夕礼拝

問題が起こっても

説 教 「問題が起こっても」副牧師 川嶋章弘
旧 約 出エジプト記第18章12-27節
新 約 使徒言行録第6章1-7節

順調に成長してきた最初の教会が問題に直面
 使徒言行録を読み進めて、本日から第6章に入ります。これまで使徒言行録は、ペンテコステに誕生した教会が短期間の間に急速に成長し、そのメンバーが急激に増えたことを語ってきました。使徒たちが妨害や迫害を受けても大胆に主イエスの十字架と復活による救いを語ることによって、多くの人々が自分の罪に気づかされ、悔い改めて洗礼を受け、罪の赦しにあずかり、教会のメンバーに加わったのです。5章14節でも、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」と言われていました。使徒言行録は5章まで、教会に対する妨害や迫害の中にあっても、教会が基本的に順調に成長してきたことを語ってきたのです。
 ところが使徒言行録は、本日の箇所で、これまで順調に成長してきた最初の教会が問題に直面したことを正直に語っています。その問題とはどのような問題であり、そして最初の教会は、その問題とどのように向き合ったのでしょうか。私たちはこのことに目を向けていくことによって、私たちの教会が問題に直面したとき、その問題とどのように向き合えばよいのかを示されていきたいのです。

教会員が増えた
 冒頭1節で最初の教会が直面した問題について、このように説明されています。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。最初の教会で問題が起こった根本的な原因は、「弟子の数が増え」たことにあります。ここで「弟子」とは、使徒たちのことではなく教会のメンバーのことです。使徒言行録は率直に教会員が増えたので教会で問題が起こった、と語っているのです。

二つのグループ
 具体的には「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情」が出ました。当時すでにユダヤ人は世界各地に散らばって生活していましたが、「ギリシア語を話すユダヤ人」とは、地中海沿岸のギリシア語圏で生まれ育ち、しかし何らかの事情でエルサレムに戻ってきて、キリスト者となったユダヤ人のことです。それに対して、「ヘブライ語を話すユダヤ人」とは、ユダヤ地方で生まれ育ち、キリスト者となったユダヤ人のことです。この人たちは日常的にヘブライ語を、より正確に言えば、ヘブライ語の親戚であるアラム語を話していました。他方「ギリシア語を話すユダヤ人」は日常的にギリシア語を話していて、ヘブライ語ないしアラム語はほとんど話せなかったと思います。そのため最初の教会には自然と、「ギリシア語を話すユダヤ人」のグループと、「ヘブライ語を話すユダヤ人」のグループができていったのではないでしょうか。すぐに想像がつくように、教会の中に日常生活で使っている言葉が違う人たちがいれば、意思の疎通が難しくなり、色々な行き違いが起こっても不思議ではなかったのです。

最初の教会で起こった問題
 「ギリシア語を話すユダヤ人」の苦情の内容は、「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」ことでした。「日々の分配」とは、2節に「食事の世話」とあるので、具体的には日々の食事の分配のことです。4章32節以下に記されていたように、最初の教会は、そのメンバーの持ち物すべてを共有し、それを必要に応じて分配していました。日々の食事も分配し、すべてのメンバーに行き渡るようにしていたのだと思います。しかしそこでトラブルが起こりました。「軽んじられている」と訳されていますが、意図的に「軽んじられた」というより、「見過ごされた」という意味です。日々の食事の分配において、「仲間のやもめたちが見過ごされている」と、「ギリシア語を話すユダヤ人」は訴えたのです。つまりこのトラブルは、依怙贔屓によって起こったというより、「ギリシア語を話すユダヤ人」の仲間のやもめに目が行き届かなくなったことによって起こったのです。
 「やもめ」とは、夫を失った未亡人のことですが、当時「やもめ」は、「みなしご」と共に社会の中で最も弱い立場にありました。ユダヤ教は「やもめ」と「みなしご」の保護を重んじましたが、最初のキリスト教会もそれを受け継ぎました。それなのに「ギリシア語を話すユダヤ人」の仲間のやもめたちが見過ごされていたのです。その原因は、書かれていないので分かりません。ただ、夫と共に世界各地に散らばって生活していたユダヤ人の女性が、やもめになると、余生をエルサレムで過ごそうとして、エルサレムに帰って来ることは少なくなかったようです。その際、社会的に弱い立場のやもめは、親類縁者の世話にならざるを得ませんでしたが、必ずしもそのようなつてがあるわけではないので、ユダヤ教の会堂などを頼ったようです。その中にはキリスト教会を頼る者もいました。先ほどの4章32節以下では、最初の教会のメンバーがすべての持ちものを共有していたので「一人も貧しい人がいなかった」と言われていました。そのキリスト教会の姿に惹かれて、教会を頼った者も少なくなかったのだと思います。教会もまた一人で生活するのが難しいやもめを喜んで迎え入れたのです。ところがやもめが増えていくことによって、食事の分配でその人たちに目が行き届かなくなりました。言葉が違うことで意思の疎通が難しかったことも相まって、必要に応じた分配がうまく機能しなくなったのです。

