主日礼拝

ナザレのイエス、ユダヤ人の王

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第22編17-19節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第19章16b-24節
・ 讃美歌:

主イエスを十字架につけたのは誰?
 本日は棕櫚の主日、今週は受難週です。今週の金曜日がいわゆる受難日、主イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことを記念する日です。そして来週の日曜日はイースター、主イエスの復活の記念日となります。
 今私たちは、礼拝においてヨハネによる福音書を連続して読んできていますが、本日の箇所は主イエスが十字架につけられた場面です。受難週の主の日にふさわしい箇所がちょうど与えられました。新共同訳の段落の区切りに従って本日は16節の後半からとしましたが、話は16節前半から続いています。16節全体は、「そこで、ピラトは、十字架につけるため、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った」となっています。ピラトが主イエスを十字架につけるために引き渡し、ピラトから主イエスを引き取った「彼ら」とは誰でしょうか。話の流れからすればそれは15節に出てくる「祭司長たち」となります。ユダヤ人の祭司長たちとのやりとりを経て、ピラトは主イエスに十字架の死刑の判決を下したのです。しかし、主イエスを「されこうべの場所」すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ引いて行き、十字架につけたのは祭司長たちではありません。十字架の死刑はローマ帝国による処刑であって、それを実行したのは、23節にある「兵士たち」です。ピラトの部下であるローマの兵士たちによって主イエスは十字架につけられたのです。ピラトが十字架につけるために主イエスを引き渡したのはこの兵士たちです。しかしヨハネ福音書は、主イエスがユダヤ人の祭司長たちに引き渡されたかのような語り方をしているのです。それは意図的にそうしているのでしょう。直接主イエスを十字架につけたのはローマの兵士たちであり、それを命令したのはピラトだが、しかし主イエスを十字架につけた張本人はユダヤ人たちでありその祭司長たちなのだ、ということをヨハネは語ろうとしているのです。

神の民の罪のゆえに
 それはユダヤ人を悪者にするためではありません。後のキリスト教会はそのように誤解して、ユダヤ人を迫害するという罪を犯しましたが、ヨハネが語っているのは、主なる神の民であるユダヤ人が、その礼拝を司る祭司たちが、神の独り子である主イエスを十字架につけて殺したのだ、ということです。つまり主イエスは、神と関係なく生きている悪者たちによって殺されたのではなくて、神の民として、神に従って生きようとしている者たちによって十字架につけられたのです。私たち主イエスを信じる信仰者も、神の民として、神に従って生きようとしています。つまりこのユダヤ人は今では私たちなのです。主イエスを十字架につけたのは、どこかの悪いやつらではなくて、私たちです。いや自分は主イエスを信じ、従っているのだから十字架につけたりはしない、と思うかもしれません。弟子たちもそう思っていました。しかし彼らは主イエスが捕えられるとみんな逃げてしまいました。ペトロは三度、主イエスのことを「知らない」と言ってしまいました。主イエスは、神の民として生きていたユダヤ人たちの罪のゆえに、また、主イエスに従っていながら結局は裏切ってしまった弟子たちの罪のゆえに、十字架につけられたのです。私たちも彼らと無関係ではありません。主イエスを十字架につけた人々の中に私たちもいるのです。

自ら十字架を背負い
 17節には、「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」とあります。他の三つの福音書には、ゴルゴタへと向かう途中で、シモンという人が主イエスの十字架を無理やり担がされたことが語られていますが、ヨハネはそれを語らず、主イエスが「自ら十字架を背負い」ゴルゴタへと「向かわれた」と語っています。ヨハネは主イエスがご自分で十字架を背負って歩み、その苦しみの全てを自ら引き受けたことを語っているのです。この福音書の10章11節に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とありました。17、18節にも「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえに、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と語られていました。私たちの救いのために、自ら十字架を担い、命を捨ててくださる主イエスのお姿をヨハネは見つめているのです。

