「語るべきことは与えられる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第4章1-17節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第12章8-12節
・ 讃美歌 : 297、521
召命
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する時には、旧約聖書出エジプト記からみ言葉に聞いています。本日は第4章の前半をご一緒に読むのですが、冒頭の1節に、「モーセは逆らって」とあります。モーセは何に逆らったのでしょうか。それは、3章において彼に与えられた神様のご命令に、です。神様はモーセを、エジプトで奴隷とされて苦しめられている同胞イスラエルの民を救い出し、乳と蜜の流れる約束の地へと導くために遣わそうとしておられるのです。神様が彼を召して、特別な使命を与えようとしておられるのです。それを「召命」と言います。第3章につけられている小見出しに「モーセの召命」とあります。神様によって召し出されて使命を与えられることを「召命」と言います。モーセは、この神様の召命に逆らって、それから逃れようとしているのです。既に3章において彼は、いろいろなことを言って神様の召しを断ろうとしています。神様はそれに対してモーセに丁寧に語りかけ、彼を説得しておられます。その中で、先月読みましたように神様のお名前が示されたのです。3章14節に、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とあります。これが、神様がお示し下さったお名前です。このお名前は、「わたしは自分が有ろうとする者として有る」と訳すのが最も相応しい、と先月申しました。このお名前には、神様が新しいみ業をなさろうとしておられる強いご意志が表されています。神様は、イスラエルの民の先祖、アブラハム、イサク、ヤコブと結んで下さった契約をしっかりと守り、この民をエジプトの奴隷状態から解放し、約束の地へと導くという新しい恵みのみ業を行おうという強い意志を持ってモーセにご自身を現されたのです。神様のお名前を知ろうとするモーセの問いの背後には、神様のことを分かってしまって安心したい、という思いがあります。それはさらに言えば、神様を自分の手の内に置いてコントロールしたいという思いです。神様はこの問いに答えつつ、同時にモーセの手の内に入ってしまうことを拒み、人間にコントロールされるのではなく、神様ご自身の意志を貫くことを宣言されたのです。神様はこのような強いご意志によって、モーセをエジプトに遣わそうとしておられます。3章の15節以下には、彼がエジプトに行って同胞たちに語るべきこと、またエジプトの王のもとへ行って語るべきことが示されており、そこで何が起るか、そして最終的にはどうなるか、までが既に語られていました。少し長くなりますが、そこをもう一度読んでみたいと思います。3章15節以下です。「神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名。さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい』」。これは、この後の出エジプト記のあらすじのような文章です。およそこのような経緯をたどって、イスラエルの民はエジプトを脱出するのです。このように神様はモーセに、彼が語り、行うべきこと、それによってこれから起ることをはっきりと示して下さったのです。
不安
ところがモーセは、神様のこのような懇切なお言葉に逆らって、本日の4章1節で「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言いました。もっとも「逆らって」という言葉は原文にはないのであって、直訳すれば、「モーセは答えて言った」なのですが、内容においては、神様のお言葉に逆らって、召命から逃れようとしているのです。彼がここで語っている不安は、エジプトの王ファラオの前に出て、イスラエルの民を去らせよ、と言ったらどうなるか、ではありません。その前にそもそも、同胞イスラエルの人々が自分を信用してくれないのではないか、ということです。指導者として民を導くためには、その人々に信用、信頼されなければなりませんが、その自信がない、と彼は言っているのです。それには理由があることを私たちはこれまでの所で読んできました。モーセは、イスラエルの民の一人でありながら、エジプトの王女の養子としてエジプトの宮廷で育てられました。成人してから、奴隷として苦しめられている同胞を助けようとして立ち上がったのです。しかし奴隷の苦しみを知らずに育った彼のことを、同胞たちは誰も受け入れてくれませんでした。彼は結局エジプトにいることができなくなり、逃げ出して、ミディアンの地に逃れて来たのです。そのように同胞に受け入れられずに挫折し、逃亡したモーセが、エジプトに帰って行って「主なる神様が私に現れた」と語っても、誰も信用してくれないだろう、と言っているのです。
