主日礼拝

わたしの愛にとどまりなさい

「わたしの愛にとどまりなさい」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ホセア書 第3章1-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第15章7-17節
・ 讃美歌:
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つながっている=とどまる
 先週からヨハネよる福音書の第15章に入っています。先週申しましたように、この15章から17章にかけてのところは、形の上では弟子たちに対して語られていますけれども、むしろ教会に向けて語られているみ言葉です。つまりここに「あなたがた」と言われているのは、今教会において礼拝を守り、主イエスを信じて生きようとしている私たちのことなのです。先週読んだ5節のところに、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とありました。主イエスは私たちに、枝がぶどうの木につながっていてこそ豊かに実を結ぶことができるように、あなたがたもわたしにつながっていることによってこそ、実を結ぶことができ、救いにあずかることができる、と語り掛けておられるのです。またここには、教会とはどのようなものかが示されています。主イエスというぶどうの木に、枝である私たちがつながっており、その枝々に豊かにぶどうの実が実っている、それが教会です。そして先週申しましたように、主イエスがここで語っておられるのは、私たちが清く正しく信仰深い人になるように努力すれば、主イエスというぶどうの木の枝となることができ、豊かに実を結ぶ者になれる、ということことではありません。教会に連なっている信仰者であるあなたがたは、もう私というぶどうの木の枝となっているのだから、豊かに実を結ぶことができる、とおっしゃっているのです。つまり主イエスは、「わたしにつながりなさい」ではなくて、4節にあったように「わたしにつながっていなさい」とおっしゃったのです。この「つながっている」という言葉は「とどまる」という意味です。まだつながっていない者に、私につながりなさい、ではなくて、あなたがたは既に私というぶどうの木につながっている、そのことを信じ受け止めて、私のもとにとどまりなさい、と言っておられるのです。
 本日の箇所の冒頭の7節にもこの「つながっている、とどまる」という言葉が二度語られています。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」、これが7節です。「あなたがたがわたしにつながっており」というところは「あなたがたがわたしにとどまっており」とも訳せるのです。そしてそれは「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」ことだと言われています。この「いつもある」も同じ「とどまる」という言葉です。つまりここは「わたしの言葉があなたがたの内にとどまっているなら」と訳せるのです。私たちが主イエスにつながっているとは、主イエスのもとにとどまっていることであり、それは主イエスの言葉が私たちの内にとどまっていることなのです。そのようになっているなら、「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と語られています。私たちが主イエスにつながっており、主イエスの言葉が私たちの内にとどまっているなら、祈り願うことは何でもかなえられる、という大きな恵みが与えられるのです。主イエスというぶどうの木につながっている枝である私たちには、そういう豊かな実が実るのだ、と主イエスは言っておられるのです。

私たちが結ぶ豊かな実り
 次の8節には、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」とあります。主イエスにつながっていることによって私たちは豊かに実を結ぶことができる、その実とは、主イエスの弟子となることです。この実は私たちが努力して実らせるものではありません。主イエスの弟子になることは、私たちが主イエスの門をたたいて弟子入りをして、修行を積むことによって実現するのではありません。主イエスが「わたしに従ってきなさい」と語りかけ、招いて下さることによって私たちは主イエスの弟子とされるのです。つまり私たちは自分で主イエスのぶどうの木の枝となったのではなくて、主イエスがそのように導いて下さったのです。私たちにできることは、その主イエスのもとにとどまっていることです。だから主イエスは、「わたしにつながっていなさい」とおっしゃったのです。主イエスにつながっているなら、主イエスのもとにとどまっているなら、主イエスのみ言葉が私たちの内にとどまっているなら、私たちは主イエスの弟子となるという豊かな実を結ぶことができるのです。

父が栄光を受ける
 そしてそこには、祈り願うことは何でもかなえられる、という恵みが与えられ、それによって「わたしの父は栄光をお受けになる」と主イエスはおっしゃいました。私たちが主イエスを信じて生きる信仰者となることによって、願うことは何でもかなえられるという恵みが与えられ、それによって父なる神が栄光をお受けになるのです。これと同じようなことは14章11節以下にも語られていました。11節で主イエスは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」とおっしゃいました。そしてこのことを信じる者への約束が13、14節にこう語られていました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。主イエスにつながっており、主イエスを信じて生きていくところには、祈り願うことは何でもかなえられる、という恵みが与えられ、それによって父なる神が栄光をお受けになるのです。
 14章のこの部分を読んだ時にも申しましたが、この「願うことは何でもかなえられる」というのは、私たちのどんな欲望でも神が叶えて下さる、ということではありません。これは私たちが、主イエスとその父である神を心から信頼し、神が必ず私たちに最も良いもの、本当に必要なものを与えて下さると信じて生きることがきる、ということです。私たちが主イエスにつながっており、主イエスのみ言葉が私たちの内にとどまっているなら、私たちは神を心から信頼して、神が最も良いものを与えて下さると信じて生きる、という豊かな実を結ぶことができるのです。そして私たちがそのように神を信頼して生きているなら、それによって父なる神が栄光をお受けになるのです。

