主日礼拝

真理と向き合う

「真理と向き合う」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第21章7-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第18章28-40節
・ 讃美歌:

過越の小羊、主イエス
 捕えられた主イエスの身柄は、大祭司カイアファのもとから、ローマ帝国ユダヤ総督であるピラトのもとに送られました。ピラトによる、つまりローマ帝国の下での裁判において、主イエスの十字架の死刑が決定されたのです。主イエスを大祭司のもとから総督官邸に連れて行き、ピラトに引き渡して裁きを求めたユダヤ人たちは、総督官邸には入ろうとしませんでした。それは「汚れないで過越の食事をするため」だったと28節にあります。異邦人であるピラトの家に足を踏み入れると汚れてしまい、その日になされる大切な過越の食事ができなくなる、というのです。過越の食事は、始まろうとしていた過越祭の中心となるもので、過越の小羊の肉をメインとする食事です。この日の午後に過越の小羊が屠られ、夕食にその肉が出されるのです。このことから、ヨハネ福音書が主イエスの十字架の死を、過越の小羊が屠られるその日の出来事として描いていることが分かります。これは他の三つの福音書とは日付が一日ずれています。他の福音書では、主イエスが弟子たちと共に過越の食事をしたこと、それがいわゆる「最後の晩餐」となったことを語っています。つまり過越の食事の翌日に主イエスは十字架につけられたと語っているわけです。しかしヨハネは、主イエスが十字架につけられたのは過越の食事がこれからなされるその日だったとしています。しかも主イエスが死なれたのはその日の午後ですから、まさに過越の小羊が屠られるその時刻に、主イエスが十字架の上で死なれたと語っているのです。ヨハネ福音書の意図は明らかです。ヨハネは、主イエスこそ私たちの過越の小羊であることを示そうとしているのです。過越祭の起源は、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民が、エジプトを脱出することができた、その救いが、過越の小羊が殺されることを通して実現したことにありますが、同じように、主イエスの十字架の死を通して、私たちの救いが実現したのです。この福音書の1章29節で、洗礼者ヨハネが主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったことがこのことへと繋がっています。主イエスは、私たちの罪を取り除き、救いを与えて下さる神の小羊、過越の小羊として、十字架にかかって死んで下さった、ヨハネはそのことを、主イエスの十字架の日付においても語っているのです。

人の子も上げられねばならない
 さて、ユダヤ人たちが官邸に入ろうとしないので、総督ピラトが仕方なく外に出て来て応対した、ということが29節に語られています。ピラトは31節で「あなたがたが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言っています。ピラトは、主イエスの裁判に関わりたくないのです。これはユダヤ人たちの間の信仰の問題であることを彼は見てとっています。ローマの支配を認め、服する限り、その地の人々の宗教に口出しをしない、という方針によって、ローマは、広大な地域の多くの民族を支配する大帝国を築いたのです。しかしピラトのこの言葉に対してユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言いました。ここから、ローマの支配下でユダヤ人の議会には人を死刑にする権限がなかった、と言われることがありますが、本当のところははっきりしません。ヨハネ福音書がこれを語っているのは、次の32節を語るためです。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」とあります。ユダヤ人たちがピラトのもとでの裁判を求めたことによって主イエスの言葉が実現した、とヨハネ福音書は語っているのです。「イエスの言われた言葉」とは、12章32、33節を指しています。主イエスはこう言われました。「『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」。主イエスは、自分は地上から上げられるという仕方で死ぬ、それによって、すべての人を私のもとへ引き寄せる、つまり全ての人を主イエスによる救いにあずからせる、とおっしゃったのです。主イエスが地上から「上げられる」ことによって人々の救いが実現する。そのことはこの福音書の3章14、15節にも語られていました。そこには「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とありました。主イエスが上げられることによって、主イエスを信じる者皆に永遠の命が与えられるのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、民数記第21章7節以下の話です。モーセが旗竿の先に掲げた青銅の蛇を見上げることによって、「炎の蛇」と呼ばれている、おそらくは疫病からの救いが与えられたのです。それと同じように、地上から上げられた主イエスを信じて見上げることによって、救いが実現し、永遠の命が与えられるのです。

ローマによる裁きによって「上げられた」主イエス
 このように、主イエスはご自分が「上げられる」という仕方で死を遂げ、それによって救いが実現すると予告しておられました。それは、十字架につけられて死ぬことを予告しておられたということです。主イエスの十字架の死によって、モーセが青銅の蛇を掲げたことによって与えられたのと同じ救いが実現するのです。いや正確に言えば、モーセが掲げたあの青銅の蛇は、主イエスの十字架の死を予告していたのです。このように、主イエスが「上げられる」こと、十字架につけられることに大きな意味があるわけですが、この十字架による死刑は、ローマ帝国の死刑の仕方でした。ユダヤ人の死刑は「石打ち」です。それでは「上げられる」ことにはなりません。主イエスは、ローマ帝国の総督によって裁かれたからこそ、「上げられ」たのです。ユダヤ人たちはイエスを死刑にするためにピラトによる裁きを求めたわけですが、それによって、御自分が上げられることによって救いが成就すると語っておられた主イエスの言葉が実現した、つまり神のみ心が実現したのだとヨハネ福音書は語っているのです。

