「神から知られている」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:出エジプト記 第32章1-6節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第4章8-11節
・ 讃美歌:17、504
「かつて」と「今」
基本的に月に一度、主日礼拝でガラテヤの信徒への手紙を読み進めていますが、この手紙の鍵となる言葉の一つとして「かつて」と「今」があります。これまで語られてきたように、「かつて」と「今」は、キリストの到来によって分けられます。神が御子キリストをこの世へとお遣わしになったことは、歴史を「かつて」と「今」に分ける決定的な出来事でした。この「今」は、キリストが来てくださり、十字架で死に復活されたことによって実現し、すでに始まっている「今」です。言い換えるならば、「今」とは、キリストの到来によってもたらされた「新しい時代」です。その完成は、キリストが再び来られる終わりの日を待たなければなりません。しかし「新しい時代」はすでに始まっていて、「かつて」に戻ることも、ほかの時代が新たに始まることもないのです。歴史が「かつて」と「今」に二分されるというのは、そういうことです。ですから、この「今」は、歴史の中で何度も繰り返す「今」ではなく、歴史の中でただ一度きり現れる「今」なのです。しばしば「新しい時代の始まり」と言われることがあります。技術革新によって生活に大きな変化が起こったときや、戦争や災害、あるいは今の新型ウイルスのような事態が起こったときに、時代の変わり目を見るのです。今までも繰り返し新しい時代の始まりが言われてきたし、これからも言われるでしょう。しかしそれは決定的な「新しさ」、決定的な「今」ではありません。キリストの十字架と復活によって実現し始まった「今」は、どれほど時代が変わり新しくなったように見えても、決して失われることも古くなることもない「今」なのです。
一人ひとりの「かつて」と「今」
歴史が「かつて」と「今」に分けられたことによって、一人ひとりの人間に新しい生き方がもたらされました。信仰者の人生において、「かつて」とは、キリストに出会う前のことであり、「今」とは、キリストに出会い、キリストを信じる信仰によって救われた後のことです。言葉を換えるならば、「かつて」とは洗礼を受ける前のことであり、「今」とは洗礼を受けた後のことです。洗礼によって信仰者の人生は「かつて」と「今」に分けられ、キリストの到来によってすでに実現した「新しい時代」を生き始めるのです。私たちの人生は、洗礼において、神が聖霊を遣わしてくださり神の子としてくださったことによって「かつて」と「今」に分けられたのです。
パウロの「かつて」と「今」
パウロは1章13節以下で、自分自身の「かつて」と「今」について語っていました。自分の「かつて」を彼はこのように語っています。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」「かつて」パウロは、律法と「先祖からの伝承」を誰よりも熱心に守り、その熱心さのゆえに教会を迫害し滅ぼそうとしていたのです。しかしそのパウロにキリストが出会ってくださり、彼はキリストを迫害する者からキリストを宣べ伝える者へと変えられたのです。そのことを知った人たちは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」(23節)と驚いています。
ガラテヤの人たちの「かつて」と「今」
本日の箇所でパウロは、ガラテヤ教会の人たちの「かつて」と「今」を見つめています。8、9節でパウロは「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と言っています。ガラテヤの人たちの「かつて」は、神を知らなかった、と言い表されています。もともと神でない神々に奴隷として仕えていた、とも言われています。ガラテヤの諸教会の場所については議論がありますが、いずれにしても小アジア、現在のトルコであることは確かです。当時小アジアは、ギリシャ・ローマ世界の一部であり、多くの神々が崇拝されていた多神教の世界でした。ですから「もともと神でない神々」とは、多神教の様々な神のことだと言えます。しかしここでは、単にガラテヤの人たちが多神教を信じていたということだけが言われているのではないでしょう。「神を知らない」ことと「もともと神でない神々に奴隷として仕える」ことの関係が見つめられているのです。パウロはガラテヤの人たちの「かつて」の生き方を非難しているわけではありません。なぜなら、「かつて」彼らは自分たちが「もともと神でない神々に奴隷として仕えている」ことに気づいてはいなかったからです。その気づきは、神を知ることによってのみ与えられます。神を知ることによって初めて「もともと神でない神々に奴隷として仕えていた」ことに気づくことができるのです。
神を知る
では、神を知るとはどういうことでしょうか。それは、神について頭の中で考え理解することではありません。そうではなく御子キリストの十字架と復活によって、ご自身を明らかにしてくださった父なる神を信じることです。言い換えるならば、神を知るとは、キリストの十字架と復活によって決定的な「今」がすでに実現し始まっていると信じ、その「今」を生き始めることなのです。信仰者一人ひとりの人生においては、それぞれが洗礼を受けたとき、その人の人生は「かつて」と「今」に分けられます。けれどもそれに先んじて、歴史はすでに「かつて」と「今」に分かれていたのです。自分の人生が「かつて」と「今」に分けられたことによって、「新しい時代」が始まるのではありません。すでにキリストにおいて「新しい時代」が実現していることに気づかされるとき、その「新しい時代」を生きるようになるのです。このことが、神を知ることによって信仰者一人ひとりに起こるのです。ですから神を知るとは、信じる神さまが変わったということに留まりません。それ以上のことなのです。
