【2024年10月奨励】わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

  • ローマの信徒への手紙第8章18〜25節
今月の奨励

2024年10月の聖句についての奨励(10月2日 昼の聖書研究祈祷会)
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(25節)
ローマの信徒への手紙第8章18〜25節 牧師 藤掛順一

151年目を歩み出した私たち 教会創立150周年の記念日(9月13日)を過ぎて、10月に入りました。
記念行事はなお続いていますが、私たちは既に、この教会の151年目を歩み出して います。しかし151年目を歩み出したと言っても、何か新しいことが始まったわけではありません。教会の営みは、何周年を機に大きく変わるようなものではありません。父・子・聖霊なる神を礼拝し、キリストの十字架と復活による救いの福音を宣べ伝え、神の愛によって生かされ、互いに愛し合う共同体を聖霊の導きの下で築き、そこに新たな人々を迎え入れていくのが教会です。つまり私たちは、150年続けてきたことをこれからも変わらずに行なっていくのです。ですから151年目を歩み出したと言っても、特に何かが変わるわけではありません。変わり映えしない歩みだ、と感じるかもしれません。

目に見えない神を信じる
しかしこのことは、もっと根本的には、私たちの信仰が「目に見えないものを望んでいる」信仰だからです。教会は、目に見えないものを望んでいる者たちの共同体です。企業などのように目に見える成果を積み上げていこうとはしてはいないのです。ですからいわゆる目新しさという意味での「変わり映え」を求めることは教会の歩みには相応しくありません。そもそも私たちは、目に見えない神を信じています。神を、目に見える像や絵に表してそれを拝むことを私たちはしません。十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。…それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20章4、5節)においてそれは禁じられています。神は目に見える方ではない、というのが聖書の根本的な 教えです。この第二戒は聖書協会共同訳では「あなたは自分のために彫像を造って はならない」となっています。原文には「自分のために」という言葉があるので す。目に見える神は人間が自分のために造り出したものだ、と聖書は語っているの です。目に見える神を求めることには「自分のため」という思いが結びついていま す。目に見えない神を信じることこそが真実の信仰なのです。

目に見えない救いを信じて希望に生きる
このことは、「救い」をどのようにとらえるかと関係しています。人間が自分のた めに造り出した目に見える神は、人間が求めている目に見える救いを与えます。い わゆる「ご利益」です。目に見えるご利益をどれだけ与えることができるかによっ て、その神がどれだけ「役に立つ」かが測られるのです。それに対して目に見えな い神による救いは、根本的には目に見えない事柄として与えられます。あるいは、 人間が求めている目に見える救いとは違う仕方で与えられるのです。目に見える現 実においては、苦しみがあり悲しみがあり、救いなど見当たらない中で、目に見え ない神による目に見えない救いが与えられます。聖書はそれを「希望」と呼んでい ます。聖書における希望は、「こうなったらいいな」という「願望」つまり「願い」とは違います。聖書が語る希望は、目に見えない神の恵みによって自分が守られ、支えられ、真実に生かされており、これからも生かされていく、という信仰です。信仰とはこの希望に生きることであり、そこに本当の救いがあるのです。24節に「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とあるのはそういうことです。聖書協会共同訳ではここは「私たちは、この希望のうちに救われているのです」となっています。希望「によって」救われていると言うよりも、希望を与えられていることが救われていることなのです。そしてその救いは、目に見えない神を信じる信仰によってこそ与えられるのです。
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいる」という25節の言葉は、私たちの信仰のそういう特徴を語っています。私たちは、目に見えている救い(つまりはご利益)にあずかって生きているのではなくて、目に見える現実とはなっていない救いが、目に見えない神によって与えられることを信じて、その希望に生きているのです。24節後半には、「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」とあります。現に目に見えており、手に入っているものを望む人はいない、というのは当たり前ですが、このことによって語られているのは、目に見える現実となっていない救いが神の恵みによって与えられるという希望に生きることこそが信仰なのだ、ということです。目に見えない神を信じて生きる私たちは、現に見えていない救いを信じて、希望に生きるのです。

