主日礼拝

キリストにおいて一つ

「キリストにおいて一つ」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エズラ記 第3章8―13節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第2章11―22節
・ 讃美歌:6、416、390

はじめに
 本日はご一緒にエフェソの信徒への手紙第2章11節から22節をお読みします。本日の箇所は「だから、心に留めておきなさい。」(11節)という言葉で新しい話が始まっています。「だから」とありますので、その直前に書かれていることを受けています。直前の8節から10節にはこのようにあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(8~10節)エフェソの人々に与えられた神様の救いは、救われるというのは、自分の力、人間の行いによってではなく、神様の恵みによって、神の恵みを信じるという信仰によって与えられると、言うのです。この場合の、救われるということは、神の民の中に加えられる、ということです。それは即ち教会に加えられるということです。当時のエフェソの教会の人々は大多数が異邦人、外国人でした。その異邦人たちが、神の民の中に、教会に加えられるとはどういうことでしょうか。そのような問題が、本日の箇所第2章11節以下で取り上げられていきます。

ユダヤ人と異邦人
 最初の頃の教会の信者たちは皆ユダヤ人でした。主イエス・キリストの福音を伝えた人たち、つまりペトロやヤコブ、ヨハネもユダヤ人でした。そして、彼らが伝道をした相手もユダヤ人でした。ナザレのイエスをキリスト、メシア、救い主と信じるユダヤ人の集まり、そこから教会が誕生しました。教会はやがてユダヤ人から見て外国人である異邦人が次第に加わるようになります。その理由は、主イエス・キリストの福音がユダヤを超えて伝道されて、小アジアから、地中海全体に広がっていったということです。主イエス・キリストの福音が広がっていったということです。そして、ユダヤ人ではない、異邦人の中においても主イエス・キリストを信じる人が起され、そのような人たちが多くなっていきました。教会には多くの異邦人が加えられていったのです。やがて、時間が経つにつれて教会のメンバーのほとんどがユダヤ人ではなくなります。そこに至る過程において、ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者との間には様々な対立や軋轢が起こっていきました。激しい対立があったと言われております。ユダヤ人にとって、異邦人は救われるはずのない存在でした。ユダヤ人の考えでは、ユダヤ人だけがアブラハム以来の神の民であります。ユダヤ人以外の民、異邦人が救われるなどということは考えられないのです。逆に、ユダヤ人以外の人にしてみれば、聖書の神様というのは自分達とは関係ないユダヤ人の神でしかありませんでした。神様は全ての者を造られた神です。そして、すべての民を救いに与らせる為に、アブラハムを選び、神の民イスラエルを導き、自らがまことの神であることをお示しになりました。そして神様は独り子、救い主イエス・キリストをこの世に与え、その十字架の死をもって罪を滅ぼされました。主イエスによって、全ての民を神の民とされ、新しいイスラエルとして、神の家族として招いて下さったのです。そこに誕生したのが「教会」です。

今も続く問題
 ユダヤ人は神様の言葉である律法を大事にしておりました。特に元々の神の民でユダヤ人には、これまで自分が守ってきたもの、大切にしてきたもの、つまり伝統がありました。神の言葉である律法を大事にし、伝統として大切に守ってきたのです。その律法の理解や解釈、信仰における律法の位置づけが問題となりました。律法に対する理解が異なり、対立が起きていったのです。そこには大きな壁が立ちはだかっていたのです。このような対立は、異邦人が教会のほとんどを占めるようになれば、最終的にはなくなってしまう問題なのでしょうか。一方でそう言うこともできると思います。しかし、他方ではどうでしょうか。先ほども申しましたが「救われる」ということは、神の民、教会に加えられるということです。つまり、それは異邦人が福音によって、イエス・キリストによって、彼らに本来疎遠であったイスラエルへの神の救いの「約束」にあずかる者となるということです。この問題は歴史的に終わった問題ではありません。「教会」について考えても同様です。様々な対立や軋轢は形を変えて続いております。今もなお続いているのです。

思い起こしなさい
 本日の箇所は「だから、心に留めておきなさい」(11節)と始まります。以前の口語訳聖書では「記憶しておきなさい」となっています。またある別の訳では「思い起こしなさい」となっています。最初に申し上げたことに照らして言いますと、この言葉は自分たちがユダヤ人から見て異邦人であるということを、もう既に忘れ始めている、というよりも、教会のほとんどすべてが異邦人なので、それにまつわる問題など、ほとんど問題にならなくなっていた、教会がそういう段階にあることを示唆しています。使徒パウロにとって、エフェソの教会の信徒たちが、記憶しておかけばればらないこと、思い起こさなければならないこととは、何だったのでしょうか。聖書は今自分に何を語りかけているのか、きちんと聞かなければなりません。それは、自分たちがどこから救い出されたかということです。どこから、どこへと救われたのか記憶しておくことということです。「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(12節)異邦人はかつてこのような状況だったのです。大切なことは過去の自分たちの記憶だけではありません。今、自分たちはどこにいるのか、どこに立っているのか、ということです。パウロは続けて言います。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(13節)  「以前は遠く離れていたが」今や「近い者となった」、神に近い者、その救いに近い者となったと記されています。遠く離れていたが近い者とされた。「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」です。あなたが神なきところから救われるために、それはあなたのために、私たち一人ひとりのために、主イエス・キリストが死なれたということです。異邦人は、自分のために何かをしてくれる、命も惜しまずにしてくれる、そんな人は世の中にいないと思っておりました。けれども、聖書は語ります。私たちのために一人の人が死なれたのです。イエス・キリストは自分の命を惜しまずに献げて下さった。私たちのためにです。そのお方は神の子です。命を献げるほどに、私たちを愛しておられる神がおられるということです。その愛と恵みをいつまでも忘れないように、どこから救い出されたか、どのようにして、どこへと救われたのか、それを心に留めて、記憶して、思い起こさなければならないのです。