キリストによる「新しい時代」への気づき
パウロは「かつて」と「今」で信じる神さまが変わったわけではありません。キリストと出会う前も出会った後も同じただお一人の神さまを信じていました。それにもかかわらずパウロは、キリストと出会う前、神さまを本当に知っていたとは言えないのです。なぜなら彼は、キリストの十字架と復活において歴史が「かつて」と「今」に分かれ、キリストによる「新しい時代」が始まり、自分がその「新しい時代」に入れられていることに気づけなかったからです。神を知らなかったとき、パウロは律法の支配の下にありました。救いにおいて決定的なのは人間が律法を守れるか否かであり、自分の力で救いを得ようとしていたのです。しかしパウロは、キリストと出会い、神を本当に知り、キリストによる「新しい時代」に入れられていることに気づくことによって、律法の支配から解放されました。自分の力で救いを得ようとするのではなく、神の一方的な恵みによる救いを受け取って生き始めたのです。
パウロとは異なり、ガラテヤの人たちは「かつて」と「今」で信じる神さまが変わりました。多くの神を信じて生きるのではなく、ただお一人の神を信じて生きるようになったのです。しかし、「かつて」神を知らなかったが「今」は神を知っているとは、信じる神さまが変わったということだけではありません。パウロと同じように、キリストによる「新しい時代」が始まったことに彼らの目が開かれたということなのです。ガラテヤの人たちが「もともと神でない神々に奴隷として仕えていた」ということも、根本的には、律法に支配されていたパウロと同じように、自分の力によって救いを獲得することへと駆り立てる力に支配されていた、ということです。「奴隷として仕える」とは支配されることであり、「もともと神でない神々」は9節で「諸霊」と言い換えられています。つまり彼らは諸霊に支配されていたのです。「諸霊」は、人々を支配するという点で律法となんら変わりません。ですからパウロが神を本当に知ることによって、律法の支配から解放されたように、ガラテヤの人たちも神を知ることによって、諸霊の支配から解放されたのです。神を知るとは、信じる神が変わる以上のことです。キリストによる「新しい時代」に入れられ、自分の力で救いを得ようとすることから自由にされることです。キリストによる「新しい時代」は、律法の支配の終わりであり、自分の力で救いを獲得することの終わりにほかならないのです。
逆戻り
ガラテヤの人たちは、「かつて」諸霊に支配されていましたが、「今」は、神を知り、諸霊の支配から解き放たれ、キリストにおいて実現した「新しい時代」を生き始めていました。それなのに彼らは、諸霊の支配の下に戻ろうとしていたのです。パウロはこのように言っています。「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」パウロは、神を知らなかったとき、ガラテヤの人たちが諸霊の支配の下にいたことを非難しませんでした。けれども彼らが神を知ったのに、諸霊の支配から解放されたのに、もう一度その支配の下に逆戻りしようとすることに対して、問いたださずにはいられなかったのです。翻訳でははっきりしませんが、原文ではここでパウロは「もう一度」という言葉を三回繰り返して使っています。せっかく諸霊の支配から自由にされたのに、なぜ「もう一度」逆戻りしようとするのか、というパウロの強い気持ちが現れているのです。この「諸霊」は、「無力で頼りにならない」と言われています。「無力で頼りにならない」とは、救いには何の役にも立たないということです。ガラテヤの人たちは、救いには何の役にも立たないものに、自分たちの救いの望みを託そうとしていたのです。「もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」は、「仕えることを望んでいるのですか」とも訳せます。彼らは、まだ完全に「逆戻り」したのではありませんが、それを望んでいるのです。なんとなく「逆戻り」しそうになっているのではなく、「逆戻り」する意志を持っていたのです。10節で「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と言われていますが、このことは、彼らの意志が具体的な行いとして表れていたということです。「日、月、時節、年」を守ることは、ユダヤ教の律法に関係があり、例えば安息日などの特別な日、新月の祭り、時節つまり季節と関わりの深い仮庵祭の祭り、年始を守ることが言われていると思われます。特定の日や月、季節や年に、行いなさいと定められていることを行い、あるいは行ってはならないと定められていることを行わないことが大切にされていました。そのような律法を守らなければ救われないということです。ですから、まさに「日、月、時節、年」を守ることは、律法の支配、諸霊の支配の下に「逆戻り」することなのです。
どうなってしまったのか分からないから