罪状書き
 ピラトは主イエスの十字架に、罪状書きを書いて掛けさせました。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。主イエスの十字架を描いた絵画を見るとそのほとんどに、主イエスの頭の上にアルファベットで「I N R I」と書かれた札がつけられています。それがこの罪状書きです。最初のIはイエス、Nはナザレの、Rは王を意味するRex、最後のIはユダヤ人の、というラテン語の言葉のそれぞれ頭文字を並べたものです。他の三つの福音書ではこの罪状書きには、「ユダヤ人の王」ないし「ユダヤ人の王イエス」と書かれていたとあり、「ナザレの」があるのはヨハネだけです。ですから「I N R I」はヨハネ福音書に基づくものです。またヨハネのみが、この罪状書きがヘブライ語、つまりユダヤ人たちの言葉と、ラテン語、つまりローマの言葉、そしてギリシア語、これは当時の地中海沿岸世界の共通語、その三つの言語で書かれていたと語っています。
 ピラトがこの罪状書きを掛けたのは、ユダヤ人たちへの腹いせのためだったと考えられます。彼はイエスを死刑にしたくはなかった。そのような罪は認められないと思っていたのです。しかし祭司長たちを中心とするユダヤ人たちが、イエスは「ユダヤ人の王」と自称したのだから皇帝に背く者だ、もし彼を許したら、あなた自身が皇帝への反逆者となるぞ、とピラトを脅したのです。それで彼は不本意ながらイエスに十字架の死刑の判決を下したのです。そのように自分を脅したユダヤ人たちへの恨みを晴らすために彼は、皮肉を込めて、このイエスこそユダヤ人の王だ、という罪状書きを掲げたのです。一緒に十字架につけられた二人の囚人の真ん中にイエスの十字架を立てたのもそのためです。二人のお供を引き連れたユダヤ人の王、という構図を作ったのです。三つの言語でこの罪状書きを書いたことにもピラトの意地悪な思いが表れています。ユダヤ人以外の人々にも、ユダヤ人たちの王が十字架につけられている、と示して、ユダヤ人たちに屈辱を与えようとしたのです。だから祭司長たちは、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と申し入れましたが、ピラトは「わたしの書いたものは、書いたままにしておけ」と答えてとりあいませんでした。

ナザレのイエス、ユダヤ人の王
 このようにピラトは、ユダヤ人たちへの腹いせのために、精一杯の皮肉を込めてこの罪状書きを掲げたわけですが、しかしこの罪状書きによって、主イエスとは誰であるか、その真実が明らかにされています。十字架につけられた主イエスこそ、神の民であるユダヤ人たちのまことの王であられるのです。ユダヤ人が神の民であるということは、彼らのまことの王は神ご自身だということです。そのまことの王から遣わされた独り子を彼らは十字架につけて殺してしまいました。それは取り返しのつかない、とんでもない罪であり、自分たちが神の民であることを否定してしまう行為でした。しかしこのことによって、神の独り子である主イエスが、神の民の罪を引き受けて死んで下さったという救いの出来事が実現したのです。それによって、神の恵みが人間の罪に打ち勝ったのです。主イエスはご自分が十字架にかかって死ぬことによって神の民の罪の赦しを実現し、それによって神の民のまことの王となって下さったのです。十字架につけられた主イエスというまことの王のもとに、神の民が新たに集められていくのです。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きは、この救いのみ業の実現を告げています。先ほど、主イエスを十字架につけたのは、どこかの悪いやつらではなくて、私たちなのだと申しました。主イエスの十字架の死は私たちと関係のない出来事ではない、主イエスを十字架につけた人々の中に私たちもいる。それは、そこにこそ私たちの救いがあるということです。主イエスは私たちの罪のゆえに十字架にかかって死んで下さり、それによって私たちのまことの王となって下さり、私たちを神の民としてご自分のもとに引き寄せて下さっているのです。主イエスの十字架の死が私たちと関係のない、どこかの悪いやつらの仕業だったとしたら、主イエスによって実現した救いも私たちとは関係のない、誰か他人のことになります。しかし私たちも、主イエスを十字架につけたユダヤ人の一人なのです。私たちも、神の民として生きることのできない罪人です。しかし主イエスはその私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによってユダヤ人の王、神の民の王となって下さったのです。私たちもこの主イエスのもとに新しい神の民として引き寄せられているのです。

