夕礼拝

慰めの時の訪れ

2025年9月21日
説教題「慰めの時の訪れ」 副牧師 川嶋章弘

創世記 第12章1~9節
使徒言行録 第3章17~26節

ペトロの神殿説教の前半部分
 使徒言行録3章を読み進めています。この3章の最初には、ペトロとヨハネが「生まれながら足の不自由な男」を癒した出来事が語られていました。この出来事を目の当たりにした民衆は驚いて、癒しを行ったペトロとヨハネが特別な力や信心(敬虔さ)を持っていると思い込み、神殿の「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいた彼らの方へ集まってきました。その民衆に対してペトロの語った説教、いわゆる「ペトロの神殿説教」が12節以下で語られています。前回はその前半部分、16節までを読みました。そこでペトロは民衆に対して、ペトロたちの力や敬虔さではなく、イエスの名が、生きて働かれるイエス・キリストご自身がこの人を癒した、と語ったのです。またペトロは、そのイエスが「神の僕」であり、「命への導き手」であるとも語りました。神の独り子であり、まことの神であられるイエスが神の僕となり、人間となってくださり、十字架で苦しみを受けて死んで復活されたと語り、その十字架と復活において、イエスがまことに私たちの「命への導き手」となり、私たちの救いと永遠の命を生み出し、それへと導いてくださっている、と語ったのです。神の僕であり、「命への導き手」であるイエス・キリストの十字架と復活による救いこそが、生まれながら足の不自由な男を、そして私たちを罪から救い、新しく生かし、神様を賛美する者とした。このことが「ペトロの神殿説教」の前半では見つめられていたのです。

ユダヤ人の民衆に向かって
 さて本日の箇所は、「ペトロの神殿説教」の後半部分です。しかしこの部分は一度読んでも、何を言っているのかよく分からないのではないでしょうか。その理由は、ここでペトロがユダヤ人の民衆に向かって語っていることにあります。ユダヤ人を神の民イスラエルと呼びますが、神の民イスラエルは、神の救いの歴史の中で特別な役割を担いました。もちろんそれは、彼らが特別な民として選ばれるにふさわしい何かを持っていた、ということではありません。旧約聖書が語っているように、彼らはただ神の恵みによって選ばれたのです。ペトロは、ユダヤ人の民衆が神の民イスラエルであることを前提として、彼らに語りかけています。ですからこのペトロの説教は、ユダヤ人の民衆にとっては分かりやすかったはずですし、自分たちのことを語っている、と受けとめられたはずです。しかしユダヤ人ではない私たちにとっては、自分のこととして受けとめにくいのです。しかしだからといって私たちに関係ないということでは決してありません。なぜならキリスト教会は、新しい神の民だからです。私たちは神の民イスラエルへ語りかけるペトロの言葉を通して、新しい神の民であるキリスト教会への語りかけを聞いていくのです。

預言者たちの子
 この箇所で神の民イスラエルが特別な民であることについて、特徴的な言葉を用いて語っているのが25節です。このように言われています。「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です」。原文では文章の最初に、「あなたがたは預言者たちと契約の子です」とあります。つまり神の民イスラエルは「預言者たちの子」であり「契約の子」である、と言われているのです。
 神の民イスラエルが「預言者の子孫」、「預言者たちの子」であるとは、彼らの祖先が皆預言者だ、ということではありません。そうではなく彼らが、旧約の預言者たちの言葉を聞き続けてきた者たちである、ということです。預言者とは、神様から言葉を預かって語る者です。ですから彼らは神の言葉を聞き続けた者たちであり、その神の言葉によって導かれ、養われ、生かされ続けてきた者たちなのです。
 旧約の預言者たちは何を語ったのでしょうか。それぞれの預言者が立てられた時代に応じて、色々なことを語ってきました。しかしペトロは、彼らの預言がイエス・キリストを指し示していたと語ります。22節でペトロはモーセの言葉を引用しています。「あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え」。モーセが神の民イスラエルに語った説教である申命記、その18章で語られている言葉です。ここでペトロは、モーセが語った「わたしのような預言者」こそ、イエス・キリストであると語ろうとしています。つまりこのモーセの言葉が指し示しているのは、「神様が神の民イスラエルの中からモーセのような預言者であるイエス・キリストを立てられる。だから、あなたがたはそのイエス・キリストが語りかけることに聞き従いなさい」ということだ、と語ったのです。さらにペトロは、モーセだけが旧約聖書の中でイエス・キリストを指し示したのではないことも語ります。24節で「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています」と言われていて、神の民イスラエルの歴史の中で、預言者たちが「今の時について」告げてきた、と語ったのです。この「今の時」こそ、神様がモーセのような預言者であるイエス・キリストを遣わしてくださり、十字架に架けて死に渡し、復活させてくださった「今の時」です。そのイエス・キリストの十字架と復活を、聖霊が降って誕生した教会が証言している「今の時」にほかなりません。このようにペトロは、モーセを始めとして旧約の預言者たちがイエス・キリストの十字架と復活を預言してきた、と語ったのです。

