「旅立ち」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記、第12章1節-9節
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙、第11章 8節
・ 讃美歌21; 234、184
歴史の開始
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記を読み進めておりまして、本日から第12章に入ります。前回、先月にも申しましたが、創世記はこの12章から新しい部分に入ります。歴史を語る部分に入るのです。11章までのところは歴史ではありません。歴史が営まれていく舞台としての世界の描写です。この世界とはどういう所か、そして人間とはどのような存在であるのかを、これまでのところは語ってきたのです。ですから私たちは、11章までに語られている、例えば天地創造の出来事を歴史の中に位置づけ、紀元前何年ごろにこれが起ったのか、というふうに考える必要はないし、またそのように考えるべきではないのです。また最初の人間アダムとエバがエデンの園に住んでいた、それは何処にあったのかと考える必要もないし、彼らがいわゆる禁断の木の実を食べてしまった、それは何の実だったのかと問うのも意味はないし、彼らの息子たち、カインとアベルにおいて最初の殺人が起り、カインがアベルを殺した、そのカインが結婚したとあるけれどもその奥さんはどこから来たのか、と詮索する必要もありません。ノアの洪水の物語も、前回読んだバベルの塔の物語も、古代オリエント世界におけるある歴史的事実の痕跡を留めてはいますが、しかしこの物語が実際の歴史的事実と同じか違うかを考えても意味はありません。これらの話は全て、歴史ではなく、この世界は、そして人間はどのような存在であり、神様はこの世界と人間とに対してどのように関わっておられるのか、を描いている物語なのです。そしてこれらの物語によって設定された舞台において、12章からいよいよ歴史が始まります。舞台設定がようやく終わり、いよいよ芝居が始まるのです。
救いの歴史
歴史が始まると申しましたが、私たちが学校で習う世界史のようなものがここから始まるわけではありません。聖書が語っていく歴史は、単なる事実の羅列ではなく、明確な一つの主題、テーマを持っています。それは、「神様による人間とこの世界の救い」という主題です。ここから始まる歴史は、救いの歴史なのです。そういう意味では、11章までのところは、この世界と人間の、救いを必要としている状態を語ってきた、と言うことができます。救いの歴史の舞台となるこの世界と人間は、救いを必要としているのです。その原因は人間の罪です。神様はこの世界と人間を、極めて良いものとしてお造りになりました。この世界と人間はもともとは神様の祝福の下にあったのです。つまり救いを必要としてはいなかったのです。しかし、神様の祝福のみ心に従ってこの世界を治め、管理するべき者として造られた人間が、神様に背く罪を犯したのです。禁断の木の実を食べてしまったという話によって象徴的に言い表されている罪とは、神様の下で、神様に従って生きることを束縛と思い、神様から自由になって、自分が主人となって、自分の思い通りに生きようとすることです。ここで見つめられている罪とは、個々の悪い行いのことではなく、それら全ての根本にある、神様との関係を断ち切って生きようとする傾向なのです。その罪によって人間は、神様の祝福を失ってしまいました。それを象徴的に語っているのが、楽園からの追放です。そしてその結果起ってきたのが、カインとアベルにおける殺人であり、カインの末裔である人間に憎しみと復讐心が雪だるま式にふくれあがっていったことであり、神様が洪水によって全ての生き物を滅ぼされる決意をなさるほどの腐敗、堕落だったのです。神様は憐れみのみ心によってノアとその家族を箱舟によって救い、この世界を再出発させて下さいました。しかし人間たちは相変わらず神様に背き続け、自分たちの力を誇示し、力によって人々を纏める大帝国を築こうとします。そのような人間の傲慢に対する神様の審きによって言葉が乱され、世界にいろいろな言語があってお互いの言葉が通じないという状態になったことを語ったのが、バベルの塔の物語でした。救いの歴史の舞台となるこの世界は、このように人間の罪とそのもたらす悲惨な結果に満ちている、ということを11章までは語ってきたのです。この現実は人間の努力によって解決できるものではありません。何故ならその原因は、神様に従わず自分が主人となって生きようとする人間の根本的な傾向にあるからです。それゆえに神様ご自身が、人間を救い、彼らに祝福を回復させようと、救いの歴史を開始された、そのことが第12章に語られているのです。
自由
