「わたしは既に世に勝っている」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第26章12-13節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第16章25-33節
・ 讃美歌:
長い教えの最後のところ
ヨハネによる福音書第16章の最後のところに来ました。主イエスが弟子たちと共になさったいわゆる「最後の晩餐」の場面が13章から続いてきています。そこにおいて主イエスは弟子たちに、長い教えを語ってこられました。14章から16章のほとんどが主イエスの教えです。その最後のところを本日読みます。次の17章も主イエスのお言葉ですが、ここは弟子たちのための、そして弟子たちの証しによって主イエスを信じる、後の信仰者たち、つまり私たちのための祈りです。長い教えとこの祈りの後、18章からは主イエスの逮捕、裁判そして十字架の死の場面となっていくのです。
その日には
16章の終わりである本日の箇所は、主イエスの長い教えのまとめとなっています。25?28節にそのまとめがなされています。25節には「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とあり、それを受けて26節に「その日には、あなたがたはわたしの名によって父に願うことになる」とあります。「今まではこうだった。しかしこういう時が来る、その日には‥」という話の流れです。今までとは違う「その日」が来る、と主イエスはお語りになったのです。今までとその日の違いは25節によれば、今まではたとえを用いて話してきたが、その日が来れば、はっきり父について知らせる、ということです。主イエスは父なる神のもとから遣わされてこの世に来て、父なる神の愛による救いを告げ知らせておられますが、今まではそれをたとえを用いて、つまり隠された仕方で語って来たが、その日には、はっきりと、明確に知らせる、と言っておられるのです。父についてはっきり知らせるとは、父なる神が独り子主イエスを遣わして下さったほどに私たちを愛して下さっていることをはっきり知らせ、分からせて下さる、ということです。つまりこの福音書の3章16節に語られていた「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛がはっきり示され、その愛が自分に注がれていることが分かるようになる、それが「その日」に起ることです。
主イエスの名によって父に願う
その日には、「あなたがたはわたしの名によって父に願うことになる」、と言われています。「その日」に弟子たちは、主イエスの名によって、父なる神にお願いするようになるのです。26節後半から27節にかけてには「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」とあります。「その日」に弟子たちが主イエスの名によって父なる神に祈り願うのは、独り子である主イエスの名によってでないと祈りが父なる神に届かないからではありません。彼らは、父なる神ご自身が、独り子を与えて下さったほどに自分たちを愛して下さっていることをはっきり示されているのです。だからその神の愛に信頼して祈り願うことができるのです。その祈りが主イエスの名によってなされるのは、27節後半に語られているように、「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたから」です。主イエスが父なる神のもとから出てこの世に来て下さった、そこに父なる神の愛が示されています。この神の愛を信じた者は、その愛をもたらして下さった主イエスを愛し、主イエスの名によって父なる神に祈り願っていくのです。「その日」が来たら、主イエスを信じる者たちは、独り子を与えて下さったほどに自分を愛して下さっている父なる神の愛に全幅の信頼を置いて、主イエスのみ名によって父なる神に祈り願うようになるのです。
「その日」はいつ来るのか
この「その日」はいつ来るのでしょうか。主イエスはこのみ言葉を最後の晩餐において語っておられます。28節に「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」とありますが、これは、最後の晩餐の時点での主イエスのお言葉です。主イエスはこの後、捕らえられ、翌日には十字架につけられて殺され、三日目に復活するのです。それらのことを通して、この世を去って父のもとに行こうとしておられるのです。この時点では「その日」はまだ来ていません。では「その日」はいつ、どのようにして来るのでしょうか。それは、父のもとに行かれた主イエスから、「弁護者」と呼ばれている聖霊が遣わされることによってだ、ということがこれまでのところに語られていました。先週読んだ16節以下には、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と語られていました。それは、十字架の死と復活によって父のもとに行く主イエスが、もう一度来て下さり、弟子たちと会って下さるということです。14章の18節にも、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と語られていました。父のもとに行くことによって弟子たちのもとから去って行った主イエスが、戻って来て共にいて下さるのです。それは弁護者である聖霊によってです。16章7節に「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」とありました。その弁護者の働きについては、14章26節にこう語られていました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。弁護者である聖霊が遣わされることによって、主イエスが目には見えないけれども戻って来て共にいて下さり、主イエスによる救いを、父なる神の愛を、はっきりと知らせ、分からせて下さるのです。この聖霊が注がれる日こそが「その日」なのです。
