主日礼拝

約束の子

「約束の子」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:創世記 第21章9-13節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第4章21-31節
・ 讃美歌:

律法の下にいたいと思っている人たち
 ガラテヤの信徒への手紙を読み進めてきました。本日は第4章の終わりの部分を共に読んでいきます。この手紙でパウロは、ガラテヤの諸教会の人たちにキリストの福音に立ち帰るよう語り続けてきました。救われるためには信仰だけでなく律法の行いも必要だと主張する人たちに彼らが惑わされていたからです。
 本日の箇所の冒頭でパウロはガラテヤの人たちにこのように言っています。「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」ガラテヤの人たちはパウロの伝道によって福音を告げ知らされ、キリストの十字架による救いを信じ、神さまの恵みの支配の下に入れられました。ところがその恵みの下から離れて律法の下にいたいと思うようになったのです。「律法の下にいたいと思っている」と訳されていますが、それは、漠然とした考えを持っているというようなことではなく、はっきりとした意志を持っているということです。彼らははっきりとした意志を持って、律法の支配の下に生きようとしていたのです。

律法の言うことに耳を貸さない
 そのようなガラテヤの人たちに、パウロは「あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」と言っています。律法の下にいたいと思っているあなたがたは、実は律法の言うことに耳を貸そうとしていない、と言っているのです。ここで「律法」とは、旧約聖書全体のことです。また「耳を貸さない」というのは、単に「聞かない」ことを意味するだけでなく「理解しない」ことを意味します。つまりパウロはここで、あなたがたは旧約聖書が語っていることを理解していないと言っているのです。パウロによれば、旧約聖書は主イエス・キリストの十字架によって実現した救いの出来事を指し示しています。そのことを読み取らなければ、旧約聖書を理解したことになりません。ですからキリストによる救いの恵みから離れ律法の下にいたいと思っているガラテヤの人たちは、旧約聖書のことが分からないのです。本日の箇所でパウロはガラテヤの人たちに、創世記に語られているアブラハムの二人の息子の話からキリストの十字架による出来事を説き明かしているのです。

アブラハムの二人の息子が指し示していること
 22節でパウロはこのように語り始めます。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。」アブラハムの二人の息子とはイシュマエルとイサクのことです。イシュマエルは、アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれ、イサクは妻サラとの間に生まれました。サラが「自由な身の女」と言われているのは妻であって奴隷ではなかったからです。もっとも創世記では、「自由な身の女」という言葉は出てきません。パウロは、サラを「自由な身の女」と言い表すことで、「女奴隷」ハガルと「自由な身の女」サラを対比しているのです。そして「女奴隷」ハガルから生まれたイシュマエルは、律法の支配の下に生き、律法の奴隷となっている者を指し示し、それに対して「自由な身の女」サラから生まれたイサクは、キリストの十字架による救いによって律法の支配から「自由」にされた者を指し示しているのです。
 続く23節では「ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした」と言われています。ここでは「女奴隷の子」と「自由な女から生まれた子」、つまりハガルの子イシュマエルとサラの子イサクが対比されています。そしてイシュマエルは「肉によって」生まれたのに対し、イサクは「約束によって」生まれたと言われているのです。イシュマエルが「肉によって」生まれたとは何を意味しているのでしょうか。創世記16章1、2節によれば、アブラハムの妻サラに子どもが生まれなかったので、サラは、アブラハムが自分の女奴隷ハガルと関係を持つことを提案し、アブラハムもサラの願いを聞き入れました。そのようにして生まれたのがイシュマエルです。つまりイシュマエルの誕生は、人間の自然な営みにおける出来事でした。「肉によって」生まれたとは、このことを意味しています。しかしそれだけに留まりません。16章1、2節で語られていたのはアブラハムとサラの人間的な思いであり、その思いから生じた人間的な行いでした。神さまはアブラハムに星の数ほどの子孫を与えると約束されていました。しかし現実には二人の間には一人の子供も与えられていなかったのです。そのことに二人は焦っていました。そのためにアブラハムとサラは、いつ実現するのか分からない神さまの約束に信頼するよりも、自分たちの力、自分たちの行いに頼ろうとしたのです。ですから「肉によって」生まれたとは、単に人間の自然な営みによって生まれたことを意味しているだけでなく、人間の思いと行いによって生まれたことを見つめています。そのようにして生まれたイシュマエルは、神さまの約束に信頼するのではなく、人間の力に頼って生きる生き方を指し示しているのです。
 それに対してイサクは「約束によって」生まれたと言われています。創世記18章10~13節によれば、主の使いがアブラハムに現れ、サラに男の子が生まれることを告げましたが、そのお告げを聞いたサラはひそかに笑って信じませんでした。そんなことは不可能だと思ったのです。アブラハムとサラは共に高齢で、人間の自然な営みによっては決して子どもが生まれない状況だったからです。しかしそのような状況の中で、「あなたの妻サラに男の子が生まれる」という神さまの約束が与えられ、イサクの誕生によって、その約束が実現しました。このことは、イサクの誕生が神さまの一方的な恵みのみ業にほかならないことを意味します。イサクの誕生に、人間の力や行いが入り込む余地はまったくありません。そのようにして生まれたイサクは、人間の力や行いによらない、神さまの一方的な恵みのみ業に与って生きる生き方を指し示しているのです。
 これまで見てきたように22、23節において、ハガルの子イシュマエルは、律法の支配の下に生きる者を指し示し、同時に神さまではなく自分の力に頼って生きる生き方を指し示しています。それに対してサラの子イサクは、律法の支配から自由にされた者を指し示し、同時に神さまの一方的な恵みのみ業に与って生きる生き方を指し示しているのです。

