夕礼拝

顔の覆いを除かれて

「顔の覆いを除かれて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第34章29-35節
・ 新約聖書: コリント信徒への手紙二 第3章7-18節
・ 讃美歌 : 324、475

シナイ山を下ってきたモーセ
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書出エジプト記を読み進めています。本日は第34章の29節以下を読むのですが、ここは、形の上ではその前の所とつながっています。つまり34章の28節までの所には、モーセがシナイ山に登って、十戒を記した二枚の石の板を、主なる神様から再びいただいたことが語られています。最初の板はモーセ自身が砕いてしまったことが32章に語られていました。モーセとヨシュアが山の上でその板を授かっていた間に、麓で待っていたイスラエルの民は、金の子牛の像を造りそれを神として拝むという、十戒において禁じられている偶像礼拝の罪を犯したのです。戻って来てそれを見たモーセは激しく怒り、十戒を刻んだその板を砕いてしまいました。十戒は主なる神様がイスラエルの民と結んで下さった契約と結びついています。それを破ったということは、主なる神様と民との契約が破綻し、ご破算になったということです。そのことをはっきりと示すために、モーセは十戒を記した石の板を砕いたのです。そして33章には、モーセがイスラエルの民の罪の赦しを願って主なる神様に執り成しをしたことが語られています。その結果、神様はイスラエルの民を滅ぼすことを思い留まり、再び彼らをご自分の民として、彼らと共に歩んで下さると宣言して下さったのです。そして34章で、破綻した契約をもう一度結び直して下さったのです。その印として、二枚の石の板が再び与えられました。そのためにモーセは再びシナイ山に登っていたのです。本日の29節は、モーセが「二枚の掟の板」を手にしてシナイ山を下ってきた時のことを語っています。そのように話は28節までと続いているのです。

モーセの顔の光
 けれどもこのつながりは先ほど申しましたように形の上でのものです。28節までと29節以下とでは、内容においては断絶があります。つまり28節まで所には、金の子牛という偶像を造って拝んだというイスラエルの民の罪と、それに対する神様の怒り、そしてモーセの執り成しによる赦しと契約の再締結ということが語られていたわけですが、29節以下は民の罪と赦しのことにはもう触れておらず、別の話になっているのです。その別の話とは、シナイ山から下ってきたモーセの顔が光を放っていたことと、モーセがその顔に覆いを掛けたということです。29節に、「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった」とあります。モーセの顔が光を放っていた、それは「神と語っている間に」そうなったのです。主なる神様と語る中でその栄光がモーセの顔にも移って彼の顔が光輝いたのです。モーセ自身はそんなことになっているとはつゆ知らなかったのですが、山を降りてきた彼の顔は、その肌が光を放っていたのです。イスラエルの人々はそれを見て「恐れて近づけなかった」と30節にあります。これは、神様の栄光の光に照らされることへの恐れです。例えばルカによる福音書の第2章で、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、主の栄光が周りを照らした時、彼らは非常に恐れた、と語られています。神様の栄光の光に照らされることは、罪と汚れに満ちている人間にとっては恐ろしいことなのです。イスラエルの人々がモーセの顔が光を放っているのを見て恐れたのは、気味が悪かったのではなくて、神様の栄光への恐れなのです。しかしモーセは彼らに呼びかけ、近くに招きました。これは天使が羊飼いたちに「恐れるな」と告げたのと同じ意味を持っています。つまり、この光はあなたがたを滅ぼすようなものではないから恐れることはない、心配いらない、ということです。それで、祭司アロンと共同体の代表者たちが先ず近づき、モーセは彼らに語りました。その後今度はイスラエルの人々が皆近づいて来たので、モーセはシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく語り伝えたのです。ここでモーセが、先ず民の代表者たちに、それから民全体に「語った」と書かれていることに注目したいと思います。シナイ山で神と語ったモーセは、山を降りてその神の言葉を人々に語ったのです。本日の箇所には「語る」という言葉が何度も使われていて、モーセが神と語り、神の言葉を民に語った人だったことが描かれています。そのモーセの顔が、神様の栄光を映し出して光を放っていたのです。

