【2025年10月奨励】「私たちは、この希望のうちに救われているのです。」

  • ローマの信徒への手紙 第8章23-25節
今月の奨励

2025年10月の聖句についての奨励(10月1日 昼の聖書研究祈祷会)
奨励「私たちは、この希望のうちに救われているのです。」 (24節) 牧師 藤掛順一
ローマの信徒への手紙第8章23-25節(聖書協会共同訳)

「希望によって」か「希望のうちに」か
 ローマの信徒への手紙第8章24節の前半「私たちは、この希望のうちに救われているのです。」を10月の聖句としました。来年4月から教会で使用することになっている聖書協会共同訳による文章です。ここは新共同訳では「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」となっています。ちなみにその前の口語訳では「わたしたちは、この望みによって救われているのである」であり、さらに以前の文語訳では「我らは望(のぞみ)によりて救はれたり」でした。つまり文語訳から新共同訳までは「希望によって」という理解であったのが、聖書協会共同訳では「希望のうちに」となったのです。ここは原文を直訳すると「この希望へと」とか「この希望の中で」となります。「〜によって」という意味の言葉はありません。多くの英語訳も「in this hope」となっています。言葉の意味からして、「希望によって」よりも「希望のうちに」の方が原文に即した訳だと言えるのです。内容的に言っても、「希望によって救われている」というと、救いが希望によって与えられている、確かな希望があるから救いを確信できる、つまり希望が救いの根拠だ、ということになります。しかしこの希望について24節後半には「現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか」と語られています。現に見ている何かが既に得られているわけではないのです。さらに25節には「まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」とあります。ここで見つめられている希望は「まだ見ていないものを忍耐して待ち望む」ことなのです。それは「救いが希望によって与えられている」とか「確かな希望があるから救いを確信できる」とか「希望が救いの根拠である」と言えるようなことではないでしょう。24節前半に語られているのは、希望が救いの根拠として与えられている、ということではなくて、救われている者は、その救いによって「まだ見ていないものを待ち望む」という希望を与えられているのだ、ということです。ですから「私たちは、この希望のうちに救われているのです」という訳の方が、ここに語られていることの内容を正しく言い表していると言えるのです。

「この希望」とは
 救われている者は「この希望のうちに」生きている。「この希望」とはどのような希望なのでしょうか。私たちはいろいろな「希望」を抱いています。何よりも、人生において自分の願いが叶うことを希望しています。人生における希望は人それぞれですが、基本的に誰もが、生活に困らないくらいの財産を得て、健康が維持され、生きがいのある人生を長生きすることを希望しています。しかし「この希望のうちに救われている」という「希望」は、そういう希望ではない、ということは私たちにも分かります。それではここに語られているのはどういう希望なのでしょうか。救われている者は何を希望して生きているのでしょうか。そのことは23節に語られています。「被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」、これを受けて24節に「この希望」と語られているのです。つまり「この希望」とは、「子にしていただくこと、体の贖われることを待ち望む」という希望なのです。

子にしていただく希望
 「子にしていただく」とはどういうことでしょうか。それについてはこの第8章の14〜17節にこう語られています。「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるからです」。
 「子にしていただく」とは、神の子にしていただくことであり、キリストと共に神の栄光を受け継ぐ者としていただくことです。それは神の独り子であるイエス・キリストによって実現する救いです。イエス・キリストによる救いにあずかり、洗礼を受けて主イエスと結び合わされて生きるなら、私たちも、主イエスと共に神を「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子とされるのです。そしてこの救いは、神の霊つまり聖霊が私たちの内に働いて下さることによって実現します。神の霊は「子としてくださる霊」であって、この霊によって私たちは神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです。
 またここには「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」と言われています。「誰でも」ということは、私たちがどんな人であっても、ということです。良い行いをしている立派な人でなければ神の子になれない、ということはないのです。私たちは、良い行いをしている立派な人どころか、神に背いてばかりいる罪人です。自分の清さや正しさによって神の子となることなど決してできません。しかし神はそのような私たちのために独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死と復活によって罪人である私たちを赦し、神の子として新しく生きることができるようにして下さったのです。キリストによって与えられたこの救いに私たちをあずからせて下さるのが、「子としてくださる霊」である聖霊です。そして23節には「霊の初穂を持っている私たち」とあります。洗礼を受けてキリストと結び合わされた私たちの内には、聖霊が初穂として与えられているのです。つまり私たちは「子としてくださる霊」の働きを既に受けており、神の子として生き始めているのです。しかしそれはまだ「初穂」、つまり最初の実りであって、本格的な収穫はこれからです。初穂は、これから与えられる豊かな収穫を約束しているのです。その収穫が完了するのは、世の終わりの救いの完成の時です。「子にしていただくこと」はその時に完成するのです。その時には私たちも主イエスと共に、父なる神のもとで、神の子として永遠に生きる者とされるのです。霊の初穂を持っている私たちには、この豊かな収穫が約束されています。「この希望」とは、このことを待ち望む希望なのです。

