説 教 「命の言葉を告げなさい」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第40章6-11節
新 約 使徒言行録第5章12-26節
しるしと不思議な業
使徒言行録5章を読み進めています。前回読んだ1~11節では、アナニアとサフィラの出来事が語られていました。また17節以下では、十二使徒たちが逮捕され最高法院で尋問される出来事が語られています。その間の12~16節は、誕生したばかりの教会の様子を要約して語っている箇所ですが、それと共に、1~11節と17節以下の橋渡しともなっています。
冒頭12節の前半に「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」とあります。このことは4章30節の使徒たちの祈りが成就したということです。彼らはこのように祈っていました。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。「使徒たちの手によって」と言われています。しかしそれは使徒たち自身の力によって、ということではありません。先ほどの祈りで彼らは「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって……しるしと不思議な業が行われるように」と祈っていました。神が御手を伸ばしてくださることによって、聖なる僕イエスの名によって、つまり今も生きて働かれる主イエスのお働きによって、「多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われ」たのです。それは人間の予想を超えた、人間が思ってもみなかったような神のみ業が起こったことを見つめています。そのために使徒たちは用いられたのです。
心を一つにして
12節の後半で「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが」と言われています。「一同」とは、誕生したばかりの教会に連なる人たち、つまりキリスト者たちのことです。これまで見てきたように「心を一つに」することは、最初の教会のメンバーの根本的な姿勢でした。それは、感情的に皆の気持ちが同じだったということではなく、心を一つにして教会の信仰を告白していた、ということです。自分たちの救いのために十字架で死んでくださった御子イエスを、神が死者の中から復活させてくださったことを、心を一つにして信じていたのです。教会のメンバーは、心を一つにしてそのことを信じ、ソロモンの回廊に集まっていたのです。
矛盾している?
続く13節の前半で、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」と言われています。教会のメンバー以外は、ほかの人たちは誰一人として、あえて教会の仲間に加わろうとしませんでした。一緒にソロモンの回廊に集まることはなかったのです。このことはキリスト教会と外の社会の境界がはっきりしてきたことを見つめていると言えるでしょう。問題はその直後に、「しかし、民衆は彼らを称賛していた」と言われていることです。「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」と言われていたのに、「民衆は彼らを称賛していた」と言われている。キリスト者の仲間に加わりたくないのか、それともキリスト者を称賛しているのか、一体どっちなのだろうかと思います。この矛盾を解決するために、「ほかの者」と「民衆」は別の人たちを指していると考えられることもあります。しかしそうではないと思います。むしろこの矛盾のように思えることに、誕生したばかりの教会が持っていた大切な姿勢が、いえ誕生したばかりかどうかに関わらず、キリスト教会が持つべき大切な姿勢が見つめられているのです。
恐れと好意を併せ持った緊張感
一方で、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」ことには、直前の箇所で語られていたアナニアとサフィラの事件の影響が考えられます。前回お話ししたように、アナニアとサフィラは自分の土地を売った代金の一部を全部と偽って教会に献げることによって神を欺き、そのために死ななければなりませんでした。二人は神への畏れを失い、神を侮り、神を欺いたのです。この出来事の終わり11節には、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とあります。教会に連なるキリスト者だけでなく、教会の外の人たちも皆、アナニアとサフィラの事件を聞いて「非常に恐れ」ました。キリスト教会が、神を侮り、欺く者が死ななければならないほどに、神を畏れている群れであることを知って恐れたのです。その恐れが、キリスト教会と外の社会との境界をはっきりとさせました。それで、教会の外の人たちはその境界を超えて、教会の「仲間に加わろうとはしなかった」のです。
しかしその一方で、そのように神を畏れる群れである教会は、教会の外の人たちから、特にユダヤ人の民衆から単に恐れられていただけではありませんでした。そのことはすでに2章46、47節でも語られていました。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」。民衆は神を畏れ、心を一つにして神を礼拝し、賛美して、「喜びと真心をもって」共に食事をする群れである教会に好意を寄せていました。だから本日の箇所の13節にあるように、教会に連なるキリスト者を「称賛していた」のです。
一方で、教会と外の社会との境界がはっきりしてきて、教会の外の人たちがキリスト教会を恐れるようになる。その一方で、その人たちが教会に好意を寄せ、キリスト者を「称賛して」いる。実は、これは矛盾ではありません。いやむしろ、教会に対する恐れと称賛の両方があることが、恐れと好意を併せ持った緊張感があることが、教会の伝道が進展する秘訣、と言っても良いのです。教会が外の社会から一線を画すように距離を置かれつつも、別の言い方をすれば、ある恐れを覚えられつつも、しかし好意と称賛をもって見られている。この緊張感こそが伝道の進展のために欠かせないのです。だから一見矛盾しているように思えるこの13節に続いて、14節ではこのように言われています。「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」。誕生したばかりの教会に対して、恐れと好意を併せ持った緊張感がある中で、主イエス・キリストを信じる者が続々と起こされ、キリスト者が「ますます増えて」いきました。この緊張感の中でこそ、教会の伝道は前進したのです。
私たちの教会は?
