【2026年9月奨励】「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。」

  • テモテへの手紙二 第2章8〜13節
今月の奨励

2026年9月の聖句についての奨励(9月2日 昼の聖書研究祈祷会)
「私たちが真実でなくても この方は常に真実であられる。」(13節)

テモテへの手紙二第2章8〜13節
牧師 藤掛順一

テモテへの励ましのために
テモテへの手紙二は、使徒パウロが、「私の子」(2章1節)と呼んでいる若い伝道者テモ
テに書き送ったものとされています。9節に「この福音のために私は苦しみを受け、ついに
犯罪人のように鎖につながれています」とあるように、パウロは、福音を伝道したために獄
に捕えられています。つまり信仰のゆえに迫害を受けているのです。若い伝道者テモテがそ
のことによって気落ちしてしまうことがないように励まそうとしてパウロはこの手紙を書い
ています。1章6〜8節にそのパウロの思いが現れています。「こういうわけで、私はあな
たに注意したいのです。私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び
燃え立たせなさい。神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮
の霊だからです。ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じ
てはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてくださ
い」。2章3、4節にも「キリスト・イエスの良い兵士として、苦しみを共にしてくださ
い。兵役に服している者は、生計を立てるための仕事に関わることなく、ただ自分を召集し
た者を喜ばせようとします。」とあります。「私もあなたも、主イエス・キリストの兵士とし
て召集された者だ。臆病の霊にとりつかれて、主を証しすることを恥じてしまうことなく、
召集して下さった主イエスに喜んでいただけるように、苦しみを共にしようではないか」。
父とも慕っている大伝道者パウロがこのように語りかけてくれたことは、テモテにとって大
きな励ましとなったことでしょう。

イエス・キリストを思い起こしなさい
けれどもパウロは、テモテが本当に確かな励ましを得ることができるのはパウロの言葉に
よってではないことを知っていました。彼は8節で、「イエス・キリストを思い起こしなさ
い」と言っています。テモテに本当に確かな励ましを与えるのは、「イエス・キリストを思
い起こすこと」なのです。そのイエス・キリストとはどのような方か。パウロはこう続けま
す。「私の福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されました」。「ダ
ビデの子孫で」は、主イエスが旧約聖書に約束されていた救い主メシアであることを示して
いますが、それだけでなく、主イエスが一人の人間として生まれ、この世を生きて下さっ
た、ということでもあります。そしてその主イエスが「死者の中から復活されました」と彼
は語っています。その前提にはもちろん、主イエスが十字架にかかって死んだことがありま
す。イエス・キリストは、この世を人間として歩み、私たちのために十字架にかかって死ん
で下さり、そして死者の中から復活して下さったのです。このイエス・キリストこそが「ダ
ビデの子孫」として生まれた救い主メシアです。ダビデの子孫によって与えると神が約束し
て下さっていた救いが、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した。これこそ
が、パウロが宣べ伝えている「私の福音」であり、この福音のためにパウロは今獄に捕えら
れているのです。同じ福音を宣べ伝えているテモテも、同じような迫害を受けることになる
でしょう。そのような苦しみの中で彼らを本当に支え、力づけ、励ますのは、「イエス・キ
リストを思い起こす」ことなのです。

神の言葉はつながれていない
しかしパウロが「イエス・キリストを思い起こしなさい」と言っているのは、「イエス・
キリストの十字架と復活による救いという福音を思い起こし、その福音にしっかり立って歩
みなさい」ということとは違います。その違いは9節の終わりの「しかし、神の言葉はつな
がれていません」から分かります。これはその前のところの、「この福音のために私は苦し
みを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています」を受けており、自分は鎖につなが
れて不自由な身になっているが、神の言葉はつながれてはおらず、自由に活動しており、前
進している、ということです。パウロはテモテに、このことをこそ見つめさせようとしてい
るのです。つまりパウロがここで指し示しているのは、神ご自身が、み言葉によってみ業を
おし進めておられる、という事実です。迫害によって自分は獄につながれ、自由に福音を宣
べ伝えることができなくなっているけれども、神の言葉はそんなことによって妨げられては
いない。神ご自身が生きて働いておられるのだから、人間のどんな妨害の中でも、神の言葉
は力強く前進しているのです。それは言い換えれば、死者の中から復活して生きておられる
主イエス・キリストが、今も力強く救いのみ業を行っておられる、ということです。死の力
も、主イエスを妨害し、つなぎとめることはできなかったように、人間のどのような力も、
主イエスによる救いのみ業を妨げることはできないのです。パウロが「思い起こしなさい」
と言っているのは、このイエス・キリストです。つまりパウロがテモテに勧めているのは、
イエス・キリストによる救いの知らせ、つまり福音を「思い起こし、そこにしっかり立って
歩む」ことではありません。福音を思い起こしたりそこに立って歩むのは私たち人間です。
パウロはそういう努力や頑張りを求めているのではなくて、主イエス・キリストが、死の力
にも勝利した力によって、人間のいかなる迫害によっても妨げられることなく、救いのみ業
を前進させて下さっている、という事実を思い起こし、そのイエス・キリストを見つめ、信
頼して歩みなさい、と言っているのです。