人間の罪がもたらした世界の悲惨な状態を解決するために、全能である神様は、この世界と人間を全てリセットして、全く新しく造り直すことだってできたのです。そのことを示しているのが、あのノアの洪水の物語です。しかし神様はあの洪水において、憐れみのみ心から、箱船によって洪水前の世界と洪水後の世界の連続性を保たれました。そして洪水の後、人間の罪のために全ての者を滅ぼすことはもう二度としない、と約束をなさったのです。神様はご自分の約束に忠実な方です。ですから人間を全て滅ぼして世界をふりだしに戻してやり直すことはなさらず、今あるこの世界と人間を救う手立てを講じられるのです。また私たちは時としてこんなことをも思います。神様はその全能の力によって、人間が神様に背いたり逆らったりしないように、出来ないように、つまり罪を犯すことが出来ないようにすることはできないのか。いやもともと人間をそういうふうに造っておけば問題はなかったのではないか…。しかし神様はそうはなさらないのです。それが出来ないからではなく、それはみ心ではないからです。神様は私たちを、リモートコントロールで動くロボットのようにすることを望んではおられません。神様は人間が自由な者であることを願っておられ、そのように造られたのです。自由である、というのは、背いたり、逆らったりすることもできる、ということです。それが出来ないなら、自由ではなく奴隷であるということです。神様は私たち人間が、神様に従うことも背くこともできる、そういう自由な者として、自分の意志で神様に従い、そのみ心を行っていくことを願い、望んでおられるのです。私たちとの間に、そのような関係、よい交わりを結ぼうとしておられるのです。ですから、神様に背き、神様から自由になろうとすることが罪だと申しましたが、それは神様の奴隷になれ、あやつり人形になれ、ということではありません。あやつり人形には罪はありません。罪を犯すことができないのです。罪は、それを犯すことができる自由を前提としています。神様は人間からその自由を奪うことで問題を解決しようとはなさらないのです。
歴史を用いる神
このように、世界をリセットすることによってでもなく、人間を無理やりにご自分に従わせることによってでもなく、神様は救いのみ業を実現しようとなさるのです。そのために神様がお選びになった道は、一つの民を選び、その民を導き、その民の歩みを通して救いを実現する、という道でした。それは言い換えれば、全能の力によって一瞬にして問題を解決し、救いを完成してしまうのではなく、歴史を、救いの舞台としてお用いになる、ということです。この神様のご決意によって、救いの歴史が始まったのです。「救いの歴史」というのは、考えてみれば不思議な言葉です。神様の救いに歴史がある、というのです。神様が救うか救わないか、という二者択一で考えれば、救いと歴史とは相容れません。平たく言えば、「救うなら救う、救わないなら救わないとはっきりしてくれ」ということになるのです。しかし神様は救いの歴史を展開される、それは時間をかけて、人間の歩みと営みを用いて、救いのみ業を展開していかれる、ということです。そこに、人間を自由な者として生かしつつ祝福を回復しようとなさる神様の愛、この世界と私たち人間に対する深い恵みがあるのです。
アブラムの選び
神様の救いの歴史を担う民として選ばれ、立てられたのは、イスラエルの民でした。しかし本日の箇所にはまだ、イスラエルという名は出て来ません。その最初の先祖となった一人の人物のことが見つめられています。その名はアブラム、後にアブラハムと呼ばれることになる人物です。12章は、主なる神様が彼に語りかけられたことから始まっています。そこから、神様の救いの歴史が始まるのです。 アブラムのことは、既に11章の終わりに語られていました。ノアの息子セムの家系、その中でも特にアルパクシャドの子孫に目が向けられています。そこにテラという人が生まれ、その息子としてアブラムが生まれたのです。彼らはカルデアのウルという町に住んでいました。これはいわゆるメソポタミア地方、今日のイラクのあたりで、ユーフラテスという大河のほとりに栄えた町です。テラは息子アブラムとその家族、また早くに死んだアブラムの弟ハランの息子、つまりアブラムの甥であるロトを連れてウルを出て、ハランという町に移りました。それはユーフラテス川をずっとさかのぼった所にあります。聖書の後ろの付録の地図の1「聖書の古代世界」によって、ウルもハランもその場所を知ることができます。このようにアブラムの系図が示され、彼らが歴史的にはっきりと場所を確かめることができる町に住んでいたことが語られているのは、神様が人間の歴史の中で、一つの家系を、一つの家族を、そして一人の人を選んで、また地球上の具体的な一つの場所を選んで、その人によって、その場所において、救いの歴史をお始めになることを示しています。そういう神様の選びが既に11章から語られ始めていたわけですけれども、救いの歴史が始まるのは12章からです。アブラムに主なる神様が語りかけられたことによって、救いの歴史は始まるのです。それが12章の1節です。
旅立ち
