夕礼拝

主が共に戦われる

「主が共に戦われる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第20章1-20節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第28章16-20節
・ 讃美歌:151、392

イスラエルの民の戦争
 本日は旧約聖書申命記第20章からみ言葉に聞きたいと思います。この第20章には「戦争について」という小見出しがつけられています。イスラエルの民が戦争をする時に、どのような思いで戦いに臨むべきか、そしてどのように兵を整え、どのように戦うべきか、がここに教えられているのです。旧約聖書においてイスラエルの民が戦った戦争は、初期と後期では性格が違います。初期における戦争は、神の約束の地カナンを獲得するための戦いでした。エジプトから脱出し、荒れ野の旅を経て約束の地に至ったイスラエルの民が、そこに先に住んでいる人々と戦い、彼らを攻め滅ぼしてカナンの地を自分たちのものとしていく、そのための戦いです。後期における戦争は、カナンの地に国を築いて住んでいる彼らのところに、メソポタミアやエジプトの大帝国が攻めて来る、その大国の侵略から国を守るための防衛戦争です。初期は攻めの戦争、後期は守りの戦争と、性格が違っているのです。この申命記第20章で意識されているのは、これからカナンの地に入ろうとしている時点でのモーセの教え、という設定からして、初期の、攻撃的な戦争だと一応言うことができます。その戦いをどのように戦うべきかがここに教えられているのです。しかし今「一応」と申しましたことを覚えておいていただきたいと思います。最後にもう一度そのことに戻って来ます。
 ところで聖書にこのように戦争について、しかも肯定的に語られており、特にこれから攻め取ろうとしているカナンの地の先住民に対しては、「息のある者は一人も生かしておいてはならない」と語られていることにとまどいとつまずきを覚える人も多いと思います。このように戦いを勧め、しかも皆殺しにすることを命じるような旧約聖書の神は恐ろしい神だ、と感じる人は多いのです。それは、今日の倫理観、人権についての感覚からすれば当然の感想です。ここに語られていることを私たちは現代の社会において倫理的道徳的な規範とすることは出来ません。そういう意味では聖書も時代の制約を受けているのです。しかしだからといってここに語られていることはもはや時代遅れで意味がないのかというと、そんなことはありません。私たちが主なる神を信じ、神の民として生きるその信仰において、ここに語られていることは時代を越えた意味を持っています。その信仰的意味を読み取っていくことが私たちの課題です。例えば先程の、カナンの地の先住民を皆殺しにせよという教えも、18節に語られているようにその目的は、イスラエルの民が、彼らの神々への祭儀、偶像礼拝の影響を受け、主なる神に対する罪を犯し、主の民として歩めなくなることがあってはならない、ということなのです。エジプトの奴隷状態から彼らを解放して下さり、荒れ野の旅を導いて、約束の地カナンを与えて下さった主なる神のみを礼拝し仕えることにこそ、神の民イスラエルの存在の根拠があるのです。その根拠を脅かすものを徹底的に排除することが求められているのです。

主イエスの教えと戦争
 さてそれにしても、ここでは戦争が肯定的に語られており、恐れずに敵と戦うことが勧められています。このことは、新約聖書における主イエス・キリストの教えとは相容れないものがあることを私たちは感じます。主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と教えました。「剣をとる者は剣で滅びる」というお言葉もあります。主イエス・キリストは、すべての戦いを禁じ、敵と戦うのではなく愛することを教えておられるのです。この主イエスの教えと本日の申命記20章に語られていることとは、どう考えても食い違っています。このことをどう捉えたらよいのでしょうか。これは教会の歴史において人々が直面してきた大きな問題でした。キリスト教はその成立からおよそ300年間、ローマ帝国の中で迫害を受ける立場でした。信仰を貫くことによって殺されてしまうかもしれないという時代だったのです。それは大変な時代でしたが、ある意味ではすっきりしていたと言うことができます。つまり教会はローマ帝国の国家にとってはアウトサイダーであり、国の政治などに口出しもできない代わりに責任もなかったのです。人々は純粋に信仰のことだけを考えて生きることが出来た、だから主イエスの教えに従って軍隊に加わることはしない、ということが可能だったのです。しかし紀元4世紀になり、キリスト教が公認され、その世紀の終りにはローマの国教となることによって、社会における教会の立場は大きく変わりました。国の政治を左右する勢力となり、同時にそれに対する責任を負うべき存在となったのです。そうなる中で、教会も、キリスト者一人一人も、戦争や軍隊というものを外から眺めているわけにはいかなくなりました。国と国の間に、あるいはある勢力と他の勢力の間に対立が生じ、戦争が起る。その現実の中で国を守り、人々を守るために武器を取って戦うことも避けられなくなったのです。つまり「剣をとる者は剣で滅びる」と言っているだけでは済まなくなったのです。

