創立記念

まことの食べ物、まことの飲み物

「まことの食べ物、まことの飲み物」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第6章52-59節
・ 讃美歌:56、120、356

教会創立145周年  
 本日私たちは、この教会の創立145周年を記念してこの礼拝を守っています。この教会は、1874年、明治7年9月13日に誕生しました。それから145年の歴史を経てきたわけです。そのことを私たちは覚えているわけですが、教会の歴史というのは何の歴史なのでしょうか。145年間何が続いてきたのでしょうか。いろいろな角度からそのことを見つめることができます。横浜第一長老公会として誕生し、明治25年にこの場所に旧会堂が建った時からは指路教会という名称となった一つの宗教団体が145年前に設立されて今日に至っている、と言うこともできます。しかし私たち信仰者はそこに、主なる神さまの大いなる恵みのみ業を見ます。主なる神が、ご自分の民の群れをこの地に誕生させ、145年にわたって守り、導き、養い、育ててきて下さったことを感謝をもって振り返るのです。先程、旧約聖書、詩編第23編が朗読されました。主が羊飼いとしてその群れを養い、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴って下さる、死の陰の谷を行くような危機、苦しみの時にも共にいて守り、正しい道に導いて下さる、敵に取り囲まれているような状況においても、食卓を整え、杯を溢れさせて下さる、そういう恵みへの感謝が歌われています。主なる神がこのような良い羊飼いとして、145年にわたってこの群れを養い、導き、守ってきて下さった、そのことを私たちは感謝をもって振り返り、それゆえに主なる神を礼拝することをもって145周年を記念しているのです。

主が与えて下さる食べ物、飲み物  
 この詩に、主が食卓を整え、杯を溢れさせて下さる、と歌われていることに注目したいと思います。主はご自分の羊の群れに、食べ物と飲み物を与えて養って下さるのです。「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」というのも、羊たちに牧草と水を十分に与えて下さることを意味しています。羊飼いである主なる神は、ご自分の羊の群れである教会に、必要な食べ物と飲み物を与えて飢えを満たし、渇きを癒し、生かして下さるのです。そういう主の恵みが、この145年間、この群れにも豊かに与えられてきました。この教会に連なって生きた私たちの信仰の先輩たちは、主なる神が与えて下さった食べ物と飲み物によって養われ、生かされてきたのです。今は私たちが、羊飼いである主によって食べ物飲み物を与えられ、養われているのです。  
 聖書が、主なる神による救いのみ業をこのように食べ物や飲み物を与えて養うこととして言い表しているのは、その救いが抽象的観念的なものではなくて、具体的現実的に私たちを生かすものだからです。主イエス・キリストも、ご自分の与える救いを、食べ物を与えるという仕方でお示しになりました。そのことが、ヨハネによる福音書第6章の冒頭に語られています。主イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にさせる、という奇跡を行なわれたのです。主イエスはこのように具体的現実的に、人々の飢えを満たされたのです。

主イエスこそ命のパン  
 この奇跡をきっかけにして、神が与えて下さり、人を本当に生かすまことの食べ物飲み物とは何なのか、という話がこの第6章において展開してきました。パンの奇跡を見た人々は、肉体を養うパンを与えてくれることを求めて主イエスのところに押し寄せて来ましたが、主イエスは、肉体を養うパンは食べてもまた空腹になるものであり、それによって養われる命はいつか死を迎える、つまりそれは人を永遠に生かすものではない、主イエスの父である神が与えて下さる天からのパンこそが、死ぬことのない永遠の命を与えるまことのパンだ、そのパンをこそ求めなさい、とおっしゃいました。そしてさらに、「私こそがその天からのパン、命のパンである。父は私を生きたまことのパンとしてこの世にお遣わしになったのであって、私を食べる者こそが永遠の命を得るのだ」とおっしゃったのです。これは、主イエスの与える救いは結局抽象的観念的なものであって、具体的現実的に人々の飢えを満たすものではない、ということではありません。父なる神は、ご自分の独り子である主イエスを、具体的現実的に、一人の人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスを、天からのパン、命のパンとして私たちに食べさせて下さるのです。この天からのパンは、食べてもまた空腹になり、いつかは死んでしまう肉体の命を養うパンよりもより力強く私たちの飢えを満たし、永遠の命を与えるものです。つまり主イエスというパンは、肉体の飢えを満たすパンよりもある意味でより具体的現実的に私たちを生かすのです。教会の歴史は、この天からのパンである主イエスが人々に与えられ、人々がそのパンを食べて生かされ、永遠の命にあずかってきた歴史です。教会が受け継ぎ、それによって生きてきたのは、観念的抽象的な教えや思想ではなくて、主イエスという生きたまことのパンなのです。この145年の間、この群れに連なる人々は、命のパンである主イエスを食べ、それによって永遠の命に生かされてきたのです。そして今は私たちが、主イエスという命のパンをいただきながら歩んでいるのです。

