「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。」
牧師 藤掛順一
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙第4章4-7節
奴隷ではなく、子とされている
「あなたはもはや奴隷ではなく、子です」というガラテヤの信徒への手紙第4章7節を3月の聖句としました。この聖句は私たちに、「あなたはもはや奴隷ではない」と高らかに宣言しています。そう言われても、「いやもともと奴隷じゃないし」と思うかもしれません。しかし、「奴隷ではなく、子とされている」ということこそ、聖書が私たちに告げている救いなのです。生まれつきの私たちは奴隷とされてしまっている、ということを聖書は告げているのです。そのことが、本日の箇所の直前の3節に語られていました。「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。この「未成年であったとき」は、二十歳(今は十八歳)になるまでは、ということではありません。キリストによる救いにあずかる前は、ということです。生まれつきの私たちは、「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」のです。聖書は私たちの「生まれつきの姿」を、「世を支配する諸霊の奴隷」と捉えているのです。
世を支配する諸霊
この世を生きている私たちは「諸霊」に支配されています。「もろもろの霊」というわけで、数えきれないほどの霊がこの世と私たちを支配しているのです。それはオカルトの世界における「超常現象」のような話ではありません。新型コロナウイルス、ロシアによるウクライナ侵略による戦争、大地震、気候変動による災害の激甚化等々によって、私たちは不安や恐れを覚えています。それらの事柄一つひとつが「霊」の仕業だというわけではありません。それらの出来事によって私たちが不安や恐れに捕えられている、そこに「不安や恐れの霊」の支配があるのです。戦争や内戦の元となっている様々な対立の根本には、憎しみがあり、怒りがあります。それは人間の罪によって生じているものです。人が人を傷つけ、抑圧する罪があり、それに対する怒りが生じ、その怒りによってなされることによって罪が深まっていきます。そこには、私たちを罪へと引きずり込み、対立させ、神から引き離そうとする「悪霊」の働きがあります。私たちは日々悪霊の攻撃にさらされており、それに支配され、悪霊の奴隷となってしまっているのではないでしょうか。また私たちはどうしても、人と自分を比較して、得意になったり嫉妬したり、ということから抜け出すことができません。「人の目(世間体)」が気になり、「人(世間)の評価」を気にして、自分のことも他の人のことも、「人からの評価」によって価値を測ろうとする思いから自由になれないのです。それもまた「世を支配する諸霊」の一つです。また、現在の社会のトレンド、流行に左右され、それについて行けないと不安になる、ということもあります。この社会は「時代の風潮」という霊に支配されており、それによって無謀な戦争に突入してしまうこともあるのです。
諸霊に支配されていることを意識することが先ず必要
このように私たちは、自由に生きているつもりでいても、実は「世を支配する諸霊に奴隷として仕えている」のです。これらの諸霊は、私たちが自由に、自分の意志でいろいろなことを判断して生きていると思わせつつ、私たちを奴隷としています。諸霊(悪霊)の支配はとても巧みなのです。ですから私たちに先ず必要なのは、生まれつきの自分が世を支配する諸霊の奴隷となっていることを認めることです。そのことを意識しているだけでも、不安や恐れ、怒りや誇りや嫉妬、流行や時代の風潮などに振り回されることをある程度防ぐことができます。「自分は自由に生きている、奴隷ではない」と思っている人ほど、知らず知らずの内にそれらのものに支配され、深い罪に引きずり込まれてしまうのです。つまり私たちは「自分には罪があり、罪の奴隷となっている」ということを先ず知らなければなりません。それを知ることによって罪がなくなり、罪の奴隷でなくなるわけではありませんが、しかしそれを知ることで、罪の支配の深まりを少しは防ぐことができるのです。
主イエスによる、世の諸霊の支配からの解放
世を支配する諸霊に支配され、罪の奴隷となっている私たちを救い出すために、神はその御子イエス・キリストをこの世に生まれさせて下さいました。4節に「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」とあるのはそのことです。「女から」というのは、神が主イエスを、私たちと同じ肉体をもって生きるまことの人間としてこの世に生まれさせて下さったことを語っています。その主イエスは「律法の下に生まれた者として」この世を歩まれました。5節には「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」とあります。世を支配する諸霊の奴隷となっている私たちは「律法の支配下にある者」です。世の諸霊に支配されている者は、神のご支配の下で生きることを求めている律法によって罪に定められざるを得ません。世の諸霊の奴隷となっている私たちは、律法によって裁かれて滅びるしかないのです。その滅びから私たちを救うために、神は御子イエス・キリストを、私たちと同じ、律法の下に置かれている人間として遣わして下さいました。そして主イエスは、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの苦しみと死によって私たちは、世の諸霊の支配から解放され、律法の下での滅びから贖い出されて、神の恵みのご支配の下に置かれたのです。今私たちが歩んでいるレント(受難節)は、主イエス・キリストの苦しみと死とによって、神が私たちを世の諸霊の支配から解放して下さったことを覚えて歩む時なのです。
奴隷から神の子へ
主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活による救いは、神が私たちを「神の子となさるため」でした。この救いによって私たちは、世を支配する諸霊の奴隷から、神の子とされたのです。奴隷だった者が解放されたら自由な者となる、というのが通常のことです。つまり「あなたはもはや奴隷ではなく」に続く言葉は普通なら「自由な者です」となります。しかしここには「子です」と語られています。奴隷から神の子とされた、それが私たちに与えられた救いなのです。
神の子とされるとは