契約の子
 神の民イスラエルが「契約の子」であるとも言われていました。「契約の子」とは、契約を受け継いでいる者ということです。あなたがたは、神様があなたがたの先祖と結んでくださった契約を受け継いでいる「契約の子」だ、と言われているのです。その契約とは、どのような契約、どのような約束であったのでしょうか。それが25節の後半に語られています。「『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました」。共に読まれた旧約聖書創世記12章1節以下は、「アブラハム物語」(12章~25章)の最初の部分です。アブラハム、当時はアブラムという名でしたが、彼は家族と共に生まれ故郷のカルデアのウルを離れて旅立ちます。それはアブラムが自分で計画したことではありませんでした。4節に「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあるように、主の言葉を与えられ、その主の言葉に従って生まれ故郷を離れて旅立ったのです。そのとき神様がアブラムに与えてくださった約束が、1~3節で語られています。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは祝う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」。これが、神様がアブラハムに与えてくださった約束であり、アブラハムと結んでくださった契約であり、それゆえにアブラハムの子孫である神の民イスラエルと結んでくださった契約なのです。先ほどイスラエルが特別な民であるのは、彼らがそれに選ばれるのにふさわしい何かを持っていたからではない、とお話ししましたが、このことは、神様がアブラハムと契約を結んだこの出来事からも分かります。ここで神様は、アブラハムが契約を結ぶにふさわしい何かを持っていたからでも、何かの条件を満たしたからでもなく、一方的な恵みによってアブラハムと契約を結んでくださり、約束を与えてくださったのです。神様がアブラハムに与えてくださったこの約束を、ペトロは25節で、「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と簡潔に語りました。ただペトロは、創世記12章3節では「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」と言われていたのを、「あなたから生まれる者によって」と言い換えています。そして「あなたから生まれる者」とは、イエス・キリストにほかなりません。つまり神様がアブラハムに与え、神の民イスラエルに与えた約束とは、アブラハムの子孫にイエス・キリストが生まれ、そのイエス・キリストによって地上のすべての民が祝福を受ける、という約束であった、とペトロは語ったのです。

まずユダヤ人が招かれている
 このようにペトロは、旧約聖書が、そこに記されている神の言葉が、イエス・キリストの十字架と復活による救いを指し示し、そのイエス・キリストによって地上のすべての民が祝福を受ける、という約束を指し示している、と語りました。ペトロはユダヤ人の民衆に、「あなたたちが知っている、神様がアブラハムと結んだ約束も、モーセを始めとする旧約の預言者が語った預言も、イエス・キリストのことを告げていたのだ、今この時に、イエス・キリストによって実現したことを告げていたのだ」、と語ったのです。そのことを通して神の民であり、特別な民であり、「預言者たちの子」、「契約の子」であるユダヤ人こそが、まず神の祝福に与るよう招かれている、と語りかけたのです。だから26節でこのように言われています。「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」。神様は独り子イエス・キリストをご自分の僕として立て、まず神の民であるユダヤ人のもとに遣わしてくださいました。それは、彼ら一人ひとりを悪から離れさせ、神様がアブラハムと約束したあの祝福に与らせるためであったのです。

私たちを神の祝福に与らせるため
 ペトロはここで、確かに直接的にはユダヤ人の民衆に、神の民イスラエルに語りかけています。しかしペトロが語っていることは、新しい神の民であるキリスト教会にも当てはまることです。主イエス・キリストによって地上のすべての民が祝福を受けるというあの約束は、新しい神の民である教会に与えられています。教会に連なる者たちは、キリストの十字架と復活による救いを告げる神の言葉に聞き続け、その神の言葉によって導かれ、養われ、生かされ続けています。私たちもキリストによる救いに与ることによって、「預言者たちの子」とされ、「契約の子」とされているのです。先ほど見た26節で、「神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」と語られていました。「まず」という言葉は、新しい神の民である教会には当てはまりません。しかしそのほかのことは当てはまります。神様は独り子イエス・キリストをご自分の僕として立て、私たちのもとに遣わしてくださいました。そしてそれは、私たち一人ひとりを悪から離れさせ、神様がアブラハムに約束し、神の民イスラエルに約束し、そして新しい神の民である教会に約束している、あの神様の祝福に与らせるためであったのです。