二つの契約
 さらにパウロは、24節以下でハガルとサラを二つの契約にたとえています。一つは「シナイ山に由来する契約」とあるように律法が与えられたシナイ契約です。もう一つは、ここでは言及されていませんがアブラハムに与えられた約束のことです。このことは3章17節を読むと分かります。そこでは「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない」と言われていました。「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約」がアブラハムに与えられた約束であり、「それから四百三十年後にできた律法」がシナイ契約にほかなりません。そしてパウロは、ハガルとシナイ契約を結びつけています。そのことを語っている24、25節は分かりにくく、特に25節にある「このハガルはアラビアではシナイ山のことで」の「アラビアでは」が何を意味しているのかはっきりとしません。このように24、25節は、その部分に注目すると分からないところがありますが、全体に目を向けるならば、そこで言われているのは、シナイ契約、つまり律法の支配の下で人間は律法の奴隷となっていた、ということであり、そのことが女奴隷ハガルと結びつけられているのです。

「今のエルサレム」と「天のエルサレム」
 またパウロは、ハガルが「今のエルサレム」であるとも言っています。「今」とは、パウロにとって、またガラテヤの人たちにとっての「今」です。当時、ユダヤ教では「エルサレムは私たちの母である」と考えられていたようです。おそらくガラテヤの人たちを惑わした者たちも同じようなことを言っていたのでしょう。それに反論してパウロは、あなたたちの母である「今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっている」と言っているのです。22、23節におけるハガルの子イシュマエルは、この「今のエルサレム」の子どもたちを指し示しています。彼らは、キリストの十字架による救いが実現した後も、律法の支配の下に留まり続けていた者たちであり、自分の力や行いに頼って生きていたのです。
 それに対して、「天のエルサレム」が「わたしたちの母」、つまりキリスト者の母だとパウロは言っています。ハガルが「今のエルサレム」の比喩であったように、サラは「天のエルサレム」の比喩です。ここでは、「今のエルサレム」と「天のエルサレム」が対比されています。「今のエルサレム」の子どもたちとは、律法の下で、自分の力や行いに頼って生きようとしている人たちのことです。では「天のエルサレム」の子どもたちとは、どのような人たちなのでしょうか。パウロによればサラは「天のエルサレム」の比喩であり、創世記で語られているようにサラは不妊の女性でした。「天のエルサレム」の比喩であるサラに子どもがいないのであれば、そもそも「天のエルサレム」に子どもがいるのか、ということが問われます。パウロはその問いに答えて、27節でイザヤ書54章1節を引用しているのです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。」その前半では、不妊の女性に喜びの訪れを告げていて、後半ではその喜びの理由が「多くの子を産むから」と言われています。不妊の女性が多くの子どもを持つことを告げるこのイザヤの預言は、サラが、つまり「天のエルサレム」が、神さまの約束によって、人間の力ではなく神さまの力によって、子どもが与えられることを告げているのです。

約束の子
 「天のエルサレム」の子どもたちとは、28節に「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です」とあるように、イサクと同じ「約束の子」です。22、23節で語られていたように、イサクは神さまの約束の成就としての子どもであり、イサクの誕生は、人間の力や行いによらない、神さまの一方的な恵みのみ業でした。「天のエルサレム」の子どもたち、つまりキリスト者である私たちは、人間の力や行いによって生きているのではなく、神さまの約束の成就によって生きているのです。その成就はキリストにおいて実現しました。私たちはキリストの十字架による救いによって律法の支配から自由にされ、キリストと結ばれることによって神の子とされたのです。「天のエルサレム」の子どもたちとは、「約束の子」であり、神の子にほかなりません。私たちが「約束の子」とされたことに、私たちの力や行いの入る余地はまったくありません。ただ神さまの私たちに対する愛と憐れみのゆえに、律法の支配の下で律法の奴隷となり、自分の行いにすべてがかかっているという重荷に苦しみ呻いていた私たちを救い出し、本当の自由を与え、「約束の子」としてくださったのです。

