「苦い水」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第15章1-27節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第8章14-17節
・ 讃美歌 : 299、452
海の歌
本日ご一緒に読む出エジプト記第15章の1節から18節にかけては、神様をほめたたえて歌われた賛美の歌です。聖書にはこのような賛美の歌がところどころに出てきます。詩編はそのような賛美の歌を集めたものですし、それ以外にもあちこちに、旧約聖書のみでなく新約聖書にも、神様をほめたたえる歌があります。この出エジプト記第15章は、聖書を通読していく中で私たちが最初に出会う賛美の歌であると言うことができます。この賛美が歌われた事情は19節以下に語られています。19節に、「ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ」とあります。ここに簡潔にまとめられているのは、先月読んだ第14章に語られていた、いわゆる「葦の海の奇跡」です。奴隷とされていたエジプトからようやく脱出したイスラエルの民が、前には葦の海、後ろからは追いかけてきたエジプト王ファラオの戦車部隊が迫るという絶体絶命の危機に陥った時、主なる神様が葦の海の水を左右に分けてその間に道をつくり、イスラエルの民を向こう岸へ渡して下さったのです。後を追って海の中の道に入って来たエジプトの戦車、騎兵の上に、水が流れ返り、エジプト軍は全滅してしまいました。そのことによって、イスラエルの民のエジプトからの解放が完成したのです。主なる神様が行なって下さったこの大いなる奇跡によって救われたことを受けて、20節、「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた」。アロンはモーセの兄です、さらにその姉である女預言者ミリアムの導きによって、民全体が神様をほめたたえて賛美を歌ったのです。21節「ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた」。これが、1節以下の歌の冒頭の部分です。このようにして歌われた賛美の歌が1~18節に語られており、それは小見出しにあるように「海の歌」と呼ばれているのです。
主のみ業を賛美する
この賛美の歌を読む上で私たちが注目しなければならない最も大事なことは、ここに歌われている葦の海の出来事が全て、主なる神様のみ業として、「主」あるいは「あなた」を主語として語られているということです。そのことに注意してもう一度この歌を振り返って見ます。1節の4行目から「主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた」。2節「主はわたしの力、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった」。4節「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ」。6、7節「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威光をもって敵を滅ぼし、怒りを放って、彼らをわらのように焼き尽くす」。10節「あなたが息を吹きかけると、海は彼らを覆い、彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ」。このように、葦の海の出来事は徹頭徹尾主なる神様のみ業として見つめられ、賛美されています。そこには、モーセのモの字もありません。出エジプトの指導者モーセは、むしろ全ての民と共にこの賛美の歌を主なる神様に向かって力の限りに歌っているのです。
賛美する相手
ここには、聖書における賛美の大事な特徴が示されています。それは、賛美の対象、相手が明確だということです。賛美というのは本来、誰を賛美するのか、相手が明確になっているはずのものです。相手がはっきりしなければ賛美することもできないはずなのです。ところが私たちはしばしば、相手のはっきりしない賛美に陥ることがあるのではないでしょうか。つまり、生きておられる主なる神様のみ前に立って、その神様を賛美するのではなくて、何となく気持ちのよい賛美の気分に浸るだけになってしまうことがあるように思うのです。それは例えば、賛美歌を歌うことにおいて起ります。気持ちよく賛美歌を歌って賛美の気分に浸っているけれども、主なる神様のみ前に立っていることを明確に意識し、その神様に向かって賛美するということにはなっていないことがあるのではないでしょうか。それは賛美歌を歌う時だけの話ではありません。私たちの信仰が、信じる相手である主なる神様を明確に意識した信仰となっているか、相手のはっきりしない、漠然とした気分のみの信仰になっていないか、ここでイスラエルの人々が「あなた」と呼びかけているような関係が、私たちと神様との間に確立しているか、ということを振り返って見る必要があると思うのです。