私たちの教会はどうでしょうか。この緊張感を保っているでしょうか。私たちはともすれば、教会と外の社会との境界を無くそうとすることを考えがちです。それは確かに必要なことです。たとえばしばしばこの教会の正面の階段は、初めてこの教会を訪れる人にとって、心理的、物理的に大きなハードルであると言われます。階段を取り除くことはできませんが、そのような心理的、物理的なハードルはできるだけ取り除いていく必要があるでしょう。あるいは教会に初めて来てみたら、誰にも声を掛けてもらえず、よそ者扱いされたように感じ、寂しい思いをした、ということがないようにする必要もあります。そのためにも私たちは教会にいらした方に少なくともご挨拶していきたいと思います。このように私たちは、教会の外の方ができるだけ教会に入って来やすいように心を砕く必要があるのです。しかしそれは教会と外の社会との境界を無くすことでは決してありません。教会が外の社会との境界を無くして、外の社会に迎合し、外の人たちが喜びそうなことばかりを行うようになれば、一時的には教会に集まる人は増えるかもしれませんが、結局、教会は外の社会に呑み込まれてしまうだけです。教会は神を畏れ、御子キリストの十字架による罪の赦しの恵みの中で、心を一つにして神を礼拝し、賛美し、「喜びと真心をもって」共に交わりを持つ群れであるという点で、外の社会とは一線を画し続けるのです。私たちは今、伝道がなかなか進まない現実に直面しています。その要因として色々挙げることができるでしょう。しかし少なくとも、私たちの教会が外の社会との境界を維持することができているのか、教会に対する恐れと好意を併せ持った緊張感を保つことができているのか点検してみる必要があります。その緊張感なしに、私たちの教会の伝道が前進していくことはないからです。誕生したばかりの教会は、私たちの教会が持つべきこの姿勢を示しているのです。
キリストによる救いを指し示している
15節ではこのように言われています。「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」。ここで言われているのは、ペトロの影にかかると病人が癒されたということではありません。ペトロの影に何か特別な力があるわけではないのです。そうではなくせめてペトロの影にかかれば、苦しみや痛みの中にある者が癒されるのではないかという、人々の切なる願いが見つめられています。続く16節にはこのようにあります。「また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった」。冒頭12節で語られていた、使徒たちの手によって「多くのしるしと不思議な業と」が民衆の間で行われたことが、ここで具体的に語られているのです。私たちがこの箇所で目を向けるべきなのは、群衆が連れてきた「病人や汚れた霊に悩まされている人々」が「一人残らず」癒されたから、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」と語られているわけではない、ということです。人々は癒されたから信じたのではありません。そうではなく使徒たちが告げる、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを聞いて信じたのです。神を畏れて生きるキリスト教会に好意を寄せ、そこで語られている福音を聞いて信じ、キリストの十字架と復活による救いにあずかりました。癒されたから主イエス・キリストを信じたのではなく、自分の罪の赦しのために主イエスが十字架で死んで復活されたことを知らされたから主イエスを信じたのです。16節で語られている癒しのみ業は、この救いのしるしであり、この救いを指し示すものです。苦しみと痛み、嘆きと悲しみの根本にある罪と死の支配からの救いが、キリストの十字架と復活によって与えられたことのしるしなのです。救いにあずかった人にとって、たとえ病そのものが治らなかったとしても、苦しみや痛み、嘆きや悲しみは、かつてと同じではありません。今も生きて働かれる主イエスがその苦しみや痛み、嘆きや悲しみを共に担ってくださっているからです。それは、病そのものの癒しを超えた神のみ業であり、人間が思ってもみなかった神のみ業なのです。
逮捕と投獄、脱獄と再逮捕
