主日礼拝

来て、見なさい

「来て、見なさい」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 創世記、第28章 10節-17節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第1章 35節-51節
・ 讃美歌 ; 268、365、507

 
序 今日は今年最後の主の日の礼拝です。みなさんにとって、今年一年はどんな年だったでしょうか。ある方にとってはすばらしい年だったかもしれませんし、また別の方にとっては、苦労や悩みの多い年だったかもしれません。ある方にとってはうれしいことの重なった年になったかもしれませんが、ある方にとっては最悪と思えるような年であったかもしれません。そういったことをいろいろと思い巡らして、今年一年を振り返るということがこの時期の過ごし方として一般的なものでしょう。
 けれどもわたしたちキリスト者は、普通とは少し違った時間の感覚を持っているといえるかもしれません。なぜならわたしたちは、今年一年がどんな年であったにせよ、この暦の上での一年の終わりを、クリスマスの恵みの中で受けとめることができるからです。この世の救い主が来てくださった、そのようにして神のご支配がすでに始まっている、その恵みに生かされつつ、一年を振り返り、受けとめることができるからです。わたしたちにとっては、一年の終わりが一番の関心事ではないのです。この主なる神によって造られた世界の歴史が、まことの神のご支配に向かっているということが一番大事なことなのです。主イエスが来られたということは、「時は満ち、神の国は近づいた」ということです。この世の悪の支配が終わり、神の国が始まりつつあるということです。神のご支配が始まりつつあるということです。その意味で、わたしたちはこの世界の、「終わりの始まり」を生き始めているのです。神が御子なる神、イエス・キリストにおいてこの世の悩みと苦しみを引き受けてくださったことを知らされているからこそ、この年のつらかったことや苦しかったことも、神の赦しと恵みの中で、受けとめなおすことができるのです。主イエスと出会うことで、この世界で起きる物事の見方が変わってくるのです。受け止め方が違ってくるのです。そのような出会いを与えられて、最初の主イエスの弟子たちになった者たちについて、わたしたちは今語りかけられています。