神々の中で
さてこの賛美の歌は11節で一つの頂点に達しています。11節「主よ、神々の中にあなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか」。この11節が、この歌の前半のしめくくりとなっています。この11節は、10節までとは違って、「~でしょうか」という疑問文です。しかしそれは何かを問うているのではなくて、疑問文の形で、事柄を強調しているのです。つまり、「あなたのような神が他に誰かあるでしょうか」という問いを語ることによって、「いや、主なる神様のような方は他には誰もいない」と断言しているのです。しかしここで注目したいのはそういう語り方ではなくて、「神々」という言葉が出てきていることです。これは、イスラエルの民が多くの神々を信じていて、主なる神様はその中のお一人だったということではありません。ここは要するに、あの葦の海の奇跡を行うような神は他にはいない、生きておられるまことの神はイスラエルの神である主だけだ、ということを語り、賛美しているのです。しかし同時に、「神々の中に」と語ることによって、他の神々との比較がなされていることも確かです。それは、イスラエルに他の神々がいたということではなくて、他の民族の神々のことです。そのことが、この賛美の後半、12節以下につながっていくのです。12節以下で見つめられているのは葦の海の奇跡ではありません。14節から15節にかけて、「ペリシテ、エドム、モアブ、カナン」という地名が列挙されています。葦の海を渡り、エジプトの支配から完全に解放されたイスラエルの民はこれから、神様が彼らに与えると約束して下さった地に向けて旅をしていきます。その約束の地がカナンであり、そこにはカナン人が住んでいます。またその周辺の民族がペリシテ、エドム、モアブなのです。イスラエルの民はこれから、これらの民と戦いつつ約束の地へと向かい、そこを獲得していくのです。この賛美の歌の後半にはそのことが見つめられています。11節で「神々」と言われていたのは、これらの諸民族の神々のことなのです。それらの諸民族の神々の中に、主なる神様のように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方はいない、主なる神様がそれらの諸民族の神々に勝利なさるのだ、ということが歌われているのです。12節もそのことを語っています。「あなたが右の手を伸べられると、大地は彼らを呑み込んだ」。この「彼ら」とは、他の神々のことです。主なる神様のみ手によって、他の神々は滅ぼされ、イスラエルは約束の地を与えられていくのです。そのことが13節に、「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた」と語られています。17節もそのことを語っています。「あなたは彼らを導き、嗣業の山に植えられる。主よ、それはあなたの住まいとして自ら造られた所。主よ、御手によって建てられた聖所です」。このようにこの「海の歌」は、葦の海の奇跡だけではなく、この後イスラエルの民が、周辺の諸民族に勝利して神様の約束の地を与えられていくことをも先取りする形で述べているのです。そしてその全てのことが「あなた」の、つまり主なる神様のみ業である、と賛美しているのです。
民の賛美
そしてここに、見逃してはならない大切なポイントがあります。それは、この後半部分には、「民」に与えられた救いが賛美されていることです。13節に「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き」とありました。16節の後半にも「あなたの民」、「あなたの買い取られた民」とあります。贖う、と買い取る、は同じ意味であり、主なる神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さったことを指しています。主なる神様はイスラエルの民を、慈しみをもって贖い、買い取ってご自分の民とし、約束の地へと導いて下さるのです。そのみ業を民全体がほめたたえて歌っているのがこの賛美の歌です。つまりこの賛美の歌は、個人的な救いの体験に基づいて一人一人が歌っているのではありません。この歌の最初の1、2節には、「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる」とあって、「わたし」が賛美を歌うことが強調されています。しかしその「わたし」は決して一人で生きているわたしではなくて、イスラエルの民の一員であるわたしです。そこで歌われている主の救いのみ業も、個人的体験ではなくて、民全体に与えられた救いです。神様を「あなた」と呼んで賛美する「わたし」は、神様の民の一員とされている「わたし」なのです。神様の民の一員として生きるところでこそ私たちは、相手のはっきりしない単なる気分のみの信仰ではなく、信じる相手である主なる神様を明確に意識し、その神様を「あなた」と呼んで賛美する信仰に生きることができるのです。
