「契約の主」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第15章1―21節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙 第4章1-12節
・ 讃美歌 ; 322、463
これらのことの後で
創世記は第12章から、イスラエルの民の最初の先祖であり、「信仰の父」と呼ばれるようになったアブラム、後のアブラハムのことを語っています。彼が神様からの語りかけを受けて、生まれ故郷を離れて旅立ったこと、そして神様の導きによってカナンの地に住むようになったこと、そして神様が彼に、この地をあなたとあなたの子孫に与えると約束して下さったことを私たちはこれまでに読んできました。本日読む15章の冒頭に、「これらのことの後で」とありますが、それはこれまでのアブラムの歩みの全てを踏まえて語られていることでしょう。神様のみ言葉を受けて旅立ち、神様が示す地へと旅していく、その信仰の旅路において、彼は既にいろいろなことを体験してきました。神様が介入して下さらなければ取り返しのつかないことになるところだった大きな失敗もしました。神様の支えによってすばらしい勝利も得ました。そして前回の14章では、いと高き神の祭司メルキゼデクによって祝福を与えられました。これらのことによって、神様と共に歩む彼の信仰は深められていったと言えるでしょう。そしてこの15章で、彼と神様との関係は新しい段階を迎えるのです。「これらのことの後で」という言葉はそういうことを意味していると思われます。
主の言葉が臨んだ
アブラムと神様との関係が新しい段階を迎えたことは、「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」という言葉にも現れています。これまでは、「主はアブラムに言われた」という言い方がなされていたのです。ところがここでは、「主の言葉が臨んだ」となっています。「臨んだ」とは、「出来事として起った」という意味です。ただ「言った」よりもずっと強い、深い意味のある言葉です。それはアブラムにとって、神様のみ言葉が、より深く、強く自分を揺り動かす出来事となったということでしょう。要するに彼の信仰が深まったということです。
アブラムの問い
彼に臨んだ主の言葉は、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」というものでした。神様は彼に「恐れるな」と語りかけ、私はあなたを守る盾である、あなたの受ける報い、つまり神様が彼に与えて下さる賜物は非常に大きい、と宣言して下さったのです。この宣言の内容は、12章以来何度か与えられてきた約束とほぼ同じです。そういう意味ではここに新しいものはありません。しかしここでは、以前にはなかったことが起っています。それは、アブラムが、この神様の約束の言葉に対して問いを発したということです。お気づきだったでしょうか。アブラムの物語が始まってから、彼が神様に向かって言葉を発したのは実にここが初めてなのです。その言葉が2節の、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」という問いだったのです。「あなたの受ける報いは非常に大きい」と神様は言われました。その報いとは、13章14節以下によればこういうものです。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」。数えきれないほどの子孫があなたに与えられ、この地は見渡す限りその子孫たちのものとなる、それが彼に与えられる報いなのです。しかし現実においては、アブラムにはまだただ一人の子供も与えられてはいません。旅立った時七十五歳だった彼は、既にもっと年を取っているのです。人間の常識では、もはや子どもを得る望みなどなくなっているのです。「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」とありますが、それは3節の終わりに「家の僕が跡を継ぐことになっています」とあるように、跡取りがいないから僕の一人が遺産を受け継ぐことになる、ということのようです。そのような現実なのに、あなたはいったい私に何をくださるというのですか、と彼は神様に問うているのです。
アブラムは、神様の約束のみ言葉が信じられなくなり始めています。彼は神様の祝福の約束を受けて旅立ったのです。そのみ言葉を信じて、行き先を知らずに旅立ち、導きのままに歩んできたのです。しかしいつまでたってもその約束は実現しない、実現の兆しも見えない、そのような現実の中で、神様の約束を疑い、結局あれは空手形だったのではないか、あんな約束を信じて歩み出した自分が愚かだったのではないか、という思いを抱き始めているのです。神様を信じて歩む信仰の歩みにおいて私たちもしばしばこのような思いに陥ります。神様のみ言葉を信じて信仰者として歩んできたのに、恵みや祝福が一向に実現しない、こんなはずではなかった、神様の恵みや祝福なんて、結局何の役にも立たないではないか、約束の言葉が繰り返されるだけで、何一つ実現しないではないか、アブラムが神様に向かって最初に語りかけたこの問いは、私たちの問いでもあるのです。
