夕礼拝

神の与える名

「神の与える名」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第17章1-27節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第3章13-19節
・ 讃美歌 ; 165、463
 

九十九歳のアブラム
 創世記は12章から、イスラエルの民の最初の先祖となったアブラハムの物語を語っています。その物語は12章から始まるのですが、最初に語られているのはアブラハムの誕生の話ではありません。後にアブラハムと呼ばれるようになるアブラムが、神様の約束を信じて旅立ったという話です。つまり彼が神様を信じて歩み出した、その信仰の旅路の始まりが、この物語の始まりなのです。その時彼は75歳でした。本日は創世記17章をご一緒に読みます。その冒頭に、「アブラムが九十九歳になったとき」とあります。旅立ってから既に24年、彼は神様の約束を信じて、信仰者として歩んできたのです。そのアブラムに、神様が改めて現れて、「わたしは全能の神である」と語りかけられたことから、17章は始まるのです。

全能の神
 神様がご自身を「全能の神」として示されたのはここが初めてです。出エジプト記第6章2、3節にこのようにあります。「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった』」。つまりこの「全能の神」という呼び方は、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの父祖たちに神様がご自身をお示しになったお名前なのです。そのお名前が、ここで初めてアブラムに示されたのです。アブラムが、神様の民イスラエルの先祖として、これから神様を呼んでいくに際して用いるべきお名前が、ここで初めて示されたのです。

アブラハムとサラ
 神様は、「全能の神」というご自分のお名前をアブラムにお示しになると同時に、アブラムにも新しい名前を与えて下さいました。そのことが4節以下に語られていきます。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」。アブラムはここで、アブラハムという新しい名前を、神様から与えられたのです。アブラムがアブラハムになることにはどんな意味があるのでしょうか。この二つの名前は、その持つ意味は同じであると考えられています。いずれも「父は高められる」あるいは「高められた父、高貴な父」という意味です。5節後半によると、創世記の著者はアブラハムという名前に「諸国民の父」という意味を見ていますが、それは神様の救いの歴史においてアブラハムが果たした役割から逆に読み込まれたものであって、アブラハムという名前にそういう意味があるわけではないのです。また15節には、妻サライも、サラという新しい名前を与えられたことが語られています。サラとは、「女王、王妃」という意味です。16節の終わりに、「諸民族の王となる者たちが彼女から出る」とあることとこの名前は結びついています。しかし元のサライという名の意味はよく分かりません。単にサラという名前の古い形に過ぎないのではないか、とも言われます。こちらも、名前が変わったこと自体にそれほど大きな意味があるわけではないのです。ここで大切なことは、新しい名前の意味ではなくて、神様によって新しい名前が与えられた、という事実です。新しい名前が与えられる、それは新しい人間とされることです。アブラハムとサラは、神様によって新しい名前を与えられ、新しい人間とされたのです。彼らは神様によって新しくされて、イスラエルの民の先祖となったのです。12章2節の神様の約束の言葉に即して言えば、祝福の源となったのです。神様がご自身のお名前を彼らに示されたことに続いてこのことが起っていることが、この17章のポイントです。神様がご自身のお名前を示して下さる時、その人間には新しい名前が与えられるのです。神様がお名前を示して下さるというのは、ご自身のお姿を示し、その人と関わって下さるということです。そのことによって、人は新しくされます。神様のお名前を示され、それを知るというのは、神様についての一つの知識を得ることではありません。神様のお名前を示される時、人は神様がそのお名前をもって自分に関わって下さることを体験するのです。その体験によって人は新しく生き始めるのです。自分も神様と新しく関わり、神様との間に新たな関係を築いていくのです。この17章においてアブラハムとサラに起ったのはそういうことだったのです。

