主日礼拝

恐れからの解放

「恐れからの解放」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第51編12-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第19章38-42節
・ 讃美歌:134、527

アリマタヤ出身のヨセフ
 本日ご一緒に読む聖書の箇所、ヨハネによる福音書第19章の終わりのところには、十字架につけられて死んだ主イエスの遺体が墓に葬られたことが語られています。その埋葬は二人の人によって行われました。第一の人物は「アリマタヤ出身のヨセフ」です。この人が、主イエスの遺体の引き取りをピラトに申し出て許可を得、十字架から遺体を取り降ろして葬ったのです。「アリマタヤのヨセフ」が主イエスを埋葬したことは、他の三つの福音書にも共通して語られています。この人について最も詳しく語っているのはルカによる福音書で、その23章50節以下によれば、この人はユダヤ人の議員でした。それは最高法院と呼ばれる、裁判所をも兼ねるような議会の一員ということで、この最高法院で先ず主イエスの裁判がなされ、有罪とされて、ローマ総督ピラトに引き渡されたというのが、ヨハネ以外の三つの福音書の記述です。しかしルカ福音書には、彼は「善良な正しい人で、同僚の決議には同意しなかった」とあります。つまり彼は主イエスを有罪とすることには反対していたのです。彼は「神の国を待ち望んでいた」とも語られています。最高法院の議員だったが、神による救いを待ち望む信仰のゆえに主イエスの処刑には反対していたヨセフが、主イエスの遺体を引き取って埋葬した、とルカ福音書には語られているのです。それに対してヨハネ福音書はこのヨセフのことを「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」とのみ語っています。彼が議員だったことや、主イエスの処刑に反対していたことなどは語っていません。そもそもヨハネ福音書は、最高法院で主イエスの裁判が行われたをこと自体を語っておらず、主イエスは大祭司から直接ピラトに引き渡されたとしています。ヨハネは、最高法院やその議員がどうした、ということには関心がないのです。ヨハネが見つめていることはただ一つ、このヨセフが「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」ということです。

ニコデモ
 この点において、このヨセフと、主イエスを埋葬したもう一人の人物とは繋がります。そのもう一人とは「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」です。これはこの福音書の3章1節以下に語られていたことです。そこによれば、ニコデモはファリサイ派に属する人で、ユダヤ人たちの議員、つまり先ほどの最高法院の議員でした。彼はある夜、主イエスのもとを訪ねて来てこう言ったのです。「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。彼は主イエスが教えを語りつつしるし、つまり奇跡を行なっていることを見聞きして、この人は神から遣わされ、神が共におられる教師だと思ったのです。彼自身も、ファリサイ派に属する者であるということは、律法の教師としての自覚を持っていました。しかし奇跡を行うことは自分にはできない。だからイエスは、神のもとから来て神が共におられる優れた教師だと彼は思い、その教えを聞きに来たのです。つまり彼も主イエスの弟子になろうとしたのです。しかし彼が来たのは「夜」でした。それは人々の目を避けて、隠れて、ということです。つまり彼も、アリマタヤのヨセフと同じように、主イエスの弟子であろうと思いつつ、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを人々の前では隠していたのです。

ユダヤ人たちを恐れて
 彼らがユダヤ人たちを恐れ、主イエスへの信仰を隠していたのは何故でしょうか。その事情はこの福音書の9章22節から分かります。そこにはこう語られていました。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。この「両親」とは、生まれつき目が見えなかったのを主イエスに癒していただいた人の両親です。彼らは、息子の目を見えるようにして下さったイエスこそメシア、救い主であるに違いないと思っていましたが、そのことを公の場で言うと、ユダヤ人たちの会堂から追放されてしまう、つまりユダヤ人の共同体から追い出されてしまうので、それを恐れて「誰が癒してくれたのか知りません。本人に聞いて下さい」と言ったのです。このように、主イエスを救い主メシアと信じる者はユダヤ人の会堂から追放される、という迫害が行われていたので、それを恐れて、主イエスへの信仰を人々の前で言い表すことができずに隠している人たちがいた、ということをヨハネ福音書は繰り返し語っています。ニコデモも、アリマタヤのヨセフもそういう人だったのです。彼らはどちらも最高法院の議員であり、高い地位にある人たちです。その彼らが、自分はイエスの弟子であると明らかにすると、その地位を失ってしまうかもしれない、そういう恐れを彼らは抱いていたのです。