私たちが神の子とされたとはどういうことでしょうか。それはどのような恵みなのでしょうか。6節には「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」とあります。神の子であるとは、神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶことができる、ということです。主イエスは「主の祈り」において、「天におられる私たちの父よ」と呼びかけて祈るように教えて下さいました。それはただそのように呼びかけて祈ることが許されたということではありません。私たちがそのように祈る時に、天におられる神が、父としてその祈りを聞いて下さるのです。つまり神が父としての愛をもって、子である私たちの語りかけを聞いて、父として私たちと向き合って下さるのです。それは父なる神と独り子主イエスとの間にある、父と子の愛の交わりに私たちをも加えて下さるということです。人間の父と子の関係は不完全であり、時として壊れ、真実の愛から落ちてしまうこともあります。しかし父なる神と御子イエス・キリストの間には、真実で完全な父と子の愛の関係があります。その関係を神は私たちとの間にも結んで下さるのです。それは私たちが御子主イエスと結び合わされ、一つとされるということでもあります。「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」ことによってそれが実現しています。私たちの救いは、「御子の霊」が私たちの心に注がれ、宿って下さることによって、主イエスと結び合わされ、一つとされたことによって与えられています。「御子の霊」は「アッバ、父よ」と呼ぶ霊です。主イエスは父なる神に「アッバ、父よ」と呼びかけておられました。「アッバ」は、小さい子どもが父親の自分に対する愛を全く疑うことなく完全に信頼して語りかける言葉です。主イエスと父なる神の間にはそういう信頼関係がありました。そこに私たちも入れて下さるために、「御子の霊」である聖霊が送られているのです。聖霊は、父なる神が私たちに注いで下さる「御子の霊」であり、私たちをも御子主イエスと共に神に「アッバ、父よ」と呼びかける者として下さる霊、つまり私たちを神の子として下さる霊です。その聖霊のご支配によって私たちは、主イエスと結び合わされて神の子とされ、神の愛に信頼して祈りつつ生きていくのです。私たちが神の子とされたというのはそういうことです。
世の諸霊からの解放
この聖霊のご支配の下で神の子とされて生きていくところにこそ、世を支配する諸霊からの解放があります。神の父としての愛に信頼して祈ることによってこそ私たちは、様々な不安や恐れから解放されるのです。人との比較、世間の評価などに翻弄されることからの解放は、私たちが「人の目や世間体を気にすることはやめよう」といくら決意して努力しても実現しません。様々な欠けや罪に満ちている自分に、神が御子による救いを与え、御子を愛するようにこの自分をも愛して下さっていることを聖霊によって示されることによってこそ私たちは、この世における人間の評価から自由になることができるのです。また、社会のトレンド、時代の風潮に従うのではなくて、主イエス・キリストの父である神のみ心をたずね求め、それに従っていくことができるのも、神が私たちを子として愛して下さっていることを知ることによってこそです。このように、世を支配する諸霊からの解放は、聖霊によって神の子とされるところにこそ実現します。神の子とされることによって、奴隷から解放されて自由な者となることが実現しているのです。神は、世を支配する諸霊(罪)から私たちを解放して、自由な者として下さいます。その自由は、自分の好き勝手にしていくことによって得られるのではありません。そのような自由は結局罪の支配をもたらし、罪の奴隷状態が続いていくのです。本当の自由は、主イエスの十字架と復活による救いにあずかり、聖霊によって主イエスと結び合わされて神の子とされて生きるところにこそ与えられるのです。
神の相続人
7節には、「あなたはもはや奴隷ではなく、子です」という今月の聖句に続いて「子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」と語られています。神の子とされたというのは、神の相続人とされた、ということでもあるのです。「相続人」とは、将来財産を相続することを約束されている人です。つまりそこで見つめられているのは、将来実現する恵みです。今はまだ手に入っていない、あるいは目に見えるものとなっていない救いが、将来、実現し、与えられる、そのことの確かな約束を与えられているのが「神によって立てられた相続人」です。神の子とされるとは、この相続人とされることでもあるのです。私たちは洗礼を受けたことによって、主イエスの十字架と復活による救いにあずかり、聖霊を注がれ、主イエスと一体とされて、神の子とされています。それは既に実現している救いです。しかしその救いは、いまだ完成してはおらず、目に見えるものとなってはいません。それが完成し、目に見えるものとなるのは将来のこと、主イエスがもう一度来て下さり、神のご支配を明らかにして下さる世の終わりにおいてです。それまで私たちは、「神によって立てられた相続人」として、まだ実現していない救いを待ち望みつつ歩むのです。
受難節を神の子として歩む
信仰を与えられて洗礼を受け、クリスチャンとして生きていく私たちの歩みは、生まれつきの、世の諸霊の奴隷であった時の歩みと、見たところそんなに違わないかもしれません。相変わらずこの世のいろいろな力、霊、罪に翻弄され、引きずられているという現実があります。この世における私たちの歩みには、いろいろな苦しみや悲しみ、不安や恐れがあります。しかし、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって、私たちはもはや奴隷ではなく、神の子とされているのです。神が父として私たちを愛し、父と子の関係を結んで下さっているのです。そして、世の終わりの主イエスの再臨において、その救いを完成し、私たちにも主イエスと同じ復活と永遠の命を与えて下さることを約束して下さっているのです。「あなたはもはや奴隷ではなく、子です」というみ言葉はそのことを告げています。私たちは、聖霊のお働きによって、主イエスと共に「アッバ、父よ」と祈る者とされています。様々な霊がうごめき、支配しようとしている中で、その祈りにおいて神の子として歩み、この世の目に見える現実は厳しくても、世の終わりに約束されている救いの完成を待ち望みつつ、忍耐して、神を愛し隣人を愛して歩む。この3月、受難節をそのような時としていきたいのです。