イエスの肉を食べる?  
 本日の箇所の直前の51節において主イエスはこう言っておられました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。先週もこのことに触れましたが、それまでは主イエスこそ命のパンである、と言われていたのが、ここではそのパンとは「わたしの肉のことである」と言われています。パンが肉へと変化しているのです。いずれにしても、主イエスこそが、私たちに永遠の命を与えるまことの食べ物であることが語られているのは同じです。しかしこの言い換えによって、ユダヤ人たちの間の反発がますます大きくなった、ということが本日の箇所の冒頭の52節に語られています。ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と言って激しく議論し始めたのです。イエスの肉を食べるだって、人肉を食えというのか、そんなこととんでもない、と大騒ぎになったのです。

主イエスの肉と血こそがまことの食べ物、飲み物  
 それを受けて主イエスは大切な教えをお語りになりました。53~55節の主の言葉を読みます。「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むことによってこそ、あなたがたは復活と永遠の命にあずかることができる。そうでなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉と血こそがあなたがたのまことの食べ物飲み物なのだ。そのように主イエスは宣言なさったのです。主イエスの肉を食べるだけでなく、その血を飲むということまで語られています。かなりグロテスクな話であり、気持ちが悪いと感じる人も多いでしょう。これは私たちが気持ち悪いと感じるだけでなく、ユダヤ人たちにとっても、とんでもない話でした。旧約聖書には、動物の血を飲んではならない、という教えがあります。動物の肉を食べる場合も、その血は地面に流さなければならないとされていたのです。まして、人の血を飲むなどということは考えられないことです。だから、この後の60節にはこう語られています。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」。主イエスに従ってきていた弟子たちの中にも、このことによってつまずいて去って行った者がいたのです。当時のユダヤ人たちからも、とんでもない、と思われるようなことを主イエスはおっしゃったのです。

主イエスの肉を食べ、血を飲む  
 しかしこの、主イエスの肉を食べ、血を飲むというとんでもないことこそ、主イエスというまことのパン、命のパンを食べて永遠の命を与えられるために欠かすことのできないことなのです。主イエスの肉と血、それは、主イエスが十字架にかかって死なれた、そこで釘打たれ、槍で刺された主イエスの体と、そこで流された主イエスの血を指し示しています。その肉を食べ血を飲むとは、勿論人肉を食べたり人血を飲むことではなくて、この主イエスの十字架の死によって実現した救いにあずかることです。神の独り子であり、ご自身がまことの神であられる主イエスが、私たちの救いのために人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりとなって、十字架の上で肉を裂き血を流して死んで下さったのです。つまり神の独り子である主イエスが、ご自分の命を私たちの救いのために犠牲にし、与えて下さったのです。このことによって父なる神は私たちの罪を赦し、私たちを神の子として受け入れて下さり、そして主イエスに与えて下さった復活と永遠の命を私たちにも与えると約束して下さったのです。そもそも、動物の血を飲んではならないと旧約聖書に教えられていたのは、血にこそ命が宿っていると考えられていたからです。命は神のものです。だから動物の肉を食べ物とする時にも、命は神さまにお返ししなければならない、そのために血を地面に流すようにと教えられていたのです。しかし神は、独り子である主イエスの命を、私たちの救いのために犠牲にし、与えて下さいました。主イエスの命である血が、私たちの救いのために流されたのです。この主イエスの十字架の死による救いにあずかることは、主イエスの命である血を飲むのと同じことです。神がその独り子主イエスによって実現して下さった救いは、その独り子の肉を食べ、血を飲むことにおいてこそ私たちの現実となるのです。ですから主イエス・キリストを信じて救いにあずかるというのは、単に主イエスが神から遣わされた救い主だという教えを受け入れる、ということではなくて、私たちが主イエスの肉を食べ血を飲んで、心と体の全体において主イエスと結び合わされ、一体となることです。つまり私たちは抽象的観念的にではなく具体的現実的に主イエスを信じ、救いにあずかるのです。そのことを言い表しているのが、主イエスの肉を食べその血を飲むという言い方なのです。  
 56節には「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」とあります。主イエスがいつも私の内にいて下さり、私もいつも主イエスの内にいる、そのように私たちと主イエスとが一つとなり、分ち難く結び合わされるのです。主イエスを信じてその救いにあずかるとは、主イエスと私たちの間にこのような深い関係が生じることです。このような主イエスとの関係こそが私たちを本当に生かすのです。そしてそのような関係は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」にこそ与えられます。主イエスは私たちとの間にこのような関係を結ぶために、私たちにご自分の肉を食べさせ、血を飲ませて下さるのです。

