2025年9月7日
説教題「イエス・キリストの名によって」 副牧師 川嶋章弘
ミカ書 第4章4~8節
使徒言行録 第3章1~10節
伝道する教会の姿
私が夕礼拝を担当するときは使徒言行録を読み進めています。しばらく間が空きましたが、本日から第3章に入ります。前回、2章42節から47節を読みました。そこでは聖霊が降って誕生した最初の教会の姿が、そして誕生したその時から伝道していた教会の姿が語られていました。それは、人間の力によって伝道が進むということではありません。47節の終わりで、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」と言われていたように、教会の伝道は、十字架で死んで復活され天に昇られて、今も生きて働かれる主イエス・キリストのみ業であり、聖霊の働きによるものなのです。しかしだからといって、教会が何もしなくて良いということにはなりません。主ご自身が前進させてくださる伝道の御業に仕えるために、教会にはなすべきことがあるのです。
さて本日の箇所は、一見したところ、ペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を癒した出来事を、その奇跡を語っているように読めます。しかし2章からの文脈を踏まえれば、ここで語られていることも、伝道する教会の姿であると言うべきでしょう。2章43節に「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていた」とありましたが、本日の箇所はその使徒たちによる「不思議な業としるし」を具体的に語っています。そして先ほどの47節に「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とありましたが、本日の箇所の出来事においても、生まれながら足の不自由な男が救いに与り、教会の群れに加えられます。つまり本日の箇所は、前回の箇所で語られていた伝道する教会の姿を、具体的な出来事として語っているのです。ですから私たちはこの出来事を、単にペトロとヨハネによる癒しの奇跡として読むのではありません。そうではなく私たちは、この出来事に私たちの教会の姿を見ます。この出来事を通して私たちは、伝道する教会であるために私たちの教会がなすべきことを示されていくのです。
最初の迫害の発端となった出来事
ところで本日の箇所で語られている出来事は、これだけで完結しているのではありません。この出来事が11節以下で語られている神殿でのペトロの説教につながり、さらにその説教が、4章1節以下で語られているペトロとヨハネの逮捕につながります。つまり私たちは3章1節から4章31節までをひと続きの出来事として読む必要があるのです。全体として語られていることは、誕生したばかりのキリスト教会の伝道が、教会に対する最初の迫害を引き起こした、ということです。教会の伝道が社会との衝突を生み出し、軋轢を生み出した、その発端となった出来事を、本日私たちは見ていくのです。
神殿に上って行った
この出来事は、冒頭1節にあるように、「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」ことから始まります。神殿とは、エルサレム神殿のことです。2章46節で、最初の教会のメンバーたちが「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」と言われていましたから、彼らがこの日、「午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」のも特別なことではなく、日々の信仰生活の一環でした。キリスト教会が誕生したのに、そのメンバーが神殿に行っていたことを不思議に思われるかもしれません。このことはキリスト教が、ユダヤ教の中から誕生したことを示しています。誕生したばかりの教会のメンバーは、つまりユダヤ人で主イエスを信じた人たちは、自分がユダヤ人でなくなった、とは考えていませんでした。これまで信じてきた神様と別の神様を信じたのではなく、これまでも信じ、礼拝してきた神様が、独り子イエス・キリストを遣わしてくださった、と信じたからです。だから最初の教会のメンバーは、エルサレム神殿でほかのユダヤ人と共に祈っていたのです。しかし次第に、イエスが救い主であることを受け入れないユダヤ人たちは、キリスト教会を迫害するようになります。それでキリスト教会は、ユダヤ教と袂を分かつことになるのです。
困難と絶望を抱えて
