「主を迎え入れよ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第18章1-15節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第16章21-24節
・ 讃美歌 ; 218、457
神の訪れ
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書創世記からみ言葉に聞いています。そして今私たちは、イスラエルの民の最初の先祖となったアブラハムの物語を読んでいます。12章から始まるその物語は、アブラハムの前に、主なる神様が繰り返しご自身を現わされることによって展開していきます。アブラハムは、主なる神様との出会いを積み重ねることによって、神様の民イスラエルの先祖として立てられていったのです。本日ご一緒に読む第18章も、神様が彼にご自身を現わされたことから始まります。1節の冒頭です。「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」。けれどもこの18章において、神様が彼に現れたその現れ方は、いつもとは違っていました。18章において神様は、三人の旅人の姿でご自身を現わされたのです。つまり神様はここで、隠された、すぐにそれとは分からない姿で、アブラハムを訪れられたのです。神様が私たちと出会って下さる時、私たちは「ああ、神様が今自分に出会って下さっている」といつもはっきり分かるとは限りません。神様はむしろこのように、すぐにはそれと分からない、隠された仕方で私たちを訪れられることの方が多いのです。
旅人をもてなす
アブラハムはここで、三人の旅人を迎え入れ、もてなしました。旅人をもてなすことは、この地の人々、特に遊牧民においては、今日でも、大切な義務と考えられています。それは、彼らが置かれている厳しい自然環境の中では、旅人を自分の天幕に迎え入れないことは、その人を殺すのと同じだからです。ですから彼らの間には、たとえ知らない人であっても、旅人には最大限のもてなしと保護を与えるという不文律があったのです。アブラハムはこの義務を忠実に果しました。彼は、客の足を洗う水を用意し、妻サラに、上等の小麦粉三セアでパン菓子を造らせました。三セアは、聖書の後ろの付録にある「度量衡及び通貨」の表を見ると、およそ23リットルです。彼が物惜しみせずに客をもてなそうとしたことが分かります。また7節には、「牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた」とあります。そして8節には、その子牛の料理に凝乳と乳を添えて出し、自らが給仕をしたとあります。つまり彼は、この三人の旅人に、自分の出来る最大のもてなしをしたのです。そしてこのことによって彼は、結果的に、自分の所を訪れて下さった神様をもてなしたのです。
神様をもてなす
この話は、新約聖書、マタイによる福音書第25章31節以下にある、主イエス・キリストの語られた話を思い出させます。それは、主イエスが栄光をもって再び来られ、全ての者をお審きになる、世の終わりの再臨の時に、神の国に入ることができるのはどのような人か、ということを教えている話です。それは、最も小さい者の一人に、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ね」た者たちだ、と言われています。そして主イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われました。つまり、自分が出会う最も小さい者の一人に奉仕した人は、実は主イエス・キリストに奉仕したのです。本日のこの話でアブラハムがしたのもそれと同じことでした。彼は三人の旅人を迎え入れてもてなしたことで、自分の所を訪れて下さった神様をお迎えし、もてなすことができたのです。それゆえに、ここから私たちが読み取るべき教えは、旅人が訪ねて来たらちゃんと迎えてよくもてなし、親切にしよう、という道徳的な教えではありません。むしろ私たちはこのアブラハムの姿から、隠された姿で私たちの所に来られる神様を迎え入れ、しっかりもてなす信仰者のあり方を学ぶべきなのです。信仰とは、ここでアブラハムがしたように、自分を訪れて下さる神様をしっかりとお迎えし、もてなす、つまりその神様に奉仕することです。しかもその神様は、私たちがすぐにそれとは分からないような隠された仕方で来られるのです。その神様にしっかり気付き、迎え入れ、奉仕する心を私たちは養っていきたいのです。