モーセの顔の覆い
 モーセがその光輝く顔に覆いを掛けたことが33節以下に語られています。33節に「モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた」とあります。民に神様の言葉を語っている間は、覆いを掛けてはいないのです。その話が終わったら、覆いを掛けたのです。そのことは34、35節からも分かります。「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた」。主なる神様の御前に出て主と語る時には覆いははずされています。この「主の御前に行って」というのは、33章7節以下に語られていた「臨在の幕屋」に入るということです。そしてそこから「出て来ると」、主に命じられたことを民に語ったのです。その時にも、顔の覆いははずされています。だから人々はモーセの顔が光を放っているのを見ながらその言葉を聞いたのです。そして語り終えると、「再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた」のです。つまり顔に覆いを掛けているのは、神様とも民とも語っていない時のみです。これは私たちには不思議に思えます。反対なんじゃないか、という気がするのです。それは、モーセの顔が神様の栄光を受けて光輝いているのを見て人々が恐れた、とその前に語られていることに引きずられているからです。人々を恐れさせないために顔に覆いを掛けてその光を隠す、そのための覆いなのではないか、と私たちは思うのです。しかしここに語られているのはそういうことではありません。人々に語る時には、覆いははずされており、人々は光輝くモーセの顔を見ながらその語る神の言葉を聞いたのです。神の栄光の光に照らされつつそのみ言葉を聞くことは、恐れを引き起こすことではあるけれども、大事な、必要なことなのです。

み言葉を語る者の顔は輝く
 それではこの覆いは何のためなのか、という疑問が残るわけですが、それについては後で考えるとして、先ず、この箇所が基本的に語ろうとしていることを確認しておきたいと思います。それは、神の言葉を語るモーセの顔は神の栄光を受けて光を放った、ということです。神様のみ言葉が語られる時、それを語る人の顔に神の栄光の輝きが現れるのです。神様の栄光は、そのみ言葉が語られる所にこそ表される、と言ってもよいでしょう。それがこの箇所の大切なメッセージです。主なる神様の栄光を私たちは、そのみ言葉が語られ、聞かれる所でこそ体験するのです。そこでは、み言葉を語る人間が用いられます。その人間は、右から左に情報を伝える単なる伝令、パイプのようなものではありません。その人自身が、神様の栄光の光を照らし出して輝くのです。そしてそういうことが起るのは、その人が神の御前において、顔と顔を合わせて語り合い、そのみ言葉を聞くという体験を与えられていることによってです。自分が本当に神様との交わりにおいて聞いたみ言葉でなければ、つまり借り物の言葉や、あるいは自分の思いや意見を神の名を借りて語っているような言葉では、語る者の顔が輝くことはありません。これは主に牧師が礼拝において語る説教のことを言っているわけですが、しかしそれだけではなく、私たちが、自分の信仰について人に語る言葉、「証し」とか「奨励」と呼ばれる話や、もっと日常的に家族や隣人と信仰のことを語る言葉においても同じことが言えるでしょう。自分が神様との交わりの中で本当に聞いたこと、与えられている恵みを語る時にこそ、語る者の顔は輝くのです。そしてそのような輝いた顔で語られる言葉こそが、神の言葉として聞かれ、伝わっていくのだと言えるでしょう。