愛されていることによって
 7、8節にはこのように、主イエスにつながっていることによって私たちが結んでいく豊かな実りのことが語られています。続く9、10節には、私たちがそのような豊かな実を結ぶことは何によって、どのようにして実現するのかが語られています。9節にはこうあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。ここには、父なる神が、わたし、つまり独り子である主イエスを愛されたこと、そして父に愛された主イエスが、あなたがた、つまり弟子として生きる私たちを愛して下さっていることが語られています。父なる神から愛されている主イエスが私たちを愛して下さっている、そのことこそが、私たちが豊かな実を結んでいくことの原動力なのです。主イエスというぶどうの木の枝とされている私たちは、父なる神を心から信頼して生きるという実を結ぶのだと先程申しました。そういう信頼は努力して生まれるものではありません。それは愛されていることからこそ生まれるのです。私たちは、自分を本当に愛してくれている人をこそ信頼することができます。愛されていることが感じられないところには信頼関係は生まれません。神を信頼して生きるという実は、神が自分を愛して下さっていることが分かることによってこそ実るのです。その愛を、神の独り子である主イエスが私たちに与えて下さっているのです。主イエスの愛は、罪人であり、神に敵対している私たちのために、その罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった愛です。ご自分の命を私たちに与えて下さった愛です。本日の箇所の13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。主イエスはまさにそのように、これ以上ない大きな愛で私たちを愛して下さっているのです。

愛されている者こそが愛することができる
 しかし主イエスはここで、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と言っておられます。主イエスの私たちへの愛の源は、父なる神の主イエスへの愛なのです。主イエスは、父なる神に深く愛されている者として、私たちを愛して下さっているのです。これはとても大事なことです。愛されている者こそが愛することができるのです。主イエスは、父なる神に深く愛されているからこそ、ご自分の命を捨ててくださるほどに私たちを愛することがおできになったのです。このことは先程の、愛されているからこそ信頼関係が生まれる、ということとつながります。信頼することと愛することは繋がります。愛されていることを感じている人は、自分も相手を愛し、信頼して生きることができるのです。主イエスはそのように、父なる神に愛されているので、父なる神を信頼して、そのみ心に従って歩まれました。それが、私たちのために十字架にかかって死んで下さるという歩みだったのです。父なる神に愛され、父を信頼しているがゆえに主イエスは、私たちのために命を捨てて下さるという、これ以上ない大きな愛を私たちに注いで下さったのです。

わたしの愛にとどまりなさい
 そして主イエスは私たちに「わたしの愛にとどまりなさい」と語りかけておられます。これもあの、「つながっている、とどまる」という言葉です。主イエスというぶどうの木につながっているとは、主イエスの愛にとどまっていること、主イエスが私たちのために命を捨てて下さった、その愛をしっかり受けとめ、その愛から離れてしまわないことなのです。この福音書の3章16節の言葉を私たちはこれまでに繰り返し味わってきました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスの愛にとどまっているとは、この神の愛を常に覚え、そこから離れてしまわないことです。そうすることによって私たちは、独り子をすら与えて下さった神が、自分に最も良いものを与えて下さると信頼して生きるという豊かな実を結ぶことができるのです。

