「わたしにつながっていなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第27章2-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第15章1-6節
・ 讃美歌:
15-17章の位置づけ
礼拝においてヨハネよる福音書を読み進めてきまして、本日から第15章に入ります。この15章の5節には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という、とてもよく知られた主イエスのお言葉が語られており、教会学校の子どもたちの暗唱聖句の定番ともなっています。これをご自分の愛唱聖句としている方も多いでしょう。そのようにここは独立して読まれることが多いし、勿論そのように読むこともできるわけですが、しかし私たちはせっかくこの福音書を連続して読んでいるわけですから、本日はその流れの中でこの箇所を捉えていきたいと思います。この15章はヨハネによる福音書全体において、どのような位置を持っているのでしょうか。
先週まで読んできた第14章において、これは主イエスが最後の晩餐において弟子たちにお語りになったみ言葉である、ということを繰り返しお話ししてきました。最後の晩餐の場面は、第13章のはじめの、主イエスが弟子たちの足を洗ったことから始まっています。そして14章の最後のところ、先週読んだ31節で主イエスは「さあ、立て。ここから出かけよう」とおっしゃいました。それは、この晩餐の席から立ち上がって出掛けて行こう、という意味です。つまり最後の晩餐の場面は14章で終っているのです。この14章の終わりと、話としてつながるのは18章の1節です。18章1節は「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」とあります。主イエスは「さあ、立て。ここから出かけよう」とおっしゃってこの晩餐の席から立ち上がり、弟子たちと共にキドロンの谷の向こうへと行かれた、と話が繋がるのです。このように14章の終わりと18章の始まりは繋がっているわけですが、その間に15章から17章までがあります。この部分は決して後から挿入されたわけではありません。ヨハネによる福音書になくてはならない大事な部分です。この部分には何が語られているのでしょうか。
結論から言えば、15章以下も14章の主イエスのお言葉の続きです。14章に語られていたことが15章16章でも繰り返されています。例えば16章5節には、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」とあります。また16章10節には「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる」とあります。これらのことは14章に語られていました。主イエスは最後の晩餐の後捕えられ、翌日には十字架につけられて殺され、三日目に復活なさいます。この十字架の死と復活とによって主イエスは弟子たちのもとを去り、父なる神のもとに行こうとしておられるのです。それによって弟子たちは、もはや主イエスを肉体の目で見ることができなくなります。14章はその弟子たちのこれからの歩みのために主イエスがお語りになったみ言葉でした。15-17章もその続きなのです。また15章26節には「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とあります。これは先週読んだ14章26節の「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と同じことを語っています。主イエスが父のもとに行くことによってこの目で主イエスのお姿を見ることができなくなる弟子たちのもとに、聖霊が遣わされて、そのお働きによって弟子たちは主イエスを信じ、その救いにあずかって生きることができるようになる、という約束が14章に語られており、15章以下においても繰り返されているのです。このように、15章以下には14章に語られていたことが繰り返されています。最後の晩餐の場面は14章で終っていますが、主イエスのみ言葉はなお続いているのです。
教会のためのメッセージ
ヨハネ福音書がこのような語り方をしていることにはどんな意味があるのでしょうか。14章を読む中で繰り返しお話ししてきたのは、主イエスが父なる神のもとに行くことによって、もはや主イエスをこの目で見ることができない中を生きて行くことになる、その弟子たちのために語られた主イエスのお言葉は、私たちのためのお言葉でもあるのだ、ということです。私たちは、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天、つまり主イエスが天に昇り、父なる神のもとに行かれた後の時を生きています。これらのことによって主イエスによる救いのみ業は既に実現しており、私たちは主イエスを信じる信仰によってその救いにあずかり、罪の赦しと永遠の命の約束を与えられて新しく生きることができるのです。しかし父なる神のもとに行かれた主イエスを、地上を生きている私たちはこの目で見ることができません。主イエスによる救いが既に実現していることを誰もが納得するような目に見える証拠は、この地上にはないのです。私たちは目に見えない主イエスによる救いを、見えないままで信じて生きているのです。そこに、主イエスを信じる信仰に生きることの困難さがあるし、信仰が人々に理解されずに時として迫害を受けるという苦しみの原因があるのです。主イエスは弟子たちがそのような苦しみの中を信仰者として生きて行くことになることを思って、彼らのためのみ言葉を最後の晩餐においてお語りになったわけですが、それは、主イエスが父なる神のもとに行かれた後、聖霊が遣わされることによって誕生する教会のためのみ言葉でもあります。いやむしろ教会のためにこそ主イエスはここで語っておられるのです。そのことをはっきりと示すために、ヨハネ福音書は、14章の終わりで最後の晩餐の場面を終わりにして、15章からは、14章における主イエスの弟子たちへの言葉を、教会に連なって生きている者たちに向けてのメッセージとして語り直しているのではないでしょうか。つまり15章以下は、内容的には14章を受け継ぎつつ、それを、聖霊によって生まれ、そのお働きによって主イエスを信じて歩んでいる教会のための言葉として語り直しているのです。そして、これは少し先取りになりますが、17章は、弟子たちのための主イエスの執り成しの祈りです。その20節以下にこう語られています。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」。これは明確に、弟子たちの伝道によって生まれた教会において主イエスを信じて生きている人々、つまり私たちのための祈りです。15-17章には、聖霊によって主イエスを信じる者とされ、教会に連なって生きている私たちのための主イエスのみ言葉と、その私たちのための主イエスの祈りが語られているのです。そこをこれから私たちは読んでいくのです。