すべての人を引き寄せて下さる主イエス
 ピラトが主イエスの罪状書きを三つの言語で、つまり当時知られていた世界の全ての人々が読めるように書いたことにヨハネ福音書は象徴的な意味を見ています。十字架につけられた主イエスが、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」であることは、全世界の人々に告げ知らされるべきことなのです。なぜならば、十字架につけられた主イエスのもとに神の民として、新しいユダヤ人として集められるのは、もはやユダヤ民族だけではなくて、世界中の全ての人々だからです。この福音書の12章32節に、主イエスのこういうみ言葉が語られていました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。十字架につけられ、地上から上げられた主イエスは、ご自分のもとに世界中の人々を引き寄せ、集めて下さっているのです。そしてこの主イエスという王のもとに、新しいユダヤ人、新しい神の民が築かれていくのです。今こうして礼拝を守っている私たちも、十字架の主イエスによって、そのみもとに引き寄せられ、集められています。そこに私たちの救いがあるのです。

ピラトを用いて
 ピラトは、自分が書いた罪状書きにこんな深い意味があり、主イエスによる救いの真理がそこに示されているなどとは夢にも思っていませんでした。彼はただ、自分を脅して不本意な判決を下させたユダヤ人たちへの腹いせのためにこれを書いたのです。「お前たちが望むから、お前たちの王を十字架につけてやったぞ。これがお前たちユダヤ人の王なんだ。よく見ろ。そして世界中の人に見てもらえ」それがピラトの思いだったでしょう。そこには、神への畏れも、主イエスを神の独り子と信じる信仰も全くありません。しかしそのように全く信仰のないピラトが、主イエスによる救いの真理を証しする言葉を書き記したのです。彼が書いた「I N R I」は、十字架につけられた主イエスこそ神の民の王であり救い主であることを告げる言葉として語り継がれ、数々の絵画に描かれてきたのです。神を信じておらず、ローマの総督としてのこの世の権力を自分の思いによって行使しているだけであるピラトを用いて、主なる神は救いのみ業を実現して下さり、その救いを証しする言葉をも彼に語らせておられるのです。ユダヤ人の祭司長たちも、ピラトも、神の救いのみ業の実現のために用いられているのです。

見るに耐えない光景
 それと同じことが23節以下にも描かれています。主イエスを十字架につけた兵士たちは、主イエスの着ていた服を分け合いました。下着までです。主イエスは全てを剥ぎ取られて十字架につけられたのです。その頭には、2節に語られていた「茨で編んだ冠」がかぶせられていました。それを被せたのもこの兵士たちです。茨の冠をかぶせられ、全ての衣服を剥ぎ取られ、手足を十字架に釘打たれて晒されている、それが主イエスの十字架です。それは見るに耐えない残酷で悲惨な光景です。その十字架の下では兵士たちが、役得として得た主イエスの服を分け合っており、下着は一枚織りで分けることができなかったので、くじ引きをして誰のものになるかを決めているのです。自分たちが十字架につけた人の苦しみに無関心であり、その目の前で、奪ったものを分け合い、くじに当たったの外れたのと騒いでいる人間の醜い罪の姿がそこにはあります。これが主イエスの十字架です。私たちは、特に今週の受難週、この主イエスの十字架の有様を見つめつつ歩むのです。それは私たち自身がいかに罪深く、他の人の苦しみに無関心であり、残酷な者であるか、その私たちの罪によって十字架につけられた主イエスがいかに深く苦しまれたのかを、目を見開いて見つめなければならない、ということです。

聖書の言葉が実現するため
 しかしヨハネ福音書は、兵士たちが主イエスの服を分け合い、下着をくじ引きをしたのは、聖書の言葉が実現するためであった、と語っています。その聖書の言葉とは、先ほど共に朗読された、詩編第22編の19節「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」というところです。詩編22編はその全体が主イエスの十字架の死を預言しており、主イエスが十字架の死において味わわれた苦しみを語っています。その中に、着物を分け合い、くじを引くということも語られており、兵士たちはまさにその通りのことをしたのです。つまりこの出来事は、旧約聖書において既に預言されていたのです。それは何を意味しているかというと、これらは全て神のご計画によることだった、ということです。主イエスの十字架は、神のみ心の実現でした。神の独り子であられる主イエスが十字架にかかって死ぬことによって、神の民のまことの王となり、この主イエスのもとに新しい神の民が結集されていくことが、神の救いのご計画、み心だったのです。ユダヤ人の祭司長たちも、ローマの総督ピラトも、その部下である兵士たちも皆、神のご計画の実現のために用いられているのです。