あらゆることを耐え忍んでいる
パウロ自身、生きてみ業を行っておられるイエス・キリストに信頼して歩んでいます。だ
からこそ彼は、投獄されても気落ちしていないのです。むしろ10節でこう言っています。
「だから、私は、選ばれた人々のためにあらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリス
ト・イエスにある救いを永遠の栄光と共に得るためです」。「あらゆることを耐え忍んでい
る」。それはパウロは超人的な忍耐力を持っていた、という話ではありません。彼は、イエ
ス・キリストを思い起こしているのです。死に勝利して復活し、生きておられるイエス・キ
リストが、その力をもって今もみ業を行っておられ、人間のどのような力もそのみ業を妨げ
ることはできないことを見つめているのです。それゆえに彼は、自分自身は獄につながれて
何もできなくても、「神の言葉はつながれていません」と信じることができ、それゆえに
「あらゆることを耐え忍ぶ」ことができたのです。神がみ言葉によって力強くみ業を行って
下さっていることを信頼しているからです。

神の選びによる救い
また彼がここで「選ばれた人々のために」と言っていることも大事です。「選ばれた人」
こそが「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得る」のです。「神に選ばれた人
のみが救われる」という教えは、神が救われる者と滅びる者をあらかじめ決めておられるな
ら人間は何をしても無駄ではないか、という反発を招きがちですが、この教えが語っている
のは、救いは人間が何らかの条件を満たすことによってではなくて、ただ神のみ心(選び)
とみ業によって実現し、与えられる、ということです。それは、人間はどんなに素晴しい良
い行いをしても、それによって救いを獲得することはできない、ということでもあります
が、同時に、人間がどんなに罪深い者であっても、そのことが神の恵みによる救いを妨げる
ことはない、ということでもあります。私たちはこの神の恵みのみ心とみ業によってこそ救
われているのではないでしょうか。つまり、神に背いてばかりで、自分自身の中には救われ
る根拠など何もない罪人である自分が、どういうわけか神に選ばれて教会へと導かれ、信仰
を与えられ、主イエスによる赦しにあずかって救われた、それが私たちの体験なのではない
でしょうか。この神の選びの恵みによる救いを否定するとしたら、救いは何らかの条件を満
たした人に与えられる、ということになります。そこに私たちの救いはあるでしょうか。私
たちは救われるための条件を満たすことなどできないのです。自分はそれを満たすことがで
きると思う人がいるとしたら、その人は自分の罪が全く見えていないのです。また人間が条
件を満たすことによって救われるということになると、そこには、自分の方があの人より救
いの条件をより満たしている、と誇って人を裁いたり、逆にひがんで落ち込んだりすること
が起こります。そのように人と比べ合っているところに確かな救いなどありません。主イエ
ス・キリストは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによっ
て、何の条件も満たすことのできない者がただ神の恵みのみ心によって救われる、という救
いを実現して下さったのです。それが10節の「キリスト・イエスにある救い」です。その
救いは、何らかの条件を満たした人にではなくて、神が恵みによって選んで下さった者に与
えられるのです。だからこそそれは確かな救いなのです。パウロが「イエス・キリストを思
い起こしなさい」と言ったのは、この「キリスト・イエスにある救い」をこそ見つめさせる
ためです。そして彼が「神の言葉はつながれていません」と言ったのも、復活して生きてお
られるイエス・キリストが、神の選びによって与えられるこの確かな救いを、人間のいかな
る妨害にも負けず、死の力にも勝利しておし進めて下さっていることを見つめさせるためだ
ったのです。

「既に」と「未だ」
イエス・キリストを思い起こさせるためにパウロは、11節以下で、初代の教会において
歌われていた、主イエス・キリストを賛美する歌を引用しています。共に賛美歌を歌うこと
によってイエス・キリストを思い起こし、信仰を励まされることは私たちも体験しているこ
とです。「次の言葉は真実です」に続いて引用されているのがその歌詞です。11節には
「私たちは、この方と共に死んだのなら/この方と共に生きるようになる」とあります。そ
れは洗礼を受けたキリスト信者のことです。洗礼は、生まれつき罪に支配されている私たち
が、「この方」つまりキリストと結び合わされ、キリストと共に死ぬことによって、キリス
トの復活にあずかり、キリストと共に新しい命を生き始めることのしるしです。洗礼を受け
たキリスト信者は、キリストと共に死んで、キリストと共に復活の命を生きているのです。
しかし「この方と共に生きるようになる」は、今既に新しい命を生き始めている、というだ
けでなく、将来、世の終わりの救いの完成の時に、キリストの復活にあずかって復活と永遠
の命を生きる者とされる、という希望をも見つめています。そのことは12節の「耐え忍ぶ
なら/この方と共に支配するようになる」とも重なります。世の終わりが来る前の、今のこ
の地上の歩みにおいては、今パウロが受けているような迫害などによる様々な困難、苦しみ
があり、「臆病の霊」にとりつかれてしまったり、主を証しすることや主の囚人であること
を「恥じて」しまうようなことも起ります。だから「あらゆることを耐え忍ぶ」ことが必要
なのです。つまり私たちは、洗礼によって既にキリストの復活の命を生き始めていますが、
未だ、キリストと共に永遠の命を生きてはいないのです。その「未だ」の現実の中で耐え忍
んで歩むことによって、主イエスがもう一度来て下さり、そのご支配が完成する世の終わり
に、「この方と共に生きるようになる」、「この方と共に支配するようになる」のです。その
ことを希望をもって待ち望みながら、苦しみに満ちているこの世を忍耐しつつ生きることが
私たちの信仰なのです。