主の日の礼拝において
神様が私たちを訪れて下さり、私たちが神様をお迎えして奉仕する、そのことが起る場は、まず第一に、主の日の礼拝であると言えるでしょう。神様は、何よりも礼拝において、最も分かりやすい仕方で、私たちを訪れて下さるのです。私たちはこの礼拝において、神様をお迎えし、奉仕するのです。しかし神様はそれだけでなく、私たちの日常の様々な場面で、すぐにそれと分からない隠された仕方でも、私たちを訪れて下さるのです。その神様に気付いてお迎えし、もてなすことが大切です。そのためには、主の日の礼拝において神様をお迎えして奉仕することができていなければなりません。礼拝で神様をお迎えすることができていなかったら、それ以外の日常の生活の中で、隠された仕方で訪れて来られる神様をお迎えすることはおろか、気付くことすらできないでしょう。日常の生活の中で神様と出会うために、いや、そこにいて下さる神様に気付くために、主の日の礼拝の体験が、その積み重ねが必要なのです。
直ちに、素早く、熱心に
このように私たちはこのアブラハムの姿から、私たちを訪れて下さる神様をお迎えして奉仕する礼拝の姿勢を学ぶべきなのです。そこで注目したいのは、アブラハムが、この三人の旅人を迎え入れるにあたって、直ちに、素早く、また熱心に行動していることです。彼は三人の旅人が天幕の入り口に現れると、直ちに、走り出て迎えています。旅人を迎えることは、迎える側の都合を言っていたらできません。旅人が戸口に現れたら、直ちに行動を起こさなければならないのです。自分の都合や予定を優先して、今は忙しいから後にしてくれ、と言っていたのでは時を失います。旅人は戸口から去って行ってしまうのです。そうしたらもう、自分のもとに迎えることはできません。アブラハムは、その時の自分の一切の都合を脇へのけて、直ちに天幕の入り口から走り出て迎え、3節で、「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください」と言ったのです。ここは口語訳聖書では「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳です。つまり彼は、「お客様」ではなくて「わが主よ」と呼びかけており、「よろしければ」ではなくて「もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら」と言って、三人の旅人に自分のところを通り過ぎないように願っているのです。これこそが、神様をお迎えする礼拝に臨む私たちの基本的な姿勢です。主の日の礼拝を、私たちはこのように、神様をお迎えするかけがえのない機会として大切にしたいのです。この機会を逃したら、神様は通り過ぎて行ってしまう、何としてでも今、自分のもとに留まっていただきたい、そういう思いで礼拝に集いたいのです。実際、私たちの人生は、明日何が起るか分からないものです。どんなに若い人であっても、今日のこの礼拝が、生涯最後の礼拝になるかもしれないのです。アブラハムは、直ちに、素早く行動して、そのかけがえのない機会を捉えたのです。17章24節によれば、アブラハムはこの時既に99歳になっていました。しかしその年を全く感じさせない素早さで行動しています。2節には「天幕の入り口から走り出て迎え」とあります。6節には「急いで天幕に戻り」とあります。また7節にも、「牛の群れのところへ走って行き」とあります。旅人を迎え入れもてなすために、99歳のアブラハムが走っているのです。そして、先ほど見たように、最大限のもてなしを熱心にしているのです。それが、私たちが学ぶべき礼拝の姿勢です。勿論、お年よりの方々に、礼拝に走って来なさいと言っているのではありません。転ばないようにゆっくり、気をつけておいで下さい。しかし年配の者も若い者も、神様をお迎えしてもてなし、奉仕することを本当に大切にして、そこに心を向け、その機会を逃さないように熱心に努力する、という思いを、姿勢を持ちたいのです。
