「自由の道しるべ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章3節
・ 新約聖書: ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節
・ 讃美歌 : 7、510
十戒の前提
本日より、私が夕礼拝の説教を担当する日には、出エジプト記第20章に記されている十戒を一つずつ取り上げていきたいと思います。本日は第一の戒め、即ち3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。前回、8月22日に、この十戒の全体をとりあげてお話をしました。その時に申しましたが、十戒を読む時には、2節のみ言葉を前提としていつも頭に置いておかなければなりません。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ここには、主なる神様とイスラエルの民との間の特別な関係が示されています。主とイスラエルの間には、「わたしとあなた」という関係、交わりがあるのです。その関係は、主なる神様が、奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民をエジプトから導き出し、救い出して下さった、という救いのみ業によるものです。私たちは出エジプト記においてこれまでそのみ業を見てきました。主なる神様がモーセを遣わして数々の奇跡を行い、イスラエルの民をエジプトから解放して下さったこと。荒れ野の旅を導き、天からのパンによって養い、また岩から水を出して渇きを癒し、襲ってくる敵に勝利させて下さったこと。そして今、神の山ホレブ、別名シナイ山において、彼らと契約を結んで下さろうとしていることを見てきたのです。主なる神様はこのようにしてイスラエルの民との関係を築いてきて下さいました。十戒は、これらの神様のみ業を前提として、イスラエルの民に与えられたみ言葉です。主なる神様によって救われ、導かれ、養われている民が、その神様の恵みの中でどのように歩むべきかを語っているのです。十戒のどの戒めを読む時にも、この2節が前提となっていることを忘れてはならないのです。
改革派教会の伝統
朝の礼拝の前に行われている求道者会において、「ハイデルベルク信仰問答」を学んでいますが、その中にも十戒についての説明があります。そこを読みますと、第一の戒めの中に、この2節が含められています。2、3節が第一戒とされているのです。実はこれが、私たちが受け継いでいる改革派教会の伝統における十戒の数え方です。ルター派教会においては、第一戒は3節のみとなっています。つまり2節は十戒の外に置かれているのです。2節を十戒の中に位置づけるか、外に置くかによって、十戒の理解の仕方はかなり違って来ます。2節が外に置かれた場合、十戒は先ほどの前提から離れて普遍的な神様の「掟、戒め」という性格を持つようになります。これを守ることができない者は罪人である、ということになるのです。ルター派においては、旧約聖書の律法はそういう役割、つまり人間に自分の罪を自覚させる、という役割を果たすものと考えられています。十戒を中心とする律法によって人間は自分の罪を示され、その罪の赦しという救いが新約聖書における主イエス・キリストの福音によって与えられるのです。けれども、ハイデルベルク信仰問答などを生み出した改革派教会においては、十戒をむしろ、主イエス・キリストによる救いにあずかった信仰者が、その救いに感謝してどう生きるかを教える道しるべとして位置づけられています。ですからハイデルベルク信仰問答において十戒は第三部「感謝について」の中で語られているのです。このような十戒の理解を可能にする根拠、土台が2節です。改革派は、2節を十戒の中に位置づけることによって、十戒を、救われた者の感謝の生活の指針としているのです。そしてそれこそが、出エジプト記の文脈に即した十戒の受け止め方だと言えるでしょう。
自由の道しるべ
十戒について解説した本は沢山ありますが、中でも大変優れており、お勧めしたいのは、ヤン・ミリチ・ロッホマンというチェコスロバキア生まれの神学者による『自由の道しるべ』という本です。この本の序言で彼は、自分が小さい頃から祖父母や両親のもとで十戒を暗唱しつつ育ったことを語り、そしてこう言っています。「それは、子どもの頃から厳格な律法に身をさらしているというような、強圧的な印象を与えてきたのだろうか。いや、改革派の伝統に立っていた祖父母と両親の家庭の雰囲気は、私にはそれとは全く違った可能性を開いてくれた。それは、創造の良き賜物と、家族・隣り近所・教会における人間同士の交わりと、そしてまた―全く自明なこととして―神の良き戒めとを、実生活に即して喜んで受け入れるという雰囲気だった」。これが、改革派の伝統における十戒の捉え方なのです。そして彼はこうも言っています。「まさに私は生まれながらにして、新約聖書の『良き音ずれ』が初めてそうだというのではなく、すでに十戒が解放の使信であり、『福音のもう一つの形態』であることを体験したのである」。主イエス・キリストによって初めて福音、つまり良い知らせ、救いの知らせがもたらされたのではなくて、十戒が既に福音のもう一つの形態であり、解放の使信、つまり自由を告げる言葉である。ここに、改革派教会の信仰の伝統の最も良いものがあると言えます。この伝統を受け継いでいる私たちは、十戒を、ロッホマンの解説書のタイトルのように、「自由の道しるべ」として受け止めることができるのです。