神の祝福を拒む者
 そうであるならば、私たちはどうしたらこの神の祝福に与ることができるのでしょうか。私たちは神の祝福に与るどころか、むしろそれを拒む者ではないでしょうか。神様はイスラエルの人たちを、そして私たちをこの祝福に与らせようと、独り子イエス・キリストを、ご自分の僕として遣わしてくださいました。しかしユダヤ人は、そのイエスを十字架に架けて殺したのです。ユダヤ人だけではありません。ほかならぬ私たちこそがイエスを十字架に架けて殺しました。神様に背き、神様なしに自分中心に生きようとする私たちが神の僕イエスを十字架に架けて殺したのです。

無知のため
 ところがペトロは、冒頭17節でこのように言っています。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています」。つまり民衆がイエスを十字架に架けて殺したのは、「無知のためであった」と言うのです。彼らが無知であったとは、主イエスが神の僕であることを、「命への導き手」であることを知らなかったということでしょう。しかしそれは、知らなかったから、つまり確信犯ではないから、情状酌量の余地がある、ということではないはずです。ここで見つめられているのは、私たち人間は神の御心を、神のご計画を知らない者であるということです。私たちはまるで心に覆いを被されたように神の御心、神のご計画が分かりません。そして神の御心、神のご計画が分からず、知ることができない私たちの姿こそ、神様と共に生きることができない罪人の姿にほかならないのです。
 ペトロの「あなたがたがあんなことをしてしまったのは、……無知のためであったと、わたしには分かっています」という言葉には、十字架上の主イエスのお言葉が重なります。使徒言行録の著者ルカが書いたルカによる福音書、その23章34節には、十字架上の主イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られた、と記されています。私たちは自分が何をしているのか知らないままに、神の僕であり、「命の導き手」である主イエスを十字架に架けて殺してしまうほど、どうしょうもない罪人なのです。

神のご計画こそが実現した
 しかし民衆の無知が、主イエスを十字架に架けて殺したとしても、なおこのことは神のご計画の中にありました。だから18節でこのように言われています。「しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです」。主イエスの苦しみは、神様がすべての預言者の口を通して予告していた、と言われています。つまり主イエスが十字架で苦しみを受け死なれることは、神の御心、ご計画であったのです。民衆の無知が主イエスを死に追いやったように思えます。しかしそこで実現したのは、民衆のイエスを殺したいという願いではなく神の御心です。自分が何をしているのか知らないままに主イエスを十字架に架けてしまう、そのような私たちを救おうとする、そのような私たちの罪を赦そうとする神の御心、神のご計画こそが実現したのです。人間の無知、人間の罪が勝利したのではありません。主イエスを十字架に架ける罪をも赦される神の愛が、神の救いが勝利したのです。

悔い改めて立ち帰りなさい
 だからペトロは19節でこのように言います。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」。「悔い改めて立ち帰りなさい」と言われています。「悔い改める」とは「後悔する」ことではありません。一般的に「悔い改め」というのは、何か失敗や悪いことをしてしまった後で、そんなことをすべきではなかったと後悔し、もう二度と同じようなことはしない、と決意することを意味します。そのような「悔い改め」は、あくまで自分自身を見ているに過ぎません。しかしペトロが語る、あるいは聖書が語る「悔い改め」は、むしろ自分自身を見るのをやめて神様の方を向くことです。罪人である私たちは、神様に背を向けて自分中心に生きています。その私たちが悔い改めるとは、神様に背を向けるのをやめて、神様の方に向き直ることです。「悔い改め」とは、神様の方に方向転換することなのです。「立ち帰りなさい」とも言われています。どこに立ち帰るのでしょうか。もちろん神様のもとに立ち帰ります。神様に背を向け、神様から離れて自分勝手に生きていた私たちが、神様のもとに立ち帰るのです。ペトロは、自分自身を見るのをやめて、神様の方に向き直って、神様のもとに立ち帰りなさい、と言っているのです。