主イエスは王であるか
 さてユダヤ人たちの求めを聞いたピラトは、官邸に入り、主イエスを尋問します。33節です。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。ローマの総督であるピラトの関心はそこにのみあります。つまり主イエスが「自分はユダヤ人の王だ」と主張するなら、それはローマ帝国のユダヤ人に対する支配を否定して自分こそが王だと言っているわけですから、ローマに対する叛逆となるのです。それ以外の信仰の問題は彼にとってどうでもよいことです。
 ピラトのこの問いに主イエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」とお答えになりました。これはピラトの問いへの答えにはなっていませんが、しかし大事なことを私たちに教えています。つまり、主イエスが王であるかどうかは、「誰かがこう言っている」という問題ではなくて、私たちが主イエスのことをどう思うか、という問題なのだ、ということです。ピラトと共に私たちも、主イエスから、「あなたは私をどう思うのか、わたしが王であることを信じ、受け入れ、私に従うのか」と問われているのです。ピラトはそれに対して「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」と言いました。「私はユダヤ人ではないのだから、お前がユダヤ人の王かどうかは私には関係ない。私は総督として事実を調べているだけだ」ということです。私たちも主イエスから「あなたは私を王であると信じるのか」と問いかけられて、最初はこのように答えるのではないでしょうか。つまり、「私はあなたを信じているわけではないのだから、あなたが王であるかどうかは私には関係ない」ということです。私たちの誰もが、最初は主イエスに対してそのように、「自分には関係ない。自分の問題ではない」と思っているのです。

主イエスの王国
 しかし主イエスはピラトに、そして私たちにさらに語りかけて来られます。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。「わたしの国」と主イエスはおっしゃいました。「国」は「王国」という言葉です。つまり「わたしの国」とは「わたしが王である国」という意味です。主イエスは確かにご自分の王国の王であられるのです。しかしその王国は「この世には属していない」。ここは正確に訳せば「この世からではない」となります。この世の国は、この世の力や権力によって成り立っているけれども、「わたしの国」はそのような力よって築かれるものではない、ということです。だからそれは「わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦」うことによって守られるものではないのです。主イエスという王のもとには、この世の国とは違う王国が築かれているのです。この主イエスの王国とどう関わるのかが、私たち全ての者に問われているのです。
 ピラトは、「わたしの王国」という主イエスのお言葉に反応して「それでは、やはり王なのか」と問いました。彼には、この世の力や権力によらない王国は理解できません。イエスがローマの権力と対抗する王であろうとしているのか、ということだけが彼の関心事なのです。主イエスはそれに対して「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」とおっしゃいました。これも謎のような言葉ですが、主イエスの思いは先ほどと同じです。「イエスは王であるか」と問う時に私たちは、逆に主イエスから、あなたはどう言うのか、私が王であることを信じるのか、と問われるのです。

真理について証しをするために
 そして主イエスはさらに「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とおっしゃいました。主イエスは、真理について証しをするためにこの世に来られたのです。真理に属する人はその主イエスの声に耳を傾けるのです。「真理に属する人」とは、真理を受け入れ、それに従う人です。その人々は主イエスの言葉を聞いて受け入れ、主イエスが王であられることを信じて従っていくのです。そこに、主イエスの王国が築かれていきます。あなたは私が証ししている真理を信じて、私の王国の一員となるのか、と主イエスはピラトに、そして私たちに問いかけておられるのです。

「真理とは何か」
 主イエスのこの問いに対してピラトは、「真理とは何か」と言って、ユダヤ人たちのもとに出て行きました。ピラトのこの言葉はどのような思いで語られたのでしょうか。彼は主イエスが、「わたしは真理について証しをするためにこの世に来た」とおっしゃったことを受けて、「真理とは何か」と言っています。主イエスが証ししている真理とは何なのだろうか、と思ったのです。しかし彼はその問いの答えを主イエスに求めてはいません。主イエスと更に語り合って、真理とは何かを見出そうとはしていないのです。つまりこの言葉は、主イエスに対する真剣な問いではなくて、彼の独り言です。彼は主イエスの言葉を聞いて思ったのではないでしょうか。「真理か。久しぶりに聞いた青臭い言葉だな。この世の修羅場の中でローマ帝国ユダヤ総督の地位を得た自分にはよく分かる。この世に絶対的真理などないし、そんなものにこだわっていたらこの世を渡ってはいけない。自分はとうの昔に、真理とは何か、などと考えることをやめた。しかし今目の前にいるこの男は、大真面目に『わたしは真理について証しをするために来た』などと言っており、そのために殺されそうになっている。この男の姿は滑稽で、哀れで、しかし忘れていた何かを思い出されるような、そんな懐かしさをも抱かせる」。これは私の想像に過ぎませんから、そのように捉えなければならないというわけではありません。いろいろな捉え方ができるでしょう。皆さんもそれぞれで、ピラトの思いを想像してみて下さったらよいと思います。しかしいずれにせよピラトは、主イエスを死刑にはしたくない、助けたいと思ったのです。彼はユダヤ人たちに、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言いました。そして、過越祭に一人の囚人を釈放する慣例があるから、それによってイエスを釈放しよう、と持ちかけたのです。しかしユダヤ人たちは、イエスではなく、強盗だったバラバを釈放することを大声で求めました。