恵みのみ言葉を告げるために
さてここまで、三人の旅人を迎え入れ、もてなしたアブラハムの姿を見つめることによって、神様を礼拝する者のあり方を示されてきましたが、今度は、彼のところを訪れて下さった神様に目を向けていきたいと思います。神様がこの三人の旅人の姿でアブラハムのもとを訪れられたのは、何のためだったのでしょうか。彼からもてなしを受けるためでしょうか。旅人の姿に身をやつして訪れても、彼がちゃんと気付いて迎え入れ、もてなしをするかどうかをテストするためでしょうか。そうではありません。神様がここでアブラハムを訪れられたのは、彼に、恵みのみ言葉を告げるためだったのです。それは10節に記されています。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。この言葉を告げるために、神様はアブラハムを訪れられたのです。アブラハムは、神様からのこのみ言葉をどれだけ待ち望んでいたことでしょうか。彼は創世記12章で、「あなたを大いなる国民にする」という神様の約束を受け、それを信じて、生まれ故郷、父の家を離れて旅立ったのです。しかし彼と妻サラとの間には、待てど暮らせど、子供が与えられませんでした。子供が生まれなければ、「あなたを大いなる国民にする」という神様の約束は実現はおろか、実現に向けて一歩前進すらしないのです。そのような状態でもう25年が経とうとしています。彼はこの25年間、神様のこのみ言葉を待っていたのです。その恵みのみ言葉を告げるために、神様はついに、アブラハムを訪れて下さったのです。
神様のもてなし、奉仕
神様が私たちを訪れて下さるのは、私たちのもてなしを求め、奉仕を要求するためではありません。私たちがちゃんともてなしをするかどうかをテストするためでもありません。そうではなくて、私たちに恵みのみ言葉を与えて下さるために、神様は私たちを訪れて下さるのです。私たちは、私たちの所を訪れて下さる神様によって、恵みのみ言葉を与えられ、それによって慰めと喜びと希望を与えられるのです。つまりみ言葉によって、むしろ神様が私たちをもてなして下さるのです。むしろ神様が私たちに奉仕して下さるのです。それが、礼拝において起ることです。礼拝は、私たちが神様を迎え入れ、もてなし、奉仕する場であるよりも前に、実は神様ご自身が私たちに奉仕して下さり、恵みのみ言葉によって養い、生かして下さる場なのです。先ほど、信仰とは、自分を訪れて下さる神様をしっかりとお迎えし、もてなし、奉仕することだと申しました。神様に仕える僕として生きることが信仰ですから、そういう面があることは確かです。けれども、私たちが信仰者として生きるところで最も根本的に起っているのは、むしろ神様が私たちを迎え入れて下さり、私たちをもてなして下さり、私たちに奉仕して下さる、ということなのです。その神様のもてなし、奉仕を受けて、それに応えて、私たちも神様をもてなし、奉仕していくのです。
人間の常識を超えた恵み
神様は恵みのみ言葉を与えるために今この礼拝において私たちを訪れて下さっています。その恵みのみ言葉は私たちに何を告げているのでしょうか。それが「恵みの」み言葉であるとはどういうことなのでしょうか。アブラハムとサラに与えられた、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」というみ言葉についてが考えてみましょう。アブラハムは、先ほど申しましたようにもう99歳でした。サラも老人でした。11節にこうあります。「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた」。つまり彼らにはもはや子供が生まれることなどあり得なかったのです。「来年の今ごろには男の子が生まれている」という神様のみ言葉は、人間の常識においてはもはやあり得ない、不可能なことだったのです。つまりここで告げられている恵みのみ言葉とは、私たちが、何かを願い、その実現のために神様に祈りつついっしょうけんめい努力していく、すると神様がその努力に報いて下さって、力を添えて下さり、願いを実現させて下さる、というような事柄ではないのです。私たちの力や努力によってどうすることもできない、ただ神様の全能の力によってしか起こり得ない、そういう恵みが、み言葉によって告げられているのです。私たちが礼拝において、聖書を通して聞くのも、そういうみ言葉です。私たちの力や努力ではとうてい得ることができない、人間の常識を超えた救いが、ただ神様の恵みによって与えられることを、私たちはみ言葉によって聞くのです。