教会に対する恐れと好意を併せ持った緊張感の中で、「多くの男女が主を信じ」、教会の伝道が進展することは、しかしキリスト教会に対するねたみも引き起こしました。民衆がキリスト者を称賛していることに対して、ねたみに燃え、嫉妬に燃えた者たちがいたのです。その者たちの主導によって起こった使徒たちへの迫害が17節以下で語られています。本日は26節までを読み、来週27節から42節までを読みます。17節から26節までに語られている事の次第はこのようなものでした。17節によれば、ねたみを燃やしたのは、「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々」でした。彼らは嫉妬に駆られて使徒たちを逮捕し「公の牢」に入れました。4章ではペトロとヨハネだけが逮捕されましたが、今回は十二人皆が逮捕され牢に入れられたのです。ところが、「夜中に主の天使が牢の戸を開け」、十二人を牢から連れ出しました。そして主の天使は十二人に「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じます。そこで使徒たちは夜明けごろ境内に入って教え始めたのです。一方、大祭司とその仲間は最高法院を招集し、そこへ使徒たちを連れて来るために、下役たちを牢に差し向けました。すると使徒たちが牢にいなかったので、彼らは戻ってきてこのように報告しました。「牢にはしっかり鍵がかかっているし、牢の戸の前には番兵が立っていたけれど、戸を開けてみると、誰もいませんでした」。この報告を聞き、神殿守衛長と祭司長たちがどうなることかと戸惑っていると、別の人が来て、「牢に入れたはずの使徒たちが、神殿の境内で民衆に教えています」と報告したのです。そこで神殿守衛長は下役たちを率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来ました。26節によれば、「民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことは」せずに、丁重に十二人を最高法院の場に連れて来たのです。要するに本日の箇所では、十二人の逮捕と投獄、脱獄と再逮捕が描かれているのです。
私たちの予想を超えた神のみ業
しかしここで描かれている、主の天使が十二使徒を牢から脱出させたことは、現代を生きる私たちには信じがたいことのように思えます。それどころか最高法院が差し向けた下役たちの詳しい報告には、思わず笑ってしまいそうになります。彼らは23節で、「牢にはしっかり鍵がかかっていて」、しかも「戸の前には番兵が立っていた」にもかかわらず、牢の「中にはだれもいませんでした」と報告しています。ということは、主の天使は何らかの手段を用いて、牢の扉の前に立っている番兵に気づかれないように牢の扉の鍵を開け、十二人を脱獄させたことになります。しかも十二人を脱獄させた後、主の天使はご丁寧にも、開けた牢の鍵をまたしっかり掛け直したことになるのです。微笑ましい奇跡、微笑ましい脱獄の場面が描かれていると思います。しかし同時に信じがたい、とも思わずにはいられないのです。けれどもこの出来事があり得ないことであったのは、現代を生きる私たちだけではありませんでした。十二人を牢に入れたのは「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々」でしたが、使徒言行録23章8節に「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い」とあるように、サドカイ派の人たちは「主の天使」を信じていませんでした。「主の天使」などいるはずがなかったのです。ここで主の天使による奇跡が、先ほど見たように詳細に描かれているのは、サドカイ派にとってあり得ないことが起こったことを強調するためだと思います。つまりこの出来事は全体として、サドカイ派の人たちにとってそうであったように、私たちにとってあり得ないことを、私たちが予想もしていなかったことを、神は実現してくださることを見つめているのです。
命の言葉を告げなさい
全体としてはそうなのですが、この出来事の幾つかの点に注目することで、さらに深くこの出来事を受けとめていくことができます。改めて19、20節を見てみると、このように言われていました。「ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』」。主の天使によって、つまり神のみ業によって、十二使徒たちが牢から出されたのは、「命の言葉を残らず民衆に告げる」ためです。主の天使は使徒たちを牢から出して、その身の安全を守ろうとしたのではありません。実際、この後、彼らは再び逮捕されますし、40節によれば鞭で打たれることになります。彼らが牢から出されたのは、たった一つの目的のため、「命の言葉を告げる」ためであったのです。「命の言葉」の「命」とは、私たちがこの地上の生涯において生きている命のことではありません。主イエス・キリストを信じ、主イエスと一つとされて生きる者に、つまり私たちキリスト者に、将来、救いの完成のときに与えられる「永遠の命」のことです。ですから「命の言葉」とは「永遠の命についての言葉」であり、「復活と永遠の命にあずかる救いを告げる言葉」であり、一言で言えば「福音」にほかなりません。使徒たちは「命の言葉」を告げるために、福音を告げるために牢から出されたのです。この出来事は神の言葉を宣べ伝える者、福音を宣べ伝える者が牢に入れられ、鎖につながれることを語ります。しかし同時に、「神の言葉」は、キリストの十字架と復活による救いを告げる「命の言葉」は、決して閉じ込められることも、鎖につながれることもないことを語っています。「命の言葉」が必ず人々に伝えられることを、そのために神がみ業を行ってくださることを語っているのです。
