夕礼拝

救いの約束

「救いの約束」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第3章 14節-24節
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙、第2章 5節-18節
・ 讃美歌 ; 183、260
 

楽園喪失
 月の第四の主日には、原則として私が夕礼拝の説教を担当し、旧約聖書創世記からみ言葉に聞いておりますが、前回は十月でしたので二か月間が開いてしまいました。その十月の時にも、創世記第三章の後半を読みました。この創世記第三章には、神様に造られた最初の人間が、神様に背く罪を犯し、その結果エデンの園から追放されたという、いわゆる「失楽園」の物語が語られています。蛇に唆されて先ず女が、そして男も、善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。これまでにも繰り返し申しておりますが、これは単にお腹が空いたので食べてしまった、という話ではありません。彼らは、神様の下で、神様に従って生きることをやめ、自分が主人になって、自分の意志で、したいようにして生きようとしたのです。そこに人間の罪の本質があり、その結果、彼らはエデンの園、楽園から追放され、荒れ野のような世界で生きなければならなくなったのです。これは人間の罪に対する神様の罰です。しかし、エデンの園は、荒れ野のようなこの世界の中に神様が作り整えて下さり、食べるに良いものをもたらすあらゆる木をそこに生えさせて、人をそこに住まわせて下さった所でした。つまり神様のもとで、その守りと養いを受けて生きる場所がエデンの園だったのです。ですから、その神様に背き、神様抜きに、自分の思いによって生きようとする人間がそこを出なければならないのは当然のことです。人間はむしろ自分で、エデンの園から出て行ったのです。そのように、人間の罪に対する神様の罰というのは、神様が怒って人間にこういう罰を与えてやろうとした、と言うよりも、人間の罪が必然的に生み出した結果なのです。そのことを頭に置きつつ、本日は14節以下を読んでいきたいと思います。ここに、神様がまず蛇に、そして女に、そして男にお与えになった罰が語られています。前回もその内容についてある程度お話ししましたので、重複するところもありますが、改めてここに語られていることを読み取っていきたいと思います。

蛇に対する罰
 先ず、人間を誘惑して罪を犯させた蛇に対する罰です。神様は蛇に、「お前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった」とおっしゃいました。蛇は神様に呪われたのです。私たちはこのことを、蛇という動物が他の動物と違って神様に呪われている、というふうに読んでしまってはなりません。ここで見つめられているのは、生物学上の蛇という爬虫類に属する一つの動物ではありません。三章一節に出て来たように、神様がお造りになった野の生き物の中で最も賢く、人間に、神様のもとで生きることを不自由な、窮屈なことであると思わせ、その束縛から抜け出て自由に生きるようにと唆した者、それが蛇です。つまり、人間に働きかけ、神様に背くように、罪を犯すようにとしむける力、サタンとか、悪魔と呼ばれている力がここで見つめられているのです。そのような力を象徴する蛇が、ここで神様に呪われるものとなったのは、人間を誘惑して神様に背かせ、罪を犯させたからです。神様がサタンを呪われるのは、人間のためです。人間を本当に幸福にすることが神様の願いなのです。サタンは人間を神様に背かせ、罪を犯させることによって、人間を不幸にしようとしています。神様から自由になり、自分の思い通りに生きた方が幸せだと唆して、実は人間から本当の幸福を奪おうとしているのです。神様はそのサタンと対決なさる、それはご自分がお造りになった人間を心から愛しておられるからです。人間に対する愛のゆえに、神様は蛇を呪っておられるのです。対決と申しましたが、これは、対等の関係での対決ではありません。蛇もまた、主なる神が造られた野の生き物の一つです。つまり神様によって造られた被造物であり、神様のご支配の下にあるのです。神様とサタンは決して対等に並ぶ者ではありません。神様は蛇を、サタンを呪われるのです。呪いは祝福の反対です。人間に祝福を与えようとしておられる神様は、その人間に罪を犯させ、祝福から引き離そうとする蛇、サタンに呪いをお与えになるのです。

