夕礼拝

十の言葉

「十の言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章1-21節
・ 新約聖書: ローマの信徒の手紙 第3章21-31節
・ 讃美歌 : 204、357

出エジプト記のクライマックス
 旧約聖書出エジプト記の第20章に入ります。本日の第20章には、イスラエルの民が、主なる神様から、いわゆる十戒を与えられたことが語られています。このことが、出エジプト記のクライマックスです。これまでの、エジプトからの解放、脱出の血湧き肉踊る物語は、この十戒を与えられるという出来事に向けての言わば備えだったのです。この出エジプト記を題材にした「十戒」という映画が昔ありました。モーセの生い立ちや、兄弟のように育ったエジプト王ファラオとの確執、逃亡先での主なる神様との出会いとエジプトへの派遣、そして神がエジプトに下された様々な災いによって遂にエジプトを出ることができたこと、しかし心変わりしたファラオの軍勢が追ってくる中、海の水が左右に壁のようにそそり立ち、その間の道を通って向こう岸に渡ることができた葦の海の奇跡などが描かれていました。この映画の最後は、十戒を授かることを中心としたシナイ山における場面となっています。ドラマチックな迫力を追い求めるなら、葦の海の奇跡をクライマックスとして、「エジプト脱出」という題にでもした方がよかったのかもしれません。日本人が作るなら多分そうしただろうと思います。しかしあの映画を作った人は、タイトルを「十戒」とし、十戒を与えられることを最後に描いたのです。それはその人が出エジプト記を、単なる奴隷解放、囚われの地からの脱出の冒険物語としてではなく、イスラエルの民と主なる神様との関係を描いている信仰の書として正しく理解していたということです。十戒が与えられたことによって、主なる神様とイスラエルの民との間に新しい関係が生まれ、新しい時代が始まったことが、出エジプト記のクライマックスなのです。

律法
 十戒は、神様からイスラエルの民に与えられた「律法」と呼ばれる掟、戒めの中心です。これ以後イスラエルの民は、十戒を中心とする律法を持って生きる民となりました。それが、神様とイスラエルの民の間の新しい関係の具体的な姿です。その律法が、出エジプト記のこの後の所、また次のレビ記の全体、民数記の一部、そして申命記に語られていきます。ですからこの後のところは、物語の部分よりも掟、律法の部分が多くなっていくのです。そして後に旧約聖書が今日の形に整えられていく中で、最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はまとめて「律法」と呼ばれるようになりました。これらの五つの書物が語っていることの中心に、主なる神様がイスラエルの民に与えた律法があると理解されたのです。ですから出エジプト記のこれまでの所のみならず、その前の創世記の記述も、律法が与えられるための備えであったと言うことができるのです。その律法の中心が十戒です。ですから本日の第20章は、出エジプト記のクライマックスであるだけでなく、創世記から申命記にかけての五つの書物全体のクライマックスであると言うこともできるのです。
 このように十戒は旧約聖書の第一の部分の中心という大変重要な意味を持っています。その重要さは、一つ一つの戒めの内容の重要さと言うよりもむしろ、十戒が全体としてどのような性格を持っており、どのような役割を果しているのか、ということによる重要さです。そこで本日は、十戒を全体として捉え、それがイスラエルの民の歴史においてどのような役割を果たしたのかを考えていきたいと思います。その上で、次回から、一つ一つの戒めの内容を取り上げていきます。個々の戒めの意味も、十戒の全体としての性格や役割を知ることの中でこそ正しく理解されていくのです。

