【2026年1月奨励】「あなたの言葉が開かれると光が射し 無知な者にも悟りを与えます。」

今月の奨励

2026年1月奨励「あなたの言葉が開かれると光が射し 無知な者にも悟りを与えます。」
牧師 藤掛順一
(詩編第119編130節、聖書協会共同訳)

「聖書協会共同訳」への切り替えの年
 主の2026年を迎えました。いよいよ今年の四月から、礼拝や集会で用いる聖書を、聖書協会共同訳に変更します。その準備として、既に毎月の聖句をこの新しい翻訳から選んでおり、それに親しんできています。新しい翻訳で聖書を読むことは、私たちにみ言葉との新しい出会いをもたらします。しかもそれは、全く知らなかったこととの出会いではありません。これまでの翻訳で既に読んでいたはずのみ言葉が、新しい響きをもって語りかけてくるのです。知っていると思っていたみ言葉の新たな面を見出すことができるのです。そういう驚きをこれから味わっていくことができると思うと楽しみです。そのことを通して、「あなたの言葉が開かれると光が射し、無知な者にも悟りを与えます」という恵みの体験が与えられていくことを願って、詩編第119編130節を1月の聖句としました。

あなたの言葉が開かれる
 「あなたの言葉が開かれる」というのは、考えてみれば不思議な表現です。でもそこに、私たちに与えられている恵みが的確に表現されていると言うことができると思います。「あなたの言葉」つまり神のみ言葉は聖書に記されています。聖書以外のところで私たちは「あなたの言葉」に触れることはできません。しかし、聖書を読めばそれでいつでも直ちに神の言葉に触れることができるわけではありません。聖書を目で読んでいても、あるいは耳で聞いていても、「神の言葉」として聞こえて来ないことも多いのです。しかし私たちはある時に、「あなたの言葉が開かれる」という体験をします。聖書の言葉が、まさに神の言葉として聞こえてくる、迫ってくるのです。それはまさに、それまで閉ざされていた扉が開かれるような体験です。そうすると、それまでも読み、聞いてはいたけれども心動かされなかった聖書の言葉が、他人事ではなくて自分自身のこと、自分に語られている神の言葉として聞こえて来るのです。

無知な者に悟りが与えられる
 その神の言葉によって、それまで見えなかったことが見えてきます。暗闇に光が射したように、自分が今どこにいるのかが分かり、周囲の状況が見えてくるのです。「あなたの言葉が開かれると光が射し」というのはそういうことです。み言葉が「開かれる」ことによって、そのみ言葉の光が射し、それによって照らされるという体験が与えられるのです。その体験は私たちを新しく歩み出させます。暗闇の中で何も見えずに立ちすくんでいた者が、光に照らされて、自分がどこにいるのかを知り、周囲の状況を知って、道を見出して歩き出すことができるように、み言葉によって私たちは道を示され、歩き出すのです。つまりみ言葉が開かれて光が射すことによって私たちは変えられ、新しく生き始めるのです。み言葉が他人事ではなくて自分自身のことになる、とはそういうことです。他人事はいくら聞いても自分が変えられることはありません。しかし自分自身のこと、自分に語られている言葉を聞くなら、私たちは変わるのです。新しく歩み出すのです。「無知な者にも悟りを与えます」というのはそういうことです。これは、それまで知識のなかった者が、いろいろなことを教えられて物知りになる、ということではありません。「無知な者」とは、暗闇の中でどうしたらよいか分からずに立ち尽くしている者です。そこに、み言葉の光が射すことによって、道が見えてきて、歩み出すことができる、それが「悟りを与える」ということです。つまり「悟り」とは、知識や理解が増すことではなくて、新しく生き始めることなのです。その意味で、新共同訳の「理解を与えます」よりも、聖書協会共同訳の「悟りを与えます」の方が訳として良いと言えるでしょう。