女に対する罰
 この蛇に対する神様の呪いがどのように実現していくかを語っているのが十五節ですが、そこは後でふれることにして、十六節の女に対する罰を先に見ていきたいと思います。これについては前回もお話しをしました。出産の苦しみが、女性に与えられた神様からの罰とされています。また、「お前は男を求め、彼はお前を支配する」というのは、女性が男性に依存しなければ生きていけない、という長く続いた男性中心社会における女性の苦しみを指しています。三千年近く昔に書かれたと思われる創世記に、このように、男性が支配する社会における女性の苦しみが見つめられているのは驚くべきことだと言わなければならないでしょう。聖書は、古くさいカビの生えた古代の書物ではなく、近代的なものの考え方に通じるものを持っているのです。それは、聖書が、時代によって変ることのない、神様のみ前での人間の真実を深く洞察しているからです。男女の関係の問題で言えば、第二章にあったように、人間が男と女とであるのは、お互いが向かい合って共に助け合うために神様がそのように造って下さったからだということを洞察しているがゆえに、男性と女性を基本的に対等な存在として見ることができるのです。つまり男女の関係が本当によいものであることができるのは、神様の下で生きる時であることを聖書は知っているのです。それゆえに人間が神様に背き、神様との関係が損なわれる時に、同時に人間の男女の正しい関係も損なわれ、支配と従属の関係が生まれ、苦しみが生まれるということを見つめているのです。従ってこの女性の苦しみも、人間の罪がもたらした結果なのです。

男に対する罰
 十七節から十九節にかけては、男性に対する罰が語られています。それは労働の苦しみです。人間が神様に背いたために、「土は呪われるものとなった」とあります。大地が呪われるものとなった、それは、人間が生きていくのに必要なものを容易には与えてくれなくなったということです。エデンの園では、食べるに良いものをもたらす木の実りをいつでも取って食べることができました。神様の守りと恵みがそこにはあったからです。しかし神様のもとを離れて、荒れ野のようなこの世界に生きていこうとする時、その守りと恵みは失われ、男性は苦労して、顔に汗を流して土から作物を得なければならなくなるのです。「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」とあります。男性は自分や家族が生きて行くために、苦労して土と格闘しなければならないのです。土は、大地は、実りの恵みをもたらすこともあれば、凶作で飢饉をもたらすこともあります。今年のように、台風や地震によって畑が流されたり、崩れて収穫が出来なくなってしまうこともあります。いつそのようなことが起るか、という不安がいつもつきまとうのです。「お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる」ともあります。茨やあざみは棘のある草木です。その中で働くのは痛いことであり、傷を負うことです。そのような困難、苦しみが労働には伴います。しかし男は家族のために、我慢して働かなければならない、それが男性中心社会における男性の苦しみです。そのように顔に汗を流していっしょうけんめい働いて、そして結局は土に返っていく、それは、「私の人生はいったい何だったのか」という虚しさを覚えさせられることです。エデンの園での生活にも、働くことはありました。二章十五節にあるように、園を耕し、守るという仕事があったのです。しかしそれは、神様に守られ養われている中で、その恵みに感謝し、与えられている恵みを守っていくという働きでした。神様のもとを離れて、自分の思い通りに生きるとは、その守りと養いを失うことです。その時男性の労働は、苦しみとなるのです。それも、神様の罰と言うよりも、人間が自分でもたらしたことです。

罪による現実
 このようにここには、女性と男性それぞれに対して与えられている神様の罰、あるいは罪の結果として必然的に起っている現実が語られています。間違えてはならないのは、男性は社会で労働に生き、女性は男性の支配の下で家庭を守り、子供を産む、ということを聖書が人間のあるべき姿として語っているのではない、ということです。ここに語られているのは、人間が神様に背き、その下で生きるのをやめるという罪を犯した結果生じてきている苦しみの現実です。そのことが、男性中心の社会においてはこのような形をとるのです。しかし社会における男女の関係は現代ではずいぶん変ってきています。女性も労働の苦しみを知るようになっているし、男が女を求め、女が男を支配する、ということも起っています。男女の関係はそのようにいろいろと変化していきますが、それがどのように変っていくとしても、私たちが今生きている現実は、基本的に、神様に背き、自分の思いによって生きていこうとした人間の罪がもたらした苦しみの現実なのだ、ということを私たちはここから読み取るべきなのです。

アダムとエバ
 さてこのような神様の罰が語られたのに続いて、二十節には、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」とあります。最初の女性が「エバ」と名付けられたことがここに語られているのです。この名前はしばしば「イブ」とも呼ばれますが、それは英語訳による発音です。彼女がエバと名付けられたことが、アダムが最初に彼女と出会ったあの二章の場面においてではなく、ここに語られているのは興味深いことです。これまでの所にも既に「アダム」の名前はありました。しかしそれは、二章七節からわかるように、「土(アダマ)の塵で造られた人」を意味していました。アダムは固有名詞ではなくて、人間のことであり、そして女性との関係では男性のことだったのです。ですからあの二章では、「男(イシュ)から取られたから女(イシャー)と呼ぶ」という名付けが行なわれたのです。しかしこの三章二十節でアダムが妻をエバと名付けたことによって、エバは名前を持つ一人の人間となりました。それと同時にアダムも、「人間」や「男性」ではなく、名前を持つ一人の人間となったのです。アダムとエバという具体的な名前を持った人間の男女の歩みが、ここから始まったのです。それは言い換えれば、人間の具体的な生活がここから始まったということです。創世記は、神様に背く罪を犯し、エデンの園から追放されて、荒れ野のようなこの世界を、苦しみを負いつつ生きる、それが私たち人間の具体的な生活なのだ、ということを語ろうとしているのです。

