夕礼拝

誰に対して生きるのか

「誰に対して生きるのか」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:箴言 第3章1-6節
・ 新約聖書:使徒言行録 第24章1-27節
・ 讃美歌:240、510

<これまでの経緯>
 キリストの福音を宣べ伝えているパウロが、エルサレムへやってきてからの、一連の出来事から御言葉を聞いています。
 これまでの経緯を少しご説明しなければなりません。エルサレムでユダヤ人たちは、パウロが神殿を汚したと、根拠のないことを言って大騒ぎし、パウロを私刑にしようとしました。その騒動に駆け付けたローマの兵士が、パウロを捕えて、ユダヤ人たちの暴行を避けるためにパウロを兵営に連れて行きました。そこでローマ兵の千人隊長はパウロがユダヤ人で、かつローマ市民権を持つ者であることを知りました。ローマ市民は、ローマ帝国において保護されるべき身分です。
 そこで、この一帯の治安を守る責任者であったローマの千人隊長は、事の次第を知ろうとして、ユダヤ人の宗教的な最高裁判所の役割をもつ、最高法院を招集し、パウロを出廷させました。しかし、そこではパウロの一言によって復活を信じるか信じないかの論争になり、議会が分裂してしまいます。そこで判決が下されることなく、パウロは再び兵営に連れて行かれました。
 ユダヤ人たちは何とかしてパウロを暗殺しようと陰謀を企てました。しかし、その計画を千人隊長が知るところとなったのです。彼はパウロをエルサレムからカイサリアまで厳重に護送して行き、総督フェリクスに引き渡したのでした。

<ユダヤ人たちの訴え>
 今日の箇所は、それからたった五日後、さっそくユダヤ人の大祭司アナニアが、長老と弁護士テルティロを連れて、総督フェリクスにパウロを訴えたことが書かれています。ユダヤ人たちは、邪魔者のパウロを何とかして一刻も早く排除したかったのです。

 今日の箇所を通して、キリストの伝道者であるパウロ、キリストを拒むユダヤ教の指導者たち、そして、世における権力者である総督フェリクス、三者三様の生き方が垣間見えます。そのことから、わたしたちは、主イエスを信じて歩むとはどういうことか、神と共に生きるとはどういう歩みなのかを、知っていきたいのです。

 さて、弁護士テルティロが訴えたことは、三つあります。
 一つは、5節にあるように、パウロが「疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」だということです。当時、ローマ帝国は広大な地域を支配しており、ローマ帝国は当時の人々にとって、まさに「世界」全体でした。このパウロという人物が、ローマ帝国下の多くのユダヤ人たちに疫病のように影響を与えて、ローマ帝国を揺るがす危険がありますよ、と訴えているのです。
 二つ目は、パウロが「ナザレ人の分派」の首謀者である、ということです。主イエスは、ユダヤ人であり、ナザレ村の出身でした。そこで、「ナザレのイエス」と呼ばれていたのです。ユダヤ人たちから見れば、主イエス・キリストを信じる者、この「ナザレのイエス」の教えに従う人々は、ユダヤ教から出た一つの分派でした。パウロはその分派活動の中心人物だと言っているのです。「首謀者」という言い方は、反乱軍のリーダーなどに使われる言い方ですから、ここでパウロの危険度を更にアピールしていると言えます。
 そして三つ目は、パウロが捕えられることになった契機を述べています。それは6節にあるように、パウロが「神殿さえも汚そうとした」ということです。そこで、自分たちが逮捕したのだ、と言っています。これに当たるところは、21:27以下に語られていましたが、本当は、パウロがエルサレムで神殿に上った時に、ユダヤ人たちが人々を扇動して、「パウロがギリシア人を境内に連れ込んで、聖なる場所を汚してしまった」と言って騒ぎを起こしたのです。その騒動にローマの兵士たちが駆けつけ、パウロを捕えた、というのが実際でした。
 「パウロがギリシア人を境内に連れ込んだ」というのは、ユダヤ人たちの根拠のない出鱈目な訴えでしたから、テルティロは「神殿さえも汚そうとした」とあいまいな表現をして、自分たちが捕えたことにしています。

<パウロの弁明>
 これに対して、パウロが弁明をします。この裁判の相手は、大祭司と長老と弁護士です。一方でパウロには誰一人味方がいません。しかし、パウロの弁明はとても説得力があり、大変力強いものでした。