迫害の中で
 これまでにも何度かお話ししましたが、ここには、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃の状況が反映されています。主イエスをメシア、つまり救い主と信じる信仰を言い表すと、ユダヤ人の会堂から追放される、ユダヤ人たちの共同体から追い出される、という迫害は、主イエスが地上を生きておられた時にはまだ起っていません。それは主イエスの十字架の死と復活を経て、教会が生まれ、伝道が進んでいく中で始まったことです。この福音書が書かれ、読まれた教会はまさにそういう迫害にさらされていたのです。この福音書の著者は、自分たちのその状況をこの福音書の中に書き込んでいるのです。以前にも申しましたが、主イエスのご生涯を自分たちの生きている現実との関わりの中で捉えているという意味で、これは正しいことです。迫害の中で、彼らの教会の周囲には、心の中では主イエスを信じているけれども、その信仰を人前で言い表すことができず、隠している、という人たちが大勢いました。信仰を明らかにして教会に集っている彼ら自身も、いろいろな圧迫を受け、同胞たちから疎まれたり、意地悪をされています。そういう苦しみの中で彼らも、教会に連なるのはやめて、家にいて、心の中でだけ主イエスを信じて生きていった方がよいのではないか、という誘惑にかられることがありました。そのような現実の中でヨハネ福音書は、主イエスが十字架につけられて殺されたあの日、アリマタヤのヨセフとニコデモが、勇気を出してピラトのもとに行き、主イエスの遺体を引き取って埋葬した。最後の土壇場で彼らは主イエスへの信仰を明らかにして、主イエスに従う弟子となったのだ、ということを語っているのです。この福音書を読んでいる人々にとってこれは他人事ではありません。彼らはアリマタヤのヨセフとニコデモに自分たちの姿を重ね合わせているのです。自分もともすれば陥りそうになる誘惑との戦いへの励ましを、彼らの姿に見ているのです。そしてこの話は同時に、彼らの周囲の、心の中では信じていても、ユダヤ人たちを恐れて信仰を明らかにできずにいる多くの人々を励まして、信仰の告白へと招こうとしているのです。

丁寧な埋葬
 さて、ヨハネ福音書における主イエスの埋葬の場面には、アリマタヤのヨセフとニコデモという二人の男性のみが登場しています。他の福音書ではそこに女性たちが登場しており、主イエスが墓に葬られたことを見届けたその女性たちが、安息日が開けた後の週の初めの日の夜明けにその墓に行き、主イエスの遺体がないことを見出した、という話に続いていきます。つまり埋葬の話は復活の話へとつながっているのです。そしてそれは、彼女たちが何故週の初めの日の夜明けに墓に行ったのか、ということの説明にもなっています。マルコ福音書とルカ福音書には、彼女たちは香料を持って墓に行ったと語られています。主イエスの遺体に香料を塗るためです。それは本来、遺体を埋葬する時になされるべきことでした。しかし主イエスが亡くなったのは午後の3時頃であり、日没になって安息日が始まることが迫っていました。安息日が始まってしまうと埋葬をすることができなくなるので、香料を塗って丁寧に埋葬している時間がなかったのです。それで彼女たちは、安息日が終わり、夜が開けてすぐに、香料を買い求めて墓に行った、それは丁寧に埋葬をやり直すためだった、というのが、マルコとルカが語っていることです。しかしヨハネ福音書はそれとは違うことを語っています。ヨハネにおいては、主イエスの埋葬は、時間がない中で急いで、簡単になされたのではありません。40節には「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」とあります。ユダヤ人の埋葬の習慣にきちんと従って、香料を添えて、遺体を亜麻布で包んで埋葬したのです。その香料はニコデモが持って来たものでした。39節には「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」とあります。リトラというのは、聖書の付録の「度量衡及び通貨の表」を見てもらうと分かりますが、重さの単位で、1リトラは約326グラムです。ニコデモは百リトラばかりの香料を持って来た、それは32キロほどになります。彼は主イエスの埋葬のために32キロの香料を運んで来たのです。通常の埋葬にどのくらいの香料が用いられていたのかは分かりませんが、おそらくこれはそれ以上の量だったでしょう。このことが意味しているのは、アリマタヤのヨセフとニコデモとによって、主イエスは正規の仕方で、とても丁寧に埋葬された、ということです。ヨハネ福音書はそのように語っているのです。