慈しみ
このことは、信仰者は個人として生きるのではなく共同体の一員として生きることが大切だ、という単なる教訓ではありません。そうではなくて、神様が与えて下さる救いの恵み自体が、そもそもご自分の民を、共同体を形成していく恵みなのです。13節の「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き」という言葉がそこで鍵となります。「慈しみ」と訳されている言葉の原語は「ヘセド」ですが、これは旧約聖書において非常に重要な言葉です。そのもともとの意味は「力」です。力と言ってもそれは、相手を攻撃したり破壊する力ではなくて、関係を保ち、築いていく力です。人間どうしの関係においても、それを維持していくには力が必要です。ほうっておいてもよい関係が維持されるということはありません。ほうっておいても維持されるような関係は、もともと希薄な、赤の他人に毛の生えたような関係でしかないでしょう。本当に親しい、よい関係は、お互いがお互いに対して、なすべきことをしっかり行なうことによってこそ維持されるのです。そこにはある力が必要です。そのような力を意味しているのが「ヘセド」という言葉なのです。この言葉が、神様と人間の関係において、神様が人間に対してよい関係を結び、それを維持して下さる力、という意味で用いられる時、それは「慈しみ」という言葉になるのです。
契約
神様が人間とよい関係を築き、それを維持して下さるのは、「契約」を結ぶことにおいてです。旧約聖書、新約聖書の「約」は契約の約です。神様が契約によって人間と関わりを持って下さるというのが、旧約と新約を貫いている聖書の基本的な教えです。神様は、契約によって人間との関係を築き、その契約をしっかり守ることによってその関係を維持して下さるのです。つまり神様のヘセド、慈しみは、契約において発揮されるのです。
神の民イスラエル
神様が契約を結んで下さる相手は、個人ではなくて「民」です。契約によって、神様との関係に生きる人々の群れが、つまり神の民が興されるのです。一人一人はその神の民の一員とされることによって、神様との関係に生きる者となるのです。つまり神様のヘセド、慈しみは、神の民を結集していくことにおいて発揮されるのです。旧約聖書における神の民はイスラエルです。イスラエルの神の民としての歴史はアブラハムから始まりました。私たちは創世記の12章以来その神の民イスラエルの歩みを見てきたわけです。そして出エジプトの出来事は、主なる神様がこの民の苦しみを顧み、彼らを奴隷状態から解放して下さったということであり、さらにこの後神様はこの民を約束の地へと導いて下さろうとしているのです。そこに、神様のヘセド、この民と結んだ契約を忠実に守り、関係を維持して下さる慈しみがあるのです。「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた」という13節のみ言葉は、ご自分が結んだ契約にどこまでも忠実であって下さる神様の慈しみを見つめ、ほめたたえているのです。
民の責任
契約の関係というものは、双方がそれを忠実に守ることによってこそ維持されます。神様と民との契約もそうです。神様の民とされたイスラエルの側にも、契約に忠実に歩み、神様とのよい関係を維持していく責任があるのです。それは民の側から言えば、主なる神様の慈しみを疑わずに信じて、それにこそ依り頼み、人間の力であれ、他の神々であれ、主なる神様以外のものに心を奪われないことです。つまり主なる神様の民として誠実に歩み続けることです。しかし人間はまことに弱い者です。苦しみが襲ってくるとすぐに主なる神様の慈しみを疑い、主のもとを離れていってしまうのです。イスラエルの民の歴史はそのことの繰り返しでした。エジプトの奴隷状態からの解放というすばらしい救いの恵みを体験した直後ですらそうだったのです。そのことが22節以下に語られているのです。
不平を言う民
「海の歌」を歌い、主なる神様をほめたたえたイスラエルの民は、そこから旅立ち、シュルの荒れ野へと進んで行きました。いよいよ、約束の地に向かう荒れ野の旅路が始まったのです。荒れ野とは、水や食料を得ることができない不毛の地です。ですから荒れ野の旅は必然的に苦しみの歩みとなります。早速その苦しみが民を襲うのです。「三日の間進んだが、水を得なかった」と22節にあります。三日水が得られないことはそれだけで命の危機、民の全滅の危機です。出発から三日にして、彼らはそういう危機に直面することになったのです。ようやく、泉のあるマラという所に着きました。しかしそこの水は苦くて飲むことができませんでした。渇きで苦しむ民の目の前に水があるのに飲むことができない、それは全く水がないよりももっと大きな苦しみだと言えるでしょうし、ようやく水を見つけたという喜びが一旦あっただけに、まさに期待を裏切られたという思いだったでしょう。その苦しみ、失望の中で民はモーセに「何を飲んだらよいのか」と不平を言ったのです。