのか、この二つに分かれてしまっている食い違いです。さらに決定的なのは、主イエスが父なる神から遣わされて来たお方なのか、それともガリラヤのナザレから出た一人の男に過ぎないのか、出身を巡る食い違いです。

こうしてみますと、主イエスの地上における歩みは、結局誰からも、兄弟たちからさえも理解されない、孤独な歩みであったことを思うのです。主イエスを信じる者がいても、それはしるしの多さ、奇跡の数の多さでもって主イエスを救い主ではないか、と推測しているにとどまっているのです。主が誰からも本当の意味では理解されない。その理由を主イエスはこうお語りになります。6,7節「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないがわたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証しているからだ」。兄弟たちも含めたこの世の人々は、神の時を知りません。この世の時の中に埋もれて生きています。この世の時の中を生きている、それは今を生きる私たちにとっても同じことです。私たちもまた間違いなくこの世を生きている。そしてそこでさまざまな物事を計る物差し、基準を刷り込まれています。いやむしろもともと私たちの中には、神をさえ自分の価値観にしたがって、評価する自分勝手な思いが満ちているのです。信仰をもって歩みだしたのに、苦しいこと、つらいことが生じてくると、私たちはすぐに神を呼び出して攻め立てたい思いに駆られてしまう。自分の信仰を理解されず、人々の無理解に直面して苦しむと、じれったい思いに駆られてこう叫びたくなってしまう。「神様、主イエスを信じている人も信じていない人もいる、ややこしいこの世界をすっきりさせて、誰もが神を信じざるを得ないようなすごい奇跡を行ったらどうなんですか」。愛と恵みの神がどうして自分をこんな目に遭わせるのだ。話が違うじゃないか。自分の願いに奉仕しない神などはいらない。そうなってくると、自分を温かく迎えることに失敗した教会や教会員を裁き出したり、礼拝に来なくなったりしてしまうことも起こってまいります。そうなると結局は、人生を少しでも楽に、幸せに生きていくための手段のようなものとしてしか、神を受け止めていなかったのではないか。

こうして主イエスを知ったがゆえに、それまで気づきもしなかったこうした自分の弱さ、破れが露わになってくるのです。結局は、神を食いものにして自分の人生を立てることにこそ最終的な目標があったのではないのか。心の奥底がそういう問いかけの下に置かれます。あまりにも自分を主人公にしてしまってはいないか。自分が神を判定し、まことの神かどうか評価できる者であるかのように振舞っていやしないか。主イエスにもっと人々に訴えるような力強い御業を行ったらどうだ、とあの兄弟たちのように助言できるような立場にいるとでも思っていやしないか。主が来られると、そのことが暴きだされる。世の行っている業は悪いと証明されてしまうのです。主イエスが来られると、自分の罪を示されることになるのです。自分が行っている業が悪いといわれる、それは不愉快なことです。だから受け入れたくない。そんな人を自分の救い主とは認めたくない、そんな思いになってしまう。

6 (裁きを負われる救い主)

クリスマスはその意味で、この世の罪を暴くお方が誕生される日でもあるのです。このお方が来られるということは、このお方を巡ってさまざまな意見が生まれる。どのような態度をとるかを巡って分裂が生まれる。クリスマスに輝く光は、その意味で私たちに対する裁きの光でもあるのです。預言者イザヤは来るべき救い主を指し示しつつ、こう語りました。「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる」(11:3-5)。しかしその裁きの光の熱で、私たちを焼き滅ぼしてしまわれることが父なる神の御心ではありません。この裁きを割り引きすることなく降し、しかもその裁きをお遣わしになったご自身の独り子に負わせることによって救いの御業を行われるのが、私たちの神なのです。  主イエスのお語りになる「わたしの時」、それは主が十字架におかかりになり、死の中からよみがえられ、天に挙げられる、その「時」のことです。その時を目指して、今歩むべき道を歩む。主イエスはそのことに徹しました。馬小屋を照らす星の光は、すでにゴルゴタの丘の十字架をも照らし出していたのです。主は私たちがするように、自分の判断基準でもって神の御心と対決し、御心を悲しませることもなさいませんでした。父から遣わされたお方として、なんの食い違いや誤解もなく、神の御心をわが心とされ、定められた神の時への道を歩みぬく、その戦いを戦い抜いてくださいました。そのことによって、私たちもその後を続いていくことのできる道を備えてくださったのです。私たちも自分の足をそこに踏み込んでいけばよい足跡を、わだちを形作ってくださったのです。その跡をたどる歩みは決して派手なものではない。むしろ地味で目立たない、誰の目にも分かるというものでもない歩みであります。けれどもこの歩みは、いつも私たちの価値や基準をはるかに超えて大きな神と、いつも新しく出会わせていただける歩みです。主がこの世での悩みや恐れ、苦しみをご自身のものとして担ってくださっている、そのことを知らされる、慰め深い歩みです。この世に生きながら、しかし神の時を知る者とされた歩みです。クリスマスの夜に人知れず、馬小屋でひっそりと、独りの幼な子としてお生まれになる、そのような仕方でなくてはならない、驚くべき仕方で、私たちの救いを成し遂げる、私たちの思いを超えてはるかに大きな神が伴い、導いてくださる歩みなのです。 祈り 主イエス・キリストの父なる神様、御子主イエスが、あなたから遣わされたその歩みの中で、さまざまな誤解や無理解、非難や思いの行き違いに直面されましたように、私たちもまた、あなたの御跡に従う中で、誤解や無理解に傷つき悩みます。いや、私共自身の中にも、主イエスに対して誤解や無理解をもって向き合い、心を頑なにする弱さがあり、罪があることをあなたとの出会いが暴き出すのです。けれども主よ、ただ御子イエス・キリストがあなたの御心に従い尽くされ、主の道を備えてくださったがゆえに、どうか私共もその道を歩んでいくことができますように。イザヤが預言した、「水が海を覆っているように、大地が主を知る知識で満たされる」、そのような救いの完成を待ち望みつつ歩ませてください。この世にありながら、神の時を知らされた者として、御子が御父から遣わされましたように、今私共もまた、御子によってこの世へと遣わしてください。この週もたれますクリスマスの諸集会、礼拝において、まさに今、ここから、神の時を歩み始めることができる、その本当のクリスマスの喜びを、たくさんの方々と分かち合わせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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