神との関係の深まりの中で
しかし私たちはここで、最初に申しましたことを思い起こしたいのです。アブラムがこの問いを神様に投げかけたのは、彼と神様との関係が新しい段階を迎え、み言葉がより深く、より強く彼を揺り動かす出来事となったところにおいてだったのです。彼がここで初めて神様に語りかけたというのも、神様との関わりがそれだけ深まったことを示しています。神様との関わりがいいかげんである間は、神様に問いかけることも起りません。神様のみ言葉を信じて旅立ち、信仰の歩みの中でいろいろなことを体験し、み言葉と目に見える現実とのギャップに苦しんでいく中でこそ、このような問いが生まれ、それを神様に問いかけていくことが起るのです。ですから、私たちが、信仰の歩みの中で、神様の恵みや祝福への疑いや迷いに陥る時、大切なことは、その疑いや迷いを、神様に真剣に問いかけていくことなのです。疑いや迷いの解決は神様からのみ来ます。自分の心の中でだけあれこれ考えている間は、何の答えも得られないのです。
満天の星
主なる神様は、このアブラムの問いかけにお答えになりました。その中で神様は夜彼を外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われました。皆さんは「満天の星」を見たことがあるでしょうか。このごろは都会では「満天の星」はプラネタリウムでしか見ることができなくなりました。私が前にいた富山市でも事情はそう変わりません。私が本当の意味で満天の、降るような星空を見たのは、いわゆる聖地旅行の中で、シナイ山に登った時です。周囲に町の光が全くない、あるのは手もとの懐中電灯の光だけ、という本当の暗闇の中で、夜中に登山を開始し、山頂で日の出を迎えたのです。その夜見た星空はそれまで日本で見たどんな星空とも全くスケールの違うものでした。アブラムが神様によって示された星空とはこういうものだったのだ、と感動しました。「星を数えることができるなら数えてみよ」と神様は言っておられます。確かに星の数は多すぎて数えることができない、そのことは、少し空気の済んだ、町の光が少ないところへ行けば分かります。しかしあのシナイの星空から私が示されたことは、アブラムがここで体験したことは、「多すぎて数え切れない」などということではなかっただろう、ということです。それはもはや人間が数えるという次元を超えている、人間の思いや営みとは全くスケールが違う、神様のみ業に圧倒される体験をアブラムはここでしたのだと思うのです。スケールとは物差しという意味です。神様のみ業と人間の思いや営みでは、物差しが全く違うということを彼はここで示されたのです。アブラムはこの神様からの示しによって、それまで抱いていた思い、神様の約束は一向に実現しない、こんなはずではなかった、恵みや祝福など嘘だったのではないか、という思いが、神様のみ言葉や恵みや祝福を人間の物差しで測ろうとしていた愚かな振る舞いであったことに気付かされたのではないでしょうか。「こんなはずではなかった」というその「こんなはず」という思いを捨てたのです。「アブラムは主を信じた」と6節にあるのは、そういうことです。この「信じた」は「アーマン」という言葉です。音からも分かるようにこれは、私たちが用いている「アーメン」という言葉と関係があります。アーメンとは、「本当にそうです」という意味の、肯定の言葉です。信じるとは、神様のみ言葉、その恵みと祝福の約束に対して、「アーメン」と言うことです。「本当にそうです」とそれを肯定することです。真に受ける、と言ってもよいでしょう。アブラムは、何か自分の中に根拠があって信じたのではありません。人間の思いや測り、スケールに従えば、とうてい信じることができない、「今さら私に何をくださるというのですか」と言うしかないのです。しかし神様が、人間のスケールをはるかに超えた方として、この約束のみ言葉を告げて下さっているがゆえに、そのみ言葉を真(まこと)とする、真に受ける、それが聖書の教える信仰なのです。創世記において、ということは聖書において、人が神様を「信じる」ということは、ここに初めて語られています。「信じる」こと、信仰は、このアブラムが主を信じたことから始まっているのです。
義と認める