 一つ目は「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている」という訴えでしたが、パウロは11節以下で述べるように、エルサレムに来てまだ十二日しかたっていないし、神殿でも会堂でも町の中でもだれかと論争をしたり、群衆を扇動したりするのをだれも見ていないのです。テルティロは、パウロの存在をローマ帝国に影響を与えるような騒動を起こす危険人物として印象付けようとしましたが、パウロは「礼拝のためにエルサレムに上った」と、むしろ敬虔な一信仰者であることを述べ、論争や群衆を扇動したとだれも証明できないはずだ、と言いました。
 少し飛ばして、テルティロの三つ目の「神殿を汚した」という訴えも、17節以下に神殿に行った理由を述べ、騒動を起こしたわけではないが、神殿にパウロがいるのを見たアジア州から来たユダヤ人は確かにいたので、もし訴えることがあるのなら、この場にいた彼らが出頭して申し出るべきだ。さもなければ、最高法院に出頭した時にパウロに不正があったなら、そこにいたあなたたちがそれを述べるべきだ、と弁論しています。
 これらは至極明解でもっともなことであり、大いに説得力があることです。もともと起こった騒動はユダヤ人たちが起こしたもので、テルティロの悪意ある訴えは根拠のないことですし、パウロにはやましい点など実際に何一つないからです。

しかしパウロは、二つ目の点、「ナザレ人の分派」である、と言われたことについては、そうであると認めています。これは、主イエス・キリストを信じる信仰が、これまでユダヤ人が歩んで来たイスラエルの民の歴史と切り離せないものだからです。

 神は、救いのみ業のためにイスラエルの民を選び、御子である主イエスをユダヤ人の中に遣わし、すべての人の罪を赦すための十字架と復活の御業を実現して下さいました。ナザレのイエスを救い主であると信じる信仰は、それまでユダヤ人が信じ従って来た神が、御子イエスを遣わし、救いの約束の成就として与えて下さったものです。
 ですから、パウロはこれまでのユダヤ人の歩みから、キリスト教の歩みを切り離すようなことは言いません。
 14節でパウロは、「分派」を「この道」と言い換えて語ります。「しかしここで、はっきりと申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」
 主イエスに従う道において、先祖の神、つまりユダヤ人、イスラエルの民が従ってきたアブラハム、イサク、ヤコブの神を礼拝し、律法と預言者の書、つまり今の私たちで言う「旧約聖書」に書いてあることを、パウロもことごとく信じている、と言っているのです。

 ですから、「この道」はもちろん、ユダヤ人が唯一の神を信じる信仰を否定するものではありません。しかし「この道」は、もはやユダヤ教の一派というわけではなく、決定的に新しい信仰です。
 それは、ナザレの人イエスは神の御子であり、旧約聖書に預言された救い主であり、この方において神の救いの約束が実現した、と信じるからです。この方の十字架による罪の赦しと復活を信じる者は、ユダヤ人、異邦人という区別も越えて、だれでも救われる。そのような、まったく新しい神の救いの約束なのです。
 またこの信仰は、主イエスを信じ、罪を赦された者たちは、復活の主イエスの命に結ばれて、罪による永遠の滅びとしての死を免れる。主イエスが再び来られる終わりの日に、信じる人々も復活し、神と共に生きる永遠の命を与えられる、と信じます。
 パウロは、ユダヤ人たちが「ナザレ人の分派」と呼ぶ「この道」こそ、ナザレの人イエスを救い主であると信じることこそ、ユダヤ人たちが先祖の時から信じて来た神に従う、まことの神の民の歩むべき道であり、まことの希望を与える道である、と語っているのです。

 パウロが、このような法廷に立たされて、しかし堂々と恐れず弁明できるのは、この希望に、理由があります。
 ですから15節以下でパウロは「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」と述べるのです。

<復活の希望>
 パウロが、自分が信じていることについてはっきりとこの場で述べたのは、パウロが本当に見つめているのは、自分の身を護ることや、今この裁判の法廷で下される判決のことではないからです。

 ユダヤ人たちは、パウロが語っていることが、自分たちの信仰を脅かし、イスラエルの民の誇りを損なうものと考え、この信仰の事柄を世の裁判に訴えて、パウロを社会的に消そうとしています。自分たちの思いを遂げるためには、偽りを語ることも厭わないし、暗殺も計画するし、手段を選ばなくなっています。彼らは、自分の思いに従い、立場や持っているものを守ることばかり見つめているのです。