主イエスの掟を守る
 そしてこの主イエスの愛、神の愛にとどまっている者は、主イエスご自身がそうであられたように、自分を愛して下さっている神のみ心を思い、それに従って生きていく者となります。そのことが10節に語られています。10節には「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とあります。主イエスご自身が、父なる神の愛にとどまって歩まれました。それは父なる神に愛されていることをただ感じながら生きたというのではなくて、父の掟を守って歩まれたのです。「父の掟」とは父なる神のみ心であり、父なる神が主イエスにお命じになったことです。それは人間となってこの世を歩み、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬということでした。主イエスは父なる神に深く愛されており、その愛にとどまっておられたゆえに、ご自分も父なる神を愛し、信頼して、父のみ心に従って、私たちを愛し、私たちのために十字架にかかって死んで下さったのです。父の愛にとどまっている主イエスは、父の掟を守って歩まれたのです。同じことを私たちにも期待して、主イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と語り掛けておられるのです。主イエスの愛を受け、愛されている者として、その愛から離れないで生きる、それは私たちも「主イエスの掟」を守って、つまり主イエスのみ心に従って生きることです。その「主イエスの掟」とは何か。それが12節に語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。これに続いて先程の13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というみ言葉が語られているのです。主イエスが私たちのために命を捨てて下さるというこれ以上ない大きな愛を注いで下さったように、私たちも、互いに愛し合って生きる、友のために自分の命を捨てる愛に生きる。それが、主イエスの愛にとどまり、主イエスの掟を守ることなのです。そんなこととてもできない、と私たちはすぐ思いますが、この「捨てる」という言葉は、文字通りには「置く」という意味です。主イエスはまさに十字架にかかって死ぬという仕方でご自分の命を置いて下さいました。私たちはそれを、誰かのために犠牲となって死ぬということとしてのみ捉える必要はありません。自分の命を誰かのために用いる、私たちの人生の時間は命の一部ですから、その時間を自分のためではなく誰かのために使う、それも「友のために自分の命を置く」ことです。互いに愛し合うとは、お互いに自分の命を、自分の心を、自分の時間やお金や物や能力やスキルを、相手のために用いていくことです。それが、主イエスがご自分の命を与えて愛して下さったその愛にとどまり、主イエスのみ心に従って、主イエスの掟を守って生きることなのです。主イエスというぶどうの木につながっている私たちは、そのような豊かな実を結んでいくのです。

主イエスの愛にとどまっていることによる実り
 しかし繰り返し申していますが、私たちが頑張って努力してこのような実を結ぶことによって主イエスというぶどうの木の枝になることができるのではありません。私たちは自分の力で実を結ぶことはできないのです。主イエスの掟を守り、互いに愛し合って生きることも、自分の命を友のために用いることも、私たちの決意や努力によって実現するのではありません。それらは全て、私たちが主イエスというぶどうの木につながっていることによって、そこに実っていく実りです。だから大切なことは、主イエスにつながっていることです。本日の箇所の言葉で言えば、主イエスの愛にとどまっていることです。主イエスがご自分の命を捨てて私たちを愛して下さっている、父なる神が独り子をもお与えになったほどに私たちを愛して下さっている、その愛を受け、その愛のもとにとどまっていることによってこそ私たちは、主イエスを愛し、父なる神を愛し、そして互いに愛し合って生きるという実を結ぶことができるのです。

喜びの実を結ぶ
 このことに加えて、11節を味わっておきたいと思います。11節には「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とあります。「わたしの喜び」と主イエスは言っておられます。主イエスは心から喜んで生きておられるのです。それは、父なる神に愛されている喜びです。父の愛にとどまっている喜びです。そして父を信頼して、その掟を守り、み心を行うことの喜びです。私たちを愛して、私たちのために命を捨てて下さることを、主イエスは喜んでして下さっているのです。愛されている者が、その愛に応えて自分も愛する者として生きている、それが主イエスの喜びなのです。愛と信頼の関係があるところにはこの喜びがあります。主イエスと父なる神の間にあるこの喜びを、主イエスは私たちにも与えようとしておられます。主イエスの喜びが私たちの内にも満たされ、私たちも心から喜んで生きる者となることを願っておられるのです。そのために主イエスは私たちのために命を捨てて下さり、これ以上に大きな愛はない愛で愛して下さったのです。それによって、愛されることの喜びを私たちにも与えて下さったのです。その喜びは、私たちも愛する者となることによってこそ深まっていきます。愛されているがゆえに愛して生きるという主イエスの喜びが私たちの内にも満たされていくのです。「わたしの愛にとどまりなさい」というみ言葉も、17節の「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」というみ言葉も、私たちの内に喜びが満たされるために語られているものです。「掟」とか「命令」というと何か厳しい掟や規則を守ることを命じられて不自由な生活を送らなければならないように感じてしまうかもしれませんが、それは実は私たちが深い喜びの実を結ぶためのことなのです。
 主イエスというぶどうの木の枝とされている私たちは、愛されているがゆえに愛して生きる、という深い喜びを与えられています。独り子を与えて下さったほどに神が愛して下さっているがゆえに、私たちも神を愛し、神が最も良いものを与えて下さると心から信頼して、喜んで生きることができます。また私たちは、神に愛されているがゆえに、人を愛し、互いに愛し合って生きる喜びをも与えられていくのです。主イエスにつながっており、主イエスというぶどうの木の枝とされ、主イエスの愛にとどまって生きる私たちは、そのような喜びの実を結んでいくのです。

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