罪の赦しは無償の贈り物
 そのように私たちが悔い改めるのは、「自分の罪が消し去られる」ためです。しかしそれは、私たちが悔い改めることによって、私たちの罪が消し去られ、赦されるということではありません。私たちは自分の悔い改めによって罪の赦しを獲得するのではありません。罪の赦しは、神様からの一方的な贈り物です。御子キリストの十字架の死によって、神様から私たちに与えられた無償の贈り物なのです。「悔い改め」というのは、その無償の贈り物をいただく姿勢です。誰かからプレゼントをもらうとき、その人の方を向いていないということはありません。同じように私たちは神様の方に向き直って、神様から罪の赦しという無償の贈り物をいただくのです。私たちは悔い改めて、洗礼を受けることによって、御子キリストの十字架の死によって神様が与えてくださる罪の赦しに与ります。それは、25節以下を踏まえれば、神様がアブラハムに約束し、神の民イスラエルに約束し、新しい神の民である教会に約束した、あの神の祝福に与ることにほかなりません。キリストの十字架と復活によって罪を赦されて、神様のもとで、神様と共に生きる私たちに、神様の豊かな祝福が与えられるのです。

教会の肢とされることによって
 大切なことは、この神の祝福の約束が私たち一人ひとりに与えられているのではなく、新しい神の民である教会に与えられている、ということです。26節の終わりで「一人一人を悪から離れさせ」と言われていたように、確かに神様は私たち一人ひとりを愛してくださり、救ってくださる方です。どうしょうもない罪人である私たち一人ひとりを見捨てることなく、また十把一絡げにして扱うのでもなく、一人ひとりに寄り添ってくださり、それぞれの弱さ、欠け、罪を知っていてくださり、それぞれがこの祝福に与るよう願っていてくださいます。しかしだからと言って、私たちは自分と神様との関係だけで、この祝福に与るのではありません。自分で聖書を読んで神様を信じれば、この祝福に与れるということではないのです。そうではなく私たちは悔い改めて、洗礼を受け、教会に加えられることによって神の祝福に与ります。教会のメンバーとされることによってこそ、神様からの罪の赦しという無償のプレゼントをいただき、新しい神の民である教会に約束されている祝福に与るのです。私たちは教会の肢とされ、礼拝を守り、神の言葉に聞き続け、その神の言葉によって導かれ、養われ、生かされ続けることを通して、神の祝福を豊かに受けて歩むことができるのです。

慰めの時
 しかしその歩みは、地上の生涯においては途上の歩みであり続ける、と言わなければなりません。私たちが神の祝福に完全に与るのは、別の言い方をすれば、救いの完成に与るのは終わりの日だからです。その終わりの日について、20節では、「主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださる」と言われています。「メシアであるイエスを遣わしてくださる」とは、クリスマスのことではありません。十字架で死なれ復活され、天に昇られた主イエスを、終わりの日に、神様がもう一度遣わしてくださるということです。このことは21節で、主イエスが「万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになって」いる、と言われていることからも分かります。「万物が新しくなる時」も、「慰めの時」と同じように終わりの日のことです。終わりの日までは、主イエスは必ず天にとどまることになっている。しかし終わりの日には、主イエスは再びこの地上に来てくださり、救いを完成してくださるのです。そのとき私たちは救いの完成に与り、神の祝福に完全に与り、あらゆる苦しみや悲しみから解き放たれて、まことの慰めを与えられます。だから終わりの日は、私たちにとって「慰めの時の訪れ」なのです。地上の生涯の歩みには、なお苦しみがあり悲しみがあります。しかし教会の肢とされて生きる私たちには、この「慰めの時の訪れ」が約束されています。終わりの日に神の祝福に完全に与り、まことの慰め、まことの憩いに与ることが約束されているのです。だから私たちは、苦しみや悲しみ、悩みや葛藤に満ちた現実の中で、絶望することなく希望を持って、忍耐して歩んでいきます。何よりも、「慰めの時」が訪れるまで、「万物が新しくなる時」まで、私たちの教会はキリストの十字架と復活による救いを宣べ伝え続けていきます。悔い改めて洗礼を受け、教会に連なることによって、罪の赦しという神様からの無償のプレゼントに与り、神の祝福に与って生きる歩みに、本当の救いがあり、本当の慰めと希望があることを宣べ伝え続けていくのです。

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