夕礼拝

聖霊を受ける

2026年2月1日
説教題「聖霊を受ける」 副牧師 川嶋章弘

イザヤ書 第48章12~16節
使徒言行録 第8章14~25節

大迫害によって
 使徒言行録8章を読み進めていて、本日は14~25節を読みます。この箇所は前回お読みした箇所の続きですから、前回の箇所を簡単に振り返っておきます。1節の後半で、ステファノの殉教をきっかけとして、「エルサレムの教会に対して大迫害が起こ」ったと語られていました。この大迫害によって、エルサレム教会の多くのメンバーが「ユダヤとサマリアの地方」に散らされていきました。ただしこの迫害は、ステファノと同じ「ギリシア語を話すユダヤ人」でキリスト者となった人たちに対して集中的に行われたと考えられます。1節で「使徒たちのほかは皆」と言われているように、「ヘブライ語を話すユダヤ人」でキリスト者となった使徒たちは、エルサレムに残っていたからです。このことは本日の箇所の伏線にもなっています。

フィリポの伝道と魔術師シモン
 さて、大迫害によってサマリアに散らされて行った人たちの中にフィリポがいました。彼は望んで、積極的にサマリアに行ったというより、むしろ強いられて、やむを得ずサマリアに行きました。しかし強いられて行った先で、サマリアの人たちにキリストを宣べ伝えます。前回お話ししたように、復活の主イエスの約束を想い起こしたからです。1章8節の「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で…わたしの証人となる」という主イエスの約束を想い起こし、この約束に支えられ、聖霊の力を受けて、キリストの福音を宣べ伝えたのです。12節でこのように言われていました。「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」。フィリポが告げ知らせた福音を聞いて、サマリアの人たちはその福音を信じ、洗礼を受けて救いにあずかり、教会のメンバーとなったのです。
 この箇所には、シモンという人物も登場します。彼はフィリポが来る前からサマリアにいて、「魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称して」いました。サマリアの人たちは長い間、シモンの魔術に心を奪われていた、とも言われています。しかしフィリポが告げたキリストの福音が、サマリアの人たちを魔術から解放しました。13節では「シモン自身も信じて洗礼を受け」と言われています。しかしこのシモンが、本日の箇所の後半で、再び問題を起こすことになります。

ペトロとヨハネの派遣の理由
 このようにフィリポの伝道によって、サマリアで多くの人たちが洗礼を受けました。本日の箇所は、その後に起こった出来事を語っています。冒頭14節に、「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた」とあります。フィリポの伝道によって、サマリアの人たちがキリストの十字架と復活による救いを告げる神の言葉を信じ、受け入れ、洗礼を受けた、という報告がエルサレム教会にもたらされました。大迫害の中にあっても、エルサレムに残った使徒たちを中心として、エルサレム教会はなおその働きを続けていたのです。そこにフィリポの伝道の成果が報告されました。それで使徒たちは、つまりエルサレム教会は、使徒ペトロとヨハネをサマリアに派遣したのです。
 エルサレム教会は、なぜ二人をサマリアに派遣したのでしょうか。15節には、「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った」とあり、そしてその理由として、16節で「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである」と言われています。そして17節で「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」と言われているのです。つまりサマリアの人たちは、フィリポが告げ知らせた福音を信じ、洗礼を受けたけれど、彼らの上に聖霊が降っていなかったので、ペトロとヨハネが彼らのために聖霊を受けるよう祈り、彼らの上に手を置くと、サマリアの人たちは聖霊を受けた、ということになります。