母となる祝福
 そういう意味では、私たち人間の具体的な生活は、罪に対する神様の罰の下にあります。そのことを見つめる時、エバという名前が「すべて命あるものの母」という意味だと語られていることの大事な意味が見えてきます。エバは、命あるものを生み、母となる、そういう命の連鎖が、継承が、人間の具体的な生活の中で実現していくのです。それは、一章二八節にあった、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という神様の祝福がなお失われずに継続している、ということです。罪によって神様の守りと恵みを失い、荒れ野を生きる者となった人間を、神様がなおも生かし、子孫を与えて下さるのです。そこには先程見たように神様の罰として出産の苦しみが伴いますが、その苦しみを経て、新しい命を産み、母となるという祝福が女性には与えられているのです。男女の関係はいろいろに変化していくけれども、このことだけは常に変ることなく、女性に与えられている苦しみであり、祝福なのです。

皮の衣
 罪に対する罰の中になお神様の祝福が与えられているのは女性だけではありません。二一節には、神様が、彼らをエデンの園から追放するに当って、皮の衣を作って着せられた、ということが語られています。この皮の衣は、これから荒れ野を生きていかなければならない人間たちに、神様が与えて下さった身支度です。エデンの園では、彼らは裸でした。それは、神様に対してもお互いの間でも、何も隠すことがない、全てが開けっぴろげだった、ということでもありますが、神様の守りが彼らをしっかり覆い、包んでいた、ということでもあります。しかし人間は神様のもとを離れて、その守りを失って、と言うよりも自分からその守りを脱ぎ捨てて生きて行こうとしたのです。そのように神様に背くことで、裸のまま荒れ野のような世界に放り出されようとしている人間に、神様は皮の衣を着せ、彼らを守って下さるのです。神様が人間の命を守り、維持しようとしていて下さる、その恵みがここに語られています。ご自分のもとを離れ去っていこうとする人間を、神様はなおもこのように愛し、守ろうとしておられるのです。

命の木
 二二節以下には、神様が、エデンの園にあったもう一つの木、命の木の実を人間が食べてしまわないようにした、ということが語られています。命の木のことは二章一七節の、この木の実は食べてはならない、というみ言葉には出て来ませんが、その前の九節には、善悪の知識の木と共に園の中央に神様が生えいでさせた木として語られていますから、これも食べてはいけない、禁断の木の実だったのです。人間がエデンの園から追放されたのは、善悪の知識の木の実を食べた人間が、命の木からも取って食べてしまわないためでした。命の木の実を食べたら、永遠に生きる者となるのです。人間は古来、永遠の命を求め、不老不死の薬を手に入れたいと願ってきました。そういう意味ではこれは、神様が、人間が求めている永遠の命を与えないようになさった、ということです。二つの木の実の内の一つは食べられてしまったが、もう一つは絶対に食べさせないぞ、と言っておられるようにも思えます。けれども、これはそのような神様の意地悪ではありません。永遠に生きる者となることが必ずしも幸せではない、ということを私たちは知っているのではないでしょうか。私たちのこの世の命は、先程申しましたように、神様への罪の結果もたらされた苦しみを負った歩みです。もしもその歩みが永遠に続くのだとしたら、まさにそれこそが地獄です。神様の下で、神様に従って生きることをやめて自分の思いによって生きるようになった人間は、それによってある自由を得ました。しかしその自由は人間から平安を奪い、苦しみを与えたのです。神様からの自由は、人間にとって重荷でもあるのです。命の木に至る道を閉ざした神様のみ心は、人間がこれ以上負いきれない重荷を自分の肩に背負ってしまうことのないように、という配慮であると言うべきなのです。