テモテへの手紙二2章9節にこのようなみ言葉があります。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。「しかし、神の言葉はつながれていません」。神の言葉は決してつながれることがない。本日の箇所は、まさにこのことを告げているのです。
私たちこそが「命の言葉」を告げる
このこととも関係ありますが、もう一つ別の点に注目したいと思います。それは、主の天使は「命の言葉」を語ることができない、ということです。主の天使が言葉を話せない、ということではありません。実際、主の天使は使徒たちに「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と命じています。しかし主の天使は、「命の言葉」を語ったわけではない。使徒たちを牢から出してこのように命じただけです。そんな面倒なことをしなくても、主の天使が直接人々に「永遠の命についての言葉」を、キリストの十字架と復活による救いを告げる「命の言葉」を語っても良いように思えます。しかしそれは、おそらく出来ないのです。それが出来るのは、それをなすべきなのは使徒たちであり、私たちキリスト者です。なぜなら「命の言葉」を告げるとは、復活と永遠の命についての知識、情報を伝えることではないからです。キリストの十字架と復活による救いにあずかり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられている者だけが、その救いに感謝し、その約束に希望を置いて生きている者だけが、「命の言葉」を語ることができるし、人々に届けることができるのです。この後、再び逮捕されて最高法院の場に引き立てられたときも、ペトロは堂々と「命の言葉」を語りました。かつて主イエスを見捨て、裏切り、取り返しのつかない罪を犯したペトロに、復活のキリストが出会ってくださり、その罪を赦し、救いにあずからせ、復活と永遠の命の約束を与えてくださったからです。だからその救いに感謝して、その約束に希望を置いて、ペトロは堂々と自由に
「命の言葉」を語ることができたのです。
私たちも同じです。私たちもかつて罪と死の支配のもとに生きていました。「死んだら終わり」と思って生きていたのです。しかし「命の言葉」を告げられて、キリストの十字架と復活による救いにあずかり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられています。なお日々、苦しいことや悲しいこと、悩むことや思い通りにいかないことばかりであったとしても、この救いに感謝して、この約束に希望を置いて生きているのです。いえむしろこのように言ったほうが良いかもしれません。なお日々、苦しみや悲しみが尽きず、悩みや葛藤に直面してばかりだからこそ、私たちはこのキリストによる救いにより頼み、復活と永遠の命の希望により頼んで生きているのです。そしてそのようにこの救いだけを頼みとし、この約束だけに希望を置いている私たちこそが、「命の言葉」を宣べ伝えていくことができます。救いにあずかり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられている私たちだからこそ、福音を宣べ伝えていくことができるのです。
「命の言葉」を語らずにはいられない
主の天使に命じられて、使徒たちは夜明けであるにもかかわらず、境内で「命の言葉」を語り始めました。夜明けの神殿の境内にはほとんど人がいなかったに違いありません。しかし牢から出され自由にされたからには、「命の言葉」を語らずにはいられなかったのです。私たちも「命の言葉」を語らずにはいられません。主イエス・キリストの十字架と復活による救いを、復活と永遠の命の希望を語らずにはいられません。この救いだけが私たちを生かしているからです。この希望によって私たちは、なお苦しみや悲しみに満ちた日々を、絶望することなく忍耐して歩むことができているからです。だから私たちは「命の言葉」を人々に告げていくのです。神はその私たちを用いてくださり、私たちの予想を超えたみ業を、私たちが思ってもみなかったみ業を実現してくださるのです。
