【2024年11月奨励】わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。

  • マルコによる福音書 第11章15-19節
今月の奨励

2024年11月の聖句についての奨励 (11月6日 昼の聖書研究祈祷会) 奨励 牧師 藤掛順一
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」(17節)
マルコによる福音書 第11章15-19節

宮潔め
 教会創立150周年の記念行事もいよいよ終盤となりました。この11月には、「記念展示会」「記念コンサート」「記念講演会」が行われます。そして「横浜指路教会150年史」も発行されます。「展示会」「講演会」「150年史」によってこの教会の150年の歴史を振り返り、主の導きを感謝し、共に喜び祝う時として「コンサート」を行うのです。このような喜び祝い、つまり祭りの時に、私たちがしっかりと聞くべきであろうみ言葉を11月の聖句としました。
 15節以下に語られているのは、主イエスがエルサレムの神殿に来られ、その境内で、「売り買いしていた人々」を追い出し、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくりかえされた」こと、また、「境内を通って物を運ぶことをお許しにならなかった」ことです。いわゆる「宮潔め」と呼ばれている箇所です。神を礼拝するための場所、祈りのための場所であるはずの神殿が、人間の商売の場所、人間の欲望のために利用される場所となっていることに、主イエスがお怒りになったことがここに語られています。ここに「両替人」や「鳩を売る者」が出てきますが、彼らは、神殿に巡礼に来て、捧げ物をして神を礼拝しようとしていた人々の便宜をはかるためにいたのです。神殿に捧げることができたのは献金用の特別なお金だったので、一般のお金を献金用のお金に両替していたのが「両替人」です。また「鳩」は、牛や羊などの大きな動物をささげることができない貧しい人が神に献げるものとして売られていました。つまりここでなされていた商売は、よく私たちが神社のお祭りの時に境内で目にする屋台のようなものではなくて、礼拝のために必要な、いわば「礼拝ビジネス」だったのです。だからこれをしていた人々は、自分たちは神さまのため、神殿のためにこれをしているのだ、と思っていたでしょう。しかし主イエスはそこに、人間の欲望が入り込み、支配していることをご覧になったのです。神さまのため、礼拝のため、と言いながら、実は人間の欲望が支配していたのです。
 これと同じことは、私たちの教会の営みにおいても起こり得ます。神さまのため、教会のため、ということが表面的には言われていても、その奥に、私たち自身の喜びの追求だったり、あるいは自分の働きを誇りたいという名誉欲がある、ということが起こり得るのです。何かを喜び祝う祭りを行う時に特にそういうことが起こりがちです。私たちの教会の創立150周年の祝いが、そのようなものになってしまわないように、よく気をつけていなければなりません。そのためにこの箇所を選びました。

祈りの家でなければならない
 しかしそれでは、私たちは何に気をつけたらよいのでしょうか。教会における祝祭が、私たちの喜びの追求になってはならない。それは私たちが喜んではならない、ということなのでしょうか。具体的には、教会の創立150周年を喜び祝ってはいけないのでしょうか。教会全体でその喜びを表すために「記念コンサート」が行われます。それは人間の喜びの追求だからいけない、ということになるのでしょうか。今年のコンサートでは、いろいろな賜物を与えられている教会員がそれを披露して、音楽の演奏をします。それは、自分の賜物を誇り、ひけらかす名誉欲によることだからいけない、ということになるのでしょうか。主イエスがこの「宮潔め」においてお示しになったのはそういうことではないでしょう。主イエスが何を思って「宮潔め」をなさったのか。それがはっきりと語られているのが、11月の聖句とした17節の、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というお言葉です。主イエスがおっしゃったのは、神殿の境内で商売をすることがいけないということではありません。神の家である神殿は、「祈りの家」でなければならないということです。その祈りが妨げられるようなことが行われていることに対して、主イエスはお怒りになったのです。