ぶどうの木のたとえ
その部分の冒頭に、本日の箇所のぶどうの木のたとえが語られています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主イエスはおっしゃいました。これがまさに、私たちの信仰のあり方であり、教会の姿です。主イエスというぶどうの木に枝としてつながっている、それが私たちの信仰です。4節には「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスにつながっていることによってこそ、実を結ぶことができるのです。それは私たちの信仰のとても分かりやすいたとえです。5節もそれと同じことを語っています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。主イエスという木から離れてしまったら、私たちは何もできない、実を結ぶことができないのです。自分では何もできない、実を結ぶことができない弱い者であり罪人である私たちが、主イエスというぶどうの木につながっていることによって豊かに実を結ぶ者とされている、それが主イエスを信じる者に与えられている恵みなのです。またここには、主イエスというぶどうの木に、「あなたがた」という複数の枝が共につながっており、それぞれの枝が実を結んでいく、ということが語られています。それが教会です。様々な異なった枝たちが、主イエスというぶどうの木につながっていることによって実を結ぶ、そのようにして、このぶどうの木に豊かな実が実るのです。主イエスを中心とする一つの群れ、共同体である教会のイメージがここにはっきりと描き出されています。主イエスというぶどうの木である教会の枝とされていることによって、私たちどうしの交わり、関係も成り立っているのです。枝と枝とが直接つながっているのではありません。枝どうしがどんなに結びついても、そこに実は結ばないのです。枝と枝とは、共に主イエスというぶどうの木につながっていることによって、主イエスを通してつながっています。教会における私たちの交わりの中心にはいつも主イエスがおられるのです。そうであってこそ、私たちは豊かな実を結ぶことができるのです。
ぶどうの木の枝とされている私たち
ぶどうの木のたとえからこれらのことを見てとることができるわけですが、しかし、先程から見て来た、ヨハネ福音書全体の流れにおけるこの箇所の意味を踏まえるならば、このたとえから私たちが読み取るべき何よりも大事なことは、主イエスが、「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」と、つまりあなたがたは既に私というぶどうの木につながる枝となっているのだと語っておられることです。主イエスのお姿をこの目で見ることができず、主イエスの十字架と復活による救いの目に見える証拠はどこにもない中を、主イエスを信じて、教会に連なって生きている私たちに、主イエスはここで、あなたがたはもう私というぶどうの木の枝となっているのだ、と語り掛けて下さっているのです。あなたがたがこれから努力してこういう人になれば、このような善い行いができるようになれば、これくらい信仰の深い人になれば、私のぶどうの木の枝となることができる、と言っておられるのではありません。教会に繋がって生きているあなたがたは既に私に繋がっている枝であり、それによって実を結ぶことができる者となっているのだ、と主イエスは宣言して下さっているのです。ヨハネ福音書がこのぶどうの木のたとえによって私たちに示そうとしていることの中心はそこにあるのです。
農夫である父なる神
このことをしっかり捉えておかないと、この箇所の読み方を間違えてしまいます。というのは、今は4節5節を読みましたが、このぶどうの木のたとえは1節から始まっているからです。1節に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。このたとえは、主イエスがぶどうの木であることだけでなく、そのぶどうの木の手入れをしている農夫である父なる神のことを語っているのです。その農夫は何をしているのかが2節に語られています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。農夫である父なる神は、実を結ばない枝を取り除くのです。取り除かれた枝はどうなるのか。それが6節です。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて焼かれてしまう」。ここには父なる神による裁きが見つめられていると言えるでしょう。農夫である父なる神は、実を結ばない枝を取り除いて裁きの火で焼き滅ぼすのです。それは恐ろしい話です。自分はどうなのだろう、実を結ぶ枝になれているだろうか、実を結ばない枝として父なる神に取り除かれ、裁かれて滅ぼされてしまうのではないだろうか、という恐れを抱かない人はいないでしょう。だからこのぶどうの木のたとえはけっこう厳しい怖い話だと感じている方も多いだろうと思います。
信仰を失ってしまうことへの警告