神の現実と人間の現実
 このことはある意味では、理想と現実のギャップということです。理想においては、主イエスがおっしゃたように、一切の戦い、戦争が放棄され、敵と戦うのでなく愛することが望ましい、しかし現実の敵対関係の中で直ちにそうはいかないから、戦い、戦争があるという現実を認め、それに備えながら、その中で、理想に向かって一歩一歩近づいていくために努力するしかない、そういうこととしてこれを理解することはできるでしょう。しかし私たちはこのことを、理想と現実の食い違いとしてだけ捉えてしまってはならないと思います。主イエスがお語りになったことは単なる理想ではありません。主イエスは、高尚だが実現不可能な理想を語った理想主義者ではないのです。主イエスがお語りになったことは、人間の理想ではなくて、神の現実です。神がこの世に実現して下さる現実を主イエスはお語りになったのです。その神の現実は主イエス・キリストにおいて既に実現し始めています。主イエスが、神に敵対している罪人のために十字架にかかって死んで下さったところに、「敵を愛せよ」という教えが実現しています。神の敵となってしまっている私たちを、主イエスは命を捨てて愛して下さったのです。「剣をとる者は剣で滅びる」というみ言葉も、その十字架の死への歩みにおいて、剣で主イエスを守ろうとした弟子たちに対して語られたものでした。主イエスは自らが剣を取ることを拒み、戦うことをせずに敵に身を委ね、十字架の死へと歩まれたのです。そこに、戦いの否定、戦争の放棄の実現があります。主イエスがこのように敵を愛し、戦いを放棄されたことによって、私たちのための神の救いが成し遂げられたのです。しかし主イエス・キリストが実現して下さった戦いの否定、戦争の放棄は、まだ人間の現実となってはいません。キリストにおいて実現された神の現実が人間の現実となるのは、この世の終りに、主イエス・キリストがもう一度来られ、そのご支配が目に見える仕方で完成する時です。主イエスが実現して下さった戦いの放棄が人間の現実となるのは、この世の終りにおいてなのです。それまでは、それは隠された現実であり希望における現実です。ということは、この世の終りまで、人間どうしの戦いが無くなることはない、ということです。キリストの再臨によって神のご支配が、つまり私たちの救いが完成するこの世の終りまでは、人間の罪や弱さによって起る対立、争い、戦いが無くなることはないでしょう。しかし戦いの否定、戦争の放棄は単なる理想ではなくて、この世の終りには、神による救いが完成する時には、それは確かに現実となり、戦いは無くなり、神による真実の平和が実現するのです。信仰をもって生きるとは、この世の人間の現実と、世の終わりに実現する神の現実の両方を見つめて生きることです。それは、理想と現実の狭間で、どこかで折り合いをつけて生きるのとは別のことです。理想主義者は、現実の暗さを最後まで担い切ることはできません。理想主義は、挫折の体験の中でたやすく虚無主義、あきらめに変わるのです。また理想主義者は本当の希望を持つことができません。理想主義においては、理想の実現を保証するものは実際のところ何もないからです。ただ信仰者のみが、人間の現実の暗さをしっかり見つめつつ、その中で、神によって既に実現しており、世の終わりに目に見える仕方で実現する、今は目に見えない現実を見つめ、希望を失わずに暗い現実を担い続けることができるのです。つまり私たち信仰者は、この世の終りまで戦争が無くなることはないという人間の現実を目を逸らさずに見つめつつ、主イエスにおいて神が既に実現して下さり、私たちに約束して下さっている救いの完成を信じて待ち望みつつ、希望を失わずに生きるのです。

ものの考え方どうしの戦い
 私は戦争の体験記や戦争について書かれたものに興味があり、よく読みます。それは私が戦争が好きだということではなくて、これらのものには人間の生と死のドラマがあり、極限状況に置かれた人間の赤裸々な姿が描き出されていることを感じるからです。そしてそれらの戦争に関する本を読むことによって気づかされたことがあります。それは、戦争には、その国の軍隊の、そして政府の、ひいてはその国民のものの考え方が現れるということです。戦争というのは、軍事力どうしの戦いというだけでなく、結局はものの考え方どうしの戦いなのです。例えば太平洋戦争において、日本は兵士の命を大切にせず、貧弱な装備を大和魂で補って戦おうとしました。捕虜になることは恥だからむしろ死ねと教えました。飛行機も、攻撃力だけを考えて造り、防御を整えようとはしなかったのです。それに対してアメリカは兵士ができるだけ生きて帰れるようにすることを大事にしていました。飛行機も防御力を重視して造り、そのために重くなった分はエンジンの出力を高めることで補ったのです。日本があの戦争に負けたのは、アメリカの物量に敵わなかったというよりも、そういう根本的なものの考え方において既に負けていたのです。つまり、どのように戦争をするかということに、その国の、その民のものの考え方が現れるのです。イスラエルの民はどのように戦争をするのかを語っているこの申命記20章にはそういう意味で、イスラエルの民の根本的なものの考え方が現れていると言うことができるのです。

