主日礼拝

恐れるな

「恐れるな」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ゼファニヤ書 第3章14-20節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第12章12-19節
・ 讃美歌:343、392

礼拝の再開に向けて
 6月に入りました。緊急事態宣言も解除され、社会においても様々な活動が再開されつつあります。先週教会員の皆さんにはお知らせの文書を発送しましたが、来週14日より、先ずは教会員のみでの礼拝を、そして21日からはその他の方々をもお迎えする礼拝を再開することにしました。しかし感染拡大のリスクが無くなったわけではありませんから、なお油断はできません。そのために、9時、11時、2時の三回に分けて、一回の出席人数を抑えての礼拝再開となります。プログラムも非常に簡略化されたものとなります。礼拝が再開されてもなお顔を合わせることができない人がいる、という状態は続きますが、今は忍耐して、感染のリスクを抑えながら、何とか礼拝を続けていくことを第一に考えていきたいと思います。

棕櫚の主日の出来事
 先週はペンテコステでしたので、それに相応しい箇所を読みましたが、今私たちは基本的にヨハネによる福音書を読み進めており、12章に入ったところです。本日の箇所、12章12節以下には、主イエスがエルサレムの町に入られたことが語られています。このことは、主イエスのご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週、の最初の日である日曜日のこととされています。この日曜日のことを「棕櫚の主日」と呼びます。それは本日の箇所の13節に語られている、エルサレムに入られた主イエスを人々が「なつめやしの枝」を持って出迎え、歓迎したということから来ています。この「なつめやし」は以前は「棕櫚」と訳されていたのです。このことはヨハネ福音書のみが語っていることです。つまり受難週の最初の日を「棕櫚の主日」と呼ぶことは、ヨハネ福音書のこの箇所から来ているのです。「棕櫚の主日」から始まったこの週の金曜日に、主イエスは十字架につけられて殺されます。日曜日には歓呼の声をあげて主イエスを歓迎した人々が、数日後には「十字架につけろ」と叫ぶようになったのです。

イスラエルの王を喜び迎えたエルサレムの人々
 主イエスがエルサレムに入られる時に、人々が、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という詩編118編26節の言葉をもって歓迎したということは、四つの福音書全てが語っています。しかしそのように主イエスを歓迎した人々とは誰だったのかについては、読み比べると違いがあります。ヨハネ福音書では、12、13節にそれが明確に語られています。「祭りに来ていた大勢の群衆」が、イエスを迎えに出て、このように叫んだのです。つまりユダヤ人の最も大事な祭である過越祭を祝うためにエルサレムに来ていた人々が、イエスが来ることを聞いて迎えに出て、歓迎したのです。しかし他の三つの福音書ではそうは語られていません。マタイとマルコでは、主イエスを歓迎した人々が誰だったのかははっきりしません。ルカでは、これを叫んだのは「弟子の群れ」だとされています。つまり他の三つの福音書では、この叫びをあげたのはエルサレムの人々ではなくて、主イエスに従って共に歩んでいた人々だったと考えられるのです。ヨハネだけが、過越祭にエルサレムに来ていたユダヤ人たちがこのように叫んで主イエスを歓迎した、とはっきり語っているのです。彼らは「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と叫びました。最後の「イスラエルの王に」という言葉は詩編118編にはありません。これはヨハネが付け加えた言葉です。そこに、ヨハネがこの叫びに何を見つめているのかが示されていると言えます。つまりエルサレムの人々は、主イエスが、主の名によって来られるイスラエルの王として、王の都であるエルサレムに入るのだと考え、歓呼の叫びをあげて喜び迎えたのです。