1 洗礼者ヨハネが、歩いておられる主イエスを見つめて言います、「見よ、神の小羊だ」(36節)。その時そばにいたヨハネの弟子二人が、主イエスに従ったのです。後の40節から、そのうちの一人はアンデレであることが分かります。もう一人の弟子の名は、ここでははっきりと記されてはいません。いずれにしてもこの二人は元々洗礼者ヨハネの弟子たちだったのです。その二人が洗礼者ヨハネから離れて、別の師のもとに従っていったのです。こともあろうに自分の一言によって弟子を失い、その弟子たちが別の教師についていったなどということは、普通に考えれば耐え難いことであり、屈辱的なことなのかもしれません。けれども、洗礼者ヨハネの場合はそうではありませんでした。来るべきお方を指し示し、証しすることだけが彼の使命でした。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3:30)、ヨハネはそのように言っています。ヨハネの言葉を聞いた者が、ヨハネ自身に従うのではなく、ヨハネが指し示している神の子に従って歩む者となること、それこそが彼の望みであり、祈りであったのです。
 こうして従ってくる二人を振り返り見て、主イエスはおっしゃいました、「何を求めているのか」。短刀直入に、あなたの求めているのは何であるかを問われたのです。彼らは言いました、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」(38節)。これは文字通りには、「あなたが滞在するための家や天幕をどこにお持ちですか」と尋ねていることになります。けれども、その背後にはもっと深い意味が隠されています。「泊まる」という言葉は、また「留まる」という意味も持っています。ここでは「神の救いのご計画の中で、あなたはどこに留まるのか、どういう位置を占める方なのか」が問われているのです。あなたは神の救いのご計画の中でどのような場所を持ち、どこに留まるべきお方なのか、つまり「あなたは誰なのですか、キリストなのですか」ということが問われているのです。
主イエスは神の救いのご計画の中で、はっきりとした場所、留まるべき場所を持っておられるのです。主イエスが今、地上のどこにおられるか、どこにお泊りになるか、ということとはまた別に、この世界の中で主イエスが父なる神から与えられている役割があるのです。救いのご計画の中でのはっきりとした場所があり、位置づけがあるのです。そしてそこに主イエスはいつでも留まっておられるのです。そしてわたしたちもそこに「留まる」ようにと招かれているのです。それゆえに、主イエスはおっしゃいました、「来なさい、そうすれば分かる」(39節)。主イエスがどなたであるか、それは主イエスのおられる場所に直に来てみれば分かるのだ、とおっしゃっておられるのです。余計な説明、くどくどとした解説はいらないのです。あの晩、弟子たちが主イエスの泊まっておられる場所に行き、一晩火にあたりながら食事をともにし、主と語り明かしたこと、そこでまことに救い主と出会ったということ、そのことで十分なのです。
その証拠にどうでしょうか、二人のうちの一人、アンデレはその後兄弟シモンに会った時、まず彼をイエスのところに連れて行ったのです。その時の彼の言葉は、「わたしたちはメシアに出会った」という一言です。後は「論より証拠」、とにかく見に来て御覧なさい、というわけです。
これと同じことは、そのすぐ後にも出てまいります。今度は主イエスが自ら、フィリポに呼びかけられます、43節、「わたしに従いなさい」。こうして主イエスに出会ったフィリポは今度はナタナエルに出会って言うのです、45節「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」といぶかるナタナエルに対してフィリポは呼びかけるのです、「来て、見なさい」と。
先日のクリスマス礼拝、また讃美夕礼拝に、わたしたちは多くの方々を教会の礼拝にお誘いしました。多くの家族や友人、知人がこの礼拝堂に集いました。わたしも、みなさんからたくさんのご家族や知人を紹介していただき、とてもうれしく思いました。そうした方々とご一緒に礼拝を守れたことをうれしく思いました。わたしたちは、家族や知人から聞かれることがあります。なぜ教会がいいところなのか、どういいところなのか、なぜ信仰をもって歩むことがすばらしいことなのか、主イエスはどんなお方なのか、神様はわたしたちにどのように関わってくださるのか・・・そういったことを聞かれたとき、必ずしもその人に十分に、分かるように説明することはできないかもしれません。けれども、わたしたちはどうすればよいかを知っています。とにかく礼拝にお誘いするのです。わたしたちは言うことができるのです、「来て、見なさい」と。先日、教会員のご家族を特別養護老人ホームにお訪ねする機会がありました。もう数ヶ月に渡ってキリスト教について、信仰について、解き明かしをしているカセットテープを聞きながら、求道の歩みをしておられる方です。まだ礼拝に毎週通うことができる状態ではありませんが、それでもまだ見ぬ礼拝を思い浮かべ、そこに思いを向けて過ごしておられるのが感じられました。そしてわたしにとって、とても印象的な言葉をお聞きすることができました。こうおっしゃられたのです、「自分がテープで聞いているこのすばらしいお話しを、施設に入っている他の方々や職員の方々にも聞かせてあげたい」と。まだ洗礼も受けない段階から、この方の中には、自分が与えられた主イエスとの出会いに、他の人も与かって欲しい、その恵みの出会いを、他の人にも味わって欲しいという思いが生まれているのです。わたしたちも、日々主イエスと新しく出会っているなら、このすばらしい出会いが、他の人にも与えられることを願い求め、またそのために祈るようになるのではないでしょうか。そして礼拝にお誘いするのです。そこで論理や説明ではなく、生きた神様との出会いを経験してもらうのです。
礼拝に集うたら、ここに集まった方一人一人に、神様はご自身のよしとされるところに従って、ご自身を現してくださいます。どのようにご自身を現してくださるかは、神様にお任せしたらよいのです。それは神様がお決めになることです。
わたしたちは信じるのです、「礼拝において何かが起こる!」と。そう信じてよいのです。信じるべきです。そこに神がまことに臨んでくださり、わたしたちと出会ってくださるのです。神ご自身が生ける言葉をもって、力強く語りかけてくださるのです。激しく魂と心を揺り動かし、わたしたちのすべてをもって、その恵みに応えるようにと迫ってこられるのを知らされるのです。
二人の弟子にしても、フィリポにしても、彼らがどのようにして主イエスと出会ったかについては、福音書は詳しく語っておりません。あの晩、二人の弟子が主イエスの泊まっておられるところで何を語り合ったのか、フィリポが主イエスにどのようにして出会ったのか、そういうことにはあまり関心がないのです。とにもかくにも、主イエスと「出会った」という事実が大きなこと、大事なことなのです。わたしたちも、それぞれに主イエスと出会い、教会の肢とされるに至りました。教会につながるようになったいきさつは、人によって実にさまざまでしょう。ある人は家族や知人に誘われて教会に導かれたかもしれません。ある人はたまたま教会の前を通りかかった時に目にした説教題や特別伝道礼拝の看板に感ずるものがあってきっかけを得たのかもしれません。ある人は結婚式の備えのつもりで礼拝に出席している中でまことの礼拝の喜びを知るに至ったのかもしれません。またある人は自分の家がキリスト者の家庭であったり、牧師の家庭であったりして、そこで育つ中で、ある時はっきりと主イエスを自分の救い主として受け入れるに至ったのかもしれません。けれどもどのようなきっかけであったにせよ、わたしたちにとって大事なことは、わたしたちは主なる神と出会い、日々新しく出会いつつ歩むことの喜びと幸いの中に置かれているということです。そして礼拝において何事かが起こる、神が生きて働いてくださる、そのことを信じることが許されています。その主が働かれる礼拝へと、安心して隣人をお誘いするよう主によって招かれているのです。