契約
 さて、先ほど、十戒が与えられたことによって、主なる神様とイスラエルの民との間に新しい関係が生まれ、新しい時代が始まった、と申しました。その新しい関係、新しい時代とはどのようなものだったのでしょうか。実は、神様とのその新しい関係、新しい時代は、十戒によって生じたものではありません。十戒がその新しい関係や新しい時代をもたらしたのではなくて、神様との新しい関係、新しい時代が始まったことのしるしとして、十戒が与えられたのです。それでは、神様とイスラエルの民との間の新しい関係、新しい時代をもたらしたものは何だったのでしょうか。それは、主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さった、ということでした。このことについては、先月、19章を読んだ時にお話ししました。19章以下には、シナイ山における出来事が語られていきますが、その中心は、主なる神様とイスラエルの民の契約なのです。先月の繰り返しになりますが、19章3~6節を読んでおきたいと思います。「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である』」。主なる神様は、イスラエルの民をエジプトから解放し、ここシナイ山へと導いて下さいました。それは彼らと契約を結ぶためであり、それによって彼らイスラエルが、主なる神様の宝の民となり、「祭司の王国、聖なる国民」となるためだったのです。
 このみ言葉に、主なる神様がイスラエルの民と結んで下さる契約の基本的性格が示されています。契約というと私たちは普通、人間どうしあるいは企業どうしの、売買などの取り引きの契約のことを思い浮かべます。そういうイメージで考えていると、神様と人間が契約を結ぶというのは何かそぐわない、おかしなことのようにも感じます。けれどもこの契約は、神様と民とが何かの取り引きをするということではなくて、神様がイスラエルの民を、ここに語られているように、「すべての民の間にあってわたしの宝」として下さるということなのです。つまり神様がイスラエルの民を、他の民とは区別して、ご自分のもの、神様の民として下さるのです。そのことによってイスラエルは、神様に選ばれた民、神の民となるのです。主なる神様がイスラエルの神となり、イスラエルが主なる神の民となる、という特別な関係が結ばれるのです。これこそが、先ほど申しました、主なる神様とイスラエルの民との間に新しい関係が生まれ、新しい時代が始まった、ということなのです。

選ばれた民
 イスラエルが神様に選ばれた民となると申しました。「選ばれた民、選民」というと、何か鼻持ちならない優越感、エリート意識を持っている人々というイメージがあるかもしれません。それについては、申命記の第7章6~8節を読んでおきたいと思います。自分たちは神様によって選ばれた民である、ということをイスラエルの人々がどのように受け止めたのかがここに語られています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。このように、選ばれた民であることは、他の民にたいして優越感を持ち、自分たちは優れた民であると誇るようなこととは無縁なことです。「他のどの民よりも貧弱であった」自分たちを、主なる神様がただ愛のゆえに選び、救い出し、ご自分の民として下さったのです。それはただ感謝すべきことであって、誇るようなことでは全くありません。後にイスラエルの人々は、このことを忘れ、選ばれた民であることを誇るようになり、他の民、異邦人を軽蔑するようになりました。それはこの申命記の言葉を忘れ、神様の選びの意味を全く間違って理解するようになってしまった結果なのです。

祭司の王国
 さて、神様の選びの恵みによって神の民、宝の民とされることによって、イスラエルには大切な使命が与えられます。そのことが先ほど読んだ19章の6節に語られていました。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」というのがそれです。イスラエルの民は、祭司の王国となるのです。祭司とは、神様と人々との間の仲立ちをする者です。罪人であり、神様のみ前に出ることができない人間のために、代わって神様のみ前に出て祈り、とりなしをし、罪の赦しを願い、また神様のみ言葉を人々に伝えるのです。そういう役割を果たす人がイスラエルの民の中にも立てられましたが、ここで見つめられているのは、イスラエルの民全体がその祭司となる、ということです。誰のための祭司でしょうか。それは神様によって造られ、命を与えられている世界の全ての人々のためです。5節の最後の行に「世界はすべてわたしのものである」とあります。全て神様のものであるこの世界に住む全ての人々は神様のものです。その人々のための祭司となり、とりなしをするために、イスラエルの民は特別に選ばれ、神様の民とされたのです。それが「聖なる国民」の意味です。「聖なる」というのは、人間の基準で清く正しいという意味ではなくて、神様のもの、という意味です。神様が特別に選び、ご自分のものとして下さった聖なる人々が祭司となるのです。同じようにイスラエルは、神様によって特別に選ばれ、神様のものとされた「聖なる民」として、全ての民のための祭司の務めを果すのです。主なる神様が結んで下さった契約によって、イスラエルの民はこの祭司の務め、使命へと召され、任命されたのです。

倫理道徳の教えではなく
 主なる神様はイスラエルの民と、このような契約を結んで下さいました。その契約と共に与えられたのが、十戒を中心とする律法です。ですから私たちは、十戒や律法を読む時、常にこの契約を前提として意識していなければなりません。そうしないと、十戒も、また他の律法も、正しく理解することができなくなり、間違った読み方に陥るのです。その間違った読み方の代表的なものは、十戒を、世間一般の倫理的道徳的な教えの一種として読んでしまうということです。それは言い換えれば、主なる神様と関係を持つことなしに、神様の民として生きることなしに、自分が自分の力で生きていくための倫理的指針として十戒を読んでしまうということです。十戒の中には、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人に関して偽証してはならない」など、世間一般の道徳的教えと共通するところがあるのでそういう間違いが生じやすいのですが、しかし表面的には同じような教えであっても、十戒の前提にはあの神様が与えて下さった契約の恵みがあります。神様との契約に生きることなしに、十戒を道徳の教えとして読んでいたのでは、それを正しく理解することはできないのです。