神の目の前で
 神様から新しい名前を与えられて、神様と新しく関わっていく、それは具体的にはどういうことでしょうか。1節に戻ってそのことを考えてみたいと思います。神様は「わたしは全能の神である」とご自身の名前をお示しになり、それに続いて、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われました。「全能の神」というお名前を示されたアブラハムは、神様に従って歩み、全き者となるのです。この「わたしに従って歩み」という所は、前の口語訳聖書では「わたしの前に歩み」となっていました。こちらの方が原文のニュアンスを伝えています。もっと直訳すれば「私の顔の前に歩み」となります。「わたしに従って歩みなさい」というのは意訳で、本来は、「わたしの顔の前を歩みなさい」と神様は言われたのです。神様から新しい名前を与えられたアブラハムが、神様と新しく関わっていく、その関わりとは、神様の顔の前で生きていく、ということだったのです。
 神様の顔の前で、というのは、神様の目の前で、と言い換えることができます。神様が私たちを見つめておられる、その目の前で、そのまなざしを意識して生きることこそ、神様の顔の前で生きることです。私たちは、いろいろな目にさらされて生きています。この世には、私たちを見つめているいろいろな目があります。広く世間の目というのもあるし、会社の上司の目、同僚の目、部下の目、学校における先生の目、生徒の目、友人の目、家庭における家族の目、そしてたとえ周囲に人がいなくても、自分を見つめる自分自身の目もあるのでます。そういう様々な目の前を私たちは歩んでいます。それらは全て人間の目です。私たちは、人間の目の前で、人間の目を気にして、それによって喜んだり落ち込んだりを繰り返しているのではないでしょうか。しかし神様が私たちと出会い、お名前を示して下さる時、そのような私たちが新しくされるのです。新しい名前をもって、新しく生き始めることができるのです。人間の目ではなく、神様の目、神様のまなざしをこそ見つめ、意識して生きる者となることができるのです。それが、神様の顔の前で歩む者となることであり、神様と新しく関わっていく、ということ、つまり神様を信じて生きることなのです。

全き者
 神様はそれに続いて「全き者となりなさい」とも言われました。「全き者」とは「完全な者」ということです。しかしそれは「わたしの顔の前に歩みなさい」ということと別のことが命じられているのではありません。神様が求めておられるのは、私たちが道徳的に完全な、非の打ちどころのない人間になることではないのです。神様が期待しておられる「全き者」、完全な人間とは、本当に神様の目の前を歩み、神様のまなざしの中で、神様との関わりに生きる人のことです。自分の力で道徳的に完璧に生きている人ではありません。そんな人はそもそもいるはずがないのですが、もしもいるとしたら、その人は神様の前で、神様と共に歩もうとはしないでしょう。自分一人で何でも完璧に出来てしまうのですから、その必要がないのです。しかしそのように神様と無関係に生きることこそ、聖書の教える人間の罪です。神様から新しい名前を与えられ、神様と新しく関わって生きるというのは、常に神様のみ顔の前で、神様を見つめ、神様の恵みと導きに頼って生きることです。アブラムとサライは、アブラハムとサラという新しい名前を神様から与えられて、神様とのそのような関わりに生きる、全き者とされたのです。

希望の名
 そしてこのことによって彼らには、さらにもう一つの名前が示されました。そのことが19節に語られています。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」。アブラハムとサラとの間に男の子が生まれる、その子の名前がここで初めて示されたのです。思えば、彼らが故郷を離れて旅立ったのは、神様が、あなたを大いなる国民とし、諸国民の祝福の源とする、と約束して下さったからでした。しかしその時彼らには子供が一人もいませんでした。神様のこの約束は、彼らの間に子供が生まれる、ということにおいてこそ実現し始めるのです。彼らはその約束の実現の印である子供の誕生を待ち望みながら24年間歩んで来ました。しかし子供は生まれないまま、アブラハムは今や九十九歳になっているのです。そのような彼らについに、サラが生むであろう男の子の名前が示されたのです。それは彼らが24年間待ちに待っていた名前です。不可能を可能にして下さる全能の神が、約束を確かに実現して下さる、その希望を告げる名前です。イサクという名前には、彼らの将来への希望が凝縮しています。その名前がここで示されたのです。