洗礼を受けること、聖霊を受けること
 この箇所は、とりわけ16節は、キリスト教の歴史の中で様々な読み方がなされてきました。それほど16節は、解釈の難しい箇所だということです。その難しさはどこにあるのでしょうか。この箇所は、洗礼を受けることと、聖霊を受けることは別々のことである、と言っているように読めます。別の言い方をするならば、聖霊を受けることは、洗礼を受けることと同時に起こるのではなく、洗礼を受けた後に起こることである、と言っているように読めるのです。そのためこの箇所を根拠として、「水の洗礼」とは別に、「聖霊による洗礼」が必要だ、と主張されることもあります。サマリアの人たちがフィリポから受けた洗礼は「水の洗礼」で、それは形だけの洗礼であった。しかしペトロたちが来て祈って手を置いたときに、人々は「聖霊による洗礼」を受けて、いわば本物のキリスト者、信仰者となった、と考えるのです。
 しかしそのように考えるのは誤っていると思います。解釈の難しい箇所を読むためには、より大きな文脈の中で読むことが大切ですが、新約聖書全体において、イエス・キリストの名による洗礼を受けたと言うとき、それは、同時に聖霊を受けたことを意味しているからです。たとえばパウロは、コリントの信徒への手紙一12章13節で、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」と語っています。つまり洗礼を受けることと聖霊を受けることは、別々のことではなく、一つのことであると語っているのです。では使徒言行録の著者ルカは、異なる理解を語っているのでしょうか。それも違います。使徒言行録2章38節ではこのように言われていました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。イエス・キリストの名による洗礼を受けることと、賜物として聖霊を受けることは一つのことだと言われているのです。つまり使徒言行録も、新約聖書全体も、洗礼を受けることと聖霊を受けることは別々のことであるとは語っていません。「水の洗礼」とは別に、「聖霊による洗礼」が必要だ、とも語っていません。私たちに与えられているのは「一つの洗礼」です。イエス・キリストの名による「一つの洗礼」を受けることによって、私たちは罪を赦され、救いにあずかり、教会のメンバーとされるのです。ですからフィリポの洗礼が不十分であったということでは決してありませんし、その不十分さを補うためにペトロとヨハネが派遣されたのではありません。フィリポの伝道によって、サマリアの人たちは確かに洗礼を受け、確かに罪を赦され、救いにあずかり、教会のメンバーとされたのです。

洗礼は教会の業
 そうであるならばこの箇所は、何を語っているのでしょうか。そもそもこの箇所が、洗礼を受けることと聖霊を受けることの順序を語っている、つまり洗礼を受けた後に、聖霊を受けることを語っている、と図式的に考えることが誤りなのだと思います。ここでルカは、順序とは別のことを見つめているのではないでしょうか。第一にルカは、洗礼が教会の業であることを見つめていると思います。エルサレム教会から派遣された使徒ペトロとヨハネは教会の代表です。そのペトロたちが来て祈り、手を置くことで、サマリアの人たちが聖霊を受けたと語ることにおいて、洗礼が教会の業であることを見つめているのです。「日本基督教団信仰告白」の第四段落は教会について語っていますが、その中で「教会は…福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ」と言われています。「バプテスマ」が洗礼のことですから、教会が何をするのかを語る中で、洗礼のことが語られているのです。洗礼はフィリポの業でも、あるいはペトロとヨハネの業でもありません。洗礼は教会の業であり、ここではそのことが見つめられているのです。

聖霊を受ける
 しかしそのこと以上にルカが、使徒言行録において、「聖霊を受ける」ことについて、洗礼と一つのこととして語るだけでなく、別の側面を強調して語る場合があることに注目する必要があります。それは、「聖霊を受ける」ことによって、力を与えられ、神の言葉を語り始めるということです。たとえば4章8節で、最高法院に連れて行かれたペトロは、「聖霊に満たされて言った」と言われていました。聖霊に満たされてペトロが語ったのは、キリストの十字架と復活による救いにほかなりません。そもそも2章1節以下で語られているペンテコステの出来事においても、弟子たちは「聖霊に満たされ」て「神の偉大な業」、つまりキリストの十字架と復活による救いを力強く語り出しました。つまりルカは、洗礼を受けて聖霊を受けることも語っていますが、それだけでなく、神の言葉、キリストの福音を語る力として聖霊を受けることをも語っているのです。おそらく本日の箇所でもそのことが見つめられています。サマリアの人たちが聖霊を受けたとは、キリストの福音を語る聖霊の力を受けたということなのです。このことが使徒ペトロとヨハネが来たことによって起こったのは、やはり教会の働きが見つめられているからでしょう。もちろん聖霊は自由に働きますから、教会の外でも働きます。教会の中でしか聖霊が働かないなどということはありません。しかしそうであったとしても、聖霊は何よりも教会において働くことも確かです。教会が聖霊を求めて祈ることによって、私たちは聖霊を受けて、聖霊の力を与えられて、主イエス・キリストを証しし、その福音を告げ知らせていくことができるのです。14節から17節は、このことを見つめているのです。ということは、フィリポの伝道によって洗礼を受け、救いにあずかり、教会のメンバーとなったサマリアの人たちが、聖霊を受けて、聖霊の力を与えられて、キリストの福音を告げ知らせ始めた、ということにほかなりません。フィリポが告げ知らせた福音を聞いて、洗礼を受けたサマリアの人たちが、今度は、その福音を宣べ伝える者となったのです。自分自身の力によってではなく、聖霊を受けることによって、その力を与えられることによって、彼らは福音を宣べ伝え始めたのです。
 私たちの教会がキリストの福音を宣べ伝えていくことができるのも、また私たち一人ひとりがキリストを証ししていくことができるのも、聖霊を受けることによってであり、聖霊の力を与えられることによってです。私たちは自分たちの力や計画によってキリストの福音を宣べ伝えていくのではありません。だからこそ私たちの教会は聖霊を求めて祈っていきます。教会が、私たち人一人が聖霊を受けるよう祈り求めていくのです。