聖霊によって「その日」は来ている
つまり「その日」とは、使徒言行録に語られているペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生した日です。その日に弟子たちは聖霊を注がれ、主イエスによる救い、神の愛をはっきりと知らされ、力を与えられて救い主イエス・キリストを宣べ伝え始めたのです。それによってこの世にキリスト教会が生まれました。「その日」とは、聖霊によって教会が生まれた日です。このことは一度限りではなく、教会において起こり続けています。人々が聖霊を注がれ、父なる神の愛をはっきりと示され、主イエスの名によって父なる神に祈るようになる、という出来事が常に新たに起っている場が教会です。この福音書が書かれたヨハネの教会もそうでした。つまりこの福音書が書かれ、読まれた教会の人々にとって、「その日」は既に来ているのです。彼らは今まさに「その日」を生きているのです。
「その日」を生きている信仰者
29、30節に語られている弟子たちの言葉は、聖霊のお働きを受けて「その日」を生きているヨハネの教会の信仰者たちの言葉として読むべきでしょう。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」とあります。たとえを用いずにはっきりと話している、それは「その日」が既に来ているということです。今や聖霊が主イエスのことを、そして父なる神のことをはっきりと示し、分からせて下さっているのです。それによって彼らは「あなたが何でもご存じ」であることが分かったと言っています。主イエスは、神の愛による救いについて、全てをご存じであり、その救いを与えて下さる方です。つまり主イエスこそ道であり、真理であり、命です。主イエスこそまことのぶどうの木であり、その木に繋がっていてこそ私たちは実を結ぶことができるのです。教会に連なっている信仰者たちは、聖霊のお働きによってこれらのことを示され、信じているのです。またここには「だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」とも言われています。ここは新しい聖書協会共同訳では「誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました」となっています。こちらの方が正確な訳です。弟子たちは、自分たちは神による救いがよく分かったので、もう質問する必要はなくなった、と言っているのではなくて、主イエスが神の愛による救いを、もはや誰にも質問される必要がないくらいはっきりと示し、与えて下さっていることが、聖霊のお働きによって分かった、と言っているのです。聖霊によって彼らはこのように主イエスが神から遣わされた救い主であられることをはっきりと知り、信じることができたのです。30節後半の「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」という信仰の告白を、聖霊が与えて下さったのです。これは最後の晩餐の時点での言葉ではなくて、聖霊が降って誕生した教会において、「その日」を生きている者たちの信仰の告白です。私たちも、聖霊によって「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」という告白を与えられるなら、「その日」を生きる者とされているのです。
散らされる時
この信仰を告白して生きている者たちに主イエスは31節以下で、「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と語っておられます。「今ようやく信じるようになったのか」という訳は、弟子たちの、また私たちの物分かりの悪さを責めているように聞こえますが、「ようやく」という言葉は原文にはありません。聖書協会共同訳は「今、信じると言うのか」となっています。主イエスは私たちの物分かりの悪さをを責めておられるのではなくて、聖霊によって主イエスを信じる信仰を告白して生きている私たちに、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る、今既にそういう時が来ているのだ、と告げておられるのです。ヨハネ福音書がそこで見つめているのは、主イエスを信じる者たちが世の人々に憎まれ、迫害を受けているという現実です。16章2節にはこう語られていました。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃、イエスをキリストつまり救い主と信じるキリスト教の信仰とユダヤ教との違いが明確になり、キリスト信者たちがユダヤ人の会堂から追放されるという迫害が起っていました。そのような迫害の中で、「散らされて自分の家に帰ってしまう」、つまり信仰を失ってしまう人々もいたのです。「自分の家に帰ってしまう」とありますが、「家」という言葉も原文にはありません。直訳すれば、「自分自身のところへと散らされる」となります。主イエスのもとに共に集っていた者たちが、散らされて、それぞれ自分の思いによって生きるようになり、「わたしをひとりきりにする」、つまり主イエスを見捨てて、離れて行ってしまうのです。そういうことが現実に起っている中で、この福音書は書かれたのです。