信仰の節操
さて第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ですが、これはまさに2節とつなげて読むことによってこそ意味がはっきりする戒めです。つまり、他のどの神でもない、わたしが、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。だからあなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない、ということです。第一の戒めを正しく理解するためには、このことを捉えることが肝心です。つまりこの第一の戒めは、この世界に神様はただお一人である、ということを語っているのではないのです。そう言うとまた誤解を招くかもしれません。聖書は全体として、まことの神は主なる神お一人であることを語っています。つまり、聖書の信仰はいわゆる一神教、ただ一人の神を信じる信仰です。けれども、十戒の第一戒がそのことを語っているのかというと、そうではない。この戒めが語っているのは、神はただ一人だ、ということではなくて、わたし、つまり主なる神によってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、救われたイスラエルの民が礼拝し、仕える神は、わたし、主なる神以外にないはずだ、ということです。つまり第一の戒めは、主以外に神があるかないか、神は一人か複数いるのか、ということを問題にしてはいないのです。他の神があろうとなかろうと、また他の民がどんな神を拝んでいようと、イスラエルの民は、主なる神様のみを礼拝し、仕える。そのように、主なる神様に忠誠を尽くすこと、あるいは、主なる神様に対する信仰の節操を守ることを教え、求めているのです。
神としてはならない
ところで、第一の戒めは、以前の口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。こちらの方が、「わたしをおいてほかに神があってはならない」よりも、日本語としてはすっきりしているように感じます。「あってはならない」よりも「してはならない」の方が、意味も明瞭だと思うのです。そういう意味で口語訳の方が分かりやすいのですけれども、この口語訳の言葉には大きな問題があります。それは、私たちがどの神様を自分の神と「する」か、その選択が私たちに委ねられているような言い方になっている、ということです。主なる神様のほかになにものをも神としない、とは、他のものを神様として選ばない、ということであり、主なる神様をこそ選んで自分の神とする、ということになります。そうすると、人間が選んで神とすることによってその神がその人の神となる、ということになっていくのです。しかし、主なる神様とイスラエルの民の関係は、イスラエルが主なる神様を選んで、「あなたを私たちの神とします」などというものではありません。それは逆です。主なる神様がイスラエルを選び、ご自分の民として下さり、彼らの神となって下さったのです。この恵みに応えることによってこそ、イスラエルは神様の民として歩むことができるのです。「神とする」という言い方は神様とその民とのこの基本的な関係を逆転させてしまうという根本的な問題を含んでいます。それを避けるために新共同訳は苦心の末、「わたしをおいてほかに神があってはならない」としたのでしょう。しかしその結果今度は、この戒めが何を命じ、何を禁じているのかがはっきりしない、という問題が生じています。語られているのは要するに、主なる神様以外のものを神として礼拝したり、仕えたりしてはならない、ということです。ですから先ほどの根本的問題をしっかりわきまえてさえいれば、「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という口語訳の方が言わんとしていることがはっきり示されているとも言えます。第一の戒めの翻訳はそういう意味でなかなか難しいのです。
あり得ないこと