「わたし」と「あなた」
 十戒が道徳の教えと違うことをはっきりと示しているのが、この20章の2節の言葉です。3節から第一の戒めが始まるわけですが、その前にこの2節があるのです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。主なる神様はイスラエルの民にこのように語りかけ、そして3節以下の十戒を与えておられるのです。「わたし」と「あなた」という言葉に先ず注目したいと思います。主なる神様はイスラエルの民を「あなた」と呼び、「わたしはあなたの神だ」と語りかけておられます。それは「あなたはわたしの民だ」ということでもあります。主なる神様とイスラエルの民との間には、この「わたし」と「あなた」という特別な関係が成り立っているのです。それが契約の関係です。そしてその関係は、主なる神様が、イスラエルの人々を、「エジプトの国、奴隷の家から導き出した」という出来事によって築かれたものです。奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神様が導き出し、解放して下さったのです。「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」という契約の関係は、言葉だけで成り立っているのではありません。出エジプト記のこれまでの所で私たちが見てきたように、主なる神様はモーセを遣わして数々の奇跡を行わせ、過越の出来事においてエジプトの全ての初子を撃ち殺し、また葦の海の中に道を開いて向こう岸に渡らせ、追って来たエジプトの戦車軍団の上に水を返しておぼれさせる、という大いなる具体的なみ業をもって、イスラエルの民を解放し、救って下さったのです。「わたしは主、あなたの神」という語りかけは、この救いのみ業によって裏付けられているのです。十戒は、この主なる神様による救いを受け、奴隷の家から解放された者に与えられたみ言葉です。主なる神様によるこの解放、救いの恵みにあずかり、感謝し、その神様の民として生きることの中でこそ、十戒は意味を持つのです。

十の言葉
 このように、十戒は、神様がその救いのみ業によって打ち立てて下さった契約の恵みにあずかり、神様の民とされた者たちに対して語られたみ言葉です。ですからこれを掟や規則のように理解することは正しくありません。掟や規則は、お互いがそれを守ることによって関係を築くためのものです。法律や規則を守ることは、人間どうしの社会を築くために必要です。私たちは、神様と人間の関係も、同じように神様の掟や規則を守ることによって築かれると思っていることが多いのではないでしょうか。しかし十戒は、これを守ることによって神様との関係を築くために与えられた掟ではありません。関係は、神様が既に救いのみ業によって、あるいは先程申しました選びの恵みによって築いて下さっているのです。イスラエルの民は、神様が築き与えて下さった関係を受け止めて、自分もまたその関係、主なる神様との交わりに生きていくこと、その関係を維持していくことを求められているのです。そのために与えられたのが十戒です。つまり十戒は、これを守ることによって神様の民となるための掟ではなくて、契約の恵みによって神の民とされた人々が、その交わりに生きていくために与えられた導きの言葉なのです。十戒のこの役割を私たちはしっかりと理解しておかなければなりません。そうしないと、十戒を、信仰者の守るべき掟として捉えてしまい、これを守れなければ信仰者として失格だ、という脅迫観念に陥り、落ち込んだり、逆に反発したり、あるいは自分を誇り人を裁いたりということが起っていくのです。そういう意味では、「十戒」という言い方はよくないのかもしれません。「十戒」は文字通り「十の戒め」という意味です。しかし聖書は「十の戒め」という言い方を基本的にしていません。例えば出エジプト記の34章28節に、十戒のことが「十(とお)の戒めからなる契約の言葉」と言われていますが、これは原文を直訳すると「十の言葉からなる契約の言葉」となるのです。つまり聖書は十戒を「十の言葉」と言っています。そのことは本日の20章もそうで、1節に「神はこれらすべての言葉を告げられた」とあります。「これらすべての戒めを」ではないのです。十戒は、戒めや掟と言うよりも、契約の恵みに基づく神様のみ言葉、ご自分の民への語りかけです。イスラエルの民は、十戒を通して、自分たちを選び、宝の民として下さった神様からの語りかけを受け、それに応答しつつ歩んでいったのです。