今私たちは迫害とは違う形で、しかし同じような事態に直面しています。新型コロナウイルスによって、自分や家族の命の危機にさらされており、経済的苦境に陥っている者も多くあります。そういう中で不安や恐れに支配されていき、主イエス・キリストによる救い、神の愛を信じる信仰を失ってしまう危機に直面しているのです。さらにこのウイルスは私たちから、共に集まることを奪い、交わりを妨げています。つまり私たちはウイルスによって、それぞれに所に散らされているのです。主イエス・キリストのもとに共に集っていた私たちが、集まることができなくなり、散らされてしまうことによって、主イエスと父なる神から心が離れ、それぞれが自分の思いによって生きるようになってしまう、そういう時が既に来ていると言えるでしょう。主イエスが告げておられることがまさに今私たちにも起っているのです。
主イエスと父なる神の連携による救い
私たちが今直面しているこの現実を見つめつつ、主イエスは32節の後半で「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言っておられます。迫害の苦しみの中で、あるいは新型コロナウイルスによる苦しみの中で、私たちが主イエスを見捨てて離れ去ってしまうことがあっても、主イエスは一人ではない、父なる神が主イエスと共におられるのです。主イエスはここで、自分は独りぼっちになっても父なる神が共にいて下さるから寂しくない、と言っておられるのではありません。主イエスと父なる神とは常に共にあり、一体となって人間の救いを実現している、ということを告げておられるのです。その救いとはあの3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということです。私たちが主イエスを見捨てて離れ去ってしまったとしても、父なる神と主イエスによるこの救いは確かに実現しているのです。その救いに私たちをあずからせて下さるのが聖霊なる神です。聖霊のお働きによって私たちは、父なる神と独り子主イエスとが一体となって実現して下さった救いにあずかることができるのです。私たち自身は弱く罪ある者で、この世の歩みにおける苦しみに負けてしまい、気落ちしてしまい、主イエスのもとから散らされてしまうことがあります。しかし主イエスは父なる神と共に、私たちをこの上なく愛し抜いて下さり、私たちのために十字架の死への道を歩み通して、復活と永遠の命の約束を確かなものとして下さっているのです。
わたしは既に世に勝っている
最後の33節は、13章以来語られて来た長いお話しの締めくくりです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。私たちのこの世の歩みには様々な苦難があります。今は何と言っても、新型コロナウイルスのパンデミックという苦難が私たちを、この世界全体を覆っています。この苦難の中で私たちは、不安や恐れに捕えられ、主イエス・キリストを見失い、独り子主イエスを与えて下さった父なる神の愛を見失い、神のもとから散らされて、それぞれが自分の思いによって生きるようになってしまいがちです。神の愛を見失って自分の思いによって生きていく時に私たちは決して自由になることはできません。むしろこの世の様々な力に支配されてしまうのです。そこには平和はありません。本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第26章12、13節に語られているように、主なる神以外の支配者が私たちを支配しているところには平和はないのです。私たちが主なる神のみ名だけを唱えるようになるところに、平和が授けられるのです。神の独り子主イエスは、私たちにその平和を得させるためにこの世に来て下さいました。そして十字架の死に至るご生涯を歩み通して下さったことによって、「わたしは既に世に勝っている」という救いを実現して下さったのです。主イエスは既に世に勝っている、それは、神を無視し、み心に従わず、自分の思いによって生きている私たちの罪が、主イエスの十字架の死によって既に赦されている、ということです。独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている神の愛が、私たちの罪に勝利し、その支配から私たちを解放して下さっているのです。さらに、主イエスは復活によって死の力にも勝利して下さっています。それは、父なる神が死の力を打ち砕いて主イエスに復活と永遠の命を与えて下さったということです。主イエスの復活によって、神の愛が死の力にも勝利し、復活と永遠の命を私たちに与えて下さることが示されたのです。主イエスは、私たちを支配している罪と死の力に既に勝っておられるのです。この主イエスの勝利を私たちにはっきりと示し、信じさせて下さるのが聖霊なる神です。聖霊によって、主イエスが既に世に勝っておられることをはっきりと示され、主イエスを信じ、主イエスのみ名によって父なる神に祈り願っていく者とされることによって私たちは、新型コロナウイルスを含む、この世のいかなるものの支配からも解放されて、神のご支配の下で生きる平和を与えられるのです。
勇気を出しなさい
主イエスは私たちに「勇気を出しなさい」と語りかけておられます。それは私たちに、ありもしない勇気を無理してしぼり出せと言っておられるのではありません。この言葉は、マルコによる福音書の10章49節では、主イエスに向かって「わたしを憐んでください」と叫んだ目の見えない物乞いを主イエスがご自分のもとに呼んで下さった時に、人々が「安心しなさい、主がお呼びだ」と言った、その「安心しなさい」と同じ言葉です。主イエスは既に世に勝っておられる、父なる神の愛が罪と死とに勝利している、私たちがこの世で体験するあらゆる苦難に打ち勝つ神の愛が主イエスによって与えられている、聖霊によってそのことを示される「その日」を私たちは教会の礼拝において体験しているのです。だから私たちは、神の愛に全幅の信頼を置いて、安心して、主イエスのみ名によって父なる神にどんなことでも祈り願いつつ生きることができるのです。