新たな方が加わるときに
 最初の教会はこのような問題に直面したのですが、このことから私たちは大切なことを示されます。第一に教会の伝道によって教会のメンバーが増えると、トラブルが起こることがある、ということです。教会はメンバーが変わらなければ、慣れ親しんだメンバーであれば、あまり問題は起こりません。しかし新しいメンバーが加えられると、時にはトラブルが起こります。私たちの教会では、話す言葉の違う方が加えられることはあまりないかもしれませんが、年齢の異なる方、生まれや育ち、学歴や社会的立場の異なる方が加えられることはもちろんあります。新しい方が加えられるとき、それらの違いに戸惑い、慣れ親しんだメンバーは、教会の居心地が悪くなった、と感じたりするのです。ですからもし私たちが自分たちの居心地の良さだけを求めるなら、教会は伝道しないほうが良い、ということになります。しかしそれは間違っています。神様が教会に与えてくださった第一の使命は伝道であり、教会は誕生したときから伝道する教会であったからです。むしろ私たちは本日の箇所から、伝道によって新たな方が教会に加えられるとき、教会でトラブルが起こることを過度に恐れたり、あるいは居心地が悪くなることを避けたりする必要はない、ということを示されます。大切なことは、問題が起こったとしても、その問題とどう向き合っていくかということです。そして問題と向き合うことを通して、新しい方を含めて、教会が居心地の良い場所となっていくことなのです。

良いことに取り組む中で
 もう一つ示されるのは、教会は良いことに取り組む中で、問題に直面することがある、ということです。最初の教会が一人も貧しい人がいないよう、とりわけ社会的に弱い立場にある人たちにも食事が行き渡るよう実践していたことは尊い取り組みでした。しかしまさにその尊い、良いことに取り組む中で問題が起こったのです。もしかしたら「ギリシア語を話すユダヤ人」は、やもめを大切にするはずの教会が、そうなっていないことは間違っていると主張したのかもしれません。それに対して食事を分配する側も、もちろん大切にしようと思っているし、依怙贔屓して分配したわけではないけれど、メンバーが急激に増え、意思の疎通が難しい中で、分配する者たちの力にも限界があり、適切な分配ができなくなったことを、なんで分かろうとしないのか、と主張したかもしれないのです。私たちの教会においても、良いことに、意義あることに取り組むときに、トラブルに直面してしまうことがあります。私たちは自分たちが良いことをしていると思うときにこそ、自分の意見や考えを強く主張してしまうからです。自分は間違っていない、間違っているのは相手だと思いがちなのです。そのために主張がぶつかり、対立が起こって、結果的にその意義ある取り組みを断念してしまうということも起こるのです。

変化を恐れずやり方を変える
 しかし最初の教会は、問題が起こったから、主張がぶつかったからといって、食事の分配を諦めることはありませんでした。確かにメンバーが急激に増え、言葉の違いによる意思の疎通の難しさがあり、これまでのやり方では続けられないことは明らかでした。やり方を変える必要があったのです。そして最初の教会は、やり方を変えることを躊躇いませんでした。別の言い方をすれば、変化を恐れなかったのです。十二人の使徒たちは、弟子をすべて呼び集めました。ここでも「弟子」とはキリスト者のこと、教会のメンバーのことです。使徒たちは教会員全員を呼び集めたのです。最初の教会総会が開かれた、と言っても良いかもしれません。その最初の教会総会において、食事の世話をする務めを担う者が選ばれたのです。3節で使徒たちは教会のメンバーにこのように言っています。「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」。使徒たちは、聖霊に満たされ、神の知恵、み言葉の知恵に満たされた評判の良い人を七人選ぶよう提案したのです。5節によれば、教会のメンバーは皆、「この提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人」を七人選びました。その中には、8節以下でその働きが語られているステファノも含まれます。そして教会のメンバーは自分たちが選んだ七人を使徒たちの前に立たせると、使徒たちは祈って「彼らの上に手を置」きました。これは「按手」と言われます。「按手」は、その人に特別な務めを委ね、その務めに遣わすことを示しています。同時にその務めを果たすために聖霊の賜物が与えられるよう祈ったのです。最初の教会は、教会の状況が急激に変化する中で、すべてのメンバーに目が行き届かず、食事の分配が機能しなくなるという問題に直面しました。しかし新たにその務めを担う人たちを選び、その務めを託すことによって、この問題と向き合ったのです。変化を恐れることなく、やり方を変え、新しい制度を整えることによってこの問題と向き合ったのです。

