【2025年5月奨励】主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。

  • マルコによる福音書 第16章19、20節
今月の奨励

【2025年5月奨励】主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。
マルコによる福音書第16章19節
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昇天日を覚えて
 マルコによる福音書第16章19節を5月の聖句としました。イースターの日から数えて40日目が「昇天日」で、今年は5月29日(木)です。復活なさった主イエスが40日にわたって弟子たちにご自身を表され、そして弟子たちの見ている前で天に昇られたことを記念する日です。そのことを語っているのがこの箇所です。また、今年度、礼拝において用いる聖書を「聖書協会共同訳」に変更することを検討していくことになっていますので、紹介を兼ねて、聖書協会共同訳で読みます。

結び 一
 ところで、これは新共同訳も聖書協会共同訳も同じですが、マルコによる福音書の16章9節以下には、「結び 一」と「結び 二」があって、その全体が[   ]で囲まれています。この[ ]の意味は、聖書の初めのところの「凡例」に記されています。聖書協会共同訳の凡例(三の(4))にはこうあります。「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」。つまり、マルコによる福音書は元々は16章8節で終わっていたと思われるのです。そこに、後になって、しかしかなり古い時代に、「結び 一」と「結び 二」がつけ加えられたのです。そういう意味ではここは、マルコ福音書の本来の部分ではありませんが、「年代的に古く重要な箇所」とあるように、早い時期に、マルコ福音書に加えられたものです。マルコ福音書の内容と矛盾せず、むしろそれを受け継いでいると判断されたのです。このような[ ]は他にもあって、代表的な箇所はヨハネによる福音書の第7章53節〜第8章11節の「姦淫の女と主イエス」のところです。ここも、元々のヨハネ福音書にはなかったと思われますが、主イエスのお姿を印象的に語っている重要な箇所なので、[ ]に入れて本文の中に記されているのです。マルコ福音書の本日の箇所も、復活後の主イエスのお姿そして昇天を語る大事な箇所だと言えるのです。

主イエスによる派遣とそれに伴う約束
 さてこの「結び 一」の18節までのところには、復活した主イエスが弟子たちの前に姿を現したことが語られています。主イエスは15節以下で弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とお命じになり、弟子たちを福音の伝道へと派遣なさいました。そしてその命令、派遣に伴う約束として「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と語られました。弟子たちが遣わされて福音を宣べ伝えていくところには、これらの奇跡が伴うのだ、と主イエスはおっしゃったのです。ここに語られていることはどれも驚くべき奇跡です。しかしそれは基本的には、マタイによる福音書の最後のところに語られていることと同じだと言うことができます。マタイ福音書第28章18〜20節において主イエスは、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(聖書協会共同訳)とおっしゃいました。復活した主イエスは「天と地の一切の権能を授かっている」のです。その主イエスが、その権能によって弟子たちを遣わし、彼らはその主イエスの権能によって洗礼を授け、それによって主イエスによる救いが「すべての民」に及んでいくのです。その弟子たちの歩みには、天と地の一切の権能を授かっている主イエスが共にいて、み業を行なって下さるのです。「彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という奇跡は、その主イエスの権能によってなされることです。弟子たちが自分たちの力でこのような奇跡を行うのではありません。「天と地の一切の権能」を授かっている主イエスが、弟子たちの伝道と共にいて、これらのことをして下さるのだ、ということを、マタイもマルコも語っているのです。

ルカと使徒言行録における昇天
 さてマタイ福音書は復活した主イエスによる弟子たちの派遣の言葉をもって終わっていますが、マルコ福音書はその後に、主イエスが天に上げられたことを語っています。それが19節です。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた」。この主イエスの「昇天」を語っている福音書は、マルコとルカのみです。ルカにおいては24章50、51節に「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とあります。またルカの続編である「使徒言行録」の1章にも、主イエスの昇天のことが語られています。しかし「昇天」の語り方はそれぞれの箇所で違っています。ルカ24章の昇天は、主イエスが弟子たちを祝福なさったことと結びつけられており、「祝福しながら」天に上げられたと語っています。そこには「彼らを離れ」ともあります。つまり昇天によって主イエスは弟子たちのもとを離れて行かれたけれども、主イエスによる祝福は続いている、ということが見つめられているのです。しかし同じルカが書いたものでも使徒言行録第1章における昇天には「祝福」のことは語られていません。そこには主イエスが弟子たちの見ている前で天に上げられ、「雲に覆われて見えなくなった」ことが語られています。そしてその「見えなくなった」主イエスのお姿を求めて天を見上げている弟子たちに、天使が、主イエスの再臨の約束を告げたのです。つまり使徒言行録における昇天は、主イエスが、地上を生きている弟子たちのもとを離れて天に昇ったために、弟子たちの目に「見えなくなった」という出来事です。そのことは世の終わりの主イエスの再臨まで続きます。弟子たち(教会)は、主イエスのお姿をこの目で見ることができない中を生きていくのです。しかしいつまでもそのままなのではありません。主イエスは、「天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」のです。使徒言行録における昇天はこのように、終末における主の再臨と合わせて語られています。私たち(教会)は、主の昇天と再臨の間の時を生きているのです。今私たちは、天に昇られた主イエスのお姿をこの目で見ることはできませんが、しかしその主イエスがもう一度来て下さり、救いを完成して下さるという約束が与えられているのです。それを待ち望みつつ生きるのが私たちの信仰なのだ、ということが主イエスの昇天によって示されているのです。