み言葉を語る時にこそ
 さてそのように神の栄光によって光輝いているモーセの顔に覆いが掛けられるとはどういうことなのでしょうか。しかもそれは、彼が神様とも、人々とも語っていない時にのみ掛けられたのです。それは、この顔の光が、モーセ個人に備わった資質のようなものではなくて、彼が主なる神様と語り、そこで聞いたみ言葉を人々に語るという務めを果たすことにおいてのみ輝かされるべきものだ、ということを意味していると言えるでしょう。モーセの顔の光は、神と語り、そして民に語る、その時にこそ現され、見つめられるべきものです。つまりその光は、神様の栄光の反射なのであって、モーセ個人が光り輝く人になったということではないのです。そのことを示すために、み言葉を語るという務めにある時以外は、顔に覆いをかけてその光が見えないようにする、この覆いはそういう役割を果しているのだと思います。このことを私たちにあてはめて言うならば、私たちが誰の目から見てもいつでも光輝いて見えるようなすばらしい、尊敬される、立派な人間になることによって神の言葉を語ることができるようになるのではなくて、罪人であり弱さをかかえており、少しも立派ではない私たちが、しかし神様との交わりを与えられ、神様のみ言葉によって生かされ、そのみ言葉を語っていく時に、私たちの顔も輝くのだ、ということです。 古い契約と新しい契約  けれども、このモーセの顔の覆いについては、それとは別の解釈をした人がいます。それは使徒パウロです。本日共に朗読された新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙二の第3章7節以下で、パウロは、モーセの顔に輝いていた光と、そこに掛けられた覆いについて語っています。本日はそこを合わせて読んでいきたいと思います。
 パウロは7節で、モーセの顔の光についてこう語っています。「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば」。パウロはここで、モーセが負っていた務めを「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」だったと言っています。十戒の刻まれた石の板を手にしてモーセが山を降りて来たことを受けてそのように語っているのです。その石に刻まれた文字、つまり十戒は、シナイ山において主なる神がイスラエルの民と結んで下さった契約の印です。その契約は「旧約」、つまり古い契約です。モーセは古い契約をイスラエルにもたらした人であり、それに仕えた人なのです。他方パウロが語り、宣べ伝えているのは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様が新たに結んで下さった新しい契約、「新約」です。7節の前の6節でパウロは「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」と言っています。私たちは古い契約ではなく新しい契約に仕えている、それは「文字ではなく霊に仕え」ているのだと言っています。古い契約はあの石に刻まれた文字、十戒を中心とする律法に基づく契約でした。それに対してキリストによる新しい契約は、霊、つまり聖霊の力と働きによって私たちが新しくされるという契約です。両者の間には、「文字は殺しますが、霊は生かします」という違いがあるのです。霊による新しい契約によってこそ人間は生かされるのです。モーセの顔の光もそういう比較の中で見つめられているわけで、「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」を負っていたモーセの顔でさえ神の栄光に輝き、人々が近づけないほどだったとすれば、8節「霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか」、と言っているのです。9節も同じ比較です。「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています」。律法に基づく古い契約は人を罪に定めることしかできなかった、つまり律法を十分に守り行うことのできる者はおらず、人間は皆罪人であることを明らかにすることしかできなかったのです。しかしキリストによる新しい契約は人を義とする、つまりキリストの十字架の死による罪の赦しを与え、救いにあずからせるのです。そちらの方がはるかに栄光ある務めだ、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えている私たちはモーセよりもはるかに栄光に満ちた務めを与えられているのだ、とパウロは言っているのです。

消え去るべきもの
 このことを前提として、12節以下でパウロは、モーセの顔の覆いについて語っています。13節に「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」とあります。モーセが顔に覆いを掛けたのは、「消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして」だった。そこで前提となっているのは、モーセの顔に輝いていた栄光は「消え去るべきもの」だったということです。その光は次第に消え去っていく、そのことを隠すためにあの覆いは掛けられたのだというのです。モーセの顔の光が次第に消え去ったことは旧約聖書の記述からも分かります。つまりモーセの顔が光を放っていたことを語っているのは本日の箇所だけであって、この後の所にはそのことは全く触れられていないのです。出エジプト記の最後の40章の34節以下においては、主の栄光が臨在の幕屋に満ちていたので、モーセはその中に入ることができなかった、と語られています。そこにはもう、モーセの顔が栄光に輝いていたことなど忘れ去られているようです。そのようにこの顔の光は束の間のことだったわけです。しかしパウロはそこにさらに、古い契約から新しい契約へという壮大な流れを見つめています。つまり、律法に基づく古い契約はやがて消え去るべきもの、キリストによる新しい契約によって取って替わられるべきものだった、ということです。モーセの顔に掛けられた覆いは、古い契約が消え去り、新しい契約が結ばれることを指し示していた、それがパウロの解釈なのです。