もう一つ、言葉の意味について指摘しておかなければならないことがあります。「わたしをおいてほかに神があってはならない」「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」、これはいずれも、「~してはならない」という禁止の命令です。十戒は、第四と第五の戒め以外は皆禁止の命令です。しかしこの「~してはならない」と訳されている言葉の形は、禁止の命令として通常用いられる形ではなくて、むしろ未来へ向けての単純な否定文なのです。つまり単純に訳せば、「あなたは~することはない」という文章なのです。第一戒に即して言えば、「あなたには、わたしをおいてほかに神はない」ということです。このような言い方の意味も、2節とのつながりの中で見えてきます。つまり、わたしこそ、あなたをエジプトの奴隷状態から救い、導き出した神なのだから、あなたには、わたしをおいてほかに神はない、あるはずがない、あなたが、わたし以外のものを神とすることなどあり得ない、ということです。つまりこの第一戒を始めとして十戒において繰り返されて行く「~してはならない」というみ言葉は、これこれのことをしてはいけない、という「禁止」と言うよりも、主なる神様がエジプトの奴隷状態から救い出して下さった、その恵みの中を生きるイスラエルの民においてはあり得ないこと、あってはならないこと、そのようなことがあれば、主なる神とイスラエルの民の関係が根本的に損なわれ、失われるようなことを語っているのです。第一の戒めで語られているのは、そのような、あり得ない、あってはならないこと、の筆頭です。それが、主なる神様以外のものを神として拝み、仕えるようになることです。それは、彼らを奴隷の苦しみから救い出して下さった主なる神様に対する裏切りであり、忘恩の振る舞いです。そしてそれは主が彼らと結ぼうとしておられる契約、つまり主なる神様がイスラエルの神となり、イスラエルはこの神の民となる、という特別な関係を損ない、破壊することです。この関係は結婚の関係になぞらえられます。夫となり妻となるという契約を結んで歩んでいる者が、他の人と関係を持つなら、それは裏切りであり、夫婦の関係を破壊することです。神様とその民の間においても、夫婦の場合と同じように、節操を守ることが必要なのです。
主の顔の前で
翻訳について、さらにもう一つのことを指摘しておきたいと思います。3節の原文にあって、新共同訳にも、口語訳にも訳されていない言葉があるのです。その言葉はさらに前の文語訳聖書には出てきていました。文語訳でこの3節はこうなっていました。「汝我面(わがかほ)の前に我の外(ほか)何物をも神とすべからず」。お気づきのようにここには、「私の顔の前に」という言葉があるのです。原文にあるこの言葉が、口語訳と新共同訳にはないように見えます。しかし実は、新共同訳の「わたしをおいて」がこの言葉の訳です。口語訳においては、「わたしのほかに」の「わたしの」がそれに当ります。これに対応する言葉は原文にはないのであって、つまり直訳すれば「私の顔の前に」となる言葉が「わたしをおいて」とか「わたしの」と訳されているのです。ですから文語訳が「汝我面(わがかほ)の前に我の外(ほか)」と訳したのは、同じ言葉を二度訳していると言えるのです。ちょっとややこしい話になりましたが、要するに大事なことはこの第一戒において、主なる神様は、「私の顔の前に」と言っておられるということです。それは、あなたがたは私の顔の前を歩んでいるのだし歩むべき者だ、ということです。顔は「目」と言い換えることができます。主なる神様の目の前を、主なる神様のまなざしの中で、あなたがたは生きている。それが、主なる神様によってエジプトから救い出されたイスラエルの民の歩みです。大いなる恵みによって彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さった神様は、常に彼らにみ顔を向け、見つめておられるのです。その神様の愛のまなざしの中を、彼らもまた主なる神様に顔を向け、神様を見つめ、その救いに感謝し、神様を愛して生きる、それがイスラエルの民に求められていることです。そのように生きることこそが、神様が与えて下さった解放、自由、救いの中を生きることなのです。
奴隷の家に戻ろうとする民
他の神々に顔を向け、他の神々を礼拝するようになることは、この主なる神様から顔を背けてしまうことです。それは、主なる神様の愛を拒むことであり、主が与えて下さった解放、自由からわが身を引き離してしまうことです。つまりそれは、あってはならない裏切り行為であるだけでなく、せっかく与えられた自由を放棄することなのです。イスラエルの民は、これまでにもたびたびそういう危機に陥りました。せっかくエジプトを脱出しても、追っ手が迫って来ると、ここで殺されるくらいならエジプトで奴隷だった方がマシだったと言い出しました。荒れ野で食べ物や水がなくなってしまった時にも、エジプトにいた時には腹いっぱい食べていたのに、とモーセに詰め寄りました。そのようにして彼らは、たびたび、エジプトに帰ろうとしたのです。そこから導き出されたはずの奴隷の家に戻ろうとしたのです。主なる神様によって救われ、自由を与えられたのに、その主のみ顔の前を歩むことをやめて、奴隷の家に戻ろうとする、そういう神の民の姿を聖書は描いているのです。
自由を与える神