この言葉の背後にある思いは、「お前が我々をエジプトから連れ出したのだから、飲み水もお前が確保するべきだ」ということです。調子の良い時は有頂天になって喜ぶくせに、苦しみにあい、都合の悪いことが起ると全部人のせいにして文句を言う、こういうのを奴隷根性と言うのだと前回申しました。しかしそれだけでなく、モーセに対する不平は、モーセを遣わした神様に対する不平でもあります。つい数日前に「海の歌」を歌い、神様の大いなる救いのみ業をほめたたえたばかりの民が、今や苦しみの中でこのように神様に文句を言っているのです。そこに、神様の慈しみに信頼して依り頼むことができず、契約に忠実であることができず、神の民として歩むことができない人間の姿があるのです。
苦い水が甘くなる
民の不平の矢面に立たされたモーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示して下さいました。その木を水に投げ込むと、苦い水は甘くなり、人々はそれを飲んで渇きを癒すことができ、命を救われたのです。これはモーセを通して主なる神様が行なって下さった一つの奇跡であり、イスラエルの民に対する救いのみ業です。しかし私たちがここで見つめるべきことは、神様の大いなるみ業によって救われ、贖われた民、主によって買い取られた民とされたにもかかわらず、その神様の慈しみに信頼することができず、神様の契約のパートナーとして歩むことができない、つまり神様との良い関係を維持することができないイスラエルの民に対して、主なる神様の方は、契約にどこまでも忠実であって下さり、民を守り支えて良い関係を維持して下さるということではないでしょうか。つまり民の弱さ、罪によって破壊されていこうとする契約の関係を守り、築いていって下さる主の慈しみ、ヘセドをこそ私たちはここに見つめるべきなのです。
新しい契約の民
この主の慈しみ、ヘセドが、私たちにも与えられています。旧約聖書における神の民、契約のパートナーはイスラエルの民ですが、今や私たちは、新しい契約、新約の時代を生きています。神様が新しい契約を結び、新しい神の民を興して下さったのです。その新しい契約は主イエス・キリストによって与えられています。私たちは主イエスを信じる信仰によって、新しい契約によって結集される新しい神の民、新しいイスラエルである教会の一員とされているのです。主イエスを信じ、キリストの体である教会に連なっている私たちこそ今や「慈しみをもって贖われた民」であり、「あなたの買い取られた民」です。主イエス・キリストが十字架にかかってご自分の命をささげて下さったことによって、私たちを罪の支配から贖い出して下さったのです。私たちは主イエスの命によって買い取られた神の民なのです。
主イエスを賛美しつつ
前回申しましたように、私たちは主イエスを信じ、その救いにあずかる洗礼を受けることにおいて、イスラエルの民があの葦の海の奇跡によって体験したのと同じ救いの恵みを体験するのです。しかしイスラエルの民がそうだったように、私たちも、そのような救いにあずかったにも関わらず、苦しみや悲しみの中で主の慈しみへの信頼を失って右往左往し、主イエスによって与えられた新しい契約に忠実であることができず、神様の民として歩み続けることができなくなってしまう者です。イスラエルの民の弱さ、罪は私たちの弱さ、罪でもあるのです。けれども本日のこの話が告げているのは、私たちはそのような者であっても、主なる神様は、ご自分が結んで下さった契約にどこまでも忠実であって下さるということです。神様は、苦い水を甘い水に変えてご自分の民を守り、養い、育んでいって下さるのです。私たちはそのことを、主イエス・キリストのご生涯において、そして何よりもその十字架の死によって、示されています。本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書の第8章14節以下において示されているのは、主イエスが人々の患いを背負い、病を担うことによってそれを癒して下さったことです。主イエスが背負って下さったのは病だけではありません。私たちの罪を担い、背負って下さったのです。そしてその赦しのために十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死によって私たちの罪は赦されました。そのことなしには、私たちはお互いの罪に汚染された苦い水を飲むしかなかったのです。しかし主イエスによって苦い水は甘い水へと変えられ、私たちは今やその水によって養われ、育まれつつ、神様の契約のパートナー、神の民として、主を賛美しつつ生きることができるのです。「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる」。私たちのこの賛美は漠然とした気分ではありません。私たちの「主」は、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストなのです。