「羊飼いと盗人」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第23章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第10章1-10節
・ 讃美歌:297、148(1-4)、459
10節までを読む
本日は、ヨハネによる福音書第10章の1~10節をご一緒に読みます。10節は段落の切れ目ではない、中途半端なところまでとなっているので、先週の週報に載った予告はミスプリではないのか、と思った方もおられるかもしれません。週報にはよく間違いがあり、それは校正における見落としで、その責任は私と伝道師にあるのですが、これは間違いではありません。今日は10節までを読むのです。次の11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という、主イエスのよく知られたお言葉があります。多くの人が愛唱し、慰めを与えられているみ言葉です。11節以下においては、このみ言葉が展開されていきます。そこは来週の礼拝において読むことにしまして、本日は10節までとしたのです。10節までのところにも、羊の群れと羊飼いのことが語られています。主イエスは良い羊飼いであるという11節のみ言葉が語られるための備えがここになされていると言えるでしょう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という11節のみ言葉は、それだけで読んでも恵みと慰めに満ちていますが、10節までに語られていることがその前提となっています。ですから本日10節までを読むことは、11節以下のみ言葉の恵みをより深く受けるための備えとなるのです。
イスラエルは主に養われる羊の群れ
神さまの民であるイスラエルを羊の群れになぞらえて語っている箇所が聖書には沢山あります。代表的なのは、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる詩編23編でしょう。私を養い、守り、導いてくれる羊飼いである主なる神への深い信頼をこの詩は歌っています。この23編は「わたし」という単数で歌われていて、詩人個人の信頼の歌となっていますが、詩編100編の3節には「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」とあります。ここでは、「わたしたち」つまりイスラエルの民全体が主に養われている羊の群れだと歌われているのです。23編も当然このことを前提としており、主の羊の群れの一人である「わたし」に与えられている恵みを歌っているのです。詩編だけではありません。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エレミヤ書第23章においても、3節に「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」とあります。この「わたし」とは主なる神です。主ご自身が民の羊飼いとなって、散らされてしまった羊たちを元の牧場に連れ帰って下さると語られているのです。このことは、バビロニアによって滅ぼされてバビロンに捕囚となっているイスラエルの民の解放と故郷への帰還を意味しています。つまりここにも、イスラエルが神の羊の群れであり、主が羊飼いとしてその群れを養い導いて下さることが語られており、そのことが、神がイスラエルの民を捕囚の苦しみから救って下さることのたとえとなっているのです。
羊飼いと羊
このような箇所は他にも沢山あります。聖書は、主なる神とその民イスラエルの関係を言い表すために、羊飼いと羊の群れというたとえをしばしば用いているのです。それは、このたとえが主なる神とイスラエルの民の関係を現すのに相応しいからですが、そこにはいろいろな含みがあります。羊というのは、群れとして羊飼いに導かれ、養われなければ生きていけない動物です。自分一人で水や牧草を見つけ出して生きることはできないし、外敵から身を守ることもできないのです。つまり「一匹狼」というのはいても、「一匹羊」はあり得ません。そういう弱い、また愚かな者でありながら、いやだからこそですが、羊はよく群れから迷い出てしまいます。迷い出た羊は自分では戻ることができず、羊飼いが捜しに来て見つけてくれなければ死ぬしかないのです。だから、羊が生きるためには羊飼いがどうしても必要なのです。これらのことは、神の民イスラエルの、そして主イエス・キリストによって新しいイスラエル、新しい神の民とされている私たちの姿とぴったりです。羊飼いと羊のたとえは、神さまと私たちの関係を現すのにまことに相応しいたとえであるわけです。
人間の羊飼いが立てられる