園の墓
 主イエスが葬られた墓についてもヨハネのみが語っていることがあります。41節に、「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」とあります。主イエスは「園」の中の墓に葬られたということはヨハネのみが語っています。主イエスが十字架につけられたのは、17節に語られていたように、ゴルゴタ、その意味は「されこうべの場所」と呼ばれていた処刑場です。そこに「園」があったというのは変な気がします。なので41節には「この墓が近かったので」と言い直されています。ヨハネ福音書は、主イエスが「園」の中の墓に葬られたということを、意図的に語っているのです。そこでヨハネが意識しているのは、旧約聖書、列王記下の第21章18節と26節です。そこには、ユダ王国のマナセとその子アモンという二人の王が、「庭園」にある墓に葬られた、と語られています。つまり、園にある墓というのは、王さまが葬られる墓だったのです。ヨハネ福音書は、主イエスが園にある墓に葬られたと語ることによって、主イエスが神の民ユダヤ人の王として埋葬された、主イエスがまことの王であられることがこのことによって象徴的に示された、と語っているのです。

新しい墓
 さらにこの41節には、その墓はまだ誰も葬られたことのない新しい墓だったとも語られています。このことは他の福音書にも語られていますが、「まだ誰も葬られたこがない」、つまり人間がまだ使っていない初物というのは神に献げられるためのものです。神への献げものは、人間が使った後のお古であってはならない、ということを聖書は語っています。それゆえに、献金は新札を用意して献げるのが相応しい、という勧めがなされてきました。しかし新札は、重なっていても分かりにくくて集計には不便ですので、このことを積極的にお勧めはしません。しかしその精神は大事です。主イエスはまだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬られたというのは、神である主イエスにこの墓が献げられたということを意味しているのです。マタイ福音書によればこの墓はアリマタヤのヨセフのものでした。ヨセフは自分の新しい墓を、神である主イエスにお献げしたのです。埋葬において、ヨセフは墓を、ニコデモは香料を主イエスに献げた。そういう彼らの献身によって、主イエスがまことの王であられ、そして人間となってこの世を歩み、人間の罪を背負って死んで下さったまことの神であられることが示されたのです。こうして主イエスの埋葬は、主イエスの神の子としての栄光を証しする出来事となった、とヨハネ福音書は語っているのです。