ペトロとヨハネが祈るために神殿に上って行くと、「生まれながら足の不自由な男が運ばれて来」ました。4章22節に「このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた」とありますから、この人は生まれてから四十歳を過ぎるまでずっと、足が不自由であったのです。現代でも同じような障がいを抱えて生きるのには大きな困難が伴います。しかし当時は、現代のような医療や技術や福祉によるサポートがありませんでしたから、さらに大きな困難が伴いました。そもそも自分一人で生活することができません。どこかに行きたいと思っても、車椅子のようなものはなかったので誰かに運んでもらわなければなりません。また当時は、このような障がいを抱えた人が働いて収入を得ることもできませんでした。だからこの人は、「毎日『美しい門』という神殿の門のそばに」運んでもらい、「神殿の境内に入る人に施しを乞う」ていたのです。神殿の門のそばで施しを乞えば、神殿に礼拝に来る人たちからそれなりの施しを受けることができました。この人は毎日、毎日、神殿の門のそばに運んでもらい、そこで施しを乞い、神殿に来る人たちからそれなりの施しを受ける、という生活を繰り返していたのです。何歳からそのような生活を始めたのかは分かりません。子どもの頃からかもしれません。そうしなければ生活できなかった、生きていくことができなかったのです。癒されたいという願いがあったに違いない。その願いが叶えられないことへの怒りと葛藤があったに違いない。そして長い時間を経て、その怒りと葛藤は、あきらめと絶望へ変っていったのではないでしょうか。この人は大きな困難と深い絶望を抱えて生きざるを得なかったのです。
私たちが生きている現代は医療や技術が進歩し、福祉もそれなりに整い、この人とまったく同じ状況にある人はいないでしょう。しかし生まれながら障がいや病を抱えて生きている方、生まれながらではなくても、治らない病や障がいを抱えて生きている方はおられます。障がいや病を抱えていなかったとしても、長期に亘る大きな困難を抱え、あるいは消えることのない心の傷を抱え、深い絶望の中で生きている方がおられます。この礼拝に集っている私たち一人ひとりも、今そうであるかもしれないし、かつてそうであったかもしれないし、これからそうなるかもしれません。現代においても、この「生まれながら足の不自由な男」と同じような大きな困難と深い絶望を抱えて生きている人は決して少なくないのです。
四つの「見る」
この人は、この日もいつものように「神殿の門のそばに」運んでもらい、そこで施しを乞うていました。すると「ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞」いました。この人は意識してペトロとヨハネを見たのではなく、何となく見たのでしょう。そしてほかの人にしているのと同じように二人にも施しを求めました。ところがペトロとヨハネは、何となく自分たちを見て、施しを求めたこの人に対して、ほかの人のように単に施しをしたのではありませんでした。4節でこのように語られています。「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」。ペトロとヨハネは何となく自分たちを「見た」この人を「じっと見て」、さらに「わたしたちを見なさい」と言ったのです。お気づきでしょうか。「見る」という言葉が繰り返されています。3節に「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て」とあり、4節に「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」とあり、またペトロの言葉として「わたしたちを見なさい」とあり、さらには5節にも「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」とあります。3節から5節のたった3節に、「見る」という言葉が四回繰り返されているのです。しかもこの四つの「見る」は、原文ではどれも異なる言葉です。私たちはこの四つの「見る」に注目することを通して、ペトロとヨハネの姿に見つめられている伝道する教会の姿を示されていきたい、伝道する教会であるために、私たちの教会がなすべきことを示されていきたいのです。
何となく教会を見る
最初の「見る」は、ごく一般的に「(目で)見る」ことを意味します。実際、足の不自由な人は、神殿の境内に入ろうとするペトロとヨハネを何となく「見た」のであり、二人の姿が何となく目に入ったのでした。ペトロとヨハネの姿に私たちの教会の姿を見るならば、長期に亘る大きな困難を抱え、あるいは消えることのない心の傷を抱え、深い絶望の中で生きている方々が、私たちの教会を何となく「見る」、と言い換えることができるでしょう。もちろんそのような方々だけではなく、キリスト教や聖書への興味や関心から、あるいは教会堂への興味や関心から私たちの教会を何となく「見る」方々も少なくありません。それは、教会の建物や外の掲示板やホームページを何となく「見る」ということかもしれないし、教会に連なる私たちの姿を何となく「見る」ということかもしれません。いずれにしても私たちの教会を何となく「見る」方々がいらっしゃるのです。
じっと見る
そのとき私たちの教会がなすべきことは、ペトロとヨハネがしたように、その人を「じっと見る」ことです。それは、警戒してじろじろ見るのでもなければ、好奇心からじろじろ見るのでもありません。そうではなく相手をしっかり見ることであり、相手とちゃんと向き合い、人格的な交わりを持とうとすることです。毎日、神殿の門のそばで施しを乞うていた足の不自由な人に、多くの人が施しをしたに違いありません。しかしその人たちは、この人を「じっと見る」ことはしなかった、この人とちゃんと向き合い、人格的な交わりを持とうとはしませんでした。けれどもペトロとヨハネはそうではありませんでした。そして私たちの教会もそうであってはならない。教会を何となく「見て」、あるいは教会に連なる私たちを何となく「見て」、教会に来てくださる方々を、私たちはじっと見て、その方々とちゃんと向き合い、人格的な交わりを持とうとするのです。