シモンが見たのは?
 さて18節以下では、再びシモンが登場します。18、19節でこのように言われています。「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください』」。シモンは、「使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見」た、と言われています。これも理解するのが難しい一文です。聖霊は私たちのこの目には見えません。そうであれば、「聖霊」が与えられるのを見た、とは何を意味しているのでしょうか。これまで見てきたように、この箇所で「聖霊を受ける」ことが、神の言葉を語る力を与えられることとして強調されているなら、シモンが見たのは、「聖霊」ではなく、聖霊を受けたサマリアの人たちが神の言葉を語り出したことではないでしょうか。聖霊を受けて、その力を与えられて、サマリアの人たちがキリストの福音を語り始めたのを、シモンは見たのです。

手を置くこと
 それでシモンは、自分も聖霊を与えることができる力を求めました。自分が手を置けば、誰でも聖霊を受けることができるように、その聖霊を与える力を求めたのです。シモンの間違いは、一つには、「手を置くこと」によって、聖霊を与えられると思ったことです。確かに「手を置くこと」は、旧約の時代から神様の祝福を求める大切な行為でした。しかしそれは「手を置くこと」によって、自動的に神様の祝福が与えられるということではないし、逆に手を置かなければ、祝福が与えられないということでもありません。それでは「手を置くこと」が魔術化してしまいます。シモンは魔術師でしたから、その感覚が抜けず、ペトロたちが手を置くことによって、サマリアの人たちが聖霊を受けたのを見て、自分も手を置くことによって同じことができるようになりたい、と勘違いしたのかもしれません。
金によって神の賜物を手に入れようとする
 しかしシモンの最大の間違いは、聖霊を与える力を金によって得ようとしたことでした。後に、キリスト教の歴史の中で、このシモンの名前に由来する、「シモニア」という言葉が生まれます。日本語では「聖職売買」と言われます。教会における職務や地位を、お金で売り買いすることです。現代の日本の教会のような状況においては、実感しにくいことですが、中世ヨーロッパの教会では、教会における職務や地位は、莫大な収入を得ることができる大きな利権となっていました。ですからそれをお金で売り買いすることも起こったのです。
 このようにシモンが金によって聖霊を与える力を得ようとしたことに対して、ペトロはとても厳しい言葉を語りました。20、21節です。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ」。ペトロが「神の賜物を金で手に入れられると思っている」と言っているように、シモンの最大の間違いは、神の賜物である聖霊を、それを与える力を、金によって手に入れようとした、手に入れられると思っていたことにあります。聖霊は、とりわけこの箇所では神の言葉を語る力としての聖霊が見つめられていますが、それは神の恵みの賜物であり、神様からの一方的なプレゼントであって、決して金によって手に入れることはできないのです。シモンが間違ったのは、シモンの心が「神の前に正しくないからだ」とペトロは言います。「正しくない」と訳された言葉は、直訳すれば「まっすぐでない」となります。神様の前に心がまっすぐでない、神様の方に心がまっすぐ向いていない、歪んでいる。だから金によって神の賜物である聖霊を、それを与える力を手に入れることができると思ったのです。