2 イエスのところへ連れてこられたシモンを見つめて、主はおっしゃいました、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」(42節)。また一度は主イエスが救い主であることをいぶかったナタナエルが、どんなきっかけがあったのか、主のもとに来た時、主は言われました、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)。シモンもナタナエルも、今、この時初めて主イエスにお目にかかっているのです。それなのに、主イエスのお言葉は、まるでこの二人のこれまでのことも、これからのこともお見通しであるかのように感じさせます。主イエスの側からは、これらの人々に会うことがまるで初めてではないようです。
ヨハネの子シモンには、「ケファ」という名前をくださり、これから彼が弟子としてともに歩む者となるでろうことが見越されています。もちろん最後の時の彼の裏切りや、主の復活の後に始まった命に満たされた歩みも見通されていたでしょう。またナタナエルについては、彼がフィリポから話しかけられるより先に、「いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)とおっしゃっています。この時代「いちじくの木」は、メシアの平和の時代に与えられるイスラエルの命の確かさを象徴していました。つまり、ナタナエルが主と合い見える以前から、主はナタナエルが、神との命の交わりに生きるようになることをよしとされ、救いのご計画の中に数えいれてくださっていた、というのです。「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と軽蔑や呪いの言葉を吐いている最中にも、神の救いの御手は働いていたのです。わたしたちも同じではないでしょうか。わたしたちが主イエスと出会うより先に、わたしたちは主イエスに見つめられ、主の思いの中に数えいれられ、覚えられていたのです。わたしたちが主イエスに出会うのを待っていてくださったのです。シモンもナタナエルも自分がイエスという人物に会って、どんな人物かよく見てみよう、と思ってきたかもしれません。けれども、そこで知ったのは、わたしたちが前もって主に知られていた、見られていた、ということなのです。わたしたちが会いに行ったのではない、主がわたしたちに出会ってくださった、そのことを知らされるのです。
その時わたしたちもまた、ナタナエルと同じように「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)という信仰を告白する言葉を与えられるのです。自分が知るより先に知られていたこと、自分が見るより先に見られていたこと、そしてこれから主と共に歩む道も、主の顧みの中にあること、そのことが主との出会いを通して知らされることです。ナタナエルという言葉が「神の賜物」、「神から与えられること」という意味であることは決して偶然ではないと思うのです。主がわたしたちの弱さや、破れや欠けをもすべてご存知で、導いてくださるからこそ、わたしたちは主に従っていくことができるのです。

結 こうして「来て、見なさい」という言葉に導かれて来てみたわたしたちは、実はすでに主から訪ねられていて、見られていた自分、主の深い顧みの中に置かれていた自分を知らされます。自分が主を捕らえようとする先に、捕らえられていた自分を知らされます。そしてそのことを受け入れて歩み始めるなら、ますます深く主の恵みを味わい知る人生が待っているのです。そしてわたしたちは、この主に従う人生こそ、自分が歩むべき本当の、まことの人生であったことを、知るのです。人生は神への回心を通してこそ、本当に生きるに価する、真の人生となるのです。
主はナタナエルに向かってさらにおっしゃいました、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(51節)。
 あの創世記28章で、ヤコブが見た夢を思い起こさせます。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)のです。この「天の門」(17節)を、わたしたちは今や、主イエスにおいて見るのです。主イエスにおいて、「神の家」を見るのです。教会は主イエスと見える「神の家」です。礼拝は神の国に通じる「天の門」です。
 新しい年を迎えようとする今、わたしたちは人生の最初のクリスマスのみならず、最後のクリスマスに至るまでも、教会につながる肢として御子のご降誕をお迎えする者にされたいと思います。そのようにして主が留まってくださる「天の門」、「神の家」に、わたしたちも留まらせていただけるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、わたしたちがあなたを知るより先に、わたしたちがあなたと出会うより先に、あなたはわたしたちを知り、わたしたちと出会ってくださっています。この「神の家」に、この「天の門」に、わたしたちが生涯、とどまることができますように。ただあなたの恵みの中にとらえていてください。
そしてあなたが出会ってくださるこの礼拝に、「来て、見てください」と言って多くの方々をお招きできますように。御業のためにわたしたちを用いてください。
日々わたしたちと出会ってくださるあなたを、いよいよ深く知り、あなたを愛し、隣人を愛する愛を増し加えてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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