2025年8月の聖句についての奨励(8月6日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「私たちはこの方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです。」(20節 聖書協会共同訳)
コリントの信徒への手紙二 第1章18〜20節
「アーメン」は私たちの信仰において重要な役割を果たす言葉
「アーメン」は、私たちの信仰生活に欠かすことのできない、また私たちの信仰を代表する言葉です。祈りの最後に私たちは「アーメン」と唱えます。私たちの教会ではあまりしませんが、教派によっては、皆で祈る時に、人の祈りの途中で「アーメン」と声をあげることがあります。それは、「その通り、それは自分の祈りでもある」という思いを表すためです。「信仰告白」の最後にも「アーメン」と唱えます。洗礼が授けられる時にも、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」という牧師の宣言に続いて皆で「アーメン」と唱えます。結婚式においても、二人が夫婦であることの宣言の最後に皆で「アーメン」と唱えます。その他にも牧師、長老、執事の按手・任職など、様々な大事な場面で「アーメン」という言葉が語られるのです。それは何故でしょうか。そこにはどんな意味があるのでしょうか。
聖書協会共同訳の付録の「用語解説」には、「アーメン」についてこう語られています(新共同訳も同じです)。「ヘブライ語・アラム語で『真実に』『確かに』などの意味。新約では、ギリシア語に音写されて用いられた。会話の中で相手に賛同するとき、集会で祈りに昇和するときなどに用いる」。旧約聖書は主にヘブライ語、一部アラム語で書かれていますが、そこにおける「アーメン」という言葉がそのままギリシア文字に移されて、新約聖書に用いられたのです。主イエスはアラム語を語っておられたと考えられています。主イエスご自身が語っておられた言葉がそのままの音で伝えられているのが「アーメン」です。そしてその意味は、「真実に」「確かに」であり、賛同する言葉だと説明されています。祈りの最後にアーメンと唱えるのは、「この祈りは真実に、確かに、私の祈りです」という思いを表すためです。共に祈る時に人の祈りにアーメンと唱和するのは、「この人の祈りは真実に、確かに、私の祈り、私たち皆の祈りでもあります」という思いを表すためです。洗礼式や結婚式、按手・任職などでのアーメンは、主なる神の恵みのみ業がそこで真実に、確かに行われていることを感謝をもって受け入れることの表明です。このように私たちの信仰の生活において、「アーメン」は大事な意味を持ち、重要な役割を果たしているのです。
今見てきたいつかのケースにおいては、「アーメン」は「真実に、確かに」という意味で、つまり賛同の言葉として用いられています。自分のまた他者の祈りに対して、神の恵みのみ業に対して、それを真実な、確かなものとして受け入れ、賛同する思いを言い表すために「アーメン」が語られるのです。しかし8月の聖句としたコリントの信徒への手紙二の第1章20節においては、「アーメン」がそれとは違う意味で用いられています。ここでは、「アーメン」と唱えることによって「神に栄光を帰する」と言われています。新共同訳では「神をたたえるため」と訳されています。「アーメン」はここでは、神に栄光を帰し、神をほめたたえる言葉なのです。それはどういうことなのでしょうか。
神の約束は主イエスにおいて「アーメン」となった
20節の全体はこうなっています。「神の約束はすべて、この方において、『然り』となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです」。神の約束が「然り」となった、そのことに応えて私たちも「アーメン」と唱えるのだ、と語られています。神の約束が然りとなったとは、それが「真実に、確かに」実現した、ということです。「この方において」とか「この方を通して」の「この方」はイエス・キリストです。神がご自分の約束を、イエス・キリストにおいて、「真実に、確かに」実現して下さったのです。つまり神の約束が主イエスによって「アーメン」となった、その恵みに応えて私たちも「アーメン」と唱えるのです。
イエス・キリストによって、神の「然り」が実現した
19節にはこう語られています。「私たち、つまり、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては、『然り』だけが実現したのです」。20節の、神の約束がこの方において「然り」となった、というのは、イエス・キリストによって神の約束が実現した、という意味ですが、19節の、「この方」つまりイエス・キリストにおいて「然り」だけが実現した、というところにおいては、イエス・キリストによって実現した約束の内容が見つめられています。イエス・キリストによって「然り」が実現したのです。しかもそれは、「然り」であると共に「否」でもあるような曖昧なことではなくて、「然り」だけが実現したのだと言われています。「然り」とは肯定の言葉、「否」は否定の言葉です。つまりイエス・キリストにおいて、神が私たちのことを「否定」するのでなく「肯定」して下さったのです。