現在の苦しみ
私たちは救いを現に見ることはできていない。そのことが18節以下に語られています。18節の冒頭に「現在の苦しみは」とあります。私たちの目に現在見えているのは苦しみの現実です。この手紙を書いたパウロはそのことを20節で、「被造物は虚無に服していますが」と語っています。さらに21節では、被造物が滅びに隷属していると語り、22節では「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」とも言っています。今私たちはまさにこういう現実を見ているのではないでしょうか。指路教会が創立150周年を迎えるこの年は、元日の能登半島地震で始まりました。これまでにもいろいろな所で大地震や津波があり、今回の地震で被災した人の数はそれらの時よりも少ないと言えるかもしれませんが、この地震によって地盤が大きく隆起したことや、過疎化している半島というあの地域の事情の中で、瓦礫の撤去などがこれまでの震災と比べてずっと遅くて、被災した建物の「公費解体」がなかなか進まないことが報じられています。その歩みがようやく進みかけたこの9月、私たちが創立150周年を喜び祝っているまさにその時期に、今度は記録的な大雨があの地域を襲いました。ようやく進み始めた復興への歩みが「元の木阿弥」となって、「なぜ繰り返しこんな目にあうのか。度重なる災害に心が折れた」という声も聞かれます。その人々の苦しみを思うと慰めの言葉もありません。能登のみならず、このところ、かつてなかった大雨があちこちで降り、災害が起こっています。それは明らかに気候変動、温暖化によることです。記録的な暑さが毎年更新されていることも含めて、気候が以前とは明らかに変わってきていることを感じます。被造物つまり自然が虚無に服し、滅びに隷属して、うめき苦しんでいることを実感させられているのです。それをもたらしたのは私たち人間の営みです。私たちがより快適な暮らしを追い求め、エネルギーを大量に消費し、温室効果ガスを出し続けてきたために、また環境を汚染し続けてきたために、温暖化による気候変動や環境破壊が起こっているのです。そして一度便利な暮らしを体験してしまうと、それをやめて元に戻すことはとても困難です。そういうことのツケが、いよいよ私たちの暮らしにも目に見える仕方で現れてきているのです。被造物がうめき苦しみ、それと共に私たちもうめき苦しんでいる、それが私たちの目に見えている現実だと思います。
それに加えて、今世界中で、いろいろな対立が激しくなっており、いくつかの地域では戦争が起っています。始まった戦争はなかなかやめることができず、むしろ報復が報復を生んで拡大していきます。パレスチナでの戦争はいよいよレバノン、イランをも巻き込みつつあります。そうしてますます多くの人々が傷つき、命を失っていきます。実際の戦争が起こっていなくても、いろいろな対立があり、それが激しくなっています。人々を結びつける画期的なツールとなると思われたインターネットが、かえって社会の分断をあおり、対立を激化させています。便利な道具は、それを使う人間次第で、良いものにも悪いものにもなるのです。つまり今のこの世界は、人間の罪によって引き起こされた苦しみに満ちている。それが私たちの目に見えている現実です。