礼拝においてみ言葉が新たに開かれることを願い求めつつ
 私たちの信仰は、「あなたの言葉が開かれると光が射し、無知な者にも悟りを与えます」という体験によって与えられます。聖書を読み、いろいろな本を読んで知識を蓄積してもそれで信仰が生まれるわけではありません。しかしある時、「み言葉が開かれ、その光に照らされ、新しく生き始める」という体験が与えられるのです。その体験は、礼拝において、聖書の説き明かしである説教を聞くことの中でこそ与えられます。自分で聖書を読んでいてそういう体験をすることもあり得るでしょうが、それが起こるのは、普段礼拝において「み言葉が開かれる」体験をしているからこそでしょう。また生活の中のいろいろな場面で、み言葉が突然開かれて神からの語りかけを聞く、ということもあり得るでしょうが、それも、普段から聖書の言葉に触れていてこそ起こることです。「み言葉が開かれ、その光に照らされ、新しく生き始める」という体験は、礼拝を守りつつ生きる中でこそ起こるのです。ですから私たちはこの新しい年、礼拝において、神のみ言葉が新たに開かれ、神から自分への新たな語りかけが響き、み言葉の光が新たに射して、それに照らされた私たちが新しくされ、喜びと希望をもって生き始めることを祈り求めていきたいのです。新しい翻訳の聖書を用いていくのも、み言葉が新たに開かれ、み言葉の光が新たに射し、無知な私たちに新たな悟りが与えられていくことを願ってのことです。

「あなたの言葉」について歌っている詩編
 さて詩編119編は詩編の中で最も長い詩であり、アルファベットによる詩です。8節ずつのまとまりが22あるので176節まであります。22はヘブライ語のアルファベットの数です。本日の箇所である129節の前のところに括弧して「ペー」とあるのが、ヘブライ語の17番目のアルファベットで、129〜136節は全ての節がこの「ペー」というアルファベットで始まっているのです。そういう大変技巧的な詩であるわけですが、この長い詩全体が一つの主題をめぐって語られています。それは「神の言葉」つまり「あなたの言葉」です。この詩全体が神の言葉をほめたたえているのです。130節にはまさに「あなたの言葉」によって与えられる恵みが語られています。そしてその「あなたの言葉」はこの部分でいろいろに言い換えられています。129節では「あなたの定め」、131節では「あなたの戒め」、132節では「裁き」(ここだけは「あなたの」という形でないが、意味は「あなたの裁き」です)、133節では「あなたの仰せ」、134節では「あなたの諭し」、135節では「あなたの掟」、そして136節では「あなたの律法」です。これらの言葉が全て「あなたの言葉」の言い換えです。つまり130節だけでなく、この部分の全ての節が「あなたの言葉」について歌っているのです。そしてそれはこの「ペー」で始まる部分だけでなく、他の部分においても全てそうです。ですから119編の176節全てが、「あなたの言葉」について歌っているのです。

神のみ心に従って生きるようになる
 「言葉」が「定め、戒め、裁き、仰せ、諭し、掟、律法」と言い換えられている、ということからいろいろなことが見えてきます。一つは、「あなたの言葉」つまり神の言葉は「定め、戒め、諭し、掟、律法」でもある、ということです。神の言葉は、神がご自分の民に命じておられ、神の民が従うべき定め、戒め、諭し、掟、律法でもあるのです。つまり神の言葉が開かれ、その光に照らされて新しく生き始めるというのは、私たちが自分の思い通りに生きるようになることではなくて、神のみ心、ご命令に従って生き始めるということなのです。神の言葉が開かれるなら、私たちは神のみ心に従って生き始める。それこそが「無知な者に悟りを与える」ということです。神の定め、戒め、諭し、掟、律法、つまりみ心に従って生きるところにこそ、神に創造された人間としての本来の生き方があるし、そこでこそ私たちは本当に自由に、生き生きと、喜んで生きることができるのです。そのことが分かるようになることが「悟り」なのです。
 またこのことは、先ほど申しましたように、神の言葉が開かれる時に私たちは単に知識を与えられるのではなくて、新しく生きる者とされる、ということでもあります。神の言葉が開かれ、その光が射す時に、神が私たちに「このように生きなさい」と命じておられるみ心が示されるのです。生きて語りかけて来られる神との出会いがそこにあり、その神と共に生きる新しい人生が始まるのです。神の言葉が他人事ではなくて自分自身に語られている言葉になる、とはそういうことです。神の言葉が開かれると、それまで、人生の主人は自分だと思っており、自分の思い通りに生きることを願い求めていた私たちが、神を主人として、神のみに従って生きることへと方向転換を求められるのです。