しるしを与える
このように神様の召命を断ろうとするモーセに対して、神様はなお丁寧に説得を続けていかれます。そして、彼の不安を取り除き、彼が主なる神様によって遣わされた者であることをイスラエルの人々に、またエジプト王に示すためのしるしを与えて下さるのです。第一のしるしは彼の杖です。それを地面に投げると杖は蛇に変わりました。モーセがその蛇の尾をつかむと元の杖に戻りました。第二のしるしは、モーセが手を自分のふところに入れて出すと重い皮膚病にかかっており、もう一度ふところに入れて出すと元の肌になっている、ということです。第三のしるしは、約束としてのみ与えられていることですが、ナイル川の水をくんできて地面に撒くとそれは血に変わる、ということです。神様はモーセにこの三つのしるしを行う力を与えて下さったのです。8、9節にあるように、これらは、先ず最初の杖のしるしを示し、それでも彼らがあなたを信用しないならば、第二の皮膚病のしるしを、それでも信じないなら第三の水を血に変えるしるしを、というふうに、段階を追って示されるべきものです。モーセがイスラエルの民に信用されるために、神様はこのように二重三重のしるしを用意して下さったのです。
さてこれらのしるしは、モーセが奇跡を行うことによって、彼が神様から遣わされたことを示すためであるわけですが、新約聖書に語られている、主イエスが行われた奇跡とは全く違うものです。どう違うのかというと、主イエスの奇跡は、病気の癒し、悪霊の追放など、神様の救いのみ業であるのに対して、モーセに与えられたこれらのしるしは、魔術なのです。これは驚くべきことです。なぜなら、イスラエルにおいては、このような魔術は、主なる神様を信じる信仰とは相容れないものとして禁じられているからです。魔術師は、イスラエルの民に間にあってはならないのです。そのように否定されるべき魔術を行う力がモーセに与えられたのは何故でしょうか。それは、彼が遣わされていくエジプトが、そのような魔術に支配されている所だからです。この後、エジプトに帰ったモーセは、エジプト王ファラオの前でこれらのしるしを行います。するとファラオは、エジプトの魔術師を連れてきて同じようなことをさせてモーセと対抗させるのです。つまりこれと同じようなことをする魔術師がエジプトにはいたのです。エジプトの人々は魔術を信じて生きていたのです。神様がモーセに魔術を行う力をお与えになったのは、一つには、彼が遣わされていく地であるエジプトにおいてそれが意味と力を持つしるしだからです。エジプトに遣わされるモーセにはエジプトの人々の心を動かすのに相応しいしるしを行う力を与えて下さったのです。神様が私たちを召して使命をお与えになる、つまり召命において、神様はそれぞれの使命に相応しい力を与えて下さいます。神様の召しに応えて歩み出す者には、その使命を果たすに相応しい力が、神様ご自身によって与えられるのです。 しかしもう一つ、モーセにこれらの魔術的な力が与えられたことの意味があります。これらの魔術は、イスラエルの民をなかなか解放しようとしないエジプトに対して神様がお与えになる災いをもたらす力でもあるのです。特に第三の、ナイル川の水を血に変えるというしるしがそうです。モーセが行う、このような魔術的な災いが繰り返されることによってようやく、イスラエルの解放が実現するのです。つまり、魔術に支配された人々には魔術による災いが下されるのです。モーセに魔術を行う力が与えられたのは、エジプトではそれが有効だからというだけではありません。このことを通して、魔術を行う人々に対する神様の裁きが行われるのです。魔術は、人間を超えた様々な力がこの世界を支配していることを前提としており、その力を人間がある時は利用し、ある時はそれを防ぐことによって災いを逃れようとすることです。主なる神様お一人がこの世界を造り、支配し、導いておられる、という聖書の信仰と魔術とは両立しないのです。魔術に頼る者はその魔術によって苦しみを受ける、出エジプトの物語はそのことをも語っているのです。
召命と能力