主なる神様は、そのアブラムの信仰を、「彼の義と認められた」と6節後半にあります。アブラムは主を信じたことによって、神様から、義なる者、正しい者と認められたのです。しかしこの「義」という言葉の意味を私たちは正しく知らなければなりません。聖書において「義」とは、関係が正しく正常であるということです。それは人間どうしの関係においても用いられますが、この場合には神様がアブラムを義と認めたわけですから、それは神様が、アブラムは神様と正しく正常な関係にある、と認めて下さったということです。つまりこの義は、正しい者となるための条件がいくつかあって、その一つが神様を信じることで、アブラムはその条件を満たすことができたから義と認められた、義のテストに合格した、ということではないのです。問われているのは、アブラムがどんな立派な正しい行いをしたか、ではありません。彼が神様との間にどのような関係を持ったか、平たく言えば神様とどう関わったか、です。彼は目に見える現実の厳しさの中で神様の約束のみ言葉を疑わしく思い、「今さらわたしに何をくださるというのですか」という問いを投げかけました。しかしそれに対して神様が、満天の星空を示し、人間の思いとはスケールが全く違う、圧倒的な力を示して下さり、祝福の約束を繰り返して下さった時に、そのみ言葉を信じたのです。自分の思いや常識のものさしによって神様のみ言葉を、約束を測り、判断することをやめて、み言葉を受け入れたのです。神様はそれを、彼の義と認められた、つまりそこに、神様と人間との正しく正常な関係が打ち立てられたと宣言して下さったのです。
人間の物差しと神の物差し
アブラムは、人間の思いや感覚においては何の根拠もないにもかかわらず、主を信じました。「にもかかわらず信じた」のです。しかしそれは実は、「だからこそ信じることができた」ということでもあったのではないでしょうか。人間の思いや感覚、予想や期待においては、信じられる理由など何一つない、だからこそ、自分の物差しを捨てることができたのです。少しでも、自分の、人間の物差しで測れるような、希望の根拠となるようなものが残されていたなら、私たちはそれにしがみつくのです。それによって信じようとするのです。しかしそこに生じるのは、神様を、その恵みを、人間の、私たちの物差しで測れる程度の、まことにスケールの小さなものにしてしまう、ということです。人間の分かる範囲内でのみ神様のことを信じるというあり方です。しかしそれは実は信仰でも何でもありません。本当の信仰とは、神様を私たちの物差しで測るのをやめることです。自分の物差しを捨てて、神様ご自身の物差し、スケールを受け入れることです。それは、人間の物差しがもはや全く役に立たない、という体験の中でこそできることなのです。そしてそこにこそ、神様と私たちの間の正しい、正常な関係が成立するのです。
神の恵みのスケール
神様の恵みの約束のスケールは、アブラムの、また私たちの思いをはるかに超えて大きいものでした。そのことが13~16節の神様の約束の言葉に示されています。このようにあります。「主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」。このように神様のご計画は、四百年以上のスケールを持っていたのです。しかもその四百年とは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しめられる年月です。永遠に続くのではないかと思われる、自分の世代では終わらず、子や孫にまで至る、そういう苦しみの年月を経て、しかし最終的には神様の恵みのみ業がなされ、救いが、祝福が与えられていくのです。私たちは、指路教会は歴史と伝統のある教会だ、などと思っていますが、その歴史はせいぜい百三十年と少しです。その程度の物差しで神様のみ言葉や恵みを測ってしまってはならないのです。私たちに今求められているのは、そういう私たちの物差しを捨てて、壮大なスケールを持った神様の救いのご計画に身を委ねることなのです。
契約の主
この15章で、アブラムと神様との関わりは新しい段階を迎えました。それはアブラムの側に注目して言えば、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という6節の言葉に集約できます。同じことを、主なる神様の側に注目して語っているのが、7節以下なのです。聖書の研究者は、6節までと7節以下とはもともと別の話だったと言います。確かに、7節以下を6節までの続きとして読むことは困難です。別の話として読んだ方が辻褄が合うのです。しかしより重要なのは、二つの別の話が、このように結び合わされているということです。創世記を書いた人は私たちにこれを一体として読ませようとしているのです。そうすることによってこそ、ここに語られていることが分かるのです。7節以下に語られているのは、主なる神様がアブラムと契約を結ばれたということです。9、10節でアブラムが神様に命じられてしたことは、契約を結ぶための儀式の準備です。