平和の実現
 イエス・キリストによってどこへと救われたのでしょうか。それが次に「平和」という言葉で語られていきます。14節から18節です。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(14~18節)
 「平和」というのは、「二つのものを一つにする」ということです。この箇所での二つのものとは、具体的にはユダヤのキリスト者と異邦人のキリスト者です。これらの人たちが一つの霊によって結び付けられて、共に神に近づく、それが可能になるということ、それが「平和」です。ですからそれは、自分の考えを無理矢理合わせる、妥協して平和が生まれるということではありません。また自分の考えに賛同する者を増やして、全体を支配することが平和でもありません。ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者と対立している「二つのものを一つにする」という平和は、イエス・キリストがその十字架の死によってすべての者の罪を贖い、神との和解をすべての人にもたらしてくださったものです。主イエス・キリストによる神との和解を受け入れるとき、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、同じ信仰の仲間として、平和の交わりに置かれることになるのです。

敵意を引き受けて下さり
 主イエス・キリストによる平和ではない状態、平和以前の状態が、ここでは「敵意という隔ての壁」というような言葉で表現されています。「隔て」と訳されている言葉は「垣根」や「壁」のことです。ユダヤ人たちが神の民として自分たちを異教徒、異邦人から純粋に守り続けるための律法、あるいはその律法を守るための規則のことを指しています。けれども私たちの現実の生活はそのような律法、また律法を守るための規則はありません。律法が意味を持たない今の私たちの生活でも「敵意」は存在します。敵意は色々な形で現れます。人種や民族の問題、国家の問題、経済的な格差の問題、身分、また身近なところで言えば男か女かということでも隔ての壁があります。現実の私たちの姿はいまだに隔ての壁を完全に取り壊し切れていません。その根本に人間の心の問題があるからです。人間の罪が存在します。敵対する心です。エフェソの教会の場合は、ユダヤ人のキリスト者が異邦人キリスト者のことを快く思わず、また異邦人のキリスト者もユダヤ人のキリスト者を快く思っていません。しかし、そのような敵対する心そのものが取り除かれない限り、平和は決して訪れません。二つのものが一つになるということは決してないのです。主イエス・キリストはそうした敵対する心、敵意そのものを滅ぼされました。自らの死によって、その隔ての壁を取り壊されたのです。人間の敵意、憎しみ、それらを自らの身に引き受けて下さったのです。

私たちの平和
 「実にキリストは私たちの平和であります。」(14節)この平和は誰かが妥協したり、譲歩したりして成り立つものではありません。そうではなく、一つの身体のようにして、一つにされるということです。敵意、隔て、垣根を超えて1つとされる、それが平和です。それが教会です。主イエス・キリストにあって、一つの共同体とされる。この世におけるキリストの体としての教会です。教会は、その存在において平和の実現そのものです。教会の存在そのものが平和を証ししているのではないでしょうか。18節には「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」とあります。教会という存在は主イエス・キリストの体ですが、それは互いに敵対していた者を一つに結び合わせて、互いに一つの霊、キリストの霊によって結ばれて、共に父なる神様に近づき、共に礼拝し、キリストの人格を表すものとされているということなのであります。つまり、ユダヤ人も異邦人も、隔ての壁を壊され、キリストの霊によって結ばれて、一つにされて、キリストのご人格を顕す一人の新しい人、キリストの体である教会を形作るようになるということなのです。

キリストにおいて共に建てられ
 パウロは主イエス・キリストの平和を語りながら19節から教会について語っていきます。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(19~22節)
 パウロは本日の箇所の始めに「心に留めておきなさい」と語りました。エフェソの教会のメンバーたちに、自分たちが異邦人であったこと、ただ恵みによって救われたこと、神の民に加えられたことを忘れないようにと勧めました。その者たちが今は主イエス・キリストにおいてたしかに一つとなっています。ユダヤ人であるか、異邦人であるかということは、教会においても問題にはならないのです。そこには敵意が支配して、差別はあってはならないのです。

聖なる民
 「教会」を表すのに、19節以下では色々な比喩が使われています。教会は「聖なる民」と言われています。教会は、そこに市民権を持つ一人ひとりからなる1つの共同体として描かれています。そこでは、異邦人、外国人ということは問題にはなりません。この世の様々な人間的な違い、相違を乗り越えて、教会は神の召し、神様の招きに基づく1つの体、共同体です。19節では「神の家族」とも言い換えられています。教会は神様をまことの父とする家族なのです。私たちは神様を父とする兄弟姉妹なのです。更にここでは、建物の比喩が使われています。教会が一つの建造物に例えられています。「聖なる神殿」です。神殿とは、旧約聖書において神様がおられる場所、神様の住まいです。私たちは建物と聞きますと、堅固な建築物を思い起こします。けれども、ここではそうではありません。神がおられる、神様が現実に働いておられるということです。この建物の「かなめ石はキリスト・イエスご自身」です。土台は「使徒と預言者」彼らの語った言葉、したがって聖書、そしてそれに基づく神の御言葉と言って良いと思います。教会には「霊の風」が吹いています。目には見えないけれども、神の「霊の働き」がなければ、教会は存在しません。今私たちがいるここにも、神の霊は働いています。この神の霊の働きによって私たち一人ひとりが「組み合わされ」るのです。霊の風が吹き、成長するのです。一人ひとりが神様の霊によって、豊かに前進するのです。つまり、それぞれが与えられた場所で、互いに協力し合って教会は建て上げられていくのです。

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