さてモーセはこのように神様からのしるしを与えられました。しかしそれでもなお、召命に従おうとせず、抵抗を続けます。それが10節以下です。10節で彼はこう言っています。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。ここで彼が見つめているのは、自分の能力です。私は話をすることが得手ではない、口が重く、舌の重い者だ、そんな自分に、イスラエルの民を説得し、さらにファラオと談判してイスラエルの解放を迫ることなどできない、というのです。これに対して主なる神様はこう言われました。11、12節です。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。ここで神様は二つのことを言っておられます。第一は、11節の、人間に口や耳や目を与え、話したり聞いたり見たりすることができるようにしているのは主なるわたしだ、ということです。つまり、神様が私たち人間をお造りになり、様々な力をお与えになった、創造のみ業に目を向けさせておられるのです。そこにおいて、「誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えなくするのか」と語られています。つまり、口が利けない、耳が聞こえない、目が見えないという障碍もまた、主なる神様がお与えになったものだ、ということです。このように語られていることから、モーセが「わたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言っているのは、ただ話をするのが下手だというのではなくて、何らかの障碍があった、例えば吃音があったのではないか、と想像する人もいます。いずれにせよ、何かが出来る、ということだけでなく、出来ないこと、能力がないあるいは人と比べてそれが劣っていることもまた、神様がその人に与えておられる賜物であることが示されているのです。神様はご自分がそれぞれの人にお与えになったそれらの賜物を全てご存知の上で、その人を召し、使命をお与えになるのです。それは、その人がその使命を果たすために十分な賜物を与えられている、ということです。つまり神様の召命を受けた時に、私たちが、「自分にはそんなことをする能力はありません」と言うのは間違っているのです。神様は私たちの、出来ることも出来ないことも含めた賜物をよく知った上で、その人に相応しい召命を与えて下さるのです。
語るべきことは与えられる
ここに語られている第二のことは、12節の「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」ということです。11節が神様の創造のみ業を見つめさせているのに対して、12節は、これからのことを語っています。口が重く、舌の重い者ですと言っているモーセに対して、わたしがあなたの口と共にあって語るべきことを教えるから心配しないでよい、ということです。そのような神様の導きの約束です。同じ約束が新約聖書にもあります。本日共に読まれた、ルカによる福音書の第12章8節以下です。その11、12節にこのようにあります。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。これは、主イエスの弟子たちへの励ましの言葉です。主イエスの弟子として、つまり主イエスに従う信仰者として生きるとは、主イエスをこそ自分の救い主と信じ、その信仰を告白しつつ生きることです。そこには、「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれる」、つまり迫害を受けることもあります。敵対する者たちの前で信仰を証しし、語らなければならないことが起るのです。しかしその時にも、自分の力や知識で何かを語ろうとしなくてよい、わたしが聖霊の働きによって共にあり、語るべきことをちゃんと与えるから心配するな、ということです。この主イエスの約束を最もはっきりと体験しているのは、伝道者、牧師たちでしょう。牧師の務めは先ず第一に、礼拝で説教を、神様のみ言葉を語ることです。しかしそれは自分の能力や賜物によって出来ることではありません。私自身、伝道者となって二十五年が過ぎようとしていますが、毎週毎週、説教において語るべきみ言葉を、聖霊のお働きによって共にいて下さる主イエスに与えられてきました。この聖書の箇所からいったい何を語ればよいのだろうか、と途方に暮れるようなこともありますが、その都度、不思議に語るべき言葉を与えられてきたのです。今私は、モーセに与えられた「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」という約束が真実であることを確信することができます。
摂理を信じる
この12節のみ言葉が私たちに見つめさせようとしているのは、もっと一般化して言えば、神様の摂理です。摂理を信じるとは、この世の全てのこと、そして私たちの歩みの全てにおいて、神様の導きがあり、ご支配があるのだと信じることです。私たちを造り、それぞれなりの賜物を与えて下さった神様は、その私たちを、それぞれに相応しい使命へと召して下さり、その召しに応えて歩む私たちの信仰の旅路を導き、必要な時に必要な助けを与えて下さるのです。神様の召命に応えて生きることは、神様が私たちを造り、それぞれに賜物を与え、今もこれからも導いて下さること、つまり神様の創造と摂理とを信じることによってなされるのです。それこそが、信仰をもって生きることなのです。
人間の罪