導きの言葉
 十の言葉である十戒において神様がどのように語りかけておられるのか、それはこれから一つ一つの戒め、と言うよりみ言葉を見ていくことによって考えていきたいと思います。しかし全体として言えることは、この十の言葉によって神様は、イスラエルの民に、エジプトにおける奴隷状態からの解放の恵みによって神様が打ち立てた契約の関係、主がイスラエルの神となり、イスラエルは主の民となる、という特別な交わりを、イスラエルの民もまたしっかりと受け止め、この契約のパートナーとして歩んでいって欲しい、という願いと期待とを語っておられる、ということです。神様は、先ほど見たように、ただ愛によって、貧弱なイスラエルを選び、救いを与え、ご自分の宝の民として下さいました。イスラエルの民との関係を神様が先ず築いて下さったのです。しかし契約とは、双方がそれに同意し、約束を交わし、それに基づいて責任をもって歩んでいくことによってこそ本当に成り立つものです。主なる神様とイスラエルの民との契約もそれは同じです。契約の恵みを与えて下さった神様は、イスラエルの民にも、その契約を自覚的に受け止め、責任をもって神様との交わりに生きることを求めておられるのです。十戒はそのための導きの言葉として与えられています。十戒を誠実に実行していくことによってこそ、イスラエルは、聖なる国民となり、祭司の王国としての使命を果していくことができるのです。

自由の言葉
 また、十戒は、イスラエルの民が、エジプトの国、奴隷の家から導き出し、自由を与えて下さった神様のもとで、その神様の民として生きるための導きの言葉です。つまりそれはイスラエルが自由な民として生きるために与えられている自由の言葉でもあるのです。主なる神様との契約に生き、神様の民として歩むところにこそ、この世の、人間のいかなる力にも支配されない、本当の自由があります。十戒は、私たちが本当に自由な者として生きるとはどういうことなのかを教え、また私たちを本当に自由な者として生かすために与えられている神様のみ言葉なのです。次回から、十戒を一つずつ味わうことによって、神様が与えて下さる本当の自由とは何かを学び、私たちも、その自由に生きる者とされていきたいと思っております。

旧約と新約を貫いて
 さて、十戒は、主なる神様がシナイ山においてイスラエルの民と結んで下さった旧い契約において与えられたものです。私たちは、神様が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えて下さった新しい契約に生きている者です。私たちと神様との関係は、新しい契約に基づくものなのです。その私たちにとって、旧い契約、旧約と結び付いた十戒はどのような意味を持つのでしょうか。旧い契約も新しい契約も「契約」です。契約によって築かれる関係の本質は、どちらにおいても変わることがありません。その本質とは、双方が約束をし、その約束を誠実に守ることによって成り立ち、維持される関係である、ということです。主なる神様はご自分の民との間に、常にそういう関係を築こうとしておられるのです。イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さったのも、イスラエルの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束を神様が誠実に守って下さったということでもありました。そのようにご自分の約束に誠実であられる神様との契約に生きる者には、同じ誠実さをもって神様との交わりに生きることが求められるのです。十戒は、この、神様との交わりに生きる民の基本的なあり方を教えているみ言葉です。それゆえにこれは、旧約と新約を貫いて、神様の民として生きる者全てに与えられている導きの言葉なのです。私たちは、神様が主イエスによって築いて下さった関係を大事にして、神様の恵みと愛に応えて、責任をもって神様と共に生きるために、十戒を大切にしていくのです。
 ローマの信徒への手紙第3章21節以下で、パウロは、今やキリストによる神の義、ただキリストを信じることによって与えられる救いの恵み、福音が示されたことを語っていますが、その神の義は、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて示されていると言っています。旧い契約における律法は、キリストの福音による新しい契約を証しし、指し示しているのです。その中心にあるのが十戒です。そういう意味で十戒は、キリストの福音を指し示しているのです。私たちは、十戒を守ることによって救いを得るのではありません。むしろそれを守ることができていないことを示されます。自分が神様の恵みと愛に応えて、責任をもって神様と共に生きていない罪人であることをはっきりと示され、思い知らされるのです。しかしそのような罪人である私たちに、ただ神様の愛によって、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みによる罪の赦しが与えられています。私たちはその救いにあずかり、神様の契約の民として、神様の恵みと愛に応えて生きていくのです。十戒は、その私たちの生活を、責任をもって神様と共に生きるように整え導くために与えられている十のみ言葉なのです。

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