神のみ心、ご計画の実現
 それは決して、彼らが自分の意志ではなく神によってロボットのように遠隔操作されて行動した、ということではありません。祭司長たちは自分たちの信仰の信念によって主イエスを殺そうとしたのだし、ピラトは自分の地位を守るために主イエスに死刑の判決を下し、ユダヤ人たちへの腹いせにあの罪状書きを書いたのだし、兵士たちは自分たちの欲望によって主イエスの服を分け合ったのです。つまり主イエスの十字架をもたらしたのは、自分の思いを神のみ心と取り違える罪、自分の地位を守るために真実を曲げる過ち、人の苦しみに無頓着な冷酷さだったのです。それによって神のご計画、み心が実現したからと言って、それを行った者たちに罪がないとは決して言えません。私たちは、自分の意志と責任において罪を犯し、その結果見るに耐えない悲惨な現実に陥るのです。しかし主なる神は、そのような私たちの罪とそれによる悲惨な現実の中でも、み心を行い、救いのみ業を実現して下さるのです。人間の罪に勝利して、救いを与えて下さるのです。つまり、たとえ人間の罪が圧倒的な力をもって支配しているように見えても、この世の現実を最終的に支配しておられるのは主なる神なのです。兵士たちによって聖書の言葉が実現したと語ることによってヨハネはそのことを示そうとしているのです。

主イエスの十字架を見つめつつ
 私たちは今週の受難週、主イエスの十字架を見つめて歩みます。それは、私たちがいかに罪深く残酷な者であるか、その私たちの罪によって神の独り子主イエスがいかに苦しまらたかを、目を見開いて見つめるということです。しかしそこにおいてこそ私たちは、主イエスの父である神が、私たちの罪とその結果生じた悲惨な現実をも用いて救いのみ業を実現して下さり、主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、その復活によって新しい命、永遠の命の約束を与えて下さっていることをも見つめることができるのです。つまりこの世の現実がいかに悲惨なものであっても、主なる神こそが支配しておられ、恵みのみ心を実現して下さっていることを見つめることができるのです。

新型コロナウイルスによる苦しみの中で
 今この世界は、新型コロナウイルスによる苦しみの中にあります。自分と家族の命が脅かされているという直接的な不安、恐れがあります。仕事が無くなり、経済的な苦しみに陥っている人もいます。またこのウイルスによって人との繋がり、交わりが妨げられて、それによって心の安定を失い、孤独、寂しさ、鬱々とした思いに捕えられている人も多くいます。「変異ウイルス」なども出てきて、いつまで経っても出口が見えない中で疲れ切っており、慣れ親しんできた世界が大きく変わってしまおうとしているという不安や恐れを覚えてもいます。しかし今私たちが新型コロナウイルスによって体験しているこれらの苦しみの現実をも、本当に支配しておられるのは主イエスの父なる神なのです。神がこのことにおいて何をお考えなのかは、すぐには分かりません。これは神の裁きだとか、警告だとかと軽々に言うべきではないでしょう。それはこのウイルスによる病に苦しんでいる人たちや、それによって愛する者を失った人たちを傷つけることにしかなりません。私たちが今なすべきこと、することができることは、主イエスの十字架の死によって、人間の罪とそれによる悲惨な現実に勝利して、主イエスというまことの王のもとにご自分の民を新たに集めて下さった神が、今のこの苦しみの現実においても、恵みのみ心をもって私たちを支配し、救いのみ業を行なって下さっている、そのことを信じて、希望をもって忍耐しつつ、この出来事を通して神が私たちに語りかけておられることを聞き取るために耳を澄ましていくことなのです。

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