洗礼と聖餐によって  
 そのために主が備え、与えて下さったのが、本日も行われる聖餐です。聖餐のパンと杯は、十字架上で裂かれた主イエスの肉とそこで流された血を意味しています。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスの肉を食べ、血を飲み、主イエスと一つとされるのです。この聖餐は洗礼を受けた者があずかるものです。私たちは主イエスを救い主と信じる信仰を告白して洗礼を受けるわけですが、洗礼は私たちの信仰の決意表明ではありません。洗礼を受けることによって私たちは主イエスの十字架の死と復活の命にあずかり、聖霊のお働きによって主イエスと結び合わされ、一つとされるのです。つまり洗礼を受けた者は主イエスとの間に「その人はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という関係を与えられるのです。そのように洗礼において主イエスと結び合わされ、深い関係を与えられた者が、聖餐において主イエスの肉と血とにあずかり、主イエスとの関係を具体的現実的に深められつつ歩んでいくのです。また57節には「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」とあります。神の独り子であられる主イエスは、父なる神によって遣わされ、父によって生かされています。主イエスと父なる神の間には、父が私の内におられ、私も父の内にいる、という関係があり、それによって主イエスは生かされているのです。そういう関係が、主イエスと私たちの間にも生じます。主イエスを食べるならば、つまり主イエスを信じて洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ主イエスと一体とされて歩むならば、私たちも、主イエスが私たちの内におられ、私たちも主イエスの内にいる、という関係を与えられ、それによって生かされていくのです。  
 それが信仰者の歩みであり、教会の歩みです。つまり信仰者とは、洗礼を受け、聖餐にあずかることによって、主イエスの肉を食べ、血を飲み、主イエスと一つにされ、主イエスが自分たちの内にいて下さり、自分たちも主イエスの内にいる、という関係に生きている者です。そして教会とは、そのようにキリストと一体とされた者たちの群れ、キリストという頭のもとに集められ洗礼において一つとされたキリストの体であり、聖餐においてキリストの肉と血をいただきつつ、それによって養われつつ歩んでいる群れなのです。そういう群れが145年前にこの地に誕生し、今日まで続いて来たのだし、今私たちがその群れに加えられているのです。

教会の歴史を振り返りつつ  
 教会の歴史は何の歴史なのでしょうか。この145年間何が続いてきたのでしょうか。いろいろな角度からそれを見つめることができますが、一つとても大事なことは、主イエスの肉を食べ、その血を飲むということが、ここで連綿と続けられてきたということです。私たちの信仰の先輩たちは、それによって主イエスと一つとされて、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかり、主イエスの復活によって約束されている永遠の命をいただいて、それぞれの人生を歩んだのです。それはまことに具体的現実的な恵みでした。肉体をもってこの世を生きる具体的な歩みには、様々な苦しみや悲しみがあり、また人間の罪や弱さのゆえに起る争いや対立、それによって心すり減らされるような現実があります。教会の歴史も、そういうことの連続です。しかし過去145年の間、この教会に連なっていきた人々は、そのような厳しい現実の中で、主イエスの肉と血というまことの食べ物、まことの飲み物ををいただきつつ、主イエスの命によって生かされ、養われ、守られ、導かれてきたのです。同じ恵みが今私たちにも与えられています。私たちも、主イエスの肉を食べ、その血を飲み、主イエスと一つとされて、主イエスが私たちの内にいて下さり、私たちも主イエスの内にいる、という交わりを与えられています。それが本当に具体的現実的な恵みであることを私たちが体験するために、洗礼と聖餐が与えられているのです。洗礼は、主イエス・キリストの体である教会に結び合わされる、その最初の時にあずかる一度限りの決定的なしるしですが、聖餐は、その恵みが今確かにこの自分に与えられていることを繰り返し体験させてくれるものです。聖餐にあずかるたびに私たちは、主イエスの肉を食べ、血を飲み、主イエス・キリストと結び合わされ、その救いをこの体をもって味わいます。そして主イエスを復活させて下さった父なる神が、主イエスと一つにされた自分をも終りの日に復活させ、永遠の命にあずからせて下さるという希望をその都度新たにされるのです。この教会が145年にわたって、主イエスの肉と血というまことの食べ物、まことの飲み物を与えられ、永遠の命にあずかってきた、その歴史を振り返り、私たちも今日新たに、主イエスの肉と血というまことの食べ物、まことの飲み物をいただいて、新しい命に生かされていきたいのです。

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