聖霊によって生まれた者の歩みの中で
 29節でパウロはこのように言っています。「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」29節の背景には、本日共に読まれた創世記21章9節があります。そこでは「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て」と言われていましたが、29節ではハガルの子イシュマエルが「肉によって生まれた者」と言われ、サラの子イサクが「“霊”によって生まれた者」と言われています。また23節では「約束によって生まれた」と言われていたイサクが、29節では「“霊”によって生まれた者」と言われているのです。「“霊”によって」とは「聖霊によって」ということです。ですから「約束によって生まれる」とは「聖霊によって生まれる」ことにほかなりません。キリスト者は「約束の子」であり、聖霊の働きによって新たに生まれ、罪と死の力から自由にされ、聖霊の働きと導きによって生き始めているのです。その歩みにこそ私たちの本当の自由があり慰めがあり平安があります。しかし同時にその歩みには試練があり、忍耐が求められるのです。ガラテヤの人たちも試練の中にありました。パウロは「今も同じようなことが行われています」と言っています。それは、パウロとガラテヤの人たちが迫害の中にあったことを意味します。この迫害が具体的にどのようなものであったか、はっきりとは分かりませんが、ガラテヤの教会にやって来た人たちが、ガラテヤの人たちに割礼を求めて強く迫ったのではないでしょうか。この手紙の6章12節には「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」とあります。割礼を受けることを迫られる試練の中で、またそのことによって、つまり律法の行いによってこそ救われるという誘惑の中で、ガラテヤの人たちはキリストの救いによる恵みから離れ、再び律法の下へ戻ろうとしていたのです。
 そのような試練と誘惑の中にあるガラテヤの人たちに、パウロは30節で「しかし、聖書に何と書いてありますか」と問いかけています。そしてここでもパウロは創世記を引用しているのです。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである。」共にお読みした創世記21章10節でサラがアブラハムに訴えた言葉の引用ですが、サラの言葉としてではなく、「聖書に書いてある」こととして語り直しています。言い換えるならば、ここでは「女奴隷とその子を追い出せ」はサラの願いではなく、神さまのみ心として語り直されているのです。そして神さまのみ心として「追い出せ」と告げられているということは、「女奴隷とその子」つまり迫害している者たちが追い出される、そのことが必ず実現するということです。それは、ガラテヤの人たちにとって、迫害に苦しむことがなくなり、試練と誘惑が取り除かれるという確固とした約束にほかなりません。

あなたがたは「約束の子」です
 私たちは、ガラテヤの人たちのように割礼を強く迫られるというような経験をすることはないでしょう。しかし私たちもまた、救われるためには行いも必要だという誘惑に絶えずさらされているのです。行いによらない神さまの一方的な恵みによる救いに堅く立ち続けるのは簡単なことではありません。私たちは、神さまの一方的な恵みによる救いではなく、自分の力や行いを自分の人生の土台に据えようとします。その方が心地良いし、満足感、充実感を得ることができるように思えるのです。しかしそのような自分を頼みとした土台は、あっけないほど脆く崩れてしまいます。ですから私たちは、信仰に行いを付け加えるという誘惑と試練の中にあって、キリストの福音に堅く立ち続けなければなりません。そのためには、忍耐が求められるし、その歩みにおいて、苦しみや悲しみや悩みが溢れているかもしれません。しかし、その誘惑と試練は必ず追い出され、その苦しみ悲しみ悩みも必ず取り除かれるのです。それが、神さまのみ心であり、私たちに与えられている確固とした約束なのです。
 「女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」とありました。律法の下で自分の力や行いに頼って生きる人は、神さまの約束の相続に与れない、つまり救いに与れないと言われています。これはとても厳しい審きの言葉です。律法の下に生きようとすることは、つまり信仰に行いを付け加えることは、福音を少しだけ変えるというようなことではありません。福音を破壊することであり、福音を福音でないものとすることです。だからこそ厳しい審きの言葉が語られているのです。私たちはこのことを軽く考えてはいけません。日々、多くの試練と誘惑に襲われる中で、忍耐して、主イエス・キリストの十字架による救いの下に立ち続けるのです。しかし私たちはただ忍耐するだけではありません。誘惑と試練に襲われるとき孤軍奮闘するのではありません。31節で「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」と言われているように、私たちは、ハガルの子イシュマエルが指し示す律法の支配の下に生きる者ではなく、サラの子イサクが指し示す律法の支配から自由にされた者であり、自分の力によって生きるのではなく、神さまの約束の成就によって生きているのです。私たちは「今のエルサレム」の子どもたちではなく、「天のエルサレム」の子どもたちです。パウロはこのことを断言しています。ガラテヤの人たちは律法の下にいたいと思っていました。その彼らに、あなたがたは「自由な身の女から生まれた子」だと断言しているのです。私たちも誘惑と試練に襲われて負けそうになってばかりです。孤軍奮闘する力は自分の中を探しても少しも見つかりません。そのような私たちに、「あなたがたは約束の子です」と言われています。「約束の子なのかもしれない」でも「約束の子になるだろう」でもありません。私たちはすでに「約束の子」なのです。このことによってこそ、私たちは試練と誘惑に襲われるときも忍耐して歩んでいくことができるのです。

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