それにしても、なぜガラテヤの人たちは「逆戻り」することを望んだのでしょうか。私たちは、彼らが救いには何の役にも立たないものに救いの希望を託したことを不思議に思います。本日、旧約聖書出エジプト記32章1~6節が共に読まれました。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、モーセに導かれてエジプトを脱出し荒野を旅しました。出エジプトの出来事においても荒野の旅においても、神はイスラエルの民にモーセを通して語りかけました。モーセが神の言葉を取り次いだのです。そのモーセがシナイ山に登りなかなか下りてこないので、イスラエルの民は「若い雄牛の像」を造って、その像が自分たちをエジプトから導き上った神々だと言い、祭壇を築き、献げ物を供えました。1節で民はアロンにこのように訴えています。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」自分たちの指導者であるモーセが、自分たちに神の言葉を語ってくれたモーセが「どうなってしまったのか分からない」。その不安と恐れによって、彼らは、救いには何の役にも立たない「若い雄牛の像」を造り、その像を自分たちの神としたのです。
ガラテヤの人たちに福音を伝えたのはパウロでした。パウロを通して神の言葉が語られ、キリストの十字架による救いが告げられました。本日の箇所で語られている彼らの「逆戻り」は、パウロがガラテヤの教会を去った後に起こったことです。モーセが「どうなってしまったのか分からない」と訴えたイスラエルの民と同じように、パウロが去った後、彼らが不安と恐れを感じていたとしても不思議ではありません。その不安と恐れにつけ込む人たちによって、彼らの信仰に動揺が起こり、救いには何の役にも立たないものに救いの希望を求めるという「逆戻り」が起こったのです。キリストにおいて歴史が「かつて」と「今」に分けられ、「新しい時代」が実現し、洗礼によってその「新しい時代」を生き始めていた彼らが、不安と恐れ、信仰の動揺によって、自分たちは新しい生き方に入れられているという確信を見失ったのです。神を知っていたのに、キリストによる新しい生き方ではなく、「かつて」の自分たちの生き方に「逆戻り」することを求めたのです。
神から知られている
私たちもこのような「逆戻り」に陥ることがあります。自分は神を知っている、キリストによる「新しい時代」がすでに始まっていると信じていても、そのように思えない現実に直面して、キリストにおいて歴史が、洗礼において自分の人生が、「かつて」と「今」に決定的に分かれていることが、見えなくなり、分からなくなり、信じられなくなるのです。不安と恐れと混乱に覆われ、人と人との関係が引き裂かれているように見える日々の中で、自分は神を知っているとどこまで確信を持てるのでしょうか。私たちの確信というのは、弱く小さく脆いものです。度々揺さぶられて、救いには役に立たないものへと惹かれてしまいます。どこに、この「逆戻り」から逃れる道があるのでしょうか。その鍵は9節前半の御言葉です。「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」とあります。私たちが神を知っていることではなく、私たちが「神から知られている」ことにこそ、「逆戻り」へ陥ることのない道があるのです。パウロは手紙を書くとき、自分自身で筆をとったのではなく、彼が語ったことを書き記す人がいたようです。パウロは「しかし、今は神を知っている」と語って、そこでふと気づいたのではないでしょうか。いや、そうではない。私たちが神を知っていることよりも、もっと確かなことがある。だから彼は「今は神を知っている」と語った後で、「いや、むしろ神から知られている」と語り直したのです。私たちが、歴史と自分の人生が「かつて」と「今」に分かれたと信じていることに確かさがあるのではありません。キリストにおいて実現した「新しい時代」に、私たちが入れられ、すでに生き始めていることを、神が知っていてくださることにこそ確かさがあるのです。神が私たち一人ひとりを知っていてくださるとは、神が私たち一人ひとりを選んでいてくださることでもあります。私たちがなにか条件を満たしたから神が選んでくださったということではありません。何の条件も無しに、ただ一方的な恵みによって選んでくださったのです。私たちが日々の生活に追われ神さまを忘れても、神さまは私たちを忘れることはありません。私たちが目に見える現実に打ちのめされ、自分がキリストによる「新しい時代」に生きていることを見失ったとしても、神さまは、そのような私たち一人ひとりを決して見失うことはありません。このことこそ、神が私たちを知っていてくださり、選んでいてくださるということにほかならないのです。
神がキリストにおいて実現した「新しい時代」に生き始めている私たちには、地上の死で終わらない復活と永遠の命の希望が与えられています。この希望に支えられて、逆風のためにまったく前に進めないような困難なときも忍耐することができます。たとえ私たち自身が、復活と永遠の命の希望を見失うことがあったとしても、神は、私たちがこの希望の中に入れられていることを知っていてくださいます。私たちが神を知っているからではなく、神が私たちを知っていてくださるからこそ、永遠の命と復活の希望は、決して失われることがないのです。私たちが自分の力で希望を持ったり失ったりするのではありません。神が、この希望に満ちた世界に私たちがすでに生き始めていることを知っていてくださり、保証してくださり、確かなものとしてくださっているのです。私たちは、このことによって励まされ、強められて、逆戻りすることなく、神がキリストにおいて実現した「新しい時代」を歩んでいくのです。