三つの名前
 つまりこの17章には、三つの名前が示されているのです。その名前を通して、信仰において私たちが体験する三つのことが語られているのです。第一には、「全能の神」という神様のお名前が示されています。このお名前によって、神様が私たちに恵みをもって関わって下さり、全能の力によってあらゆる妨げを乗り越えて約束を実現して下さることが語られているのです。第二には、アブラムとサライに「アブラハムとサラ」という新しい名前が神様から示され与えられています。神様と出会い、そのみ名を示された私たちは新しくされ、神様のみ顔の前を生きる新しい人間とされることが、この新しい名前によって語られているのです。そして第三に、これから生まれる「イサク」という名前が示され、それによって神様の約束の将来における実現への希望が確かなものとされているのです。しかしこのイサクの名前を示された時のアブラハムの反応は、約束の実現を信じて喜びと希望に生きる、というのとはほど遠いものだったこともここに語られています。そのことについては、次回、18章を読む時に、合わせてもう一度見ることにしたいと思います。

割礼
 さて神様は9節以下でアブラハムに、契約のしるしとして割礼を受けることをお命じになりました。旅立ちにおいて神様が彼に与えて下さった約束、あなたの子孫を大いなる国民とし、彼らにカナンの地を与える、そして彼らが、諸国民に神様の祝福が及んでいくための祝福の源となる、という約束は、既に15章において、単なる約束から「契約」にまで高められていました。契約にまで高められたというのは、神様がご自身をこの約束に縛り付け、命をかけてこれを守ると宣言して下さったということです。アブラハムはこの神様の契約の相手とされたのです。神様が与えて下さったこの契約の恵みを受けて、それに応えていく、そういう人間の応答のしるしが割礼です。割礼を受けることによって、アブラハムとその一族は、神様の契約の相手として生きることを、先ほどの言葉で言えば、神様のみ顔の前を歩む全き者として生きることを誓ったのです。割礼は、11節にあるように、男性の生殖器の先端の包皮を切り取る儀式です。それによって、13節にあるように、「わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」のです。イスラエルの民は、この割礼によって神様の契約の恵みを自分の体に刻み付けて歩みました。神様の恵みは、頭の中で考えて分かるとか分からないとか、感じるとか感じないというものではありません。それは言ってみれば自分の体に刻み付けて歩むものです。割礼はある意味で肉体に傷を負うことです。傷の痛みを味わい、その傷跡を一生背負っていくものです。そのようにして神様と関わっていくことにおいてこそ、神様の恵みが本当に私たちのものとなっていくのです。
 またこの割礼は、契約のしるしであると同時に、自分の体を神様のものとしてお捧げすることのしるしでもあります。神様の前に歩む、神様のまなざしの中で生きるとは、目を神様に向けて生きることです。人間のいろいろな目が私たちを見つめていますが、それら人間の目を見つめるのでなく、ただ神様のまなざしを見つめ、そこに思いを集中するのです。そこには戦いがあります。自分を神様にお捧げするための戦いです。礼拝や祈りは、そういう戦いの場であるし、またそういう戦いによって戦い取っていくべきものです。その戦いに生きる者となることの印が割礼なのです。
 さらにこの割礼は、周辺の諸民族においては、男の子が成人して大人の仲間入りをする儀式においてなされていたことだったようです。つまり結婚して子供を生むための準備を整える、ということです。その儀式を、神様は、ご自身とアブラハムとの契約において用いられたのです。割礼によってアブラハムは、信仰における大人としての歩みを、九十九歳にして始めたのです。そしてこの後彼とサラとの間に、約束の子イサクが生まれます。イサクは、アブラハムが信仰において本当に大人になり、神様のみ顔の前を歩む全き者となり、神様の契約の相手として生きる者となった、そこに誕生したのです。しかしそれはアブラハムが自分の力で立派な大人の信仰者になった、ということではありません。神様が彼に現れてご自身のお名前を示して下さり、彼に新しい名前を与えて下さったのです。彼は神様によって新しくされたのです。そして、もはや人間の常識では子供を生むことなどできないはずの彼らに、イサクを誕生させて下さったのです。全ては、不可能を可能にする神様の全能の力によることです。全能の神が、私たちの信仰を育て、養い、契約の相手として、神様のみ顔の前を生きる者として下さるのです。