お金やモノに頼って伝道を前進させようとする誘惑
 先ほどもお話ししたように、現代の日本の教会の状況において、私たちは「シモニア」がピンときませんし、シモンが神の賜物である聖霊を、それを与える力を金によって手に入れようとしたこともピンとこないかもしれません。私たちの教会とは関係ないことのように思えるのです。しかし本当にそうでしょうか。もう一度、振り返れば、ルカがこの箇所で見つめているのは、神の言葉を語る力としての聖霊を受けることでした。そしてシモンはその聖霊を与える力を金によって手に入れようとしました。ということは、結果的にシモンは、金で聖霊を与える力を得て、その力によって、人々に聖霊を与え、その聖霊を受けた人々が神の言葉を語り出すことを求めた、ということになるのではないでしょうか。シモンがそこまで意識していたかは分かりません。しかしシモンが金によって神の賜物である聖霊を与える力を手に入れようとしたことに、金によって福音を宣べ伝えようとすること、つまり金によって伝道を押し進めようとすることが見つめられているのです。このことは、私たちの教会と決して無関係ではありません。私たちの教会もお金やモノに頼って伝道を前進させようとする誘惑に絶えず晒されているからす。それは、どのような思いとして私たちの心に生じてくるのでしょうか。もっと教勢が伸びないと、もっと牧師(献身伝道者)が与えられないと、もっと財政的な基盤がしっかりしないと伝道は難しい、伝道はできない、そのような思いとして私たちの心に生じてくるのです。間違えてはならないのは、教勢低下や、献身者の減少や、財政的な逼迫は気にしなくてよいということでは決してありません。私たちはこれらの課題に対して、見てみない振りをするのではなく、しっかり向き合っていかなくてはなりません。しかしそうであったとしても、これらは私たちの教会が伝道しなくなる理由、神の言葉を宣べ伝えなくなる理由には、まったくならないのです。もしお金やモノがないから伝道できないと考えるなら、私たちは結局、シモンと同じように、お金やモノによって神の賜物である聖霊を得ようとし、伝道しようとしています。しかし伝道は、私たちが持っているものによって前進するのではありません。私たちが神の恵みの賜物である聖霊を受け、聖霊の力を与えられて、キリストの福音を力強く宣べ伝えることによって前進していくのです。私たちはそのことをしばしば忘れてしまいます。私たちの心も、神様の方にまっすぐ向いていない、歪んでいるのです。

悔い改めて、罪の赦しにあずかる
 20節でペトロはシモンに「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい」と言いました。それにもかかわらず22節でこのように言います。「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ」。それを聞いたシモンは、24節で、「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」と答えています。シモンのこの言葉が、心からの言葉であったのかどうか、論じられたりします。シモンは後に、異端であるグノーシス主義の父となった、と言われたりもします。そうであるならシモンのこの言葉は、心からの言葉ではなかったことになります。しかし確実なことは何も分かりませんし、どちらでもよいことです。私たちが受けとめるべきは、ペトロの言葉が、ほかならぬ私たちに向けられた言葉だということです。神様の方に心がまっすぐ向かず、歪んでいて、神の賜物である聖霊を求めずに、お金やモノがなければ伝道できないと思ってしまう私たちこそ、悔い改めて、赦しを求めて、主に祈る必要があるのです。いえ、すでに、神様の方に心がまっすぐ向かない私たちを救うために、23節の言葉を用いれば、「腹黒い者であり、悪の縄目に縛られている」私たちを救うために、主イエス・キリストが十字架で死んで、復活してくださいました。私たちは悔い改めて、神様の方に向いていない心を神様の方に方向転換して、まっすぐ向けて、この御子キリストの十字架と復活による罪の赦しにあずかるのです。

困難な状況にあっても
 その罪の赦しの恵みの中で、私たちは神の賜物である聖霊を求めていきます。私たちが持っているものに頼るのではなく聖霊にこそ頼ります。その聖霊を受けて、その聖霊の力によって、私たちはキリストの福音を、キリストの十字架と復活による救いの良い知らせを宣べ伝えていくのです。8章1節以下で語られていたことは、エルサレム教会がお金やモノを潤沢に持っていたから、キリストの福音が初めてエルサレムを越えて、ユダヤとサマリアの全土に広がった、ということではまったくありません。お金やモノは全然なかったのに、それどころか迫害が起こり、困難な状況にあったのに、その迫害によって散らされて行った先で、キリストの福音を宣べ伝えることによって、その福音が、エルサレムを越えて広がったのです。あの主イエスの約束が実現したのです。危機的な状況の中にあっても、神の賜物である聖霊を受けて、その力によってキリストの福音を宣べ伝えたことによって、伝道が前進していったのです。私たちの教会も、これから益々困難な状況に直面するかもしれません。しかし私たちの教会は神の恵みの賜物である聖霊を求めて祈り続けます。聖霊を受けて、その力によって、私たちの教会はキリストの福音を宣べ伝え続け、神様の伝道のみ業に仕え続けていくのです。

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