そしてさらに、このたとえには別の広がりもあります。そのことが本日のエレミヤ書23章に示されています。23章1、2節にこうあります。「『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。『あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する』と主は言われる」。ここに「わたしの民を牧する牧者たち」とあります。それは、イスラエルのまことの牧者である主なる神が、ご自分の羊の群れを牧させるために立て、遣わした民の指導者たちのことです。主はそのように民の中に指導者を立てて、人々を養い、守り、導く羊飼いとしての働きをお委ねになるのです。それは具体的には王や預言者たちのことです。その人たちは主によって、「わたしの民を牧する牧者」として立てられたのです。しかしここで主は彼らに対して「災いだ」と言って怒っておられます。それは彼らが「わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散ら」したからです。あるいは「わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」からです。それは、イスラエルの王や預言者たちが、民を主なる神の羊の群れとして、主に従うように導くのでなく、他の神々を頼りにし、礼拝するようにしたり、弱い者、貧しい者を虐げるようなことをした、ということです。その結果、国は滅び、民はバビロン捕囚の苦しみに陥ったのです。バビロン捕囚は、彼ら牧者たちが群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった結果だ、彼らは「わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」となったのだ、と主は責めておられるのです。それゆえに3節にあったように、主なる神ご自身が、「群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」と言っておられるのです。
このように、イスラエルの民を羊の群れにたとえることは、主なる神が羊飼いとして民を養い、導いて下さる、ということだけはでなくて、まことの羊飼いであられる主なる神によって、民を養い導く務めを与えられている指導者たち、つまり人間の羊飼いの存在をも意識させるのです。そしてその人間の羊飼いは、このエレミヤ書が語っているように、羊の群れをちゃんと顧みて養い導くことができないことがある。良い羊飼いではなくて、むしろ群れを追い散らし、滅ぼしてしまうような悪い羊飼い、いやもはや羊飼いではなくて盗人になってしまうことがあるのです。
羊飼いと盗人
ヨハネ福音書の本日の箇所、10章1節に語られているのもまさにそのような者のことです。主イエスは「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」とおっしゃいました。門を通って羊の囲いに入るのは羊飼いです。羊飼いは、羊たちを囲いから連れ出して、牧草や水のある所へと導いて行き、夕方になったらまた羊たちを安全な囲いの中へと連れ帰るのです。しかしその羊の囲いに、門を通らずに柵を乗り越えて入る者がいる、それは盗人、強盗です。10節には「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」とあります。羊飼いは羊を養い、導き、守るために来ますが、盗人は羊を自分のものにしてしまうために、羊を生かすのではなく殺すために来るのです。そのように羊の群れのところには羊飼いも来るが盗人も来る、だからよく気をつけなければならない、と主イエスは言っておられるのです。
羊飼いと盗人を見分けるために
羊を生かすのではなくて殺してしまう盗人とは誰でしょうか。先程のエレミヤ書に語られていたのは、主なる神が民の羊飼いとして遣わしたはずの指導者たちが盗人になってしまった、ということでした。彼らは民を養い導き守る羊飼いだと思われていたのに、盗人になってしまったのです。盗人は、いかにも盗人らしい顔や恰好をして来るのではありません。羊飼いの姿で来るのです。この人について行けば大丈夫だ、と思えるような者として来るのです。だから、本物の羊飼いと盗人とをしっかり見分けなければなりません。そのために主イエスがここで語っておられるのは、どこを通って来るかによって彼らを見分けることができる、ということです。羊の囲いに入るのに、門を通って来るのが羊飼いであり、ほかの所を乗り越えて来るのが盗人です。それによって、羊飼いと盗人とを区別することができるのです。それは、見た目で判断するな、ということでもあります。羊飼いらしく見えるかどうかではなくて、門を通って来るかどうかによって見分ける必要があるのです。
盗人とはファリサイ派の人々のこと
その門とは何でしょうか。7、8節で主イエスは「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」とおっしゃいました。主イエスこそが、羊の囲いに入るための門であり、この門を通って来る者こそが羊飼いなのです。この門を通らずに柵を乗り越えて来る者は盗人です。ここに「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」とありますが、この「わたしより前に」は、時間的に前ということではありません。主イエスより前に、つまり紀元前に現れた預言者たちが皆盗人だったわけではありません。ここは、主イエスという門を通らずに来る者、つまり主イエスを受け入れず否定している者たちは、という意味に取るべきです。父なる神から遣わされた独り子主イエスを信じ、主イエスによる救いへと人々を導く者こそが羊飼いなのであって、そうでない者たち、主イエスを受け入れずに敵対している者は盗人なのです。それはここでは具体的にはファリサイ派の人々のことです。6節に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」とあります。ファリサイ派の人々は、神の民イスラエルが羊飼いである主なる神に養われる羊の群れにたとえられていることはよく知っていました。しかし主イエスがこのたとえによってお語りになったことは分からない、いや分かろうとしませんでした。それは、主イエスを救い主と認めず、否定している自分たちが、民を正しく導く羊飼いではなくて、門を通らずに来て羊を追い散らす盗人になっているということに彼らが気付いていない、いや気付こうとしない、ということです。
ファリサイ派による迫害の中で
ここには、この福音書が書かれた紀元1世紀末の教会の状況が反映しています。主イエスを救い主と認めないファリサイ派のユダヤ教によってキリスト信者は迫害を受けるようになっており、ユダヤ人たちの共同体から追放されるということが起っていたのです。ファリサイ派の人々は、自分たちこそ神の民イスラエルを導く羊飼いだと思っていました。しかし実は、主イエスを救い主と認めず、つまり主イエスという門を通らない彼らは、羊を追い散らす盗人になっているのです。主イエスという門から入る人、つまり主イエスを信じる信仰によって人々を導く教会の指導者たちこそが、神から遣わされた羊飼いです。2?4節にその羊飼いに導かれる教会の姿が描かれています。「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」。ここには、羊飼いが自分の羊の名を知っており、つまり一人ひとりのことをちゃんと知っていてその名を呼び、先頭に立って導いていくこと、羊たちも自分たちの羊飼いの声を聞き分けてその人に従っていくという様子が語られています。これは、主イエスこそが良い羊飼いであるという11節以下のみ言葉を前提として読むなら、主イエスに導かれるキリスト者の姿を語っていると言えますが、むしろここには、主イエスという門を通って来る人間の羊飼い、指導者の下に主イエスの羊の群れである教会が養われ、導かれている様子が語られていると言うべきです。4節に「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」とありますが、その「連れ出す」という言葉は、9章22節で、イエスをメシアであると信じる者を会堂から追い出すとユダヤ人たちが決めていた、という所の「追い出す」と同じ言葉です。つまり、ファリサイ派が追い出したと思っている者たちは実は主イエスによって連れ出され、導かれているのだ、ということです。ファリサイ派は、キリスト信者を追い出すという迫害によって、エレミヤ書が語っているように神の羊の群れを追い散らしています。彼らの迫害によって追い散らされた者たちを、主イエスという門を通って来た羊飼いである教会の指導者たちが、ユダヤ人たちの間からむしろ連れ出し、先頭に立って導き、養っている、ということが教会において起っているのです。
羊飼いの声を聞き分けるために
このようにここに語られていることは、この福音書が書かれた当時の、ファリサイ派による教会への迫害を背景としています。だから羊飼いだけでなく盗人や強盗のことが語られているのです。今日の私たちは、彼らと同じような迫害を受けてはいません。しかし神の羊の群れである教会には、いつの時代にも、主イエスという門を通って羊飼いが来るだけでなく、ほかの所を乗り越えて、羊飼いのふりをしているが実は盗人であり強盗である者が来るのです。私たちはそのことを覚えて警戒していなければなりません。羊飼いと盗人をちゃんと見分けなければならないのです。何によって見分けることができるのか。それは先程から見ているように、主イエスという門を通って来たかどうかです。それは主イエスによって遣わされ、主イエスによる救いを指し示し、主イエスのもとへと私たちを導く者ということです。そのように主イエスという門を通って来た者こそが羊飼いなのです。しかし門を通って来た羊飼いと柵を乗り越えて来た盗人は、見た目では区別がつかないのです。そこで大事なのはその声です。3節に「羊はその声を聞き分ける」とあります。