なつめやしの枝
 彼らが「なつめやしの枝」を持ってイエスを迎えたと語っているのはヨハネだけだと先程申しましたが、そのことも彼らの思いを表しています。なぜ「なつめやし、棕櫚」の枝なのか。それは紀元前164年の出来事から来ているのです。当時イスラエルは異教徒に支配され、ギリシャの神ゼウスの像がエルサレムの神殿に置かれていました。それはユダヤ人にとって、主なる神の神殿が冒涜されているという堪え難い屈辱であり苦しみでした。しかし紀元前164年、マカベヤのユダという人が戦いに勝利して、エルサレムを異教徒から奪還し、神殿を清めて主なる神に再び奉献したのです。このことを記念して、この福音書の10章22節以下に語られていた「神殿奉献記念祭」が行われるようになったのですが、その時に人々はなつめやしの枝を振って喜び祝ったのです。つまりなつめやしの枝を振るということには、エルサレムが異邦人の支配から解放されたことを喜ぶ、という意味があります。神の民を苦しめている異邦人に勝利してその支配からの解放をもたらすイスラエルの王の到来を喜び迎えるために、なつめやしの枝が振られるのです。エルサレムのユダヤ人たちは、主イエスを、このイスラエルの王として迎えたのです。今ユダヤはローマ帝国に支配されています。ローマに勝利して神の民ユダヤ人を解放してくれるイスラエルの王が待ち望まれていたのです。イエスこそその王だと思って、彼らは歓迎したのです。

主イエスへの期待
 彼らがそのように思ったのはなぜか、をもヨハネはここに語っています。17、18節です。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」。主イエスがラザロを死者の中から復活させたことを聞いたので彼らは、イエスこそイスラエルの王であるに違いないと思ったのです。死に勝利する偉大な力を持っているこの人こそ、ローマの支配から我々を解放し、神殿再奉献の時の喜びを回復させてくれるイスラエルの王として主に遣わされた人だろう、と人々は期待して、主イエスを歓迎したのです。

人々の期待と主イエスの姿のギャップ
 エルサレムの人々のこの期待と、次の14、15節に語られている主イエスのお姿との間には大きな隔たり、ギャップがあります。14節に「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」とあります。他の三つの福音書には、主イエスが弟子たちを遣わしてこの「ろばの子」を連れて来させた話がけっこう長く語られていますが、ヨハネにおいてはこの一言だけです。そこにヨハネの特徴があるのですが、ヨハネはこのように簡潔に語ることによって、13節までの人々の期待と、14節の、ろばの子にお乗りになった主イエスの思いとの違い、コントラストを際立たせているのだと思います。実は14節の冒頭には翻訳に現れていない一つの接続詞があります。その言葉自体は「しかし」という意味ですが、それほど強い意味を持たせずに、文と文をつなげるために使われることも多い言葉です。英語で言えば、butとも訳せるしandとも訳せるのです。だから翻訳に現れないことが多いのですが、ヨハネはここで、この接続詞にけっこう強い意味を持たせていると思います。つまり14節は「しかしイエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」と訳すことができると思うのです。エルサレムの人々は、主イエスこそ自分たちをローマの支配から解放してくれる力ある王だと期待して歓迎した。しかし主イエスは、その人々の思いに反して、ろばの子にお乗りになったのです。