滑稽で哀れな生き方
 この後19章に入ってからも、ピラトは何とかして主イエスを無罪放免にしようとしています。しかしユダヤ人たちは聞き入れず、結局ピラトはその声に負けて、不本意ながら、十字架の死刑の判決を下すことになるのです。ヨハネ福音書は、ピラトと主イエスとのやりとりを、他の福音書よりもかなり長く詳しく語っています。そこに描き出されているのは、主イエスとユダヤ人との間で揺れ動いているピラトの姿です。彼は、イエスを死刑にする理由などないと思いながら、結局その判決を下さざるを得なくなるのです。彼が主イエスとユダヤ人の間で右往左往している姿は物理的にも描かれています。ユダヤ人たちは最初に見たように官邸に入ろうとせずに外にいます。囚人である主イエスは官邸の中にいます。裁いているはずのピラトが、その間をピンポン玉のように行ったり来たり、出たり入ったりしているのです。19章に入ってからもそうです。実はこの場面で一番滑稽で哀れな姿を示しているのは、最も地位が高く、権力を握って裁いているはずのピラトなのです。
 どうしてそのようなことになるのでしょうか。それは彼が、主イエスが証ししておられる真理としっかり向き合わなかったからだと言えるでしょう。彼は「真理とは何か」と言いつつ、それを独り言で終わらせてしまって、真理を本当に求めようとはせず、そこから目を逸らして、この世の力関係の中で自分の立場を守りながらうまく立ち回ろうとしたのです。その結果、主イエスとユダヤ人たちの間で右往左往し、結局不本意な判決を下さざるを得なくなったのです。主イエスの証ししておられる真理と向き合うことなしにこの世を生きていこうとする時に、私たちはこのように、この世を支配している闇の力に翻弄されて、正しくないと知りながらそれを止められないという不本意な生き方、上手に世渡りをしているように見えて、実はまことに滑稽で哀れな生き方へと陥っていくのです。

主イエスが証ししておられる真理と向き合う
 私たちに本当に必要なことは、主イエスが証ししておられる真理としっかり向き合うことです。その真理とは何か。それを一言で語っていたのが、この福音書の3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神がその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている、その神の愛こそ、主イエスが証ししておられる真理です。主イエスはその神の愛を、言葉によって証しして下さっただけでなく、十字架の死と復活によってそれを実現して下さったのです。先ほどの、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子主イエスも上げられなければならない、それによって、主イエスを信じる者に永遠の命が与えられる、ということが語られていたのは、3章14、15節でした。それに続いてこの16節が語られています。主イエスが上げられ、十字架にかけられて死んで下さったことにこそ、独り子をお与えになったほどに世を愛して下さった、神の愛が示されているのです。そして父なる神はさらに、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。十字架と復活の独り子主イエスを信じて見上げ、洗礼を受けて主イエスと結び合わされることによって、私たちも主イエスと共に永遠の命を生き始めることができるのです。主イエスの十字架の死と復活によって実現したこの神の愛こそ、主イエスが証ししておられる真理です。真理とは何か、という問いへの答えは、主イエスの十字架の死と復活においてはっきりと示されているのです。主イエスの十字架の死と復活を見上げることによって私たちは、神の救いの真理を知り、それによって生きることができるのです。その真理は決して青臭い理想主義ではありません。この世の現実とかけ離れたユートピアを夢見ることでもありません。むしろ、この世の苦しみや悲しみ、人間の罪や弱さの全てを、神の独り子である主イエスが背負って下さり、十字架にかけられて死んで下さったという驚くべき愛の真理です。私たちの罪も弱さも、苦しみも悲しみも、主イエスが引き受けて苦しみを受け、死んで下さったのだ、という救いの真理です。この真理と向き合うことによって、私たちは新しく生きることができるのです。疫病に苦しんでいたイスラエルの民は、モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇を見上げたことによって生かされました。今私たちは、新型コロナウイルスによる苦しみの中におり、出口の見えないこの苦しみにあえいでいます。弱い私たちはその中で翻弄され、右往左往してしまうし、罪に陥ってしまうこともあります。まさに滑稽で哀れな姿をさらしてしまうのです。その私たちに神は、主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活による救いの真理を証しして下さっています。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを見上げることによって私たちは、独り子の命をさえ与えて下さった神の愛の真理をと向き合うことができます。そこにひとすじの道が示され、希望を与えられて、新しく生き始めることができるのです。

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