しかしこのことは簡単なことではありません。とりわけ私たちの教会の主日礼拝には多くの新来会者(初めて教会に来られた方)が出席されています。この夏もキリスト教主義の学校から多くの生徒さんが出席されました。それは、本当に大きな恵みであり喜びです。しかし人数が多いからこそ、流れ作業的な応対になってしまうこともあります。なかなかその方々とちゃんと向き合い、人格的な交わりを持つのが難しいという現実があります。受付での応対だけの問題ではありません。その方々と共に礼拝を守っている私たち一人ひとりが、その方々を「じっと見て」、人格的な交わりを持とうとしているか、という問題でもあります。それは繰り返しになりますが、その方々をじろじろ見ることではありませんし、どの人にも同じように声を掛ければ良い、ということでもありません。時には声を掛けないほうが良いときもあります。そもそもどの人にも同じように接するというのは、相手のことを「じっと見て」いることにはなりません。その相手にふさわしく接するために、「じっと見る」はずだからです。とはいえ、あまり難しく考え過ぎないほうが良いかもしれません。少なくとも私たちは、その方々に挨拶することはできるはずです。その人を見て挨拶をする、それがその人とちゃんと向き合い、人格的な交わりを持つ第一歩に違いありません。さらにもし、礼拝で聖書や讃美歌を開くのに困っておられたらお声を掛ける。そこから始めていきたいのです。ペトロとヨハネがそうであったように、深い絶望の中で、あるいは興味や関心から、どんな理由であれ教会を何となく「見て」、教会に来られた方々を、私たちの教会は「じっと見て」、人格的な交わりを持っていくのです。
わたしたちを見なさい
そして私たちの教会は、教会に来られた方々にこう語りかけます。「わたしたちを見なさい」。それは、その方々が自分たちを何となく「見る」のではなくしっかり見ることによって、互いに相手をしっかり見て、人格的な交わりを持つよう招いているということでもあるでしょう。しかしそれだけではありません。ペトロとヨハネはもっと単純に、「わたしたちを見なさい」、「自分たちを見なさい」と言ったのです。単純ですが、私たちはこのようになかなか言えません。躊躇してしまいます。むしろ自分のことは見ないでほしいとすら思います。それで私たちは、教会に来られた方々に、「主イエス・キリストを見なさい」と言ってしまったり、「人間を見るのではなく、神様に目を向けなさい」と言ってしまったりします。もちろんこのこと自体は正しいことです。私たちキリスト者の歩みは、主イエス・キリストを見つめ、神様に心を向けて生きる歩みだからです。しかしここでペトロとヨハネは「キリストを見なさい」とも、「神様に目を向けなさい」とも言いませんでした。「わたしたちを見なさい」と言ったのです。つまり伝道する教会であるために私たちの教会がなすべきことは、「わたしたちを見なさい」と語り続けることです。教会にこそ、教会に連なる私たちにこそ、「あなたが見るべきものがある」、と語り続けることなのです。
期待して教会を見る
教会から「わたしたちを見なさい」と言われれば、人々は期待して教会を見るでしょう。5節に、「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」とあります。「何かもらえると思って」は、「何かもらえると期待して」と訳せます。おそらく彼は自分の生活の支えとなるようなお金や物をもらえると期待しました。ほかの人より多くもらえるかもしれないと期待したのかもしれません。同じように私たちの教会に来られる方々も、色々な期待を持って教会に来られます。自分の願いが叶うことを期待して、ほかの人との交わりが与えられることを期待して、聖書の知識や学びを期待して、あるいは学校の課題を終えることを期待して、教会に来られます。私たちはその方々を歓迎します。教会は神様を礼拝するところで人間的な交わりを求めるところではない、などと言って拒むのではありません。色々な期待を持って教会に来てくださる一人ひとりを歓迎し、「じっと見て」、人格的な交わりを持とうとするのです。
イエス・キリストの名