私たちは、神によって命を与えられていながら、神を無視し、逆らい、自分が主人となって生きている罪人です。そのような私たちは本来、神によって否定され、裁かれ、滅ぼされるしかない者です。しかし神は独り子イエス・キリストによって、罪人である私たちを赦して下さり、神の子として生きることができるようにして下さいました。つまり神は私たちが本来受けるべき「否定」を「肯定」へと変えて下さったのです。「否」と言われるしかない私たちに、「然り」と宣言して下さったのです。「この方においては、『然り』だけが実現した」とはそういうことです。そのために主イエスは、私たちが受けるべき「否」をご自分の身に引き受けて下さいました。それが主イエスの十字架の死です。十字架の死は、神に呪われた罪人の死です。その神からの「否」を、主イエスは私たちに代って受けて下さったのです。その主イエスを父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それは、私たちが受けるべき「否」を背負い、引き受けて下さった主イエスを、神が徹底的に肯定し、「然り」と言って下さったということです。この主イエスの十字架の死と復活によって神は、罪人である私たちへの「否」を「然り」へと転換して下さったのです。主イエスを信じ、洗礼によって主イエスと結び合わされた私たちは、神が主イエスによって実現して下さったこの「然り」にあずかっています。それこそが、イエス・キリストによって実現した神の約束です。罪人である私たちに「然り」と宣言して下さる神の救いの約束が、イエス・キリストによって、真実に、確かに実現したのです。
神の救いを告げる言葉である「アーメン」
本日の箇所の「アーメン」はこのことを意味する言葉として用いられています。「真実に、確かに」という賛同を表すこの言葉は、根本的に「然り」という肯定の言葉です。それは私たちが何かを肯定し、賛同する時にも用いられますが、より根本的には、神が私たちを肯定して下さる言葉、神による救いを宣言する言葉なのです。神がイエス・キリストによって私たちに「アーメン」と宣言して下さり、私たちを肯定して下さったのです。「私はあなたを愛しており、あなたの罪を赦す。だからあなたは私の子として生きよ」と宣言して下さったのです。それが、イエス・キリストによって実現した神の救いです。「アーメン」は、その救いを一言で言い表している言葉だと言うことができるのです。
私たちの信仰の応答の言葉である「アーメン」
私たちの信仰は、神が私たちに告げて下さった「アーメン」という宣言への応答です。神が主イエス・キリストによって私たちの罪を赦し、肯定して下さったのに応えて、私たちも、神に向かって「アーメン」と唱えるのです。それは、神が独り子イエス・キリストの十字架と復活によって、真実に、確かに、私たちの罪を赦し、神の子として下さった、その救いを信じ、受け入れ、その救いにあずかって生きていくことの表明です。「私はあなたを愛しており、あなたの罪を赦す。だからあなたは私の子として生きよ」と宣言して下さった神に向かって、私たちも、「あなたこそ私の神です。私はあなたの子として生きていきます」とお応えして、神をほめたたえるのです。「アーメン」はそのような私たちの信仰の応答の言葉でもあります。「私たちはこの方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです」という8月の聖句はそのことを語っています。神が「アーメン」と語りかけて下さったことに応えて、私たちも神に「アーメン」と語りかけて生きるのです。ですから「アーメン」は、神による救いを一言で言い表していると同時に、私たちの信仰を一言で言い表している言葉であると言うこともできるのです。
パウロへの批判
ところで18節には「しかし、神は真実な方です。だから、あなたがたに向けた私たちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」とあります。パウロはここで、「あなたがたに向けた私たちの言葉」、つまりコリントの教会の人々に自分が語った言葉について述べています。それは15節以下にある、パウロたちのこれからの予定についての言葉です。15、16節にこうあります。「このような確信をもって、私は、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニアに行き、マケドニアから再びそちらに戻って、ユダヤに送り出してもらおうと考えたのでした」。マケドニアは今日のギリシアの北部、コリントは南部です。パウロは、先ずコリントへ行き、それからマケドニアへ、そこから再びコリントへ、そしてコリントからユダヤへ行く、という計画を立てたのです。しかしこの計画は変更を余儀なくされました。そのことの背景には、コリント教会に入り込んできた、パウロに批判的な人々の存在があると思われます。