主日礼拝

子なる神の栄光

「子なる神の栄光」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第10章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第17章1-5節
・ 讃美歌:

主イエスの祈り
 ヨハネによる福音書は、13章から17章までが、いわゆる最後の晩餐の場面となっています。この晩餐の後、主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられて殺されるのです。その直前に弟子たちと共にとられた最後の食事が最後の晩餐です。そこにおいて主イエスは弟子たちに長い教えをお語りになりました。それが16章の終わりまでのところです。本日からは第17章に入ります。ここにも主イエスのお言葉が語られていますが、この17章は、冒頭の1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とあるように、天を仰いでの、つまり父なる神に向けての祈りです。最後の晩餐において弟子たちに語られた長い教えは「告別説教」、別れの説教と呼ばれたりしていますが、その説教の終わりに主イエスは祈られたのです。

三つの部分
 この祈りは三つの部分に分けられます。第一の部分が、本日読む1?5節です。ここは、主イエスご自身に栄光を与えてください、という願いです。ご自分のための祈り、と一応言っておきましょう。第二の部分は6?19節です。ここは、9節に「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」とあることから分かるように、主イエスを信じ従っている弟子たちのための祈りです。そして第三の部分は20節以下です。20節に「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあります。彼ら弟子たちの言葉によって主イエスを信じる人々、それは弟子たちの証し、伝道によって主イエスを信じるようになる、後の時代の人々です。そこには私たちも含まれます。弟子たちの伝道によって生まれるキリスト教会に連なって生きる信仰者たちのための祈りが第三の部分なのです。このように主イエスは、最後の晩餐における長い教えの最後に、ご自分のため、弟子たちのため、そして私たちのために祈られたのです。

時が来た
 本日はこの主イエスの祈りの第一の部分、ご自分のための祈りを見ていきます。1節に「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」とあります。「いよいよ時が来た」と主イエスは言っておられます。そのことは、最後の晩餐の場面の始まりである13章1節に、既に語られていました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。つまり「時が来た」というのは、主イエスがこの世から父のもとへ移る時が来た、ということです。それは具体的には、捕えられて十字架につけられて死ぬ、そして復活して天に昇る、その時が来たということです。この主イエスの十字架の死と復活、昇天によって、私たち人間の罪の赦しが実現し、永遠の命の約束が確かなものとなるのです。つまり私たちの救いが実現するのです。しかしそれは同時に、主イエスがこの地上を去り、父なる神のもとに行くということでもあります。それによって弟子たちは、救い主イエスのお姿をもう見ることができなくなり、自分たちだけでこの世を生きていかなければならなくなるのです。それは弟子たちにとって厳しい試練です。目に見える現実においては、この世の力、人間の力が支配しているのです。その中で、主イエスによる救いを、目に見える拠り所なしに信じて生きるのは大変なことです。さらにそこにおいて、主イエスを信じる者たちは、世の人々に信仰を理解してもらえずに憎まれ、迫害を受けるのです。弟子たちはこれからそういう苦しみ、試練の中を歩むことになる。主イエスはその弟子たちをこの上なく愛し抜いて、彼らと最後の晩餐を共にし、そこで彼らのために長い教えをお語りになりました。そこで示されたのは、父のもとに行く主イエスに代って、「弁護者」と呼ばれる聖霊が遣わされるということでした。その聖霊の働きによって、父のもとに行かれた主イエスが、目には見えない仕方で戻って来てくださり、彼らと共にいて下さるのです。そしてこの聖霊が、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた救いを、彼らにはっきりと分からせて下さるのです。そして彼らを、主イエスというまことのぶどうの木に繋がる枝として下さり、豊かに実を結ぶ者として下さるのです。「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」、それはこのような救いの実現の時なのだ、ということを語ることによって、主イエスは試練の中を歩もうとしている弟子たちへの励ましを語られたのです。

人の子が栄光を受ける時
 またこの「時が来た」ことは、12章23節においては「人の子が栄光を受ける時が来た」とも語られていました。主イエスがこの世から父のもとへ移るとは、人の子としてこの世を生きてこられた主イエスが、神の子としての栄光を受けるということです。しかしそこで具体的に起るのは、十字架につけられて殺されるということです。栄光を受けるのとはおよそ正反対のことが起ろうとしているのです。しかしその十字架の死を通してこそ主イエスは栄光を受け、そこに私たちの救いが実を結ぶのだ、ということを語っているのが、12章23節に続く24節の、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」というみ言葉です。主イエスは一粒の麦として地に落ちて死にますが、父なる神によって復活と永遠の命を与えられます。そこに主イエスの神の子としての栄光が現されるのです。主イエスがこの栄光を受けることによって、主イエスを信じて生きる私たちにも、復活と永遠の命の約束が確かに与えらようとしているのです。