体が贖われる希望
 「この希望」は、「子にしていただくこと」と共に「体の贖われること」を待ち望む希望でもあります。「体の贖われること」については、この第8章の11節にこう語られています。「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう」。「あなたがたの死ぬべき体」とは、罪のゆえに死んで滅びるしかない私たちの生まれつきの体のことです。その死ぬべき体が罪を赦されて新しく生かされる、それが「体の贖われること」です。それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられた救いです。主イエスの十字架の死は、私たちの罪の贖いのための死でした。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の償いをして下さったので、私たちは罪を赦されたのです。そして父なる神は十字架にかかって死んだ主イエスを死者の中から復活させて下さいました。つまり神が死の力に勝利して、主イエスに新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。このことによって神は、私たちをもこの主イエスの復活にあずからせて、新しい命、復活の命を与えて下さることを約束して下さったのです。主イエスの十字架による罪の赦しにあずかった者は、主イエスの復活にもあずかって、復活と永遠の命を与えられることを約束されているのです。「キリストを死者の中から復活させた方は…あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう」というみ言葉はその約束を告げています。それが「体の贖われること」です。つまり「体の贖われること」とは、いつか死んで葬られ、死の支配下に置かれる私たちが、キリストを復活させて下さった神の力によって、死者の中から復活し、もはや死に支配されることのない永遠の命を生きる者とされる、ということです。私たちをこの救いにあずからせて下さるのも聖霊です。聖霊は、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」でもあります。この聖霊が初穂として私たちに与えられているのです。つまり私たちは「イエスを死者の中から復活させた方の霊」の働きを既に受け始めており、神が与えて下さる新しい命、復活の命を生き始めているのです。その霊の働きは、この世の終わりに完成します。その時私たちも、使徒信条において告白している「からだのよみがえり、とこしえの命」にあずかって、主イエスと共に永遠の命を生きる者とされるのです。それが「体の贖われること」です。主イエスによる救いにあずかった者はこのことをも待ち望んでいるのです。

聖霊が、初穂として与えられている
 つまり私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかる洗礼を受けたことによって、「子にしていただくこと」と「体の贖われること」を待ち望む希望に生きているのです。だから、希望が救いの根拠なのではなくて、救いによって希望が与えられているのです。「子にしていただくこと」も「体の贖われること」も、今のこの地上の人生のどこかで実現することではありません。どちらも、世の終わりの救いの完成の時に実現します。この世を生きている間はそれは「現に見ているもの」ではなくて「まだ見ていないもの」です。信仰に生きることは、この世においてはどこまで行っても、まだ見ていないものを信じて待ち望むことなのです。しかしそれは、実現するかどうか分からないものにしがみついて慰めを得ようとするような不確かなことではありません。この信仰によって私たちは「希望のうちに」生きるのです。その希望は「霊の初穂」によって与えられています。初穂として私たちに与えられている聖霊は「子としてくださる霊」であり「イエスを死者の中から復活させた方の霊」です。その霊が、洗礼を受けてキリストと結び合わされ、キリストの体である教会の一員とされている私たちの内に宿っていて下さり、み業を行って下さっているのです。この霊の働きによって私たちは、主イエスと共に神の子として既に生き始めているし、主イエスの十字架と復活による罪の赦し(贖い)にあずかって新しい命、復活の命を既に生き始めています。聖霊による救いのみ業は確かに始まっているのです。しかしその救いは未だ完成してはいません。完成するのは、主イエスがもう一度来られて、神のご支配があらわになり、完成する世の終わりの時です。主イエスが既にこの世に来て下さり、十字架と復活によって私たちのための救いのみ業を行って下さった、この「既に」に支えられて、その救いが「まだ見ていないもの」であるこの世の現実の中で、終末における救いの完成を待ち望んで生きることが私たちの信仰なのです。

忍耐して待ち望む
 25節には「まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです」とあります。「まだ見ていないもの」つまりまだ目に見える仕方で実現してはいない「子とされること」と「体の贖われること」を待ち望んで生きることには忍耐が必要です。そのことは23節の「子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」というところにも語られています。「心の中で呻きながら」とは、苦しみを忍耐しながら、ということです。まだ見ていないものを待ち望んで生きる信仰には苦しみが伴い、心の中で呻きながら忍耐して歩むことになるのです。しかし私たちは、自分の忍耐力によって苦しみと戦っていくのではありません。心の中で呻きながら忍耐して生きている私たちに、神は希望を与えて下さったのです。その希望は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられています。神の子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、そして父なる神が主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さったことによって、罪人である私たちが赦されて神の子とされ、新しく生きることができる、という救いが既に確かに実現しています。しかしその救いは未だ完成してはいません。それは「まだ見ていないもの」です。それが完成するのは、この世の終わりの救いの完成の時です。その時まで私たちは、この救いの完成を待ち望みつつ歩むのです。主イエス・キリストによる救いは、この「希望」として与えられています。その希望が、心の中で呻きながら忍耐して歩む私たちを支えるのです。「私たちは、この希望のうちに救われているのです」という聖句はそのことを語っているのです。
 私たちの信仰の歩みを支え導いて下さっているのは聖霊です。「子としてくださる霊」であり「イエスを死者の中から復活させた方の霊」である聖霊が、「初穂」として私たちに与えられているのです。この聖霊によって私たちは、主イエス・キリストの復活によって既に実現している新しい命、永遠の命を生き始めており、主イエスと共に神を「アッバ、父よ」と呼びつつ神の子として歩んでいます。この世の人生においては、この救いはどこまでも「まだ見ていないもの」ですから、そこには苦しみがあります。しかしそれは、17節に語られていたように、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」とされているがゆえの苦しみです。「キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受ける」という希望に支えられて、私たちは、この世をキリストと共に生きる苦しみを忍耐しつつ歩むのです。

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