主日礼拝

信じること、見ること

「信じること、見ること」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第35章5-10節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第9章35-41節
・ 讃美歌:58、151、479

外に追い出された
 ヨハネによる福音書第9章の終わりのところを本日はご一緒に読むのですが、この第9章の始めのところには、生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって癒され、見えるようになった、という奇跡が語られていました。主イエスがご自分の唾で泥を作り、それを彼の目に塗って、「シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃったのです。彼が言われた通りにすると、目が見えるようになりました。しかしこの癒しが行なわれたのが安息日だったので、このことはユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の間で問題とされました。癒された人はファリサイ派の人々に呼び出され、お前はイエスのことをどう思うのか、と厳しく尋問されました。ファリサイ派の人々は、安息日を破っているイエスは罪人であり、神から来た者ではない、と断言しました。しかし彼は、神のもとから来たのでなければ、生まれつき目が見えなかった自分を見えるようにできたはずはありません、と言ったのです。ファリサイ派の人々はそれを聞いてかんかんになり、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って、彼を外に追い出した、と34節にあります。この「外に追い出した」というのは、彼が尋問を受けていた場所から外に追い出された、ということだけを意味しているのではありません。22節には、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と語られていました。イエスをメシア、つまり神から遣わされた救い主であるという信仰を表明する者がいたら、ユダヤ人たちの会堂から追放する、つまりユダヤ人の共同体から追い出す、との決定が既になされていたのです。彼が外に追い出されたのはそのためです。彼は自分に起った癒しの体験に基づいて、イエスは神から来た方、神のみ業を行なっておられる方だ、という確信を語ったために、ユダヤ人の共同体から追い出され、村八分にされるという迫害を受けたのです。

迫害の中で
 前回も申しましたが、このことは、この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃のユダヤにおいて起っていたことです。ユダヤ教によるキリスト教会に対する迫害の中で、キリスト信者を会堂から追い出すということが起っていたのです。ヨハネ福音書は、自分たちが今受けている迫害の状況を主イエスのご生涯の中に書き込む、ということをしばしばしています。それによって、今迫害の中にあるキリスト信者たちを励まそうとしているのです。そのことを念頭に置いて読むことによって、本日の箇所に語られていることの意味は見えて来ます。最初の35節に「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと」とあります。これは、ファリサイ派の人々に追い出された人に主イエスが出会って下さった、ということを語っているのですが、それと同時にここには、主イエスをメシア、即ち救い主と信じる信仰によってユダヤ人たちの共同体から追い出されるという迫害の中にある信仰者たちの苦しみを、主イエスがちゃんと分かっていて下さり、その人たちと出会って下さるのだ、ということが語られているのです。

出会って下さる主イエス
 「彼に出会うと」とありますが、この「出会う」という言葉は、「見出す」「捜し出す」という意味です。主イエスが彼を捜し出し、見出して出会って下さったのです。これも前回申しましたが、主イエスの指示によってシロアムの池で目を洗ったことによって見えるようになった彼が戻って来た時には、主イエスはもうそこを立ち去っておられました。だから彼はまだ主イエスを見たことがないのです。道ですれ違ってもこの人だと分からないのです。つまり彼はまだ本当の意味で主イエスと出会ってはいないのです。その彼を、主イエスの方から捜し出し、出会って下さったのです。だからこの「彼に出会うと」は、たまたま出くわしたということではなくて、主イエスが彼を捜し出して彼のもとに来て下さった、ということなのです。それによってヨハネ福音書は、イエス・キリストを信じる信仰のゆえにユダヤ人の共同体から追い出され、迫害の苦しみを受けている信仰者のところに、主イエスご自身が来て下さり、出会って下さり、語りかけて下さるのだ、ということを語っているのです。