律法は神の言葉
 神の「言葉」は「定め、戒め、諭し、掟、律法」と言い換えられる、ということは、ひっくり返せば、神の「定め、戒め、諭し、掟、律法」は神の「言葉」である、ということでもあります。定め、戒め、掟、律法と言うと私たちは、人を縛りつけ自由を奪うまさに「掟や規則」というイメージを抱きます。そしてそれは、掟や規則を守ることによって救いを得ることができる、という「律法主義」と結びつきがちです。しかし律法は単なる規則ではありません。「救われるために守らなければならない条件のリスト」ではないのです。律法の本質は「神の言葉」、つまり神から私たちへの語りかけです。私たちを造り、命を与えて下さり、そして私たちをご自分の民として下さった神が、私たちと交わりを持ち、共に生きることを願ってみ言葉を語りかけておられるのです。それを聞いて、神の語りかけに応えて私たちも神と語り合い、つまり祈りつつ、神との交わりに生きていくことが信仰です。つまり神の言葉が開かれるところに与えられるのは、規則や掟としての律法を厳格に守って生きる生活ではなくて、神の言葉に応答し、神と語り合いつつ共に生きる生活なのです。詩編119編の詩人が歌っているのはそういう生活の喜びです。

神のご支配の下で生きる
 129節には「あなたの定めは驚くべきものです」とあります。それは律法の内容が驚くべきものだと言うよりも、神がこの自分にみ言葉を語りかけ、交わりをもって共に生きて下さる、そのことが驚くべき恵みなのです。だから彼は131節で「あなたの戒めを慕い求めて私は口を開け、あえぎました」と言っています。雛鳥が餌を求めて大きく口を開けるように、神が語りかけて下さるみ言葉を慕い求めているのです。神のみ言葉を聞く驚くべき恵みなしには生きることができないのです。
 また133、134節では、「私の足取りをあなたの仰せで確かなものにしてください。どのような悪にも私を支配させないでください。人間の暴虐から私を贖ってください、私があなたの諭しを守れるように」と言っています。それは単に律法をちゃんと守って歩めますように、ということではなくて、神の仰せ(み言葉)を聞き、それに応えて、その諭しを守って、神との良い交わりに生きることを願い求めているのです。神のみ言葉を聞き、神との交わりに生きることによって、自分の歩みが神のご支配の下に置かれることを彼は願い求めています。神のご支配の下でこそ、どのような悪にも支配されない足取りが与えられます。神が守って下さり、人間の暴虐からも守って下さるからです。つまりこの詩人が祈り願っているのは、神のご支配が自分の上に確立することです。神の「言葉」が「裁き」とも言い換えられていることにそれが現れています。「裁き」と「支配」とは切り離すことができません。支配している者こそが裁くことができるのです。神はみ言葉を語りかけ、定め、戒め、諭し、掟、律法を与えることによって、ご自分の民を裁き、支配して下さるのです。この神のご支配を信じて、またそれを求めて生きることによってこそ、あらゆる悪や人間の暴虐から守られる確かな足取りが得られるのです。

み言葉が開かれ、新しい歩みが与えられることを求めて
 み言葉が開かれることによって与えられるこのような「悟り」を、つまり神と共に生きる新しい人生を、私たちもこの新しい年、祈り求めていきたいと思います。私たちに与えられている神の言葉は、神がその独り子である主イエス・キリストの十字架の死によって罪人である私たちを赦し、神の子として新しく生かして下さることを告げています。「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネによる福音書第1章14節)と言われているように、主イエスご自身が神の言葉そのものです。つまり神が独り子主イエスによって、私たちに語りかけ、私たちと交わりを持ち、共に生きようとして下さっているのです。つまり神の言葉は、単に主イエスによる罪の赦しや永遠の命の約束という「知識、情報」を伝えているのではなくて、十字架の死と復活を経て永遠の命を生きておられる主イエス・キリストとの出会いを与え、私たちを、主イエスと共に生きる新しい人生へと歩み出させるのです。それは主イエスの父である神のご支配を信じる歩みです。神こそが私たちを支配しておられ、そして世の終わりに全ての者をお裁きになることによってそのご支配を完成なさるのです。私たちは、終わりの日の裁きを恐れる必要はありません。み言葉が開かれ、その光に照らされ、神との交わりに生きている私たちは、人間の罪、悪が支配し、人間の暴虐が渦巻いているこの世を、「どのような悪にも私を支配させないでください。人間の暴虐から私を贖ってください」と祈り願いつつ、神のご支配が完成する終わりの日を希望をもって待ち望む確かな足取りをもってこの新しい年を歩むことができるのです。

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