苦しみの中でも主イエスを否むことなく耐え忍ぶ
12節後半の「私たちが否むなら/この方も私たちを否まれる」は、未だキリストと共に
永遠の命を生きてはいないこの世の現実の中で、忍耐しつつ主イエスと共に生きることをや
めてしまうことへの警告です。苦しみの中で主イエスを否み、主イエスと共に生きることを
やめてしまうなら、主イエスも私たちを否む、つまり主イエスと私たちの繋がりが断ち切ら
れ、主イエスによる救いが失われるのです。この12節は、私たちが世の終わりに、主イエ
スと共に永遠の命を生きる者となるという救いを得るためには、苦しみの多いこの世の人生
において私たちが主イエスを否むことなく、信仰を保って歩み通さなければならない、と語
っています。つまり救いを得られるかどうかは私たち次第だ、と言っているのです。信仰を
もって生きるためには「苦しみの中でも主イエスを否むことなく耐え忍ぶ」ことがどうして
も必要ですから、これは大切なことです。迫害の中に置かれていた初代の教会の人々は、こ
の賛美歌を共に歌いつつ、世の終わりの救いの完成を信じて待ち望みつつ忍耐して、主イエ
スを否むことなく主イエスと共に生きる信仰を励まし合っていたのです。

キリストの真実に支えられて
けれども続く13節には、そのような私たちの忍耐も、私たちの努力にかかっているので
はなくて、実は主イエス・キリストによって支えられていることが歌われています。「私た
ちが真実でなくても/この方は常に真実であられる。この方はご自身を否むことはできない
からである」。原文においてはこのように「真実」という同じ言葉が二度語られています。
新共同訳では最初のところは「わたしたちが誠実でなくても」と訳されていました。「私た
ちが真実でなくても」というのは、私たちが神に対して誠実であることが出来なくなってし
まっても、ということです。それは苦しみの中で、忍耐を失い、主イエスを否んでしまう、
主イエスに対する信仰の誠実を貫くことができなくなる、ということです。たまにそういう
ことがある、という呑気な話ではありません。私たちは常に、神に対して真実、誠実である
ことができないのです。つまり私たちの努力によって、忍耐してキリストと共に歩み続け、
キリストと共に永遠の命を生きる者となることなどできないのです。しかしそれにもかかわ
らず、「この方は常に真実であられる」。主イエス・キリストが真実であられるとは、主イエ
スが父なる神のみ心に忠実に従って、人となってこの世を歩み、苦しみを受け、十字架にか
かって死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現して下さったことを言ってい
ると共に、父なる神のみ力によって復活して生きておられる主イエスが、今も、私たちのた
めの救いのみ業を前進させて下さっている、ということでもあります。つまり主イエスが真
実な方であり続けて下さっていることによって、真実でも誠実でもあるこができない私たち
の罪が赦され、私たちはなお神の愛の下にいるのです。そしてこの主イエスの真実のゆえに
私たちは、世の終わりに、主イエスと共に永遠の命を生きる者となることを信じて待ち望む
ことができるのです。イエス・キリストが常に真実であられることによって、真実であるこ
とができない、つまり救われるための条件を満たすことなどできない私たちが、神による救
いにあずかることができるのです。神の選びによる救いとは、イエス・キリストの真実によ
る救いなのです。
この9月、私たちは教会創立152周年を迎えます。教会の152年の歴史は、主イエ
ス・キリストの真実によって支えられてきました。人間の歩みにおいては、罪や欠けの多
い、真実とは言えないようなことがいくらでもありました。今の私たちの歩みもそうです。
しかし、「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる」この事実が教会を常に
支えているのです。創立152周年を迎えるにあたって私たちは、「イエス・キリストを思
い起こし」、イエス・キリストの事実をこそ見つめ、真実な方であるイエス・キリストに信
頼して歩みたいのです。そのことこそが私たちを本当に支え、励まし、力付けるのです。

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