コリント教会はパウロの伝道によって誕生しましたが、その後パウロに敵対する人々の影響を受け、パウロとの関係が悪くなったのです。そういう事情の中で、コリント訪問の計画は変更されました。するとそのことでさらにパウロを批判する声があがったのです。17節の「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか」という言葉にそれが現れています。「行くと言っておきながら計画を変更するパウロは軽はずみな、不誠実な人だ」という批判があったのです。17節後半の「それとも、私の計画は人間的な考えによるもので、私にとって『然り、然り』が同時に、『否、否』となるのでしょうか」というところにもそれが現れています。「然り」と言っておきながら、実際の行動は「否」になっている、言っていることとやっていることが違う、という批判を受けていたのです。18節以下は、このような批判に答えるために語られています。「あなたがたに向けた私たちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」はこの17節を受けているのです。
パウロがここで語っているのは、自分の言葉は「然り」と同時に「否」であるような、その場その場でコロコロ変わってしまう無責任、不誠実な言葉ではない、ということです。しかし彼はそのことを語るために、「私は軽はずみなことはしていない、誠実に生きている」とは言っていません。彼は、自分の誠実さを証明することによって批判に答えようとしているのではなくて、自分が宣べ伝えているイエス・キリストの福音が真実であることを語っているのです。それが19節の「私たち、つまり、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては、『然り』だけが実現したのです」という言葉です。イエス・キリストにおいて、神の「然り」が実現した、そのイエス・キリストを私たちは宣べ伝えている、そのことを語ることによってパウロは、「彼の言葉は然りであったり否であったり、コロコロ変わる」という批判に答えているのです。
人間の誠実さを支えるものは何か
これは一見すると、「話のすり替え」のようにも感じられます。自分の誠実さが問われているのに、「神の誠実さ、神の真実」を持ち出すことによってその批判に答えているわけです。しかしここには、もっと深い、大事なことが語られています。それは、「人間の誠実さを本当に支えるものは何か」ということです。人間の誠実さ、人間の真実にそれを求めることはできない、ということがここに示されています。人間の誠実さ、人間の真実には限界があります。誠実に、真実に生きようと願い、努めていても、それを貫くことができない、ということが起こるのです。誠実、真実は人間どうしの関係におけることです。その人間どうしにはお互いに罪があり、弱さがあります。そのために、お互いが誠実に、真実に生きようとしていても、そこにはどうしてもいろいろなすれ違いが起こり、傷つけ合ってしまうことが起こるのです。だから、「自分は誠実に、真実に生きている」という思いがあればよいというわけではありません。お互いがそう思っていながら、「相手は誠実でない」と批判し合うようなことが起こるのです。そのような中で、私たちが本当に拠り所とし、立ち帰るべきところは、人間の(自分の)誠実さ、真実さではなくて、神の誠実さ、真実さです。私たちは、誠実でも真実でもあることができない罪人であり、その私たちの歩みは、「然り」と同時に「否」だったりするような、矛盾に満ちたものです。しかしそのような私たちのために、神は独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスはその十字架の死によって、私たちの受けるべき「否」を代って背負って下さり、そして復活によって私たちに、神からの「然り」をもたらして下さったのです。誠実でも真実でもない私たちに対して、神はどこまでも誠実、真実であって下さり、「然り」を実現して下さったのです。イエス・キリストによって実現したこの神の誠実、真実にあずかり、それにお応えして、神に感謝し、神をほめたたえつつ生きるところにこそ、私たちの歩みが誠実、真実なものとなっていくための土台があります。神がイエス・キリストによって私たちに「アーメン」と告げて下さった、その救いに応えて、私たちも神に「アーメン」と信仰を告白し、神をほめたたえていくのです。そのように歩むことによってこそ、私たちの歩みも、誠実、真実なものとなっていくのです。また私たちの関係が、お互いが持っている罪や弱さにもかかわらず、相手を「然り」と肯定することができる良いものとなっていくためにも、神がイエス・キリストによって実現して下さった「然り」に共にあずかることが必要なのです。「アーメン」は、神による救いを一言で表す言葉であると共に、私たちの信仰を一言で表す言葉でもあり、そして、私たちが隣人との間に誠実な良い関係を築いていくための土台ともなる、私たちの信仰を代表する言葉なのです。