何頭かの動物たちがまっ二つに切り裂かれ、向かい合せに置かれるのです。契約を結ぶ儀式は、契約の当事者たちが、その引き裂かれた動物たちの間を通る、という仕方で行われます。それは、もしここで立てる契約、つまり約束を自分が破るようなことがあったら、自分もこの動物たちのようにまっ二つに引き裂かれてもよい、ということを宣言するということです。そのように自分に呪いをかける行為によって契約が結ばれたのです。つまり契約を結ぶということは、自分をその契約に縛られた者とすることであり、破ったならば死をもって償わなければならないという呪いを引き受ける、ということなのです。主なる神様はここでアブラムと、そのような契約を結ばれたのです。実際に契約が結ばれたのは17、18節においてです。日が沈み、暗闇に覆われたころ、煙を吐く炉と燃える松明が、引き裂かれた動物の間を通り過ぎたのです。「煙を吐く炉と燃える松明」は神様を象徴していると言えるでしょう。神様ご自身が引き裂かれた動物たちの間を通ってアブラムと契約を結んで下さったのです。その約束は、以前にも与えられていた、「あなたの子孫にこの土地を与える」ということです。その内容に新しさはありません。しかし大切なのは、神様が契約を結んで下さったということです。もしこの約束を破ったら、自分も引き裂かれてよい、命をかけてこの約束を守る、と神様が宣言して下さったのです。これが、アブラムと神様との関係が新しい段階を迎えた、ということのもう一つの側面です。それまでにも約束の言葉は与えられていました。しかし神様は新たに、契約を結ぶことで、ご自身をこの約束に縛られた者として下さったのです。破ったなら死の呪いを引き受ける、と宣言して下さったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というみ言葉によって、神様とアブラムの間に、正しい、正常な関係が打ち立てられました。それは人間の側に注目するなら、自らの物差しを捨てて神様のみ言葉を信じることです。しかしその私たちの信仰は、神様が私たちと契約を結んで下さる、という恵みに支えられているのです。神様と私たちとの正常な関係が打ち立てられる、その正常な関係は、人間の側からは神様を心から信じる信仰によって、神様の側からは、人間と契約を結んで下さる恵みによって打ち立てられるのです。人間はこの信仰によって義とされます。そして神様は、この契約によって、ご自身が義なる神、人間との間に正常な関係を打ち立てる神となって下さるのです。
一方的な契約
しかもこの契約の締結において、引き裂かれた動物の間を通ったのは神様だけです。アブラムはそこを通っていません。つまりこの契約は一方的なのです。神様は、ご自身をこの約束に縛られた者として下さいました。契約を守る義務を負って下さったのです。しかしアブラムの方はそれをしていないのです。その後のアブラムの子孫たち、つまりイスラエルの民の歩みは、まさにこの契約のあり方の通りに進んでいきました。イスラエルの民は繰り返し神様に背き続けたのです。しかし神様の方は、この契約をどこまでも守り、イスラエルの民への恵みの約束を貫いて下さったのです。そのクライマックスが、主イエス・キリストの十字架の死です。神様を信じて歩み出したのに、神様との正しい正常な関係に生きることができず、み言葉を疑い、つぶやいていく私たちです。しかしその私たちの罪のために引き裂かれたのは、私たちではなくて、神様の独り子主イエス・キリストでした。神様はご自身を契約に縛られる者として下さったのみでなく、私たちの罪のために破られた関係を回復するために、独り子イエス・キリストを遣わし、その体が十字架の上で引き裂かれることをも引き受けて下さったのです。主イエス・キリストの十字架による新しい契約にまで至る神様の契約の恵みが、この創世記15章から始まっているのです。
自分の物差し、スケールを捨てて、神様のみ言葉を信じ、この世の目に見える現実に逆らって希望を持ち続けることが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは義とされます。神様との正常な関係に生きる者とされるのです。しかしその私たちの信仰は実は、神様が私たちと契約を結び、それに縛られる者となって下さったという恵みによって支えられているのです。その恵みを私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ知らされます。神様と私たちとの正常な関係は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって打ち立てられているのです。主イエスの十字架と復活を見つめることにおいてこそ、人間の物差しやスケールをはるかに超えた神様の恵みのスケールの大きさに触れることができるのです。