祈りつつ150周年記念行事を行う
 このことを私たちの150周年の記念行事にあてはめるならば、私たちが150周年を感謝して喜び祝うことが問題なのではありません。またその喜びを表すためのコンサートをしてそれぞれの賜物を発揮することが問題なのでもありません。150年にわたる主の守りと導きを感謝して、私たちは大いに喜び祝い、またお互いの賜物を発揮し合って、それを喜び合えばよいのです。自分の能力をひけらかしていると思われるのでは、などと考えて尻込みする必要はありません。その能力は神が恵みによって与えて下さったものですから、感謝してそれを発揮すればよいのです。そしてそれを聞く者は、教会の兄弟姉妹に神が与えて下さった賜物を感謝して喜び合うのです。これはコンサートのことですが、「展示会」や「講演会」においても、そのために労苦して準備して下さった方々の奉仕を感謝して、私たちの教会に主が与えて下さった恵みを喜び合う時とすればよいのです。しかしそれらのことにおいて、忘れてはならないことがあります。それは「祈り」です。祈りをもって準備がなされ、祈りをもってこれらのことがなされることが大事です。それは言い換えれば、主のみ顔の前で全てのことを行なう、ということです。コンサートにおいて演奏をする人は、主のみ前で、主に祈りつつ演奏をするのです。それによってこそ、自分の喜びの追求や、自分の誉れを求めることから自由になることができます。またそれを聞く者も、主のみ前で、主に祈りつつ演奏を聞くのです。それによってこそ、「自分の能力をひけらかしている」などと批判する思いから自由になって、喜びを分ち合うことができます。展示会や講演会も同じです。準備する者が主に祈りつつ準備し、参加する者も主に祈りつつ参加することによって、それは人間の誉れではなくて主の栄光を表す場となり、教会の150周年の記念行事にふさわしいものとなるのです。この祈りを失うと、そこには人間の思いが、欲望が、名誉欲が、そしてその裏返しである人を批判する思いが支配するようになり、「神の家」であるはずの場が「強盗の巣」になってしまうのです。

すべての国の人の祈りの家
 ところで、主イエスの怒りは、「祈り」が失われていることに対してのみ向けられているのではありません。「すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」の「すべての国の人の」という言葉に目を向ける必要があります。エルサレムの神殿は、ユダヤ人だけでなく、「すべての国の人」の祈りの家であるべきだと主イエスは言っておられるのです。それは旧約聖書に語られていることです。「こう書いてあるではないか」とあるのは、この言葉が旧約聖書の引用であることを示しています。それはイザヤ書第56章の7節です。その7節はこうなっています。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。ここに「彼ら」と言われているのは、「主のもとに集って来た異邦人」(3節)のことです。このイザヤ書56章は、異邦人が、主のもとに集い、「主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら」(6節)、主なる神の民とされ、「聖なるわたしの山」つまりエルサレムの神殿において「わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許」される、ということを語っています。「すべての国の人の祈りの家」とはそういう意味なのです。そのことが失われてしまっていることに対して、主イエスはお怒りになったのです。当時のエルサレム神殿には、ユダヤ人のみが入ることができる部分の外側に、「異邦人の庭」が設けられていました。異邦人とユダヤ人の区別はあったけれども、異邦人が主なる神に祈るため場も設けられていたのです。15節に主イエスが「神殿の境内に入り」とあるのは、この「異邦人の庭」に入ったということです。するとそこには、「売り買いしていた人々」や「両替人」「鳩を売る者」たちが商売をしており、また「境内を通って物を運ぶ」者たちがおり、その喧騒で溢れていたのです。つまりそれは、ユダヤ人たちがこの庭を、自分たちのための商売の場、あるいは生活道路としていた、ということです。異邦人たちがここで主なる神を礼拝し、祈る、そのことへの配慮は失われていました。そこでの商売が礼拝のための商売だったとしたら、自分たちの礼拝のために、異邦人たちの礼拝が妨げられていた、ということです。自分たちが神の民として恵みを受けて歩むために、主のもとに集ってくる異邦人たちのことが蔑ろにされ、無視されていたのです。主イエスはそのことをご覧になって、怒り、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃったのです。「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」とも言っておられますが、それはイザヤ書ではなくて、エレミヤ書第7章11節の言葉です。そこには、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」とあります。これは、神殿の門の前で、主を礼拝するために門を入って行くユダの人々に対してエレミヤが語った預言の言葉です。お前たちは、ここは主の神殿だ、ということを拠り所とし、この神殿さえあれば自分たちは救われる、ユダ王国は大丈夫だと思っているが、実際には、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従」(9節)っており、「寄留の外国人、孤児、寡婦」(5、6節)を虐げるようなことをしている。それではこの神殿は「強盗の巣窟」ではないか、とエレミヤは語ったのです。主イエスはこのエレミヤの言葉をイザヤの言葉と結びつけて、異邦人たちの礼拝を妨げ、その祈りを奪っているお前たちのしていることは強盗と同じだとおっしゃったのです。