神様のこの語りかけを受けてもなおモーセは、13節にあるように、「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言いました。これまでの所でモーセは、いろいろと理由を挙げて召命を断ろうとしてきました。神様はその理由の一つ一つに反論して、「私が共にいるから大丈夫だ、心配せずにこの使命を果して欲しい」と言ってこられました。モーセにはもう持ち出す理由が一つもなくなったのです。しかしそれでも彼は、「わたしではなく、誰か他の人を遣わしてください」と言います。ここに、モーセの、そして私たちの、神様に逆らう罪の姿が描かれています。要するに、理屈ではないのです。とにかく、神様に従い、与えられた使命、役割を果たすことが嫌なのです。いろいろと理由をつけているのは全部口実であって、神様に従いたくない、神様のみ心よりも、自分の思い通りにしたい、神様を主人とするのでなく、自分が主人でありたい、というのが私たちの思いなのです。それが私たちの罪です。またモーセはここで、「だれかほかの人を」と言っています。これも、私たちが神様との関係から逃れようとする時の代表的な言葉です。神様を信じて、神様に従って生きること、神様のみ心を行うのはすばらしいことだ、そのように生きることができたらどんなによいだろうか、でも、それは私のことではない、私以外の誰かのことで、私にはそれはできない、と私たちは思ってしまうのです。しかし、主なる神様が今語りかけ、召し出そうとしておられるのは、誰か他の人ではなくて、この私なのです。この私にこそ神様が現れ、語りかけておられるのです。そのことに気付くことが、信仰の第一歩なのです。
神の怒りと導き
14節の冒頭に、「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」とあります。このように懇切に語りかけても従おうとしない私たちの罪に対して、神様はお怒りになるのです。「ええ加減にせい」ということです。この神様の「怒り」を私たちは侮ってはなりません。神様はただやさしく語りかけて下さるだけの方ではないのです。また、私たちがちょっとだだをこねて「いやです」と言えばあきらめて引き下がるような方でもないのです。「わたしは自分が有ろうとする者として有る」と宣言なさる神様は、その強いご意志をもって私たちに臨み、従おうとしない私たちに対してお怒りになる方なのです。しかし神様がその怒りによってなさったことは何だったのでしょうか。それは、モーセを見捨てることではなくて、彼に助け手を与えるということでした。モーセにはアロンという兄弟があった、この人はモーセとは違って雄弁な人でした。そのアロンを、モーセに代わって語る者として立てて下さったのです。つまり、人間の罪に対してお怒りになる神様は、その怒りによって罪人を滅ぼしたり、見捨てたりするのではなくて、その罪人をあくまでも立て、生かし、み業のために用いるために助け手を遣わして下さるのです。それは、私たち罪人の救いのために、神様が独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さったこととつながります。神様に逆らう罪人であり、怒りを受けるしかない私たちのために、神様は独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって罪の赦しを、復活によって永遠の命の希望を与えて下さったのです。私たちが神様の召しに応えて歩み、神様から与えられた使命を果していくことは、この主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みの中でこそ出来ることなのです。モーセはこのようにしてついに、神様の召命に応えて生きる者とされました。召命を拒み続けた彼が、出エジプトの指導者として立てられたのです。それは彼自身の能力や賜物によることでもなければ、彼の決意によることでもありません。主なる神様が彼を選び、導き、召して下さったのです。彼はその召しを何度も断りました。神様はそのたびに彼に懇切丁寧に語りかけ、説得をして下さいました。それでもモーセが断るので、神様はお怒りになりました。しかし神様の怒りは、私たちの怒りとは違って、「もう勝手にしろ」と放り出すようなものではありませんでした。神様は決してあきらめることなく、彼が召しに応えて使命を果たすことができるように、全ての道を整えて下さったのです。
召しに応えて生きる
神様の召しに応えて歩み出したモーセは、常に共にいて下さる神様の導き、支え、守りの中で、語るべきことをその都度与えられつつ歩むことができました。神様の召命に応えて生きる私たちの人生は、このような恵みの中に置かれるのです。神様の召しは私たち一人一人に、それぞれ違った仕方で与えられています。私たちが、自分に与えられている神様の召しを示され、それに応えて歩み出すところに、主が共にいて全てを整え、導いて下さる本当に幸いな人生が開かれていくのです。