本当の願いを引き出して下さる主イエス
 そのようにして彼に出会って下さった主イエスは、「あなたは人の子を信じるか」と語り掛けました。彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。この彼の答えから分かるのは、彼は、生まれつき目が見えなかった自分を癒し、見えるようにして下さった救い主とまだ出会っておらず、その方を知らないのだ、ということです。「その方はどんな人ですか」と訳されていますが、ここは正確に訳すなら、「その方は誰ですか」です。以前の口語訳聖書も、新しく出た聖書協会共同訳も、「主よ、それはどなたですか」と訳しています。つまり彼は、自分を救ってくれた方が「どんな人か」を知りたがっているのではなくて、それが「誰なのか」を知りたいと思っているのです。つまりその方と出会い、その方を信じたいのです。主イエスは「あなたは人の子を信じるか」と彼に問うことによって、彼の中から、「自分を救って下さった方と出会いたい、その方を信じたい」という願いを引き出されたのです。
 それは彼自身がそれまでははっきりと自覚していなかった願いなのだと思います。彼は、生まれつき見えなかった目が見えるようになったという大きな体験をしました。生まれて初めてこの世界や人々を見るという体験は驚きであり新鮮だったでしょう。それまでは「見る」ということなしに関わってきたこの世界を改めて知り直し、知っていたはずの人々と改めて顔を合わせて出会うことに忙しかったでしょう。またそれまでの彼は、道端に座って物乞いをして生きるしかありませんでしたが、今や誰の手も借りずに自由に歩き回ることが出来るようになったのです。だからこれからはもう物乞いをして生きるのではなくて、自分の手で働いて生活したい、と思っていたでしょう。そのためにはいろいろなことを学んだり、身に着けたりして準備しなければなりません。就職活動をしなければならないのです。そのようなめまぐるしい生活の変化の中に彼はいたのです。勿論彼は、自分の目を見えるようにしてくれたイエスという方に心からのお礼を言いたいとも思っていました。でもその人の顔も知らないし、どこにいるのかも分かりません。お礼を言わなくっちゃ、と思いながらも、めまぐるしい毎日の歩みの中で、そのことは後回しになっていたのでしょう。そこに、主イエスの方から彼を捜し出して、来て下さったのです。そして「あなたは人の子を信じるか」と問い掛けて下さった。この主イエスの問いによって彼は、自分が今本当に願っていること、求めていることは何なのかに気づかされたのだと思います。目が見えるようになった新しい生活において、あれを見たい、これを見たいという願いがある。それまではできなかったあれもしたい、これもしたいという願いがある。自分で稼いで生活ができるようになりたいという願いもある。そのように、この世を生きていく上でのいろいろな願い求めを感じているけれども、自分が心の奥底で本当に願い求めていること、自分にとって本当に必要なことは、自分を新しく生かして下さった救い主と真実に出会うこと、その方を信じることだったのだ、そのことを彼は主イエスによって気づかされて、「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいです」と言ったのです。彼のところに来て、出会って下さった主イエスが、彼の心の中にあるこの願いに気づかせ、この言葉を引き出して下さったのです。

主イエスが引き出して下さる願い
 ヨハネ福音書がここで語っているのはそういう出来事です。そしてそれは、主イエス・キリストが私たちに出会って下さる時に、私たちに起こることでもあります。この話は、私たち一人ひとりに起こることとして読むことによってこそ、その意味が分かるのです。私たちも、生活のめまぐるしい変化の中で忙しい日々を送っています。仕事を持っているか否かは関係なく、私たちの人生にはいろいろなことが起るのです。人との関係の中でいろいろなことが起るし、病気になることもある。現在のように新型ウイルスの不安にさらされるということも起ります。私たちの人生には予想もしていなかったことがいろいろ起って来るのです。その中で私たちは、いろいろな願いを抱きます。ああなって欲しいと願ったり、逆にこうはならないで欲しいと願うこともあります。生きて行くために必要だと感じるあれやこれやを求める思いが次から次へと起って来ます。この人の場合には、劇的な癒しを体験したことによる大きな生活の変化に埋没して、自分が本当に願っていること、本当に必要としていることを見失っていました。私たちは、この人と同じような劇的な生活の変化を体験をすることはそうないかもしれませんが、しかし私たちもそれぞれの日々の生活においていろいろなことを体験し、いろいろなことを願い求めていく中で、自分が本当に願っていること、自分に本当に必要なことに気づかずにいる、ということがあります。そこに主イエスが来て下さり、語り掛けて下さる。その語り掛けによって私たちは、自分が本当に願っており、必要としているのは、救い主と出会うこと、その方を信じることなのだと気づかされるのです。そして私たちも「主よ、その方はどなたですか。その方を信じたいです」と求めていくのです。主イエスがそういう願いを私たちから引き出して下さるのです。

見ること、信じること
 そのように願い求めた彼に主イエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」とおっしゃいました。「あなたが心の底で本当に出会いたい、信じたいと願っている救い主は私だ。その私はもうあなたの前にいる。あなたは私をもう見ているのだ」と語り掛けて下さったのです。「あなたは、もうその人を見ている」、その「見る」という言葉は、9章1節に「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」とあった、その「見かけた」と同じ言葉です。その時にも申しましたが、主イエスは彼をちょっと「見かけた」のではなくて、救いのご意志をもって彼を「見た」のです。主イエスが彼を見たことから、彼の癒しの出来事が始まったのです。そして今彼は救い主イエスを見ています。彼の目の前に主イエスがおられ、彼と話をしているのです。彼が今主イエスを見ているのは、彼が主イエスを見出したからではありません。主イエスが彼を捜し出して、出会って下さったのです。主イエスが先ず彼を見て下さったので、彼も主イエスを見ることができた、主イエスと出会うことができたのです。その主イエスのみ前に彼は「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。それは礼拝したということです。主イエスを見るなら、主イエスと出会うなら、私たちは「主よ、信じます」という信仰を告白し、礼拝する者となるのです。
 私たちと主イエス・キリストとの出会いにおいてもこういうことが起ります。その出会いは、私たちが主イエスを求めることから始まるのではなくて、主イエスが私たちを見つめて下さることから始まります。私たちが主イエスを見失ってしまうことがあっても、主イエスが私たちを見出して、私たちのところに来て下さいます。そして私たちから、「救い主を信じたいのです」という願いを引き出して下さるのです。私たちがそのように願う時、主イエスは既に私たちの目の前にいて下さいます。あなたはもう私を見ている、私と出会っている、と語りかけて下さるのです。私たちはその主イエスの前にひざまずいて「主よ、信じます」と信仰を言い表します。そのようにして私たちは主イエスを見る者、信じる者となるのです。主イエスが私たちを見て下さったことから始まって、私たちも目を開かれて主イエスを見る者、信じる者とされる、それが私たちに与えられる救いなのです。
 この人に救いが与えられたのも、主イエスによって目が見えるようになった時ではありません。その時には彼はまだ主イエスと出会ってはいなかったのです。主イエスを見ることはできていなかったのです。しかし主イエスが彼と出会い語り掛けて下さったことによって、彼は主イエスを見ることができました。そして「主よ、信じます」という信仰を告白し、礼拝する者となったのです。そこに、主イエスとの真実の出会いがあり、救いが与えられたのです。

裁くために来た主イエス
 その彼に主イエスはこう語られました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者が見えるようになり、見える者が見ないようになる」。主イエスがこの世に来たのは裁くためである、と聞くと私たちは、「えっ、そうなの?」と思います。主イエスがこの世に来て下さったのは、私たちを救って下さるため、救い主としてではなかったのだろうか、と思うのです。現に、この福音書の3章17節にはこのように語られていました。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。ほら、主イエスは世を裁くためではなくて、救うために遣わされたんじゃないか…。しかしその次の18、19節にはこう語られています。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」。「御子を信じる者は裁かれない」、御子は世を救うために遣わされたというのはそういう意味です。つまり、御子を信じることによって、本来裁かれ、滅ぼされるべき罪人である私たちが救われるのです。この福音書の3章16節の言葉で言えば、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」のです。しかし御子を信じない者は既に裁かれている。世の光として来られた御子主イエスを信じないことが既に裁きとなっているのです。つまりその人々は主イエスによる救いにあずかることはできず、永遠の命を得ることができず、滅びるのです。ですからこの3章にも、御子が世に遣わされたことによって、御子を信じて救われる者と、信じることなく滅びる者とが分けられていくことが語られています。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」というお言葉はそのことを語っているのです。裁くというのは、救われる者と滅びる者とをはっきり分ける、ということです。主イエスがこの世に来られたことによって、そういう裁きが起こるのです。本日の箇所の39節の主イエスのお言葉もそのことを語っています。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者が見えるようになり、見える者が見ないようになる」。主イエスがこの世に来られたことによって、見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになる、という区別、違いが人々の間に生じるのです。

見えない者が見えるようになる
 「見えない者が見えるようになる」、ということがまさにこの人において起りました。彼に起ったのは、生まれつき目が見えないという障碍が癒され、見えるようになった、というだけのことではありませんでした。彼は、その救いを与えて下さった方、神が遣わして下さった救い主である主イエスを見たのです。主イエスと出会い、主イエスを信じる者とされたのです。彼が心の奥底で本当に願い求めていたこと、本当に必要としていたことは、目が見える他の人と同じ生活を送れるようになることではなくて、神の独り子、救い主イエス・キリストを見ること、その方と出会い、その方を信じ、その方と共に生きる者となることだったのです。「見えない者が見えるようになる」という救いは、主イエス・キリストを見ることができなかった者が、見ることができるようになり、主イエスと共に生きる者とされるということです。その救いは、主イエスがその人を見て下さることから始まります。主イエスが見て下さり、出会って下さることによって、主イエスを見ることができなかった人が目を開かれ、見ることができるようになるのです。

見えるものは見えないようになる
 しかし主イエスが来られたことによって同時に、「見える者は見えないようになる」ということも起ります。それが起こっているのがファリサイ派の人々だということが40節以下に語られているのです。41節で主イエスは彼らに「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」とおっしゃいました。ファリサイ派の人々は「自分たちは目が見える」と言っていたのです。その確信によって彼らは24節で主イエスのことを、「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と言ったのだし、34節では、「あの方は神のもとから来た人です」と言ったあの癒された人を、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って追い出したのです。生まれつき目が見えない人のことを彼らは「全く罪の中に生まれた」者だと言っています。罪人のくせに、律法に従っており罪のない者である我々に意見をするつもりか、ということです。そのようなファリサイ派のことを主イエスは、「見える者は見ないようになる」と言われたのです。自分が「見える」と思っている者、つまり自分には罪がないから人を正しく裁くことができると思っている者こそ、目が塞がれ、見るべきものが見えていないのです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」というのは、自分は見るべきものが見えていない罪人だという自覚を持っているなら、その罪の赦しを神に願い求め、「主よ、憐れんでください。見えるようにしてください」と主イエスに願っていくようになる。そこに、主イエスによる罪の赦しが与えられる、ということです。しかし「自分は見える」と思っているなら、救いを願い求めようとはしないし、主イエスを信じて罪の赦しにあずかることは起こらないのです。そのような者の罪は残る、つまり赦されることなく罪が残り続け、永遠の命ではなくて滅びに至っていくのです。
私たちも見えるようになる
 このように、主イエスのもとでは、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」という裁きが起ります。しかし私たちはそれを恐れたり怖がったりする必要はありません。主イエス・キリストが私たちを見出して下さり、私たちの前に立って、「あなたは人の子を信じるか」と問い掛けて下さっているのです。私たちが、自分は見えない者、罪ある者であることを認めて、その私たちを赦し、救って下さる主イエス・キリストのみ前で「主よ、信じます」と信仰を告白してひざまずくなら、見えない者が見えるようになるのです。主を見て、信じる者となるのです。その時私たちは、あの3章16節の、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛が自分に注がれていることが見えるようになるのです。

関連記事

TOP