主イエスの栄光こそ私たちの救い
 本日の箇所における主イエスの祈りは、このことを前提としています。主イエスが、この世を去って父のもとに行く時がいよいよ来たことを意識しつつ、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」」と祈り願ったのは、主イエスご自身が栄光を受けることによってこそ、私たち、主イエスを信じる者たちの救いが実現するからです。つまり主イエスはここで、十字架の苦しみと死に臨もうとしているご自分への支えや助けを祈り願われたのではありません。ご自分に栄光が与えられることによって私たちの救いが実現することを祈り願われたのです。先ほど、主イエスの祈りのこの第一の部分は、「ご自分のための祈り」だと「一応言っておく」、と申しましたのはそのためです。主イエスはこの祈りを、ご自分のためではなくて、私たちの救いのために祈って下さったのです。主イエスが神の子としての栄光をお受けになることこそが、私たちの救いだからです。本日の箇所から私たちはそのことをしっかり聞き取っていきたいのです。

主イエスの権能
 2節には「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」とあります。ここに、主イエスに栄光が与えられることが、私たち主イエスを信じる者たちの救いであることの理由が示されています。父なる神は、子である主イエスに、「すべての人を支配する権能」をお与えになったのです。それが、主イエスに与えられた栄光です。栄光というのは単なる誉れ、名誉ではありません。権能、つまり何かを行う権威と力です。何を行うのかというと、「永遠の命を与える」ことです。父なる神は独り子主イエスに、私たち人間に永遠の命を与える権威と力とをお与えになったのです。主イエスはその権能によって、私たちに永遠の命を与えて下さるのです。私たちは誰もが、いつか必ず肉体の死に捕らえられていく限りある命を生きていますが、その私たちに主イエスは、肉体の死を超えて神によって生かされる命、もはや死の力に支配されてしまうことのない永遠の命を与えて下さるのです。神の独り子である主イエスは、そのために人間となってこの世に来て下さいました。主イエスご自身が肉体をもってこの世を生きて下さり、十字架にかかって死ぬことによって、私たちがこの世で味わっている苦しみや悲しみ、またこれから味わうことになる死の恐れや苦しみの中を歩んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さいました。そして主イエスに、ご自分を信じる者に、復活と永遠の命を与える権能を授けて下さったのです。この主イエスの権能即ち栄光を信じることが、主イエスを救い主と信じることです。それによって私たちにも、復活と永遠の命の約束が与えられるのです。

主イエスにゆだねられた私たち
 しかしこの救いは、私たちが主イエスを信じることによってではなくて、父なる神が私たちを主イエスに「委ねて下さった」ことによって与えられるものです。「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」と主イエスはおっしゃいました。私たちが教会の礼拝に集い、主イエスを信じて、その救いにあずかることができるのは、父なる神が私たちを主イエスに委ねて下さった、もっとはっきり訳せば「与えて下さった」からなのです。今はまだ信仰を持ってはいないという方々も、父なる神が、独り子主イエスに委ね、与えようとして、この礼拝へと招いて下さっているのです。父なる神によって独り子主イエスに委ねられ、与えられ、主イエスのものとされることによって、私たちは主イエスの栄光、権能の下に置かれ、永遠の命を与えられるのです。

永遠の命
 3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。永遠の命を与えられることが救いだと申しましたが、私たちはその永遠の命を、肉体の死の後どうなるのか、ということとして受け止めがちです。死んでしまって全てが終わりではなくて、何らかの仕方でなお命が続いていく、それが永遠の命であると捉えているのです。そしてそのような捉え方をしているために私たちはしばしば、永遠の命は今のこの人生の役には立たない、と思ってしまいます。もっと年をとって、死が目前に迫ってきたら、永遠の命を求め、そこに慰めや平安を見出すようになるかもしれないが、今、目に見える具体的な現実の中で、様々な苦しみ、困難、不安を抱えて生きているこの人生の真っ只中においては、永遠の命が救いだと言われてもピンと来ない、それがそんなに慰めや力づけになるとは思えない、つまり永遠の命にはそんなに魅力を感じない、そう思っているのではないでしょうか。しかし永遠の命というのは、死んだ後どうこうという話ではありません。主イエスがここで言っておられるように、唯一のまことの神と、その神から遣わされた独り子、救い主であるイエス・キリストを知ること、つまり父なる神と主イエスによる救いを信じて生きるところに、永遠の命があるのです。つまり永遠の命は、死んだ後のことではなくて、今この人生の中で生き始めることができるものなのです。

唯一のまことの神を信じる
 唯一のまことの神を信じて生きるところに永遠の命があります。それは、この世界と私たちの人生を本当に支配し、導いているのは、ただお一人の神なのだ、ということです。この世界と私たちの人生は、いろいろな力に支配され、翻弄されています。今は何と言っても、新型コロナウイルスが猛威を振って、私たちの命と生活とを脅かしています。このウイルスに代表されるような、様々な得体の知れない力が私たちの人生を支配していることを私たちは感じています。そしてそれらの背後で私たちを最終的に飲み込もうとしているのが死の力です。しかし、それらの全ての力を超えて、ただ一人の神がこの世界と自分の人生を本当に支配し、導いておられる、そのことを信じることが聖書の教える信仰です。その神は、私たちに命を与え、人生を導き、肉体の死をもってそれを終わらせられる方です。自分の人生の全てが、肉体の死をも含めて、この神のご支配の下にあることを信じるなら、私たちは死の力から、また私たちを脅かしている様々な力から解放されて生きることができるのです。