顔の覆いを除かれて
 そのように捉えることによってパウロは、このモーセの顔の覆いが今もなお掛けられていることを見つめています。14節に「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです」とあります。今なお、古い契約に留まっている人々がいる、それは律法を守ることによる救いを主張しているユダヤ人たちです。その人々においては、この顔の覆いが掛かったままになっているのです。その場合の顔の覆いは、光を放つ顔を隠すためのものではなくて、目を塞いで物事がよく見えなくするような覆いです。古い契約に留まっている人々は、目に覆いがかけられていて、よく見えていないのです。神様が既に独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活によって罪の赦しを実現し、律法を守ることによってではなく、この主イエスを信じることによって神の民として下さる新しい契約を打ち立てて下さっているのに、それが見えておらず、いつまでも古い契約、律法に基づく契約に固執しているのです。そういう意味で、彼らの顔には覆いが掛かったままです。この覆いを取り除かれることこそが私たちの救いです。そしてそれは、14節の後半に語られているように、「キリストにおいて取り除かれるもの」なのです。神様が遣わして下さった独り子イエス・キリストが、十字架の死によって私たちの罪を全て背負って下さり、その赦しを実現して下さり、復活によって神の子とされて生きる新しい命を打ち立てて下さった、そのキリストを見つめ、信じ、キリストと共に生きる者となることによってこそ、私たちは顔の覆いを除かれて、神様の救いの恵みをはっきりと見つめることができるのです。そのことをパウロは16節で「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と言い表しています。これは、モーセが、主の御前においては顔の覆いをはずして、顔と顔とを合わせて語っていた、ということを受けています。主のみ前では顔の覆いはいらないのです。しかしそれは旧約聖書においては特別なことでした。つまり本来人間は神様と顔と顔とを合わせて合ったり語ったりすることはできないのです。それは恐ろしいことであり、そんなことをしたら死んでしまうのです。その中で、モーセだけは特別に、主の御前に出ることを許された人だったのです。33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とありました。それはモーセだけに与えられた特別な恵みだったのです。しかしパウロは、この恵みが主イエス・キリストによって、私たち皆に与えられていることを語っています。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」という言葉はそのことを語っています。その「主」とは主イエス・キリストのことであり、その主イエスとの出会いと交わりを与えてくれるのが聖霊の働きです。ですから17節には、「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります」と言われています。主の方に向き直る、それは聖霊のお働きによって、主イエス・キリストの方へと向き直り、主イエスによる救いを信じる者となることです。それが「悔い改める」ことであり、信仰者になることです。そのようにして私たちは顔の覆いを除かれて、主イエスによって神様が与えて下さっている罪の赦しの恵みを、そして私たちをキリストを頭とするご自分の民として招き、迎えて下さっていることをはっきりと見つめることができるのです。
 そこには自由があります。掟や戒律によって縛られて、どれだけそれを守れるか、そのテストにおいて何点取れるか、ということをいつも気にしているような、そしてお互いの点数を人と比べあい、どっちが良い点を取れたかで一喜一憂するような不自由な歩みから解放されるのです。神様が主イエスによって私たちの罪を赦して下さり、新しく生かして下さっている、その恵みを、神様との交わりの中で、神様と語り合いつついつも新たにいただいて、感謝しつつ、のびのびと自由に生きることができるのです。そのような歩みにおいてこそ私たちは、この世の何物にも捕われずに大胆に自由に、しかし身勝手にではなくてみ心に従って神様と隣人を愛して生きることができます。この、主の霊による自由に生きる私たちの顔は、神様の栄光の光を反射して輝いていくのです。そして神様の恵みのみ言葉を語っていくことができるのです。

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