蛇の頭を砕く
 さてこのように、神様は人間の罪に対して罰をお与えになりましたが、それはことごとく、人間が自分の罪の結果として引き起してしまったことです。神様は、そのような人間をなおも愛し、祝福を持続させ、守ろうとしていて下さるのです。十四節以下に「呪われるものとなった」という言葉が二度出てきますが、それは人間に対しての言葉ではない、ということにも注目すべきです。むしろ、エバがすべて命あるものの母となる、ということにおいて、神様の人間への祝福が再確認されているのです。そのことを最もはっきりと語っているのが、十五節です。蛇に対する呪いの言葉に続いて、こう語られているのです。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」。「お前」とは蛇です。蛇と、女及び女の子孫との間に、敵意を置くと神様は言っておられます。それはもともとは、人間は、特に女の人には蛇が嫌いな人が多い、ということを言っている話だったのでしょう。しかしここでは、もっと深い信仰的なことが意味されています。蛇は先程申しましたように、動物としての蛇ではなく、サタン、人間を神様に背かせ、その祝福から落とそうとする力です。人間を脅かし、平安を奪おうとする者です。そのサタンの象徴である蛇と、人間との間の対立、敵意のことが見つめられているのです。その敵意は神様が自らそこに置かれたものです。私たち人間は、サタンに対して必ずしも敵意を抱いているわけではありません。最初の人間たちがそうであったように、むしろ喜んでその言葉を聞いてしまうこともよくあります。サタンの言葉こそ、自分の気持ちを代弁している、と思ってしまうこともあるのです。しかしどんなにそれが甘い響きを持ち、その通りだと思えるようなことであっても、神様に背き敵対するところに、人間の本当の幸福はありません。何故なら私たちを本当に愛していて下さるのは、神様であってサタンではないからです。サタンは人間を愛してはいません。人間を餌食にし、苦しみと滅びに導こうとしているのです。だからサタンと私たちの間には基本的に敵意があるはずだし、そうでなければならないのです。神様はそのサタンに対する敵意を私たちの間に置いて下さったのです。そして、「彼はお前の頭を砕き」とあります。女の子孫が、蛇の頭を砕く、それは滅ぼすということです。人間を神様から引き離そうとする蛇の力、サタンの力が打ち滅ぼされ、神様の祝福のもとに人間が回復される、そういう救いの実現がここに見つめられ、約束されているのです。その救いをもたらすのは、「女の子孫」です。サタンに対する激しい敵意を持って戦いを挑み、サタンの頭を砕いて滅ぼしてくれる人が、女の子孫に現れるという約束がここに語られているのです。しかしそのサタンとの戦いは簡単なものではありません。サタンも激しく抵抗し、かみつくのです。その戦いの中で、「お前は彼のかかとを砕く」ということが起こります。お前、つまり蛇が、その子孫が、彼、つまり女の子孫、蛇の頭を砕く者のかかとにかみつき、傷を負わせるのです。そのような、自らも傷を負う激しい戦いの末、女の子孫は蛇の頭を砕き、滅ぼすのです。

キリストの十字架によって  古来この個所は、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みを指し示す個所として読まれてきました。蛇の頭を砕く女の子孫とは、主イエス・キリストのことです。そして主イエスがサタンを滅ぼし、私たちの救い、罪の赦しの恵みを成し遂げて下さる時に、サタンが主イエスのかかとにかみつき、傷を負わせる、それが十字架の死を意味していると考えられてきたのです。いずれにしてもここには、十四節で神様が、蛇、サタンに対してした宣戦布告によって始まる戦いの帰結があります。私たち人間を深く愛しておられる神様は、人間に罪を犯させ、恵みから引き離そうとするサタンと戦い、これを打ち滅ぼして下さるのです。その勝利が、女の子孫によって成し遂げられます。女の子孫として生まれた救い主が、自らも蛇にかみつかれてかかとを砕かれつつ、蛇の頭を砕いてその息の根を止めて下さるのです。本日共に読まれた新約聖書の個所、ヘブライ人への手紙第二章の十四、十五節にこうあります。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。神様の独り子であられる主イエスが、私たちと同じ血と肉を備えた者となって下さり、私たちの誰よりも深く、サタンに対する敵意を抱いて下さり、御自分の死によって、悪魔、サタンを滅ぼし、その奴隷とされていた私たちを解放して下さったのです。そのことが、創世記第三章十五節に既に予告され、約束されていたのです。
 私たちは先週、クリスマスを喜び祝いました。一月六日のいわゆる公現日まで、教会はその祝いの中にあります。クリスマスは、神様の独り子主イエスが、サタンと戦い、その頭を砕くために、女の子孫として、血と肉を備えた者としてこの世に生まれて下さったことを喜び祝う時です。罪を犯し、楽園から追放されて荒れ野のようなこの世を生きる人間を、なおも愛し、祝福を維持し、そして滅びから救い出して下さるために、独り子を世に遣わして下さった神様の深い愛と、その主イエスが世の終わりにもう一度来て下さり、サタンの力を最終的に滅ぼして私たちに永遠の命を、神様とのよい交わりを与えられて生きる、もはや重荷ではない祝福に満ちた新しい命を与えて下さるという救いの約束を、私たちはこの創世記第三章からも読み取ることができるのです。

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