4節にも「羊はその声を知っているので、ついて行く」とあり、5節には「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」とあります。羊である私たちが、羊飼いの声をそれと聞き分けて、その声にのみついて行くことが求められているのです。そのために私たちは、羊飼いを遣わして下さる主イエス・キリストの声を知っていなければなりません。主イエスの声を聞いて知っていれば、主イエスから遣わされた羊飼いの声を聞き分けることができるのです。つまり私たちが羊飼いの声にこそ従っていくためには、主イエス・キリストが私たちに語りかけておられるみ言葉をしっかりと聞いていることが必要なのです。そのみ言葉は聖書に記されています。聖書が読まれ、主イエスによって遣わされた人間の羊飼い、私たちで言えば牧師によって聖書の説き明かしである説教が語られる礼拝において、聖霊が働いて下さることによって、主イエスのみ言葉が私たちの心に鳴り響くのです。そのみ言葉を聞いているなら、羊飼いの声と盗人の声を聞き分けることができるようになります。見かけは羊飼いだが実は盗人である者の声を、これは違う、これは主イエスという門を通って来た人の声ではない、と判断することができるようになっていくのです。そのように羊飼いの言葉にこそ聞き従っていけるように、私たちは主イエス・キリストのお言葉を礼拝においてしっかり聞いていきたいのです。
主イエスこそ羊の門
さて既に見たように主イエスは7節で「わたしは羊の門である」とおっしゃいました。6節までのところで見つめられていたのは、羊の囲いの門から入って来る羊飼いと、柵を乗り越えて来る盗人のことでした。つまり羊飼いが出入りする門が見つめられていたのです。しかし7節では「羊の門」と言われています。それは羊が出入りする門です。7節以下には羊の門のことが見つめられているのです。そのことは9節を読むとはっきりします。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。主イエスという門を通って入る者は救われる、その人は牧草を見つけて、豊かに養われる、それは羊のことです。羊たちは、羊飼いに導かれてこの門を通って連れ出され、牧草や水のある所へと導かれて一日豊かに養われる、そして夕方になるとまたこの門を通って羊の囲いの中に導かれ、夜の間を守られるのです。つまりこの門は、主なる神の羊の群れである民が、まことの羊飼いである主に導かれ、養われ、守られて生きるために朝晩通る羊の門です。それが主イエスなのです。主イエスによってこそ、神の民は豊かな牧草にあずかって養われ、敵から守られて平安の内に歩むことができるのです。それに対して主イエスを救い主として受け入れず、敵対している者たちは盗人です。盗人は、主イエスという門を通って来ません。だから彼らについて行っても、主イエスという門を通って牧草にありつくことはできないのです。むしろ10節前半に「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」と言われているように、彼らについていくと滅びに至るのです。しかし10節後半に語られているように「わたし(つまり主イエス)が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」です。主イエスは、神がご自分の羊として下さった私たちが命を受けるための、しかも永遠の命を受けるための命の門となって下さったのです。それは主イエスご自身が私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命を生きる者となって下さったことによってです。十字架と復活の主イエスという門を通ることによってこそ私たちは、神の救いの恵みを与えられ、永遠の命に生かされるのです。そのことをこの福音書の3章16節が語っていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエス・キリストは、この神の愛に私たちがあずかるための門となって下さったのです。
主イエスの羊の群れとされていく歩み
これらのことを受けて11節に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られているのです。主イエスによって遣わされ、主イエスという門を通って来た人間の羊飼いによって私たちは養われ、主イエスのみ言葉を聞いていきます。そうすると羊飼いと盗人の声を聞き分け、羊飼いの声にこそ従って行くことができる者となります。そのようにして、主イエスという門を通って救いの恵みにあずかり、永遠の命へと導かれていくのです。本日の箇所にはこのような私たちの信仰の歩みが語られています。こういう歩みを通して私たちは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言って下さる主イエスの下で養われ、導かれ、守られる羊の群れとされていくのです。