み言葉を笑う
そこで問われてくるのは、その恵みのみ言葉を私たちがどう受け止め、それにどう反応するか、です。この恵みのみ言葉を聞いた時、サラは、「ひそかに笑った」のです。この笑いは、神様の恵みのみ言葉を聞いた喜びの笑いではありません。彼女は12節後半にあるように、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思った」のです。つまりこの笑いは、神様の恵みのみ言葉を信じることができない者の、皮肉な、不健康な笑いです。サラは神様の恵みのみ言葉をそのようにしか受け止め、反応することができなかったのです。それは夫アブラハムも同じでした。アブラハムが同じように笑ったことは、17章の17節に既に語られていました。そこには、「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」とあります。アブラハムは、神様の前にひれ伏しながら、つまり神様を礼拝しながら、心の中で笑ったのです。神様のみ前にひれ伏して礼拝をしながら、心の中でみ言葉を笑っている、そういうアブラハムの姿を聖書は描いています。それは私たちの姿でもあります。私たちも、礼拝を守りながら、心の中でこのような笑いを浮かべていることがあるのではないでしょうか。 このような笑いは何によって生まれるのでしょうか。それは、私たちが、自分の現実を、人間の常識や感覚によってしか見つめることができないことによってです。アブラハムとサラの現実は、まさに11節に語られていた通りであり、子供が生まれる可能性など人間の常識ではあり得なかったのです。人間の常識や感覚によって現実を見つめているなら、神様の恵みのみ言葉は、絵空事にしか見えません。そこにあの皮肉な笑いが生まれます。み言葉を正面から受け止めることをせず、軽くいなして、笑いながら適当にあしらってしまうのです。「神様のみ言葉は確かに有り難いものかもしれないが、現実はそんなに甘くない。私のかかえているこの現実は、そんなもので解決しはしない…」。そのような思いと共に、皮肉な、不健康な笑いが生まれるのです。私たちはそのようにして、神様の恵みのみ言葉を正面から受け止めることを避けて、軽くいなしてしまうことが多いのではないでしょうか。その時私たちが自分の正面に置いて見つめているのは、人間の常識や感覚です。「現実は甘くない」と言ってみ言葉をいなしてしまう私たちが結局頼りにしているのは、人間の常識や感覚なのです。それらが、厳しい現実の前でいかに力のないものであるかを、思い知らされているはずなのにです。そしてそこでは、現実の厳しさはますます重く私たちの上にのしかかってくるのです。
不信仰の笑いからの解放
神様の恵みのみ言葉を笑う不信仰は、このような堂々回りに陥ります。同じ堂々回りは、祈りにおいても起ります。現実の厳しさ、苦しみ悲しみの中で、祈ってもどうなるものでもない、と感じ、祈りを軽んじ、皮肉な笑いを浮かべて祈ることをやめてしまう私たちは、結局自分の力、人間の力、世間の常識により頼むしかないのです。しかしそれらは本当に大切な時には何の役にも立たず、現実の厳しさはますます重くなるばかりなのです。私たちは、この不健康な堂々回りをどこかで断ち切らなければなりません。しかし自分の力でこれを断ち切ることができないのも私たちの現実です。それをして下さるのは神様です。神様はそのみ言葉によって、人間の不信仰を、それによる笑いを、厳しく問われるのです。それが13節のみ言葉です。「主はアブラハムに言われた」。ここではもはや、三人の旅人のではなく、主ご自身の言葉として語られています。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ」。なぜお前は私の恵みの言葉を笑うのか。なぜ私の言葉とまともに向き合わず、自分の力、人間の力、常識ばかりに目を向けるのか、神様はそのことを厳しく追及なさるのです。神様のこの問いによってサラは恐ろしくなったと15節にあります。