神様はここでアブラムに、一つの命令を与えておられます。旅立ちの命令です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。ここは以前の口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。この口語訳の方が原文に忠実です。原文においても、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」と、アブラムへの旅立ちの促しが三つの言葉で語られているのです。国、親族、父の家と、次第に範囲が狭くなっています。それは、この旅立ちの命令が、自分の慣れ親しんだ地、親しい者たち、別れ難い家族のもとを去れ、という命令であることを強調するためです。アブラムに求められたのは、自分のホームグラウンド、ここでなら親しい者たちの間で安心していられる、平安に生きることができる、という所を離れて旅立つことだったのです。しかもその旅の目的地は示されていません。「わたしが示す地に行きなさい」と言われているのみです。どこへ向かっていくのか分からないのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙11章8節の言葉で言えば、「行き先も知らずに」旅立つのです。ですからこれは私たちの通常の旅行とは全く違う旅です。私たちの旅行は、目的地がはっきりしています。風の向くまま気の向くままの気ままな旅というのもありますが、その場合でもどこへ行くかはその時その時に自分で決めることができるのです。しかしこの旅は、目的地も分からなければ、それを自分で決めることもできない、神様に全てを委ねた旅です。それは信仰への旅立ちです。アブラムに神様がお求めになったのは、信仰の決断、行く先も道も全てを神様に委ねた、信仰者としての旅立ちだったのです。
約束
この旅立ちの命令には、約束が伴っています。それが2、3節です。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。「あなたを大いなる国民にする」と神様は言われました。アブラムから出た子孫たちが、大いなる国民になる、という約束です。それが後のイスラエルの民のことです。アブラムは、大いなる国民イスラエルの先祖となる、という約束を与えられたのです。この約束は、二重の意味で尋常ではない、特別な約束です。第一に、アブラムにとってこれはあり得ないことでした。アブラムは4節にあるように、この時75歳でした。彼はこの後百年、175歳まで生きたと語られていますから、私たちの寿命の感覚における75歳とは大分違っているとは言えるでしょうが、それにしもて人生の盛りを過ぎた年齢であることに違いはありません。それに、彼の妻サライは、11章30節で既に、「不妊の女で、子供ができなかった」と語られています。アブラム夫妻は子供が生まれないままにもう年を取っていたのです。だからあなたの子孫が大いなる国民になる、などということはとうてい考えられない、あり得ないことです。国民どころか、一人の子供すら与えられる見込みはなかったのです。この約束が特別なものであるもう一つの理由は、これは単に彼の子孫が大勢に増えるという約束ではない、ということです。そういう約束なら、アブラムに与えられなくてもよかったのであって、父のテラでもよかったし、さらにその先祖のアルパクシャド、あるいはセム、そしてノアに与えられたってよかったのです。しかしこの約束は、彼らではなく、アブラムに特に与えられています。ノアでもセムでもアルパクシャドでもテラでもなくアブラムが、大いなる国民の先祖になる、と言われているのです。ということはこの約束は、血のつながりを見つめているのではなくて、アブラムの旅立ちに対して与えられているのです。アブラムが主の言葉を聞いて、行く先も道も全てを神様に委ね、信仰者として旅立つ、そのことに対して、この約束が与えられているのです。アブラムはこの旅立ちによって、イスラエルの民の最初の先祖となったのです。アブラムの信仰の旅立ちから、イスラエルの民の歴史が始まったのです。ここに、神様に選ばれた民イスラエルとは何かが端的に示されています。それは血のつながりによって成り立つ民族的集団ではなくて、アブラムのこの旅立ちを受け継ぐ者たちです。言い換えれば信仰を受け継ぐ者たちです。イスラエルとは、民族共同体ではなく、信仰共同体、神様を信じ、そのみ言葉に従って行き先を知らずに旅立った者たちの群れなのです。
祝福の源
神様はアブラムを選び、彼に旅立ちを促すことによって、歴史の中に、信仰の共同体を、行く先も道も全てを神様に委ねる信仰者の群れを興そうとしておられるのです。そしてその群れの歩みによって救いを、つまり罪によって失われてしまった祝福の回復を実現しようとしておられるのです。そのことが、この約束の中に語られています。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。この数行の中に「祝福」という言葉が五回語られています。まず、アブラムを祝福する、と言われています。神様のみ言葉に促され、信仰の決断をなし、主がお示しになる地へと旅立つ者を、神様は祝福して下さるのです。しかしそれはただその人や家族が祝福される、というだけのことではありません。あなたは祝福の源となる、と言われています。口語訳聖書では「祝福の基となる」でした。「源」とか「基」という言葉は原文にはありません。原文は単純に、「あなたは祝福となる」という文章です。その意味はいろいろに解釈されますが、基本的に、アブラムに与えられる祝福が、他の人々にも及んでいく、ということが見つめられているのは間違いのないことです。