ろばの子に乗って
 ろばの子に乗ることにはどういう意味があるのでしょうか。そのことが、15節に引用されている旧約聖書の言葉から分かります。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」。これは、旧約聖書、ゼカリヤ書第9章9節の言葉です。その箇所を新共同訳聖書で読んでみます。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。王の都エルサレムに、まことの王が来られ、勝利して王座に着く、その王を歓呼の声をあげて迎えよ、という預言です。主イエスがエルサレムに来られたことによってこの預言が成就したのです。そしてこの預言が語っているのは、エルサレムに来られるまことの王は、ろばに乗って、雌ろばの子に乗って来る、ということです。その意味は「高ぶることなく」ということです。それは単に謙遜なへりくだった者として、ということではありません。その意味が次の10節に示されています。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。つまり「へりくだって」は、戦車や軍馬、弓といった軍事力によってではなく、ということです。エルサレムに来られるまことの王は、力をもって敵を打ち破ることによって王座に着くのではなくて、へりくだることによって、つまり強さよりもむしろ弱さによって、その支配を確立するのです。その王が来られることによって、戦いはやみ、平和が訪れるのです。「ろばの子に乗る」ことはそういうことの象徴です。立派な軍馬にまたがり、敵を圧倒する力強い将軍としてではなく、力なく弱いみすぼらしい者として来る、その方こそがまことの王であり、その王の支配が海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶことによって、神による救いが、まことの平和が実現するのだとこの預言は語っています。主イエスはこのゼカリヤの預言が語っている、へりくだった王、弱さによってこそ支配する王としてエルサレムに来られたのです。主イエスがろばの子にお乗りになったことはそういうことを意味しているのです。
 歓呼の叫びをあげて主イエスを歓迎したエルサレムの人々の期待と、ろばの子に乗った主イエスのお姿、そこに示されている主イエスの思いとは正反対であり、決して相容れません。ヨハネ福音書はそのコントラストをここに鮮やかに描き出しています。そしてこの食い違い、思いのすれ違いこそが、この群衆が数日後にはイエスを「十字架につけろ」と叫ぶようになった理由です。主イエスに対して抱いていた期待が大きかっただけに、それが全く的外れだったことが分かった時に、裏切られた、という思いになり、逆に憎しみが沸騰していったのです。

イエスが栄光を受けられたとき
 しかし私たちがここで目を留めなければならないのは16節です。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」とあります。エルサレムの人々の思いと主イエスの思いがすれ違っていたというだけでなく、主イエスに従っていた弟子たちも、主イエスの思い、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入られたことの本当の意味がこの時はまだ分からなかったのです。それが分かったのは、イエスが栄光を受けられたとき、でした。それは、十字架につけられて死んだ主イエスが復活して彼らに現れて下さり、彼らに息を吹きかけて聖霊を与え、主イエスによる救いを宣べ伝えるために派遣して下さった時ということです。十字架にかかって死に、復活して永遠の命を生きておられる主イエスとの出会いにおいてこそ弟子たちは、主イエスがゼカリヤの預言の通りに、力によらずにへりくだりによって、つまり十字架の死と復活によってまことの王となるためにエルサレムに入られたのだということを本当に知ることができたのです。それまでは、主イエスに従って歩んでいる弟子たちですら、主イエスがどのような救いを実現しようとしておられるのかが分かっておらず、主イエスとの間に思いのすれ違いがあったのです。

不安と恐れ
 主イエスに従っていながら、主イエスによる救いが本当には分かっておらず、思いのすれ違いがある、その弟子たちの姿はそのまま私たちの姿でもあります。そしてその思いのすれ違いは、私たちを不安にし、恐れを抱かせます。弟子たちも不安と恐れを覚えたでしょう。エルサレムの人々が、「主の名によって来られる王」として主イエスを歓迎し、歓呼の叫びを上げるのを見て、弟子たちはとても喜ばしく誇らしい気持ちだったと思います。イエス様に従ってきてよかった、と思ったでしょう。いよいよこれからエルサレムで、イエスさまによる力強い救いのみ業が始まると彼らも期待したのではないでしょうか。しかし主イエスはろばの子に乗られました。なぜろばの子なのか、弟子たにも分かりませんでした。せっかく人々が王として歓迎しているんだから、みすぼらしいろばの子なんかではなくて、もっと立派で力強い姿を見せた方がいいのに、これでは人々の期待を裏切り、失望を与えてしまうのではないか、そのように彼らは不安を覚えたのではないでしょうか。自分が主イエスについて思い、期待していることと、主イエスのなさることが違っている、主イエスとの間に思いのすれ違いがあると感じる時、私たちは不安を感じるのです。そして弟子たちの不安はこの後の数日でどんどん深まっていきます。人々が期待している救い主の姿と、主イエスの歩みとのギャップがどんどん拡がっていく、期待を裏切られた人々は主イエスへの憎しみを募らせていく、その中で彼らの不安は、自分たちはこれからどうなってしまうのだろうかという恐れへと変わっていったでしょう。そういうことが私たちにも起ります。主イエスを救い主と信じて従っているけれども、自分が願い、期待していた救いと、主イエスのお姿とが、また主イエスのもとで自分たちが体験していることとが違っている、こんなはずではなかったと思う時に、私たちも不安と恐れを覚えるのです。新型コロナウイルスに脅かされている私たちは今まさにそのような不安と恐れの中にいます。このような疫病が流行り、人々が苦しみ、死んでいる、この現実のどこに神さまの恵みや愛があるのか、主イエスによる救いは本当に与えられているのか、神さまのみ心が分からない、私たちの中に今そういう深い恐れがあるのです。

