「目を上げよ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 13:1-18
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 4:31-38
豊かになったアブラム
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記からみ言葉に聞いています。先月は、12章10節以下を読みました。後にアブラハムと呼ばれるようになり、イスラエル民族の最初の先祖となったアブラムが、飢饉を逃れるためにエジプトに行った時の話です。本日読む13章は、この12章のエジプト滞在の話といろいろな意味で深く結び合っています。12章を思い起こしながら、本日の13章を読んでいきたいと思います。
13章1節に、「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った」とあります。ここに先ず、12章の話とのつながりが示されています。エジプトを去ったアブラムの歩みが語られているのです。そしてそこには、「すべての持ち物を携え」とあります。続く2節には、「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とあります。多くの家畜や財産を持ち、非常に豊かなアブラムの姿が描かれているのです。しかし彼らがエジプトに行った時はどうだったのでしょうか。12章10節にあるように、彼らは、飢饉がひどかったのでエジプトに行ったのです。このままでは食べていけないという状況の中で、豊かな地であるエジプトに避難したのです。その時のアブラムは、決して豊かではなかったはずです。と言っても無一物というわけではなかった、ということは、12章5節に、彼が神様の呼びかけを受けて最初に旅立った時、貯えた財産をすべて携えて出発したと語られていたことから分かります。家畜の群れや、ある財産を携えて、彼はカナン地方に来たのです。飢饉を避けてエジプトへ行ったのも、家畜たちに与える牧草を得るため、ということだったのでしょう。ですから、全く無一物の状態でエジプトに行ったわけではありません。しかし、エジプトに入った時に比べて、そこを出た時のアブラムは、明らかにずっと豊かに、裕福になっていたのです。それは何故か。そのことが12章の物語に語られていました。エジプトでアブラムは、美しい妻サライを自分の妹と偽ったのです。妻だと言うと、サライを奪おうとする者によって殺されてしまう恐れがあったからです。しかしその偽りの結果、サライはエジプト王ファラオの後宮に召し入れられてしまいました。ファラオの妾の一人にされてしまったのです。その見返りにファラオはアブラムに多くの財産を与えたのです。それで彼は大金持ちになったのです。結局神様が介入して下さったおかげで、サライはアブラムのもとに帰ることができ、彼らは、与えられた財産を全て携えてエジプトを出ることができました。「非常に多くの家畜や財産を持っていた」、その家畜や財産は、エジプトにおいて、決して意図していたわけではないけれども結果的には妻サライをファラオに売ってしまった、そのことによって得られたものだったのです。
豊かさゆえの問題
このようにアブラムは大変豊かになってカナンの地へと戻ってきました。そこは12章7節で、主なる神様が彼に、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束して下さった地です。彼はまだそこに一坪の土地をも得てはいませんでしたが、神様の約束のゆえに、ここに戻って来たのです。ところがここで、豊かになったがゆえの問題が生じました。そのことが5~7節に語られています。旅立ちの時から一緒だった甥のロトもまた、多くの家畜を持っていたのです。家畜を養うには、牧草地や水場が必要です。しかし、お互いが豊かになり、養うべき群れが大きくなったために、お互いの家畜を飼う者たちの間に争いが起ってしまったのです。「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである」と6節にあります。この言葉は大変示唆に富んだ、考えさせられるものです。ここには、豊かさ、富によって却って起ってくる人間の問題、苦しみが見つめられています。貧しかった時には肩を寄せ合って共に生きていた者たちが、豊かになることによって、共にいることができなくなってしまう、交わりが損なわれ、対立が生じてしまう、ということがあるのです。12章のエジプトでの話は、貧しさの中でのことです。先ほど申しましたように、彼らは無一物だったわけではありませんが、飢饉によってこのままでは生活が成り立たなくなると危ぶまれたのです。その危機の中で、アブラムとロトは叔父と甥として一致協力していたのでしょう。そして結果的に彼らは両方とも大変豊かになって、カナンの地に帰ってくることができました。ところが豊かになったがゆえに、彼らの間にいさかいが、少なくとももう一緒に暮らすことはできない、という事態が起ってきたのです。貧しさは貧しさで、いろいろな問題や苦しみをもたらしますけれども、豊かさは豊かさで、別の問題、苦しみを引き起こす、そういう私たちの人生の現実がここに描かれているのです。
アブラムの提案
豊かさのために生じたこの問題において、アブラムはどうしたのでしょうか。8節以下で彼はロトに一つの提案をします。お互い分かれて別々の歩みをしよう、ということです。お互いが平和に歩むためには、物理的状況からしてそうするしかないのです。そしてアブラムは、ロトにこう言いました。9節です。「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」。つまりロトに、好きな地を選ぶ権利を与えたのです。そして自分はそれとは反対の方向へ行くと言ったのです。その提案を受けてロトはヨルダン川流域の低地地方を選び、そちらへと移っていきました。10節によればそこは、「主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」のです。ツォアルというのは、死海の南あたりのことだろうと思われます。ヨルダン川流域から死海の沿岸地方は、大変よく潤った、つまり牧草や作物の豊かにとれる地だったのです。そこにあったソドムとゴモラの町は大変繁栄していました。要するにヨルダン川流域の低地地方は大変豊かな地だった、ロトはそこを選んだのです。必然的にアブラムは、それとは反対の方向、ヨルダン川の西に広がる山地地方に住むことになりました。そこは、牧草も決して豊かではない、文明も発達していない、未開の地です。そのように両者は分かれて別々に歩むようになったのです。
塞翁が馬
ロトは、叔父アブラムに、好きな地を選んでよいと言われて、豊かな、潤った、暮らしやすく発展した地を選びました。好きな方を選んでよいと言われたら誰でもが当然選ぶ、良い方を取ったのです。しかしこの選択は、後に彼に大きな苦難をもたらします。彼はソドムの町に住むようになりましたが、13節にあるように、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」のです。10節にも既に予告されているように、ソドムとゴモラは後に主の怒りを受けて滅ぼされてしまいます。ロトとその家族は命からがらそこを逃れなければならなくなるのです。そういうロトの悲劇がここから始まっていると言えます。好きな方を選んでよいと言われて、当然こちらがよいと思った方を選ぶ、そのことが、結果的には大きな悲劇につながってしまう、こういうことも私たちの人生においてよくあることです。人生何が幸いし、何が災いとなるか分からないのです。「人間万事塞翁が馬」ということです。
アブラムの信仰
ところで、ロトに好きな地を選ばせたアブラムの提案について、私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。多くの人はここに、アブラムの親切を見ています。アブラムは叔父で、ロトよりも年長者です。しかし自分が先に良い方を取るのではなく、ロトに好きな方を選ばせ、自分は残りを取ると言っているのです。これは簡単なことではありません。事は家族や財産の今後の運命に関わっているのです、お菓子の大きい方と小さい方をどちらが取るか、というのとは訳が違うのです。その重大な場面で選択権を相手に与えるというのは大変なことです。従って多くの人はここにアブラムの信仰をも読み取っています。彼は、自分の今後の歩みを、神様の導きに委ねたのだ、それが、ロトに選択権を与えたということだ、自分の意志や判断で道を定めるのではなく、ロトに先に選ばせることで、神様の導きに身を委ねようとしたのだ、ということです。さらにこのように考える人もいます。彼はエジプトでのあの体験を通して、自分の工夫や才覚で道を切り開こうとすることの愚かさを悟ったのだ。確かに12章の話では、アブラムが、自分で自分の身を守ろうとして、妻サライを妹と偽ったのです。その結果彼は妻をファラオに売り渡す罪に陥るはめになったのです。神様が介入して下さって事なきを得たようなものの、そうでなければ、神様が12章の始めのところで彼に与えて下さった約束、あなたを大いなる国民にし、祝福の源とする、という約束が無になってしまうところだったのです。この体験によって彼は、自分で自分の道を判断し、切り開くのでなく、神様が与えて下さる道を歩むべきことを悟ったのだ、だからロトに選択の権利を与えたのだ、というのです。このように考えるならば、アブラムの提案は信仰の現れであるということになります。12章のエジプトでの話が不信仰の現れであったのに対して、13章のアブラムは、「信仰の父」と呼ばれるに相応しい行動をしている、ということになるのです。
アブラムの弱さ
けれども、このことはまた別な風に読むこともできると思います。それは、アブラムはここで、年下である甥のロトに下駄を預けてしまい、決断を放棄してしまった、という読み方です。右へ行くか左へ行くか、そこに自分と家族と財産の将来がかかっている、そういう大切な場面において、アブラムは、自分で決断しなかったのです。それは家族の長として無責任なことだとも言えるでしょう。そしてそこには、あのエジプトでの出来事の影響があると考えることもできます。アブラムはエジプトで、自分の決断によって妻を妹と偽ったために、とんでもない罪と悲劇を招いてしまったのです。その体験によって彼は、自分で決断し、道を選ぶことが恐くなってしまったのかもしれません。それでロトに下駄を預け、自分で決断することから逃げてしまった、とも思われるのです。それは、神様に身を委ねる信仰の現れと言うよりも、彼の弱さの現れです。その意味ではロトは、一家の長として、責任ある決断をしたのです。家族のために最もよいと思われる道を決断して選び取り、その道を進んで行ったのです。彼の歩みがその後不幸に陥ったとしても、だからこの決断が間違っていたということにはなりません。将来のことは誰も分からないのです。つまり、アブラムはここでロトよりも正しい道を選んだ、というわけでは決してないのです。むしろ、彼は何も選ばなかったのです。この13章の話を、アブラムが信仰によってよい決断をした、神様に委ねるという最もよい選択をした、そのことが彼のその後の歩みに幸福をもたらし、彼は信仰の父、イスラエルの民の先祖となることができた、というふうに理解してしまうことは正しくないと思います。そのように読むと、アブラムは信仰の英雄ということになります。そして彼は英雄的な信仰によって、神の民イスラエルの先祖としての栄光を獲得したのだ、ということになるのです。それは、創世記が語ろうとしていることではないでしょう。創世記はアブラハムを決して英雄として祭り上げようとはしていません。12章の物語がそのことをはっきり示しています。妻を売り渡してしまうような罪や弱さを持ったアブラムが、ただ神様の選びと恵みと導きによって、イスラエルの先祖とされていくのです。創世記が語ろうとしているこのことをよりはっきりと浮き彫りにしていくためには、本日の13章も、アブラムが弱さのゆえに自分で決断することを避け、逃げてしまった、というふうに読む方がよいのではないかと私は思います。つまり12章のエジプトでの話と13章の話は、共にアブラムの罪と弱さを語っているのです。12章では、神様に信頼するのでなく、自分の才覚で身を守ろうとした不信仰によって大きな罪に陥った姿が、13章では今度は、自分で決断することを恐れ、人に下駄を預けて逃げてしまう弱い姿が描かれているのです。そういう意味でこの二つの話は深く結び合っているのです。
それゆえに、ロトがヨルダンの低地を選び、そちらへと移って行った後、残されたアブラムの心は、決して、神様を信じ信頼する信仰によって平安に満たされていたわけではなかっただろうと思うのです。その時彼はむしろ、後悔し、自分のふがいなさを嘆いていたのではないでしょうか。決断すべき時に逃げてしまう、という消極的な歩みには、必ず後悔が伴います。また彼の家畜の群れの世話をしている人々からは、なぜロトにあの豊かな地を黙って譲ってしまったのか、と責められていたかもしれません。ロトが去った後のアブラムは、自分の弱さを嘆き、惨めにうなだれていたのではないかと思うのです。
目を上げよ
そのアブラムに、主なる神様が声をかけられました。12章のエジプトの話でも、神様は最初のうちは全く登場していません。アブラムの不信仰によって大きな問題が生じ、とりかえしのつかないことが起ろうとしたその時に、「ところが主は」と行動を起されたのです。本日の話においても、これまでのところでは神様は沈黙を守っておられます。14節に至って初めて、口を開き、アブラムに語りかけられるのです。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と神様は言われます。うなだれて、下を向いてしまっているアブラムに、「目を上げなさい」と言われるのです。そして、先に与えて下さった恵みの約束をもう一度確認して下さったのです。「あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」。「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える。」。それは、ロトが選んで去っていったヨルダンの低地地方も、その結果彼が今暮らすことになった山地地方も含めて、見渡す限りの土地を神様がアブラムに与えて下さるということです。12章7節で与えられていた約束が、さらにはっきりと具体的に、もう一度ここで与えられたのです。アブラムがアブラハムとなり、神様の民イスラエルの先祖、祝福の源となることができたのは、この約束と、それを果して下さった神様のみ業によってです。アブラムの側には、そのような恵み、祝福を獲得できるような何の力も、功績も、信仰の輝きもありはしません。アブラムは、自らの罪や弱さの中でうなだれるしかない者なのです。しかし神様が彼に、「目を上げよ」とお命じになります。アブラムはその語りかけによって、目を上げて、神様の約束を仰ぎ見たのです。
何が見えるか
10節には、ロトもまた「目を上げて」周囲を眺めたことが語られていました。ロトは目を上げて周囲を眺め、最もよい地を選び取ったのです。このロトとアブラムの違いは、ロトが自分で目を上げたのに対して、アブラムは、神様によって目を上げさせられた、ということです。それは、自分で目を上げてはいけない、ということではありません。そうではなくて、自分で目を上げる時と、神様によって目を上げさせられる時とでは、見えてくるものが違うということです。自分で目を上げたロトの目に写ったのは、どの地がより豊かで、潤っていて、生活するのによさそうかということ、つまりこの世の事柄における比較、どちらの方が自分にとって有利、好都合か、ということです。しかし神様によって目を上げさせられたアブラムの目に写ったものは、神様の約束でした。神様の語りかけによって目を上げさせられる時、私たちはそこに、神様の約束を仰ぎ見ることが許されるのです。目を上げて神様の約束を仰ぎ見ること、それが信仰です。そしてその信仰は、神様が語りかけて下さることによってこそ与えられるのです。アブラムはそのようにして、信仰の父となったのです。
今その場所から
「目を上げて、あなたのいる場所から東西南北を見渡しなさい」と神様はおっしゃいました。今あなたがいるその場所から、目を上げて見渡せと神様は語りかけておられるのです。今自分がいるその場所から、神様の語りかけによって目を上げること、それが信仰です。私たちが今いる場所とは、私たちが今生きている現実です。それはアブラムの場合もそうだったように、喜んで、誇らしげに目を上げて堂々と歩んでいけるような現実ではありません。むしろ自分の罪や弱さのゆえにうなだれ、顔を伏せざるを得ない、自分のふがいなさを嘆き、後悔の念にさいなまれている、そういう現実です。しかし神様は私たちに、「そこから、目を上げよ」とお命じになるのです。
今この場所で、この現実の中から、目を上げて、そこに私たちは何を見るのでしょうか。それは、私たちのために十字架にかかり、そして復活して下さった主イエス・キリストのお姿です。神様が、独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって、私たちの全ての罪を赦して下さった恵みと、その復活によって与えられた、神様の祝福に生きる新しい命の約束とを、私たちは今、この現実の中から、目を上げて見ることを赦されているのです。本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、ヨハネによる福音書の第4章31節以下を選びました。主イエスは35節で弟子たちに、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われました。しかし弟子たちは「刈り入れまでまだ四か月もある」と言っていたのです。それが、自分で目を上げて周囲を見回した時に私たちの目に映る現実です。神様の恵みの実りが既に豊かに色づいていることを、私たちの目は捉えることができないのです。しかし主イエスが、「目を上げよ」と語りかけて下さる、それに応えて信仰の目を上げる時、肉の目に写る現実とは違う、神様の約束の現実、恵みの現実が見えてくるのです。
縦横に歩き回れ
目を上げて神様の約束を見つめる者とされたアブラムに、神様は、「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」と言われます。神様の約束を見上げる信仰の目を与えられた者は、この土地を、つまり自分が今いるこの現実の中を、縦横に歩き回る自由を与えられるのです。現実のつらさ、苦しさ、困難さにおしつぶされて一歩も前に進めないのではなくて、苦しみ多い現実の中で、縦にも横にも、いろいろな方向に、いろいろな可能性を求めて、歩き回ることができるのです。神様の約束を見上げることを許されているがゆえに、そのような自由が与えられるのです。アブラムはそのようにカナンの地を行き巡り、そして18節にあるように、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のための祭壇を築きました。ここは、アブラムの生涯において、特別の意味を持つことになる地です。後にここで、彼は初めて、ひとにぎりの土地を手に入れるのです。そのことは創世記23章に語られています。彼が手に入れたのは、愛する妻サライを葬るための墓でした。アブラハムが、生きている間にカナンの地で実際に手に入れたのは、このヘブロンにあるマムレの樫の木の傍らの墓のみだったのです。それはカナンの地全体からすれば、ほんのちっぽけな、小さな土地でしかありません。しかしここから、神様のあの約束、「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える」という約束が実現し始めたのです。神様が大いなる恵みの約束を実現して下さる、その開始地点に、彼は立つことができたのです。
「あなたが今いるそこから、私に向かって目を上げよ」と、神様は今私たちに語りかけておられます。私たちの目に見える現実は、弱さと罪に満ちており、後悔や嘆きの連続ですけれども、しかし目を上げて、主イエス・キリストによって与えられている神様の約束を見つめていくならば、私たちも、この現実の中で、神様の大いなる恵みの約束の実現の始まりを見ることを許されるのです。