なぜそのようなことが起るのでしょうか。それは、神様が与えて下さる解放、自由に生きることは、決して楽なことではないからです。食べ物も水もない荒れ野を旅していくようなことだからです。自由というのはそういうものです。何ものにも束縛されないというのは、同時に、何の保証もなく、絶えず不安がつきまとう歩みなのです。それは決してお気楽なことではない。奴隷状態の方がよっぽど楽だとも言えるのです。自由でない代りに、言われたことをしていればよいのだし、責任を取る必要もないのですから。だから人間の心の中には、奴隷の家であるエジプトにあこがれる思いがあります。この世の神々、偶像の神々は、このエジプトへのあこがれの思いを満たすのです。それらの神々は、人間の欲望をかなえてくれます。幸福をもたらし、禍を遠ざける、という御利益を約束します。しかしその甘い言葉につられて行き着く先は奴隷の家エジプトなのです。この世の神々が約束する御利益は実は幻想でしかありません。イスラエルの民も、16章3節で、エジプトにいた時には、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに、と言っていました。しかしそれは事実ではありません。彼らは、食うや食わずの生活を強いられている奴隷だったのです。肉の鍋を求めてエジプトに帰るならば、結局もとの奴隷の苦しみに戻るだけなのです。同じように、御利益を約束する神々に顔を向けていくことによって、人間は奴隷となっていくのです。そのように私たちを奴隷にしようとしているのは、いわゆる神々だけではありません。この社会において崇められている様々なもの、お金、地位や名誉、若さ、美貌、健康、それら全てが私たちの周りにいる「他の神々」です。私たちはそれらのものに顔を向け、そこに幸せがあると思って求めていくことの中で、それらものの奴隷となるのです。しかし主なる神様だけは、それとは全く違う関係を私たちとの間に結ぼうとしておられます。主なる神様は、私たちを奴隷にするのではなく、むしろこの世の様々な神々の奴隷となっている私たちを解放し、自由を与えようとなさるのです。その自由は、先ほど申しましたように決して楽なものではありません。何もない荒れ野を旅していくような、困難と苦しみが伴うものです。その旅路において主なる神様は私たちを、その日ごとに与えて下さる天からのパンであるマナによって養って下さるのです。それは私たちが、この世の何ものにも依り頼まずに、ただ主なる神様のみに依り頼み、主なる神様こそが私たちに必要なものを与えて下さることを信じて、そのみ顔の前で、主との交わりに生きていくためです。そこにこそ、この世の何ものにも支配されない本当の自由があるのです。主なる神様は私たちにその本当の自由を与えようとしておられるのです。
神の愛のまなざしの中で
イスラエルの民は、主なる神様によってエジプトの奴隷状態からの解放の恵みを与えられました。この救いを与えて下さった主のみ顔の前を歩むことによってこそ、彼らは自由に生きることができたのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めは、彼らがこの自由を失うことなく、そこにしっかりと留まるために与えられた道しるべでした。主なる神様は今、私たちにも、同じ解放の恵みを、救いを与えて下さっています。私たちの解放と救いは、神様の独り子イエス・キリストによって与えられています。主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、私たちは全ての罪を赦され、神の子として新しく生きる道を開かれたのです。この救いのみ業によって私たちは、独り子の命をすら与えて下さる神様の真実な愛の下に置かれています。この神様の愛こそが、私たちに本当の自由を与えます。私たちの周りには、エジプトの肉鍋である御利益を約束するこの世の神々が取り巻いています。また、私たちの目を奪い、ここにこそ幸せが、人生の充実があるのではないかと思わせるものが数多くあります。しかし、その中のいったい何が、独り子の命をすら与えて下さるほどに私たちを愛してくれているでしょうか。私たちの目を奪い、心を虜にし、エジプトの肉鍋を約束するものはどれも、結局私たちを奴隷とするものなのです。独り子イエス・キリストの命を与えて下さった主なる神様のみが、私たちを、奴隷とするのではなく、本当に自由な者として愛して下さっています。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という第一の戒めは、この主イエス・キリストにおける神様の愛のもとにしっかり留まり、神様のこの愛のまなざしの中で、私たちも神様にしっかりと顔を向けて生きるようにとの勧めです。そこにこそ、この世の何ものにも支配されない本当の自由があるのです。それゆえにこの戒めは私たちにとっても、神様が与えて下さった自由を失わずに生きるための道しるべです。本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、ガラテヤの信徒への手紙第5章1節を選びました。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。第一の戒めはこのみ言葉と同じことを私たちに告げているのです。