神様のみ言葉を笑うことがいかに冒涜的な、恐ろしいことであるか、それを私たちも知らなければなりません。サラはあわてて「わたしは笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、あなたは確かに笑った」とあくまでも彼女の笑いを厳しく追及されるのです。しかしその追及の言葉の中に14節があります。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。私たちの不信仰とそれによる笑いを厳しく追及しつつ、神様は、恵みのみ言葉を繰り返し語られるのです。私たちに、あくまでも恵みを告げようとしておられるのです。サラはこのみ言葉によって恐れたのです。その恐れは、神様の審きへの恐怖と言うよりも、み言葉を笑っていなしてしまおうとする自分の正面に立ち、あくまでも恵みのみ言葉を告げようとしておられる神様への恐れ、畏怖の思いだと言えるでしょう。この神様への恐れこそが、あの堂々回りを断ち切り、私たちを不信仰の笑いから解放するのです。
再臨の約束
三人の旅人の告げたみ言葉には、「来年の今ごろ、必ずここにまた来る」ということも語られています。10節と14節にそれが繰り返されています。神様が、もう一度アブラハムを訪れて下さるという約束です。神様が繰り返し訪れ、出会って下さる、冒頭に申しましたようにそれがアブラハムの歩みでした。それは私たち信仰者の歩みでもあります。神様は、アブラハムを訪れたよりもずっと頻繁に、週に一度の主の日の礼拝において、私たちを訪れ、出会って下さっています。私たちを訪れて下さっているのは、独り子である神、私たちのために十字架にかかり、復活して下さった主イエス・キリストです。その主イエスが、礼拝のたびに、恵みのみ言葉を与えて下さっています。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死に、復活することによって、罪の赦しと、永遠の命の約束が与えられている、その恵みを告げるみ言葉です。毎週の礼拝において、私たちはこの主イエスをお迎えし、み言葉による養い、慰め、励ましを受け、そしてその恵みに答えて主イエスをもてなし、奉仕しているのです。信仰者の人生は、繰り返し訪れて下さる主イエスをお迎えし、恵みのみ言葉をいただき続ける歩みです。そしてその歩みは、主イエス・キリストが、世の終わりに、目に見える仕方で、もう一度来て下さるという約束によって支えられているのです。主イエスは、わたしは必ずもう一度あなたがたの所に戻って来る、と約束して下さいました。その時にこそ、私たちの救いは完成するのです。今もなお私たちにまとわりつく全ての罪がぬぐい去られ、あらゆる苦しみや悲しみが取り去られて、主イエスと共に復活の命と体を生きる恵みが与えられるのです。私たちが毎週の主の日に、礼拝において、私たちを訪れて下さる主イエスをお迎えするのは、世の終わりにもう一度来られる主イエスをお迎えするための準備です。今のこの世の歩みの中で、目には見えない、それと分かりにくい仕方で訪れて来られる主イエスを、繰り返しお迎えしつつ歩むことによって、私たちは、世の終わりの、主イエスの再臨を待ち望む信仰を養われていくのです。
マラナ・タ
主イエスがもう一度戻って来られることを待ち望む教会の信仰を言い表した祈りが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の16章22節にある「マラナ・タ」という言葉です。それは、「主よ、来てください」という意味です。私たちの信仰の中心にはこの祈りがあるのです。主よ、この礼拝の真ん中に来て下さい。そして、神様に仕え従う群れを呼び集め、養い、強めて下さい。罪に満ち、み言葉を笑う不信仰にたびたび陥る私のこの心に、来て下さい。地上の命が終わる時、主よ、私の傍らに来て下さい。そして、あなたがお定めになっている、この世の終わりの時に、来て下さい。そして、あなたが十字架の死と復活によって与えて下さった私たちの救いを完成して下さい。この祈りに生きる時に、私たちは、厳しい現実のただ中にあって、礼拝において与えられる神様の恵みのみ言葉をしっかりと受け止め、それによって慰めと喜びと希望を与えられ、忍耐しつつ、救いの完成を待ち望む者とされるのです。