恐れるな
 そのような恐れに捕えられている弟子たちに、そして私たちに、15節の「シオンの娘よ、恐れるな」というみ言葉が告げられています。ゼカリヤ書9章9節の言葉は、「娘シオンよ、大いに踊れ」でした。「恐れるな」という言葉は、ゼカリヤ書の二つ前のゼファニヤ書の3章14節以下から来ています。そこを先程共に朗読しました。このゼファニヤ書3章14節にも「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ」とあります。それは15節にあるように「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」ということのゆえにです。ゼカリヤ書と同じく、イスラエルの王である主を迎えて喜び叫べ、という勧めが語られています。そしてその中の16節に「シオンよ、恐れるな」という言葉があります。ヨハネ福音書12章15節は、ゼカリヤ書9章9節と、ゼファニヤ書3章16節の組み合わせです。ヨハネは、ゼカリヤ書の「大いに踊れ」に代えて、ゼファニヤ書の「恐れるな」をここに持って来たのです。それはヨハネが、弟子たちの、そして私たち信仰者の中に「恐れ」があることを見つめているからでしょう。主イエスの思いと自分の思いがすれ違っている、自分が信じ、願い、期待している救いと、現実に起っていることが一致しない、神のみ心が分からない、救いがどこにあるのか見えない、という恐れを抱いている私たちに、この福音書は、そしてこの福音書を通して神は、「恐れるな」と語りかけ、「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」と告げて下さっているのです。神の独り子である主イエスが、へりくだって人間としてこの世を歩んで下さり、力を振って敵に勝利することによってではなくて、捕えられ、十字架につけられて殺されるという弱さによって、私たちの全ての罪の贖いを成し遂げて下さった。それはあなたが期待し、望んでいる力による救い、栄光ある勝利ではないが、しかしそこにこそ神の恵みに満ちたご支配があり、力によっては決して得られない平和がそこに与えられる。復活して永遠の命を生きておられる主イエスと出会うことによって、あなたもその救いが本当に分かるようになり、主イエスによる罪の赦しにあずかり、主イエスに与えられている復活と永遠の命の約束を信じて歩むことができるようになる、だから恐れるな、と神は私たちにも語りかけて下さっているのです。

主が再び集めてくださる
 新型コロナウイルスの脅威の下にあり、共に集って礼拝をささげることができないでいる私たちは今、恐れと不安の中にいます。その私たちに主なる神は今日、「恐れるな」と語りかけて下さっています。そのみ言葉を伝えているゼファニヤ書3章の18節にはこう語られています。「わたしは祭りを祝えず苦しめられていた者を集める」。このみ言葉が今日私たちに与えられているのです。このみ言葉の通りに主は、来週から、先ずは指路教会の教会員たちをこの場へと集めて、再び共に主を礼拝することができるようにして下さろうとしています。「私はあなたがたを再び私のもとに集める。だから恐れるな」というみ言葉に支えられて、礼拝の再開に向けて希望をもってこの週を歩みましょう。

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