主が共におられる
 その考え方のさらに根本を語っているのが1節です。「あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである」。これが、イスラエルが戦いに臨む時の根本的なものの考え方なのです。このことを祭司が民に告げる言葉が3、4節です。「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである」。主なる神が共におられ、主ご自身が敵と戦って勝利を賜る、これが、この20章に語られていることの中心です。戦いに臨むイスラエルの民のものの考え方の中心にはこの信仰があるのです。
 主が共におられる、それは間もなく迎えようとしているクリスマスに私たちに与えられた神の恵みの宣言です。神の独り子イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で私たちの救い主としてお生まれになった出来事は、主なる神が私たちのところに来て下さり、私たちと共にいて下さる、という恵みの実現です。マタイによる福音書はそのことを「インマヌエル」と言い表しました。それは「神は我々と共におられる」という意味です。主イエスの誕生において、主なる神が共におられるという恵みが実現したのです。その恵みは、主イエスの十字架の死と復活を通してさらに確かなものとなりました。先程共に朗読した新約聖書の箇所、マタイによる福音書第28章16節以下がそのことを語っています。復活した主イエスが、18節以下で弟子たちにこうお語りになったのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。神の独り子であられる主イエスが世の終わりまでいつも共にいて下さる、この約束を与えられて弟子たちは、そしてその後に続く私たち信仰者はこの世へと遣わされ、全ての民を主イエスの弟子とし、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、主のご命令を守るように教える伝道の戦いを戦っていくのです。

目に見えない現実を信じて
 その主イエスは、天と地の一切の権能を授かっている方です。主イエス・キリストのご支配の及ばない所は、天にも地にも、どこにもないのです。主イエス・キリストが授かっているこの救いの権威に支えられて、私たちはそれぞれの信仰の戦いの場へと遣わされていくのです。しかし主イエスのその権能は誰の目にもはっきりと見えるものにはなっていません。この世の目に見える現実は、主イエスの権能とは全く係わりを持たない別の力に支配されているように思われます。そのような目に見える現実の中で私たちは、主イエス・キリストに天と地の一切の権能が与えられていることを信じて歩むのです。そこに私たちの信仰の戦いがあります。その私たちの信仰の戦いは、イスラエルの民が、彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神が、目には見えないけれども共にいて下さることを信じて戦った、その戦いと同じです。その戦いにおいて主は、「馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない」と言っておられます。目に見える現実においては、敵の方が自分たちよりも優れた装備を持ち、数も多いのです。その現実を前にしてイスラエルの人々も当然恐れを覚えたことでしょう。しかし主なる神は「心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである」とおっしゃるのです。主が共にいて戦って下さるという目に見えない現実を信じて、目に見える現実の敵と戦っていく、それがイスラエルの民の戦いであり、それと同じ戦いを私たちも信仰において戦っているのです。