新しい契約
 今私たちが与えられている神様の契約は、主イエス・キリストによって打ち立てられた新しい契約です。アブラハムがその与えられた契約において体験したことと、私たちが今新しい契約において体験していることとはいろいろな点で重なり合っています。主イエス・キリストのご生涯と十字架の死とによって、神様は私たちにご自身のお名前を、つまり本当のお姿を示して下さいました。み子の命を犠牲にしてまで、罪人である私たちを愛し、私たちの救いに関わって下さる、その愛のお姿を示して下さったのです。この主イエスとの出会いによって、私たちにも新しい名前が与えられ、新しく生き始めることができます。主イエスのまなざしこそが私たちを見つめる神様のまなざしであることを知らされ、そのまなざしの前で生きる者へと新しくされるのです。そしてまた私たちには、主イエスの復活によって、将来への希望が与えられています。主イエスによって示された神様の救いの約束が将来必ず実現し、罪と死の力が滅ぼされて新しい命が与えられることを信じて待ち望むことができるのです。

洗礼
 そしてこの新しい契約の印として、割礼に代って私たちに与えられているのが洗礼です。洗礼も、割礼と同じように、一度受ければ繰り返されることのないものです。それは主イエスによる神様の契約の恵みを私たちに、消えない印として刻み付けるものなのです。洗礼を受けて教会に連なるキリスト信者として生きる私たちの信仰は、私たちの心の中だけの、気分の問題ではありません。洗礼によって神様が私たちに新しい名前を与えて下さり、私たちを新しく生かして下さっているのです。本日共に読まれたマルコによる福音書3章には、十二人の弟子が選ばれ、使徒と名付けられたことが語られていました。彼らは主イエスによって、使徒という新しい名前を、いやむしろ使命を与えられたのです。またここには、「シモンにはペトロという名を付けられた」ともあります。ペトロという名前は、ガリラヤ湖の漁師であったシモンに、主イエスが、新しく与えた名前だったのです。彼はこの主イエスに与えられた新しい名前によって、使徒として歩み出したのです。それと同じことが、私たち一人一人にも、洗礼において起っているのです。

常に新たにされて
 私たちは洗礼を受けて、主イエスのまなざしを見つめつつ、神様のみ顔の前を歩んでいきます。その歩みにおいて、いろいろな妨げにあって足が止まってしまうこともあります。神様のまなざしから目をそらして、人間の目を気にしてしまい、全き者でなくなってしまうこともしばしばあります。つまり、神様の契約の相手として歩めなくなってしまうことがあるのです。しかし神様はそのような私たちを、いつでも、私たちがどのような状態になっていても、主イエス・キリストのまなざしによって見つめていて下さいます。神様は、ご自分の契約に対して、どこまでも忠実であって下さるのです。神様の救いの恵みは私たちの背きや罪によって取り消されたり失われたりすることはないのです。割礼を受け継ぐ洗礼が生涯一度限りのものであることがそのことを示しています。それゆえに私たちは、どんなに迷ってしまっていても、遠く離れてしまっていても、洗礼における神様の恵みへと立ち帰ることができるのです。そして、新しく歩み出すことができるのです。アブラハムの歩みも、これまでにも見てきたように、またこれから先もそうであるように、様々な失敗の連続です。神様の契約の恵みを疑う罪の繰り返しです。しかし彼はその都度、神様のみ顔の前へと立ち帰ることができました。そして新しくされて、新たな力を得ることができました。九十九歳にして新しい名前を与えられ、新しい人となって生きることができたのです。そして、もはや人間の常識では子供を生むことなどできないはずなのに、息子イサクを得ることができたのです。それは神様の全能の力によることです。全能の神のみ前で生きることによって、彼はいくつになっても、常に新しくなることができたのです。変えられることができたのです。私たちも、私たちのこの教会も、そのように歩みたいと願います。主イエス・キリストの父なる神様のみ顔の前で、主イエスのまなざしの中で歩むならば、私たちも、常に新たにされつつ、変えられつつ、生き生きと喜んで歩むことができるのです。

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