神の右に座られた
 このように、ルカと使徒言行録では、主イエスの「昇天」において見つめられていることが違います。本日の箇所であるマルコ福音書も、主イエスの昇天について、また別のことを見つめているのです。マルコの特徴は、昇天と共に「神の右に座られた」と語られていることです。主イエスは天に昇り、今は父なる神の右の座に着いておられるという、後に「使徒信条」において全世界の教会が信じ、告白するようになることをマルコは語っているのです。マルコ福音書はこのことによって何を語っているのでしょうか。「神の右に座られた」ということの前提には、全能の父なる神が天において王としての座に着いておられる、ということがあります。つまり主イエスの父である神は、この世界全体を支配する王として、天において既にその王座に着いておられるのです。主イエスは天に昇って、その父なる神の王座の右に座られたのです。それは、父なる神の王としてのご支配を司る者となられた、ということです。主イエスの復活と昇天以降、この世界は、父なる神と、その右に座っておられる主イエスのご支配の下にあるのです。

主イエスの十字架と復活による神のご支配
 このことは私たちの救いにおいて決定的に重要なことです。この世界の全てをお創りになった父なる神が、この世界を支配しておられるというのは当然のことです。大事なことは、その父なる神のご支配がどのようになされているかです。主イエスが神の右に座られたというのは、父なる神のご支配は今や主イエスを通してなされている、ということです。主イエスは、父なる神の独り子であられ、ご自身がまことの神であられる方です。その主イエスが父なる神のみ心によって、私たちと同じ人間となってこの世に生まれ、生きて下さいました。そして私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さいました。神である主イエスが、私たちの救いのためにご自身の命をささげて下さったのです。その十字架の死によって、私たちは罪を赦され、神との良い関係を回復されました。そしてそれだけではなく、父なる神は十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、もはや死ぬことのない者、永遠の命を生きる者として下さいました。神はそのことによって、その主イエスを信じ、洗礼を受けて主イエスと結び合わされている私たちをも、主イエスの復活にあずからせ、復活と永遠の命を約束して下さったのです。私たちは、洗礼によって主イエスと結び合わされることによって、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかり、神との良い関係を回復され、神の子とされただけでなく、主イエスの復活にもあずかって、神が与えて下さる新しい命、永遠の命を生き始めているのです。主イエス・キリストは十字架の死と復活によってそういう救いを私たちのために実現して下さいました。その主イエスが、天に昇り、父なる神の右に座られたのです。それは、父なる神の、この世界に対する王としてのご支配が、今やこの主イエスによる救いのみ業によって私たちに与えられている、ということです。言い換えれば、神は独り子主イエスの十字架と復活によってこそ、この世界と私たちを支配して下さっているのだ、ということです。天の王座に着いて私たちとこの世界を支配し、導いておられる神は、独り子主イエスを遣わして、その十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、復活と永遠の命の約束を与えて下さった神に他ならないのです。主イエスが天に昇り、神の右に座られたというのは、神のこの世界と私たちへのご支配は、今や主イエスの十字架と復活を抜きにして捉えることはできない、ということを意味しているのです。

福音の伝道に伴うしるし
 そしてこの、父なる神の右に座られた主イエスの下で、弟子たちの伝道がなされていくのです。それを語っているのが20節です。「弟子たちは出て行って、至るところで福音を宣べ伝えた」。15節において与えられた「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という命令が、天に昇り、父なる神の右に座られた主イエスの、神のご支配を司っておられる権威と力の下で実現していくのです。その弟子たちの(教会の)歩みに、主イエスが共にいて下さいます。「主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた」。弟子たちのもとを離れ、天に昇った主イエスは、そのお姿をこの目で見ることはできませんが、しかし確かに弟子たちと共にいて下さり、み業を行って下さるのです。マタイによる福音書28章20節の「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束はこのようにして実現するのです。
 主イエスがして下さるのは、「彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた」というみ業です。つまり弟子たち(教会)の伝道において、語られている福音が確かなものであり、本当に人を生かす真実の言葉だということを、事実をもって示して下さるのです。17節以下に「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と語られているのはそのことです。私たちが主イエスによって派遣されて福音を宣べ伝えていくところに、神の右に座っておられる主イエスが共にいて、これらのしるしを伴わせて下さるのです。主イエスによる救いの福音は、神の恵みから私たちを引き離そうとする悪霊に打ち勝ち、悪霊の支配から私たちを解放します。福音の言葉は、人間が考える言葉、世間において常識とされている倫理、道徳の言葉とは全く違う、「新しい言葉」です。だからこそ人を新しく生かすのです。福音によって私たちは、「蛇や毒」に象徴される、私たちを脅かすものから救われ、神の恵みと愛の中で生きることができるようになります。そして福音が宣べ伝えられるところには、病の癒しが起こります。罪によって失われてしまっている神との関係が回復され、私たちが喜んで感謝しつつ希望をもって神と共に生きることができるようになるのです。そこに本当に健康な歩みが与えられます。福音が宣べ伝えられていくところには、このような驚くべき奇跡が起こるのです。私たちが主イエスを信じる者となり、洗礼を受けて教会に加えられたこと自体が、共にいて下さる主イエスによってなされた奇跡だと言えるでしょう。教会の歴史はそういう奇跡の連続です。そしてこれからも、私たちが福音を宣べ伝えていくところには、天に昇り、父なる神の右に座られた主イエスが共にいて下さることによるそのような奇跡、しるしが必ず伴うのです。主イエスの昇天はそのことの始まりなのだということを、マルコ福音書のこの「結び」は告げているのです。                                                 
 

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