そのことは3節からも分かります。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」というのは、アブラムとその子孫である信仰の共同体との関係によって、祝福か、その反対の呪いかが決まる、ということですし、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」というのはまさに、アブラムに与えられた祝福が地上の氏族すべてに及んでいくということです。特に、「地上の氏族はすべて」とあることに注目しなければなりません。神様がアブラムを選び、イスラエルの民をご自分の民、選ばれた民として興されるのは、その民のみを救い、祝福するためではなくて、その民の歩みを通して地上の全ての民が神様の救いにあずかっていくためなのです。イスラエルの民は、神様の祝福が全ての人々に及んでいくために用いられていくのです。救いの歴史とは、神様がご自分の選ばれた民を用いて祝福を全ての人に及ぼしていかれる、その歴史なのです。
自由な旅立ち
主なる神様はこのような約束を示し、アブラムに旅立つことをお求めになりました。しかしそれは強制ではありません。アブラムは、このみ言葉に従って旅立つことも、それを拒むことも、どちらもできたのです。そういう自由を与えられているのです。その自由の中で彼は、4節にあるように、主の言葉に従って旅立ったのです。4節後半には、先ほども申しましたように、この時彼は75歳だったことが語られています。不妊の女である妻サライと共に、人間の思い、常識ではとうていあり得ない神様の約束を頼りに、行き先も知らず、全てを神様に委ねて出発したのです。このアブラムの旅立ちによって、神様の救いの歴史が、祝福の歴史が始まったのです。
信仰の旅路
旅立ったアブラムは主の導きによってカナンの地にやって来ました。しかしその地が直ちに彼のものになったのではありません。6節には、「当時、その地方にはカナン人が住んでいた」とあります。アブラムはそこにおいて、余所から移って来た流れ者に過ぎません。しかしそのような中で神様が再び彼に現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束をお与えになったのです。「あなたに」ではなく、「あなたの子孫に」です。神様の救いの約束、祝福の約束は、このように、今すぐにではなく、歴史の中で、時間をかけて実現していくのです。今現在のアブラムは、カナンの地において一片の土地も持っていません。ただ神様の約束のみ言葉のみが与えられているのです。その状態で彼の旅はさらに続きます。9節には、ネゲブ地方へ移ったとあります。それはカナンの地の南の砂漠、荒れ野の地方です。困難な、苦しい旅が続いていくのです。神様のみ言葉を聞き、約束を信じて旅立った信仰者の歩みはこのようなものです。祝福の約束は与えられていても、現実の旅路は苦しいこと、つらいことの連続です。しかしその歩みの中でアブラムは、7節ではシケムにおいて、8節ではベテルにおいて、主のために祭壇を築き、主の御名を呼んでいます。祭壇を築き主の御名を呼ぶとは、礼拝をする、ということです。アブラムの旅路は、行く先々で神様を礼拝する礼拝の旅路でした。信仰者の旅路とは、神様を礼拝しつつ歩む旅路です。私たちは、神様のみ言葉に従って信仰の決断をし、主に全てを委ねて旅立ちます。その旅には困難が常に伴いますが、私たちはその旅路において、常に神様を礼拝し、そこで祝福の約束、恵みのみ言葉をいただきながら歩むのです。その礼拝によって、私たちの信仰の旅路は支えられ、力づけられ、喜びが与えられます。そして、神様が示し与えて下さる道を歩み続ける勇気と力とを与えられるのです。
主イエスの旅路
今私たちはクリスマスを目前にした、アドベントの日々を歩んでいます。主イエス・キリストの誕生は、神様がその救いの歴史において新しい、決定的な1頁を開いて下さった出来事です。神様の独り子、まことの神であられる主イエス・キリストが、私たちの救いのために、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さるためにこの世に来て下さったのです。そこには、アブラムの旅立ちとつながるものがあります。主イエスは、父なる神の家を離れ、天の栄光の座を離れて、この世へと、人間の罪とその結果としての悲惨に満ちた荒れ野へと旅立って下さったのです。主イエスが、父なる神様のみ心に従って、この世を旅人として歩んで下さり、苦しみを背負い、十字架の死をも引き受けて下さったことによって、私たちの罪が赦され、神様の祝福が回復されたのです。救いの歴史は、父のもとを離れて旅立ち、この世を旅人として歩んで下さった主イエスによって担われ、実現したのです。神様は今、私たちが、この主イエスに従って旅立つことを求めておられます。神様の恵みのみ手に全てをお委ねして、神様がお示し下さる地へと、行き先を知らずに旅立つことによって私たちは、アブラムの旅立ちを受け継ぐ神様の民、新しいイスラエル、キリストの体である教会に加えられ、神様の救いの歴史の中で用いられていくのです。