伝道への意識を失ってはならない
 このことを私たちにあてはめるなら、私たちの150周年の喜び祝いが、私たち自身の喜び祝いで留まっていてはならない、ということでしょう。その喜び祝いは勿論、主なる神を礼拝し、祈りに生きる喜びであり、祝いです。つまり信仰における喜び祝いであり、主なる神と、そして主イエス・キリストと共に生きることの喜び祝いです。しかしそこにおいて、他の人々、まだ教会員つまり神の民に加えられていない人々、求道者や、私たちの周囲に沢山いる、教会と関わりを持たずに生きている人々のことを意識すること、その人々へのとりなしの祈りを失っているなら、私たちも主イエスから同じお叱りを受けなければならないのです。それは言い換えれば、伝道への意識を失ってはならない、ということです。伝道への思いを失うなら、私たちの150周年の喜び祝いも、教会が「すべての国の人の祈りの家」であることを見失い、祈りと礼拝の喜びを自分たちだけのものとして、人々からそれを奪う「強盗」の業となってしまうのです。これは150周年の記念行事のみでなく、教会の全ての営みについて言えることです。そもそも主なる神が独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死と復活によって救いのみ業を実現して下さり、復活して生きておられるキリストを頭とする教会を築き、私たちを選んで召し集め、キリストの体である教会に連らせて下さったのは、このキリストによる救いを世の人々に宣べ伝えさせるためです。私たちがキリストによる救いの恵みを喜び、それによって慰めを与えられ、新しく生かされているのは、自分だけがその喜びや慰めを楽しむためではなくて、その喜びを他の人々に伝えて行くため、つまり伝道のためです。私たちは主に選ばれて、伝道の使命を与えられているのです。150周年の喜び祝いも、伝道のためです。主が150年前の明治7年にこの教会を築いて下さったのは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくためです。この教会の創立者であるヘボンも、主から与えられている伝道の使命を果たすために、開国したばかりの日本に来たのです。ヘボンによって始められた伝道の業が、代々の教会員たちによって受け継がれてきたのが、この教会の150年の歴史です。それを喜び祝う私たちは、主が伝道の使命を今私たちに与え、この世へとお遣わしになっていることをしっかりと意識したいのです。つまり私たちはこの教会を、自分たちの居心地のよい場とするのでなく、「すべての国の人の祈りの家」とするために召されているのです。

教会が「すべての国の人の祈りの家」となるために
 教会の営みを「主のみ前で、祈りをもってする」とはそういうことです。神のため、教会のため、と言いながら、人間の欲望や名誉欲が支配してしまうことから逃れる道もそこにあります。150周年記念行事のみでなく、私たちの毎週の礼拝生活、信仰者としての生活が、「伝道の使命」をどれだけ意識してなされているかが問われています。自分たちの慣れ親しんだ、居心地のよい礼拝、教会であることばかりを求めるのでなく、新たに教会に来ている人々、これから来る人々、次の世代の人々のことを意識し、その人々をしっかり迎え入れ、交わりを築き、共に主を礼拝する群れとなっていくために心を砕き、そのために必要なら自分たちの喜びや楽しみを我慢することができるかが問われているのです。150周年をそのようにして教会が「すべての国の人の祈りの家」となるための時とすることによって、私たちは200年に向けて新たに歩み出すことができるのです。

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