しかし同時に教会は、教会がそれらの期待に応えられるわけではないことをも告げていきます。確かに教会に通う中で、自分の願いが叶ったり、人との交わりが与えられたり、聖書の知識や学びを得たり、学校の課題をクリアしたり、ということが起こります。しかしそれらは教会が、本当に与えられるものではありません。教会は、それらの期待に応えられるものを持っていないし、与えられるわけでもないのです。教会が与えられるのは、たった一つのものだからです。ペトロとヨハネはこのように言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。教会が持っているたった一つのもの、教会が与えられるたった一つのもの、それは「ナザレの人イエス・キリストの名」です。「名」とは「名前」のことですが、聖書において名前というのは、その人自身を表したり、その人の人格や本質を表したりします。ですから「イエス・キリストの名」を与えるとは、今も生きて働かれるイエス・キリストご自身を与えることであり、そのイエス・キリストによる救いを与えることです。私たちの教会が持っているもの、与えられる唯一のものは、今も生きて働かれるイエス・キリストご自身であり、そのイエス・キリストの十字架と復活による救いなのです。
そのように言われると、私たちの教会が自分たちの力でキリストご自身を、またその救いを得たかのように、それらを得るのにふさわしい価値があるかのように、あるいはふさわしい条件を満たしたかのように思えるかもしれません。しかしそうではありません。思い出してください。ここで教会を代表しているペトロとヨハネは、主イエスが十字架に架けられる直前に主イエスを見捨てました。ペトロは主イエスなんて知らない、関係ないと言って、主イエスを裏切ったのです。それにもかかわらず主イエスは、十字架で死なれ、復活された後、ご自分を見捨て、裏切った弟子たちに出会ってくださり、救いを与えてくださり、新しく生かしてくださいました。そして天に昇られた後、聖霊を送ってくださり、ペトロやヨハネ、つまり使徒たちを中心とした教会を誕生させてくださいました。そして今もキリストは、聖霊によって教会に働きかけ続けてくださっているのです。ですから教会は自分たちの力でキリストご自身を、またその救いを得たのではありません。そうではなくキリストがご自身を、その救いを教会に与えてくださったのです。だからこそ私たちの教会は、今も生きて働かれるキリストを証しし、その救いを宣べ伝えていきます。教会が「イエス・キリストの名」を持っているとは、与えるとは、このことを意味しているのです。
新しく生かされている私を
教会が、また教会に連なる私たちが「わたしたちを見なさい」と語っていくのも、私たちの立派さ、敬虔さを見なさい、と語っていくのではありません。そうではなく復活して今も生きて働かれるキリストが、全然立派ではない、むしろ神様に背いてばかりで、自分勝手に生きていた私たちに出会ってくださり、救いを与えてくださり、新しく生かしてくださった。そのようにして救われ、新しく生かされている私たちを見てください、と語っていきます。見てもらうに値するものを何も持っていない自分が、罪と弱さと欠けだらけの自分が、キリストの十字架と復活による救いによって新しく生かされていることを見てください、と語っていくのです。
神を賛美し、神に感謝して生きる者へ
生まれながら足の不自由な男は、イエス・キリストの名を与えられ、癒やされました。7、8節に「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」と語られています。しかしそれは単に、彼の身体が癒やされたことだけを意味しているのではありません。この人がキリストによる救いに与り、新しく生き始めたことを見つめているのです。このことは8節後半で、「そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」と語られていることからも分かります。この人は癒やされて、四十年間できなかったことを取り戻そうとしたのではありません。そうではなく神様を賛美して生き始めたのです。あきらめと絶望を抱えて生きていたのに、神様に感謝して生き始めたのです。ペトロとヨハネと一緒に、つまり誕生したばかりの教会のメンバーとなって、神様を礼拝し、祈りをささげたのです。つまりこの癒しが見つめているのは、イエス・キリストの名を与えられ、その救いに与った者が、神様を礼拝し、賛美して生きる者へと変えられ、神様に感謝して生きる者へと変えられて、新しく生き始めるということなのです。
イエス・キリストの名によって
私たちの教会も、この「イエス・キリストの名」を人々に与えていきます。一人でも多くの方が、イエス・キリストの名を与えられ、キリストによる救いに与り、神様を礼拝し、神様に感謝して生きる者へと変えられて、新しく生き始めるために、今も生きて働かれるイエス・キリストを証しし、その救いを宣べ伝えていくのです。そのために教会に来てくださる方々を「じっと見つめ」、その方々とちゃんと向き合い、人格的な交わりを持っていきます。「私たちを見なさい」、キリストによる救いによって生かされている「私たちを見なさい」と語りかけていくのです。長期に亘る大きな困難を抱え、あるいは消えることのない心の傷を抱え、深い絶望の中で生きている方々がおられます。その方々に、教会が与えることのできるものは、たった一つしかありません。「イエス・キリストの名」です。キリストの十字架と復活による救いです。しかしこの「イエス・キリストの名」によってこそ、キリストの十字架と復活による救いによってこそ、あきらめと絶望からの解放が、神様を礼拝し、神様に感謝して生きる新しい人生が与えられるのです。