 また総督フェリクスは、22節に「この道について詳しく知っていた」、つまりキリストを信じる信仰について知っていたとありますが、この裁判を延期して、26節にあるように、金のために下心を持ってパウロと接していきます。しかも続く27節では、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを二年も監禁したままにしておいた、とあります。フェリクスは世を渡っていくにあたって、自分の利益になることを見つめ、また自分の立場を守るためにユダヤ人たちの目を気にして行動しているのです。

 しかし、パウロが見つめているのは、復活の希望です。それはつまり、主イエスが再び来られ、救いが完成する時のことです。パウロはこの世の裁判の法廷に立たせられながら、終わりの日の神の法廷、最後の審判を見つめているのです。

 15節に「正しい者も正しくない者もやがて復活する希望」と言われています。「正しくない者も復活する」という言葉に、少し引っかかる方があるかも知れません。わたしたちは、みなこの世で必ず死にます。そして終わりの日、最後の審判の時には、正しい者も、正しくない者も、すべての者が神の御前に立ち、裁きを受けるのです。パウロはそのことを言っていると思われます。その神の裁きにおいて、主イエスの十字架による罪の赦しを信じる者は、神の御前に「正しい者」とされ、神と共に復活と永遠の命に生きる幸いを与えられることが約束されています。
 ですから、この最後の審判を「復活の希望」と捉えることが出来るのは、神の御前で「正しい者」とされることを信じている者だけです。

 ここでは、パウロが自分を「正しい者」だと言い張っているのではありません。パウロは、神の前に罪を犯してきた者です。神に逆らい、主イエスを信じる者を迫害してきたのです。神の裁きにおいては必ず有罪になる。滅びに定められる。そのような者です。
 しかしパウロは、復活の主イエスと出会い、そのパウロの罪をも主イエスが担って下さって十字架で死んで下さったことを知ったのです。神が、御子である主イエスを人の世に送って下さり、この方の十字架による罪の贖いによって、パウロを「正しい者」として下さった。罪人を神の子として受け入れて下さったのです。その恵みを知り、信じたのです。だから、最後の審判の日は、復活の希望の日となったのです。

 そして、それはわたしたちも同じです。神の前に、誰も正しく、無罪を主張することが出来る者はいません。神に逆らい、自分を中心に生き、人を貶め、また人の目を気にして生きる。まことの神に従わない、罪にまみれた歩みを、わたしたちはしているのです。神の最後の審判は、わたしたちがまことに恐れなければならないものです。
 しかし、そのわたしたちを救うために、神の御子である主イエスが、人となって下さり、世に遣わされたのです。今日からアドヴェントに入り、もうすぐクリスマスを迎えようとしています。神の御子がまことの人となって世に来て下さるというのは、その救いのみ業のためであり、十字架に架かって罪を赦して下さるため、わたしたちの罪を引き受け、苦しみと死を担って下さるために来られたのです。

<良心>
 この神の恵みと、それによって与えられる終わりの日の希望。そこにパウロは固く立っています。パウロは、神によって生かされ、神と共に歩み、そして救いが完成する、終わりの日の復活の希望を抱いているのです。
 そのように神の恵みの中で、神の御前に立って、復活の希望に生きる信仰は、今生きているこの世において、神に対しても、人に対しても、誠実に歩もうとさせます。
 16節でパウロは「こういうわけで私は、神に対しても、人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」と語っています。

 「良心」というのは、23:1で最高法院に立たされた時にも、パウロが口にした言葉です。そこには、「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。』」とありました。

 23章をお読みした時にも申し上げましたが、「良心」というのは、ギリシャ語で「共に見る」と書きます。共に見ている、共に知っている、ということです。わたしたちが「良心」と日常で使う意味は、心の中で自分が良いと思うことに従って行動する、ということだと思いますが、この聖書における「良心」は、神が共に歩んでいて下さり、神がいつも共に見ておられる、知っておられる、ということです。

 しかし、これは考え方を間違うと恐怖でしかなくなってしまいます。神が、いついかなる時にも、わたしたちの一挙手一投足を見張っている。どんな小さな悪いことも見逃さない。だから、わたしたちは神の目を恐れて、神の前でも、人に対しても、良いことをしなくてはならない…。そのようなビクビクした生活は、喜びでも何でもありませんし、結局自分の良い行ないで救いを得ようとしていることになります。