執事職
 私たちの教会が受け継いでいる改革長老教会の伝統では、本日の箇所に「執事職」の起源を見ます。「食事の世話をする」と言われていましたが、この言葉は「ディアコネオー」という言葉です。それが名詞になると「ディアコノス」で、この言葉が「執事」を意味します。しかしそれは、執事が「食事の世話をする」務めだということではありません。そうではなく教会全体に目を配り、奉仕を行っていく、「愛の業」を行っていくのが執事の務めです。それも、執事だけが「愛の業」を行うのではありません。本日の箇所でも、選ばれた七人が自分たちだけで食事を作り、教会のすべてのメンバーにその食事を運んだのではないでしょう。教会の規模を考えたら、それは考えにくいことです。むしろ七人は、すべてのメンバーに適切に食事が分配されるためにコーディネートしたのだと思います。奉仕は、愛の業は、教会員皆が担うことです。執事はそのために奉仕をコーディネートする務めを担っているのです。

キリスト者は主イエスの弟子
 けれども改めてここで語られている問題について考えると、この問題は単なる食事の分配の問題に留まりません。使徒言行録はこれまで最初の教会の姿として、「心も思いも一つにし」(4:32)、「心を一つにして」(5:12)と言われていたように、「一つである」ことを、つまり教会の一致を語ってきました。しかしそれが危機に直面した。この問題の本質はこのことにあります。最初の教会は、この問題によって教会の一致が崩れてしまうかもしれない、という危機に直面したのです。そこにおいて注目すべきなのは、すでにお話しした、使徒言行録が教会のメンバーを「弟子」と呼んでいることです。使徒言行録は、この箇所で初めて教会のメンバーを、つまりキリスト者を「弟子」と呼び、これ以降は、繰り返しそう呼んでいます。私たちは「弟子」と言われると、主イエスの地上の生涯において、主イエスに従った弟子たちを思い浮かべることが多いと思います。しかし使徒言行録は、私たちキリスト者を「弟子」と呼ぶのです。弟子というのは必ず師匠がいます。師匠のいない弟子はいません。私たちの師匠は、もちろん主イエス・キリストです。私たちキリスト者は主イエスの弟子なのです。しかし私たちは、自分が主イエスの弟子であることをあまり意識していないかもしれません。自分はキリスト者だとは思っていても、主イエスの弟子だ、ということを忘れてしまっているのです。しかし忘れてはならない。なぜなら自分が主イエスの弟子であることは、私たちの信仰生活の根本に関わることだからです。私たちの生き方に関わることだからです。弟子であるとは師匠がいる、従うべき方がいるということですから、主イエスの弟子であるとは、私たちが自分に従うのではなく主イエスに従って生きる、ということです。先ほど良いこと、意義あることに取り組むときほど、私たちは自分の正しさを主張し合って、対立してしまうことがあるとお話ししました。教会が意義あることに取り組む中で、教会の一致が危機に直面することが起こるわけです。そのようなとき私たちは自分が主イエスの弟子であることを忘れているのではないでしょうか。主イエスに従っているのではなく、自分の主張や正しさ、思いや願いに従っているのです。私たちが自分に従うのをやめて、お互いに主イエスの弟子として歩んでいくときに、教会の一致は回復され、問題解決への道は開かれていくのです。

主イエスの弟子であることに立ち帰る
 教会には年齢や世代の異なる方が、生まれや育ちの異なる方が、また学歴や社会的立場の異なる方がおられます。ですから年齢や世代とか、育ってきた環境とか、社会的立場とかによって、教会は「一つである」ことができません。そうではなく教会は、そのメンバー皆が、主イエスの弟子であるということにおいて、そのことにおいてのみ「一つである」のです。どれほど違いがあっても、たとえ話す言葉が違っても、主イエスの十字架と復活によって罪を赦され、主イエスの弟子とされていることにおいて、私たちは「一つである」のです。だから使徒言行録は、最初の教会が問題に直面し、教会の一致が危機に直面したまさにこの箇所で、初めて教会のメンバーを「弟子」と呼んだのではないでしょうか。自分たちが主イエスの弟子であることに立ち帰ることによって、問題に誠実に向き合っていくことができるからです。私たちの教会でも小さいことから大きいことまで様々なトラブルが起こっています。トラブルに直面すれば、私たちは落ち込みます。特にそのトラブルの中で、誰かを傷つけてしまったり、あるいは誰かから傷つけられてしまったりするとき、ひどく落ち込みます。しかしそのようなトラブルの中で、私たちは自分たちが主イエスの弟子であることに立ち帰る必要があります。自分だけでなくお互いが、教会のメンバー皆が、主イエスの弟子であることに立ち帰る必要があるのです。そのことによってこそ、私たちは教会で起こった問題に本当に向き合っていくことができるのです。