主イエス・キリストを信じる
 しかしその解放は、唯一のまことの神を信じることだけでは得られません。その神が遣わして下さった独り子なる神、救い主イエス・キリストを信じることが、この解放、救いには不可欠なのです。唯一のまことの神が、この世界と私たちの人生をどのようなみ心によって支配しておられるのかが、独り子主イエス・キリストを遣わして下さったことにおいてはっきりと示されているからです。神の独り子である主イエスは、人間となってこの世を生きて下さり、私たちがこの世の人生において味わう苦しみや悲しみを味わって下さり、そして私たちの全ての罪をご自分の身に負って、十字架にかかって死んで下さいました。私たちは元々、神を無視し、神に逆らい、自分が主人となって生きようとしている罪人でしたが、その私たちが罪のゆえに本来死ななければならない絶望の死を、神の独り子である主イエスが代わりに引き受けて下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。この主イエスの十字架の死によって神は、私たちの罪を赦して、私たちが神の子とされて新しく生きることができるようにして下さいました。さらに父なる神は主イエスを死人の中から復活させ、永遠の命を与えて下さいました。それによって、主イエスを信じ、主イエスと結ばれて生きる者にも、復活と永遠の命の約束を与えて下さったのです。私たちの罪を赦し、肉体の死を超えた新しい命、神と共に生きる永遠の命を与えて下さるという唯一のまことの神の救いのみ心が、独り子主イエス・キリストによって示され、実現したのです。その神のみ心を簡潔に語っていたのが、この福音書の3章16節のみ言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスの父である唯一のまことの神のこの愛を信じ、救い主イエス・キリストと共に生きるところにこそ、死の支配から解放された新しい命、永遠の命があります。私たちはその新しい命、永遠の命を、今この時から生き始めることができるのです。

主イエスの栄光こそ私たちの救いの土台
 4節には「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」とあります。主イエスは父なる神からこの地上に遣わされ、3章16節に語られていた父のみ心に従って救いのみ業を行い、父なる神の栄光を現しました。今度は父がわたしに栄光を与えて下さい、という願いが5節です。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」。十字架と復活を経て父のもとに行く主イエスの栄光が、救い主としての権能が、今や明らかにされるのです。でもその栄光は実は、主イエスが、世界が造られる前に、みもとで持っていた栄光です。主イエス・キリストは、はじめから、神と共におられた、神である言であられたのです。そのことをこの福音書は冒頭のところで語っていました。1章1?3節を振り返って見ましょう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。この言が肉を取ってこの世に来られたのが主イエス・キリストです。「万物は言によって成った」とあるように、世界が造られた時に、独り子なる神主イエスはそこにおられ、天地創造のみ業に関わっておられたのです。主イエスの栄光とはこのように、天地をお造りになった神の栄光です。しかし主イエスはその栄光を放棄して、私たちと同じ一人の人間となってこの世を生きて下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そのようにして救いのみ業を行なって下さった主イエスが、復活して永遠の命を生きる者となり、今や父なる神のもとで、世界が造られる前に父のもとで持っておられた栄光を回復しておられるのです。そこに、私たちの救いの揺るぎない土台があります。主イエスの神の子としての栄光こそ、私たちに約束されている永遠の命の確かな根拠なのです。

目を天に上げて祈る
 主イエスは、いよいよその栄光を回復されるに際して、父なる神に祈られました。それは様々な苦難を負って地上を生きていく私たちのために主イエスが示して下さったお手本であると言えます。「天を仰いで」と1節にあるのは、直訳すれば「目を天に上げて」となります。このことこそ、主イエスが私たちのために示して下さったお手本なのです。目をこの地上に向けていれば、そこに見えるのは様々なこの世の力の支配であり、ウイルスの猛威であり、それによって私たちを飲み込もうとしている死の力です。しかし私たちは、主イエスのお手本に従って、目を天に上げることができます。そして、この世界を造り、支配しておられる唯一のまことの神と、その父なる神が遣わして下さった救い主、独り子なる神主イエス・キリストが、復活して天に昇り、父なる神のもとにいて、この世界を、そして私たちの人生を、支配し、守り、導いて下さっている、その主イエスの栄光を見つめることができるのです。そしてこの父と子なる神から、今や聖霊が遣わされて私たちと共にいて下さり、私たちの思いを天に向け、主イエスのみ名によって父なる神に祈ることができる者として下さっています。目を天に上げ、主イエスの父である神に祈ることができる私たちは、そのことによって既に永遠の命を生き始めているのです。  

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