イスラエルの民の戦い方
 この基本的なものの考え方、言い換えれば信仰から、イスラエルの民における戦争の仕方が決まってきます。それが5節以下の、役人たちが民に勧める言葉に示されているのです。ここには、兵士たちの中から、戦いに参加することを免除される人々のことが語られています。先ず三種類の人々のことが挙げられています。第一は「新しい家を建てて、まだ奉献式を済ませていない者」です。第二は「ぶどう畑を作り、まだ最初の収穫をしていない者」です。第三は「婚約しただけで、まだ結婚していない者」です。第一の「奉献式」については、イスラエルの人々において家の奉献式がなされていたのかは疑わしいとして、これはむしろ「新しい家を建ててまだそこに住んでいない者」のことだという説もあります。いずれにせよこの三つのケースは、日常の生活において新しいことを始めたばかりで、そのことが気になっている者ということです。そのような者は「家に帰りなさい」と言われているのです。この言葉は日本人の感覚においては、「お前のような者は役に立たないから帰れ」という、その人への非難と軽蔑を込めた言葉として受け取られます。だから、そんなことを言われるのは恥だから、「いえ、自分はそんなことに気を取られるようなことはありません。しっかり戦います」と言うことになるのです。しかし申命記はそのような感覚は一切持っていません。このような事情を抱えている者は本当に家に帰ってよいのです。むしろ帰ってその自分の業をしっかり全うすることを求めているのです。戦いは、今そのような事情を抱えていない者、戦いに専念できる者だけですればよいのです。今はそういう事情を抱えている人も、別の戦いの時には、戦いに専念できるようになるでしょう。その時にはその人が戦い、その時に事情を抱えている人が今度は家に帰る、それでよいのです。戦う人が帰る人を羨むのでもなく、帰る人が戦う人に対して後ろめたい思いを抱くのでもないのです。また8節にはさらに「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから」とも言われています。生活上の事情のある人だけでなく、恐怖に捉えられて心ひるんでいる者も帰ってよいのです。その人の恐れが他の戦士たちに影響を与えて他の人の心をも挫けさせてはいけないからです。このことも、恐怖に捉えられている人を非難しているのではありません。むしろ、戦いは、心に確信を持ち、喜んでそれに当れる者のみで行った方がよい、ということです。恐れている人を「卑怯者」と非難するような思いはここにはないのです。このような戦いのあり方を生み出しているのが、「主が共におられ、主ご自身が戦われる」という信仰です。主が共にいて戦って下さるのだから、人間の軍備や兵力を必死になってかき集めなくてもよいのです。むしろ、主の力に信頼し、他のものに心乱されることなく戦う少数の者がいればよいのです。馬や戦車が、また兵隊の数が戦いを決めるのではない、主が共に戦って下さることこそが決定的なのだ、という信仰が、ここに語られている大らかな、ある意味で呑気な戦い方を生んでいるのです。当時の戦争においては、いや今でもですが、できるだけ優れた武器を整え、またできるだけ多くの兵力をつぎ込むものです。その上で、神の加護によって勝利が得られるように祈る、ということをどこの民族もしていたわけですが、イスラエルの民の戦争の仕方はそれとは全く違っていたのです。彼らは、自分たちの力によって戦って勝利しようとする思いを徹底的に退け、共におられる主なる神が戦って勝利を与えて下さることを信じる群れを整えて戦いに臨んだのです。

私たちの信仰の戦い
 私たちも、信仰の戦いをそのように戦い、またそのように戦う群れを整えていきたいものです。私たちが自分の力で戦って勝利を得るのではないのです。主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るのです。そのことを本当に信じることによってこそ、私たちは自分に対しても他の人に対しても大らかになることができます。大らかな思いで信仰の戦いを戦うことができるし、そのような群れを築いていくことができるのです。その戦いにおいては、いつも自分が最前線で戦っていなければならないと思う必要はありません。自分は家に帰っていることがあってよいのです。いろいろな事情によって戦いから身を引いて休養することがあってよいのです。その間は信仰の仲間たちが戦ってくれているのです。そのことを後ろめたく思う必要はないし、自分はこの戦いにおいて何の役にも立っていない、と引け目に思う必要もありません。もともとこの戦いは私たちが自分の力で戦うのではなくて、主なる神が戦っていて下さるのです。自分はこの戦いで役に立っている、勝利に貢献している、などと思うこと自体が大きな間違いです。役に立たない者である私たちが、しかし主が共にいて戦って下さるがゆえに、その戦いに加わることができ、そこである役割を果たすことを許されているのです。それゆえに、今その戦いにおいて用いられている者は、主のもとで戦うことを許されていることを喜びつつ、前線から退いている人の分まで、主が共に戦って下さっていることを信じて恐れず慌てず戦うのです。そして今は前線から退いている者は、今戦っている兄弟姉妹のことを祈って支えるのです。

主が共に戦われる
 先ほど、イスラエルの戦争は初期と後期では性格が違うと申しました。申命記は初期の戦争、カナンの地を獲得するための戦争について語っている、とも申しました。しかし以前にもお話ししましたが、申命記は実際にはもっと後の時代に書かれたものであり、南ユダ王国におけるヨシヤ王の宗教改革と関係があると思われます。つまり申命記が書かれた時には北イスラエル王国は既にアッシリア帝国に滅ぼされおり、ユダ王国も外国の侵略の脅威にさらされていたのです。現にヨシヤ王も、エジプト軍を迎え撃つ戦いにおいて戦死したのです。つまりこの時代の戦争は、国の存亡を懸けたものであり、負ければ国が滅亡するような状況での戦争なのです。呑気な、大らかなことを言っていられる状況ではない、戦える者は全て動員して、一億玉砕の覚悟で戦わなければならない、私たちならそのように考えるような場面なのです。その状況のもとで、申命記は、戦争というこの世の厳しい現実を、主が共に戦って下さる信仰の戦いとして受け止めたのです。それゆえにここに語られていることは、戦争のやり方についての教えと言うよりも、信仰の告白です。信仰に基づくものの考え方の大胆な表明です。この信仰を、それに基づく大胆な戦いのあり方を、私たちは、主イエス・キリストによる新しいイスラエルである教会の信仰の戦いにおいて継承していきたいのです。

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