ここには、この福音書が書かれた紀元1世紀末の教会の状況が反映していると考えられます。教会が誕生して既に五十年以上が経ち、パウロらの伝道もなされて、キリスト教会は地中海沿岸の多くの所に広まっています。しかし同時に教会に対する迫害も起こってきているのです。信仰者たちは、まさに主イエスのお姿が目に見えない中で、主イエスによる救いの目に見える証拠はない中で、人々の無理解や迫害に耐えて信仰を守っていかなければならないのです。そのような状況の中で、一旦は主イエスを信じ、教会に連なる者となった人の中にも、信仰を失い、離れて行ってしまう人たちが現れていたのです。主イエスにつながっていながら実を結ばない枝とはそういう人々のことでしょう。ヨハネ福音書はそういう現実を見つめながら、実を結ばない枝は父が取り除き、焼いてしまうのだ、という警告を語ることによって、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」という4節前半の勧めを教会の人々に与えようとしているのです。
信仰者への励まし
そういう意味で、ここに語られていることは確かに厳しいことでもあります。しかしそういう厳しい警告を語ることがヨハネ福音書の第一の目的なのではありません。先ほど申しましたように、この福音書は、主イエスをこの目で見ることができない中で信じて生きている信仰者たちに、「あなたがたは既に私というぶどうの木の枝となっているのだ」と告げることによって、だからしっかり主イエスにつながっていなさい、という励ましを与えようとしているのです。農夫である父なる神のことが述べられているのも、信仰者たちを恐れさせるためではなくてむしろ励ますためです。この農夫は、2節に語られているように、ぶどうの木の枝々が「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」方です。そもそも、主イエスというぶどうの木を植えて、私たちをその枝として下さったのは、この父なる神なのです。私たちは、自分の意志で主イエスというぶどうの木につながったのではありません。洗礼を受けることは自分で決心したかもしれませんが、しかしそれは、私たちが信仰を持つ以前から、父なる神が私たちを選んで下さり、教会へと導いて下さり、主イエスを信じる信仰を与えて下さっていたから起ったことです。つまり洗礼を受けるというのは、自分が既に主イエスというぶどうの木の枝とされていることを信じ、受け入れることなのです。父なる神が、独り子主イエスをこの世に遣わし、主イエス・キリストの体である教会というぶどうの木を植えて下さり、聖霊のお働きによって私たちをその枝として下さっているのです。3節には「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とあります。私たちは、罪と弱さと汚れに満ちている者ですけれども、父なる神が主イエスというぶどうの木の枝として下さったことによって、主イエスのみ言葉によって既に清くされ、実を結ぶ者とされているのです。父なる神はその私たちがいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをして下さっているのです。その「手入れをする」という言葉は、「清くする」という意味です。つまり父なる神は、主イエスというぶどうの木の枝とされ、主イエスのみ言葉によって既に清くされている私たちをさらに清くして、いよいよ豊かに実を結ぶようにして下さるのです。そのように私たちぶどうの枝々を手入れして、豊かな実を実らせて下さることこそが、農夫である父なる神がして下さっていることなのです。実を結ばない枝を取り除くという、いわゆる剪定は、より豊かな実を実らせるためになされることです。勿論そこには先ほど見たように、主イエスのもとから離れていってしまうことへの警告も込められていますが、しかし父なる神は基本的に、私たちをぶどうの木から取り除いて滅ぼそうとしておられるのではなくて、私たちを主イエスというぶどうの木の枝として下さり、その私たちがより清い者となって豊かな実を結んでいくように、手入れをして下さっているのです。
わたしにつながっていなさい
私たちに求められているのは、この父なる神のみ心に応えて、主イエスにつながっていることです。父なる神が聖霊のお働きによって私たちを既に主イエスというぶどうの木の枝として下さっているのですから、その主イエスから離れてしまうことなく、つながっていることが大切なのです。主イエスにつながってさえいれば、私たちは主イエスのみ言葉によって清くされているのだし、いよいよ豊かに実を結ぶように父なる神が手入れをして下さるのです。勘違いをしないようにしなければなりません。私たちが自分の力で努力して実を結ぶ枝となることによって、主イエスというぶどうの木につながっていることができるのではありません。主イエスにつながっているからこそ私たちは実を結ぶことができるのです。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と4節にある通りです。また5節に「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われている通りです。だから私たちに求められているのは、自分の力で良い実を結ぶ枝となることでありません。自分が良い実を実らせる枝となれているか、と気にする必要はないのです。主イエスにつながってさえいれば、私たちは実を結ぶことができます。主イエスにつながっていなければ、どんなに頑張っても実を結ぶことはできません。大事なのは、主イエスにつながっていることです。農夫である父なる神が私たちを既に主イエスというぶどうの木の枝として下さっているのですから、その恵みから離れずに主イエスにつながり続けることです。主イエスのお姿をこの目で見ることができないこの世には、私たちを主イエスから引き離そうとする力が様々に働いています。しかし主イエスは「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたは既にその枝となっているのだ」と宣言して下さっています。そして「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と約束して下さっているのです。その主イエスが「わたしにつながっていなさい」と語りかけて下さっているのですから、私たちはそれにお応えして生きるのです。