 このように捉えてしまうと、本日の24:25に「しかし、パウロが正義や節制や来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。」とあるように、神としっかり向き合うことが恐ろしくなってしまいます。そして結局は、自分の罪を認められず、神をわきへ置いて、自分の思いに従い、他人の目を気にして、今、この世で上手く生きることを目的とする、そのような歩みになっていくのです。

 ここで、24節にフェリクスと一緒に出て来る妻のドルシラという人物は、主イエスがお生まれになった時に出て来るヘロデ大王のひ孫であり、使徒言行録の12章で十二使徒の一人であるヤコブを殺害したヘロデ・アグリッパ一世の末娘でした。ドルシラは異教徒に嫁ぐ予定でしたが、相手がユダヤ教に改宗することを拒んだので、その縁談が無くなりました。その後、ドルシラの兄、この兄とは使徒言行録の25:13から出て来るヘロデ・アグリッパ二世ですが、彼がシリアの小国の王と結婚させました。しかし、ドルシラは大変な美人だったようで、フェリクスが彼女のことを気に入り、魔術師に力を借りて別れさせ、自分と結婚させたのです。パウロの話を聞きたがったのはドルシラだった、という説もあります。
 パウロは、この二人に主イエス・キリストの信仰、つまり、十字架による罪の赦しと復活を語り、また正義、節制、来たるべき裁きを語ったとあります。
 フェリクスはそれを聞いて恐れを感じた。それこそ、自分がしてきたことへの罪の意識を持ったのかも知れません。神に対する恐れを抱いたのです。しかし、そこで止まってしまったのです。

 本当に耳を傾けるべきなのは、自分勝手に生き、神に背き、神から離れ、滅びに定められるような歩みをしていた、そのような自分の罪を赦すために、神はイエス・キリストを遣わして下さり、キリストの十字架の死によって、その罪を赦して下さった、ということです。そして、その恵みの中で、人が神の許へ立ち帰ることを求めておられる、ということです。悔い改め、その救いに与ることへと、招かれているということです。

 恵みが差し出されているからこそ、人は自分の本当の罪をしっかりと認め、そこに留まってはいけない、神の愛の手を握り返し、神の方に向き直らなければならない、と気づくことが出来るのでしょう。

 わたしたちの人生を共に見つめて下さる神の目は、わたしたちの悪や罪を一つ残らず指摘し、滅ぼそうとする目ではありません。御自分の御子の命を与えて下さるほどに、わたしたちが神の方に向き直り、神の愛に応えて、神と共に喜んで生きる者となることを望んで下さる、深い、愛と憐みの目なのです。
 この神の愛の眼差しが、パウロの人生と共にあるのです。この神の御心、キリストが与えて下さった恵みを知っているからこそ、パウロは、神に対しても、また人に対しても、誠実に、神の御心に従う者として、「良心」を保って歩もうとしているのです。

<神の愛の眼差しの中で生きる>
 ルカによる福音書では、21:12で、主イエスご自身が弟子たちに、御自分に従う者たちが今のパウロのように迫害され、法廷に立たされることになると語っておられました。そこではこう語られています。
 「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」

 パウロが主イエスから与えられた、どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉とは、「キリストの十字架」であり、「復活の希望」です。ですからパウロは、神の恵みにしっかりと立ち、味方が誰一人いないこの法廷で、自分の信仰を堂々と証しすることが出来たのです。

 わたしたちにも、この主イエス・キリストの救いの言葉が与えられており、神の愛の眼差しが注がれています。神がわたしの歩みを共に見つめて下さっています。主イエス・キリストの十字架によって、わたしたちが罪を赦され、神と共に生きる者となるように。また、キリストが復活させられたように、わたしたちも終わりの日に復活させて下さる希望を持って、決して絶望することなく、感謝と喜びを持って主イエスに従う者であるように。その恵みへと招いて下さっているのです。

 アドヴェントのこの時、神が御子を遣わし、わたしたちに愛の眼差しを注いで下さっていることを覚え、わたしたちも神に眼差しを向け、神に向き直り、その愛を、恵みをしっかりと受け取って、罪の赦しと、復活の希望を持って、歩んでいきたいのです。

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