恐れに支配されている私たち
 このように主イエスを丁重に埋葬したアリマタヤのヨセフとニコデモは、それまで「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」人たちでした。つまり彼らは、恐れに支配されていたので、信仰に生きることができなかったのです。その恐れは、先程申しましたように、この福音書が書かれた当時の人々が、迫害の中で体験していた恐れでした。同じように私たちも、信仰に生きることを妨げる恐れを体験しています。今日私たちは、幸いなことに、教会に通い、キリスト信者になったからといって、人々の共同体から追放されたり、仲間はずれにされたりという迫害を受けることはほとんどありません。しかし戦前戦中には確かにそういうことがあったし、今後またそのようなことが起らないという保証はありません。そうならないために、私たちは世の中の動きを目を開いて見つめ、語るべきことを語っていかなければなりません。しかし私たちが信仰に生きることを妨げる恐れをもたらすのはそのような迫害だけではありません。今は新型コロナウイルスへの恐れが私たちを支配しています。勿論このウイルスを正しく恐れ、感染を防ぐために用心深く対策をすることは大切です。しかしこのウイルスはそういうあるべき恐れを超えた恐れや不安を私たちにもたらしています。人と人との交わりを妨げ、心のつながりを奪い、愛を失わせようとしているのです。恐れに支配されるところでは愛が失われます。人を受け入れ、理解し、共感することができなくなり、疑心暗鬼が生まれるのです。そこでは、人から批判され、責められているという思いが私たちの心を支配していき、そのために逆に人を批判し、責める思いが募っていきます。恐れに支配されてしまうと、私たちは人と良い関係、交わりを築くことができなくなるのです。人間どうしの間だけでなく、神との関係においても同じことが起こります。新型コロナウイルスによって恐れや不安に支配されることによって、私たちの、神への愛や信頼が揺らいでしまうのです。新型コロナウイルスは今や地球規模の大災害ですが、時として起こるそのような大きな災害に直面する時に私たちは、神がおられ、支配しているなら何故こんなことが起こるのか、と思います。自分の人生に思いがけない苦しみや悲しみが襲いかかって来た時にも、神がおられるなら何故、という問いが起ります。苦しみや悲しみ、それによる恐れに支配される時に私たちは、神の愛が分からなくなり、信仰に生きることができなくなるのです。

恐れからの解放
 それが、アリマタヤのヨセフやニコデモのこれまでの姿でした。しかし彼らは変ったのです。彼らを支配していた恐れから解放されて、新しく生き始めたのです。そのことは、彼らが、主イエス・キリストをまことの神として、救い主として信じる信仰を人々の前で明らかにしたことによって起りました。彼らは、それまで隠していた信仰を人々の前で明らかにしたのです。具体的には、自分の財産を主イエスに献げたのです。信仰を明らかにすることと、献げものをすることとは結びついています。何故ならどちらも、自分自身を主イエスにお献げするということだからです。私たちは、自分を主イエスに献げ、主イエスに従う者となる、主イエスの弟子となることによって、信仰を明らかにするのです。そこに、恐れからの解放があるのです。

勇気を出して
 心の中でだけ信じていた信仰を人々の前に明らかにすることには勇気が必要です。アリマタヤのヨセフも、勇気を出してピラトのところへ行って、主イエスの遺体を引き取りたいと申し出たのです。ニコデモも、主イエスの埋葬の場に大量の香料を携えて来ることには勇気が必要だったでしょう。彼らは、勇気を出して、信仰を明らかにしたのです。しかし、彼らの勇気によって恐れからの解放が実現したのではありません。彼らは自分自身を主イエスに献げ、主イエスの弟子となったことによって、主イエスが十字架の死によって実現して下さった救いにあずかったのです。そしてそれによって恐れから解放されたのです。私たちは自分の勇気によって恐れに打ち勝って平安を得ることはできません。十字架にかかって死んで下さることによって救いを与えて下さった主イエスを信じて、主イエスに自分をお献げすることによってこそ、神がその独り子をお与えになったほどに自分を愛して下さっていること、独り子を信じる者に永遠の命を与えて下さること、つまり神の愛による救いを信じる喜びと平安、神への信頼に生きることができるようになるのです。そこに、恐れからの解放が与えられ、神と隣人とを愛して生きる道が開かれていくのです。
 今私たちは、新型コロナウイルスによる恐れと不安の中を生きています。だからこそ今、勇気を出して、主イエスを信じ、その信仰を明らかにし、自分自身を主イエスにお献げしたいと思います。その勇気によって救いが獲得できるわけではありません。しかし主イエスを信じることを明らかにすることによって私たちは、主イエスが十字架の苦しみと死によって実現して下さった救いにあずかって、新しく生き始めることができるのです。

関連記事

TOP