自分の力によってではない
 しかし主イエスの弟子であることに立ち帰ると言われても、私たちはどうすれば良いのでしょうか。自分自身に、自分は主イエスの弟子だ、自分は主イエスの弟子だ、と言い聞かせることによってでしょうか。つまり自分が主イエスの弟子である、という意識を高く、強く持つことによってでしょうか。そうではありません。私たちは自分の力で主イエスの弟子であることに立ち帰ることも、主イエスの弟子であり続けることもできないのです。主イエスではなく自分に従おうとする私たちの罪は、自分の力で取り除くことができないほどに根深いのです。

神の言葉を後回しにしないことによって
 私たちが主イエスの弟子であることに立ち帰ることができるとしたら、主イエスの弟子であり続けることができるとしたら、それは神の言葉、み言葉によってです。み言葉によってこそ、私たちは繰り返し自分の罪に気づかされ、悔い改めへと導かれ、罪の赦しをいただいて、主イエスの弟子として歩んでいくことができるのです。だから使徒たちは、2節で教会のメンバーにこのように言いました。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」。4節でもこのように言っています。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。「神の言葉をないがしろにして」というのは、「神の言葉を後回しにして」という意味です。教会が急成長して、教会のメンバーが急激に増えて、食事の分配をするのに手間が掛かるようになり、神の言葉が後回しになってしまった。しかしそれは良いことではない、適切なことではない。だから使徒たちは、「祈りと御言葉の奉仕に専念することに」したのです。教会が問題に直面するとき、教会は神の言葉を後回しにしないためにこそ、神の言葉に聞き続けるためにこそ、その問題と向き合っていきます。私たちが問題に直面したとき、新しいやり方を試みたり、ときには新しい制度を導入したりするのは、何よりも私たちが神の言葉を後回しにしないため、神の言葉に聞き続けるためなのです。最初の教会は問題に直面したとき確かに変化を恐れませんでした。しかしそれは、どんな変化でも良かった、ということではありません。教会が神の言葉を後回しにしないために、変化を恐れなかったということです。別の言い方をすれば、神の言葉を後回しにしないために、変えて良いことと変えてはいけないことをしっかり見極めた、ということなのです。

問題が起こっても
 本日の箇所の最後7節に「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。神の言葉を後回しにしないために、最初の教会は七人を選び、教会の制度を整えました。そのことによって、神の言葉がますます広がり、主イエスの弟子がエルサレムで非常に増えていったのです。復活を信じていなかったサドカイ派の祭司ですら大勢、主イエスの十字架と復活を信じ、教会のメンバーとなったのです。「ますます広がる」と訳された言葉は、「育つ」「成長する」という意味の言葉です。私たちが神の言葉を後回しにしないときに、神の言葉が人々の中で育っていき、人々に働きかけ、自分の罪に気づかせ、悔い改めに導き、主イエスの十字架と復活による救いにあずからせるのです。私たちが神の言葉を後回しにしないことによってこそ、教会の伝道は前進していくのです。
 私たちは教会の奉仕においても、神の言葉を後回しにする誘惑に絶えずさらされています。すべきことが山積みで、それらを優先するあまり、神の言葉を後回しにしてしまうのです。しかしそれで伝道が本当に前進することはありません。むしろ神の言葉が後回しになるとき、私たちは自分が主イエスの弟子であることを忘れて、自分に従って生きるようになってしまうのです。けれども私たちが神の言葉を後回しにしないなら、神の言葉はますます広まっていきます。だから教会で問題が起こっても、神の言葉を後回しにしないなら、私たちは不安や恐れに駆られなくて良い。神の言葉を後回しにせず、神の言葉に聞き続け、主イエスの弟子であることに立ち帰る中で、私たちの教会は一つとされて、大小様々な問題に誠実に謙虚に向き合っていくことができるのです。変えて良いことと変えてはいけないことを見極める知恵を与えられ、新しい状況に対応するために、変化を恐れずに新しいやり方、新しい制度を取り入れていくことができるのです。そのことを通して、神の言葉が、主イエスの十字架と復活による救いの良い知らせがますます広まって、主イエスを信じ、主イエスの弟子とされる者が起こされていくのです。

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