将来現されるはずの栄光
パウロはおよそ二千年前に既にこのことを見つめていました。人間の罪のゆえに被造物が虚無に服し、滅びに隷属しており、被造物と共に人間もうめき苦しんでいることを見つめていたのです。しかしパウロはその目に見える苦しみの現実の中に、目に見えない希望を見ていました。20節で彼は、虚無に服している被造物が、同時に希望を持っていると語っています。それは21節の「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」という希望です。今は滅びに隷属している被造物が、そこから解放される日が来る、という希望を彼は見つめているのです。その希望は「神の子供たちの栄光に輝く自由」が確立することによって実現します。つまり被造物を治め、管理する務めを与えられている私たち人間が、神の子としての栄光と自由を得ることによって、被造物は虚無、滅びから解放されるのです。私たち人間は今、神に従うのでなくて自分が主人になって歩もうとする罪に支配されているために、神の子としての栄光と自由を失っています。その罪のゆえに、被造物を正しく治め、管理することができなくなっているのです。つまり温暖化や環境破壊は人間が神に従わずに自分が主人となって歩んできたことの結果です。そのために被造物全体が虚無に服し、滅びに隷属して苦しんでいるのです。そしてそれによって私たち自身も、被造物と共にうめき苦しんでいるのです。しかしその私たちにも希望があります。23節にある、「神の子とされること、つまり、体の贖われること」です。神に背いている私たちがその罪を赦されて、失ってしまった神との関係を回復されて、神の子とされるのです。そのために、神はその独り子、イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。独り子主イエスの十字架の死によって、神は私たちを贖って下さいました。つまり私たちの罪を赦して、神のもとから失われていた私たちを買い戻し、再びご自分のもの、神の子として下さったのです。そして主イエスの復活によって、私たちが神の子として新しく生きることができるようにして下さったのです。主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスと結び合わされることによって私たちはこの救いにあずかっているのです。
しかしこの主イエス・キリストの十字架と復活による救いは、目に見えないものです。洗礼を受けた私たちは既に罪を赦され、神の子とされていますが、そのことは目に見える現実となってはいません。信じるしかないことです。しかし今は目に見える現実となっていないこの救いが、神によって、将来、はっきりと目に見えるものとなるのです。それが「体の贖われること」です。今は目に見えない救いが目に見える現実となり、私たちが罪と死の支配から解放されて、復活して永遠の命を与えられ、「神の子供たちの栄光に輝く自由」に生きる者とされるのです。「体の」 と言われているのは、その救いが目に見えるものとなることを語っているのです。 18節に「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と言われているのはそのことです。私たちは今は、主イエスの十字架と復活によって目に見えない仕方で与えられ ている救いを信じて、この将来に約束されている、「神の子とされること、つまり、 体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んで」いるのです。「目に見えないものを望んでいる」とはそのことです。

被造物の希望は人間の救い
そしてそこに、被造物全体の希望もあるのだ、とパウロは言っています。被造物が「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と19節にあるのはそのことです。今は目に見えない私たちの救いが目に見える現実となり、私たちが復活と永遠の命を与えられて神の子としての栄光に輝く自由を与えられる。その時、被造物も、虚無の支配から、滅びへの隷属から解放されて、神が「極めて良い」ものとし て造って下さった、その本来の姿を回復されるのです。つまり、人間が救われるこ とによって被造物全体も救われるのです。被造物の苦しみは人間の罪の結果なので すから、人間が変わることによって被造物もその苦しみから解放されるのです。こ のことは、世の終わりの神による救いの完成以前の、現在のこの世界の歩みにおい ても、私たちがしっかりと受け止めていくべきことです。私たち人間は、神が造り 与えて下さったこの地球の環境を守っていく責任があるのです。そのために知恵を 尽くし、また自らの生活を変えて行かなければならないのです。

希望に支えられて忍耐して生きる
私たちの信仰は、「目に見えないものを望んでいる」信仰です。目に見えない神 が、その独り子イエス・キリストの十字架と復活によって既に実現して下さった救 いを信じて洗礼を受け、主イエスと一つにされ、神の子とされています。その救い は今は目に見えません。しかしそれはいつか必ず、目に見える仕方で完成するので す。復活と永遠の命を与えられて、神の子としての栄光に輝く自由を与えられるの です。このことを信じて待ち望むことが私たちの信仰です。25節は、その信仰に おいて私たちは「忍耐して待ち望む」のだと語っています。今は目に見えていない 救いを信じる希望を与えられている者は、忍耐して生きることができるのです。忍 耐して生きるというのは、目に見える成果があがる、「変わり映え」のする歩みでは ありません。しかし苦しみと悲しみに満ちているこの世において、神が与えて下さっている約束を信じる希望に支えられて忍耐しつつ待ち望むことができるというのはまことの救いです。教会の151年目を、そのように歩み出していきたいので す。

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